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自分の国は自分で守らなければならない(ウィリアム・ペニーさん):アルケーを知りたい(350)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ウィリアム・ペニーさんは数学と理学のダブルドクター。衝撃波の専門家。マンハッタン計画の英国人協力者の一人。アメリカでの経験から、英国は自力で原爆を持つべきと考え、実現のために行動した科学者(そして実現した)。 ウィリアム・ペニー  William Penney , 1909年6月24日ジブラルタル - 1991年3月3日 ロンドン大学で数学博士。ケンブリッジ大学で理学博士。数学者。マンハッタン計画にイギリスの代表者の一人として参加。衝撃波のエキスパート。WWII終戦後、イギリスに帰国。英国は自前で原爆を持つ必要があるとの信念から原爆局(Atomic Weapons Section)創設へ動く。1954年から1967年まで英国原子力公社の理事、1962年から1967年まで同公社の理事長。1967年、一代貴族に叙せられる。 フリッシュ 本 : 筆者が描いたイラストと写真で紹介 されている。イラストのキャプションは「イギリスの数学者。ロスアラモスで原子爆弾による被害に関して講演したときの、筆者によるスケッチ(p.201、原本p.162)」とある。和本のイラストのサイズは3.5✖5.3。原本のイラストのサイズは5.5✖8.0あってだいぶ大きい。 写真のキャプションは「1946年頃の新聞写真。左から右へ、ウィリアム・ペニー、筆者、ルドルフ・パイエルス、ジョン・コッククロフト(p.246、原本p.198)」である。MAUD委員会でお馴染みの面々。写真のサイズは、和本が7✖4。原本は9.5✖6.9。ビジュアルのサイズが大きいのはありがたい。 ロスアラモスで講演したときペニーさんは30代の前半。フリッシュさんより5才、パイエルスさんより2才年下である。 パイエルス 本 :「W・G・ペニーはイギリスで ドイツの爆弾の被害を研究 しており、ロスアラモスのコロキウムでその内容を発表した(p.302)」ペニーさんは衝撃波の専門家である。発表の姿勢と聴衆の印象が面白い。「発表に際し、ペニーは 常に事実に立脚する科学者の態度 を崩さず、顔にはいつも明るい笑みを絶やさなかった。 多くのアメリカ人は今まで、そのような身近な死者に関する生々しい議論に直面したことがなかった ので、ペニーに『笑う殺し屋』というあだ名を付けた(pp.302-303)」 〔参考〕ht...

Tube Alloys理事会の議長にしてI.C.I.の研究担当重役(ウォレス・エイカースさん):アルケーを知りたい(349)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼マンハッタン計画とはWWIIの時、アメリカが実行した3年間の原爆プロジェクトのこと。 テンポが非常に早い。 1938年の核分裂の発見から1942年のプロジェクトのスタートまでが4年間。 本格的に原爆の製造に取り掛かってから完成まで期間は3年間。 アルケーを探求する核物理学上の発見から武器として使用されるまで7年間。 この間に、ヨーロッパの核物理学者がアメリカに集まった。どんな人が集まったのか、これから順に見ていく・・・とは言っても、すでにこのブログで見た人がほとんどなので、 フリッシュ さんと パイエルス さんの本に出てくるエピソードから人物像を想像して楽しむ。 ▼最初は ウォレス・エイカース さん。我らがチャドウィックさんが六フッ化フランの製造を委託したインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(I.C.I.)の物理化学者。 ウォレス・エイカース  Wallace Akers , 1888年9月9日ロンドン東部 - 1954年11月1日ハンプシャー。オックスフォード大学クライストチャーチ卒業。物理化学者、実業家。1941-1945、 Tubu Alloysの監督 。マンハッタン計画に英国代表として参加する可能性があったものの、米国の事情で参加できず。代表はチャドウィックさんが務める。WWII後、インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(I.C.I.)の研究ディレクター。 フリッシュ 本 :チャドウィックさんからアメリカ行きを打診され即答したフリッシュさん。1週間でイギリス国民になり、兵役の免除証明を取り、パスポートを取る作業を終える。渡米する人と一緒に客船アンデス号に乗船。この時にエイカースさんが瞬間的に出てくる。「私は乗船のための『チケット』を忘れたが、 グループの責任者のウォレス・エイカースが合図をして、通してくれた (p.183)」 ▼これだけなので人物像は分からない。 パイエルス 本 :Tube Alloysを訳者の松田さん(フリッシュさんの本の訳も同じく松田さんの手による)は「管合金」と訳している。エイカースさんが出てくるくだりはフリッシュ本より長い。「『管合金』理事会の 議長はI.C.I.の研究担当重役のW・A・エイカースであり 、彼は戦争の間、会社の業務を免除されていた。 エイカースは偉大なエネルギーと統率力の持...

組成から解散までのあらまし(下):MAUD委員会(19)

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アルケーを知りたい( 348 )  今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼MAUD委員会の組成は1940年6月、解散は1941年7月。13か月の間、英国は迅速に事を進めた。一方、アメリカ側は腰が重かった。MAUD委員会が解散した後はTube Alloysという名称で英国版の原爆プロジェクトが進む。しかし、対ドイツ戦で経済力も十分ではなかった英国は、アメリカが立ち上がるのを期待する。 ▼MAUD委員会の報告書を受けて英国は原爆製造プロジェクト( Tube Alloys )を開始。紆余曲折を経てTube Alloysはアメリカの原爆製造プロジェクトであるマンハッタン計画に合流する。ここではアメリカ政府がマンハッタン計画にGOサインを出したところまでのあらましを見る。 組成から解散までのあらまし(下) 1940年 9月  フリッシュさんとパイエルスさんをメンバーに入れたMAUD委員会技術小委員会が結成。 4つの大学が協力。ケンブリッジ大学では、プルトニウムの調査を担当。 オックスフォード大学は、同位体分離の方法としてガス拡散法を担当。 バーミンガム大学は、爆発に必要な臨界質量のサイズなどの理論的作業を担当。 リバプール大学は、同位体分離の方法として熱拡散法を担当。 政府が資金を出す。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所3,000ポンド、オックスフォード大学クラレンドン研究所1,000ポンド、バーミンガム大学1,500ポンド、リバプール大学2,000ポンド。 MAUD技術委員会はウラン同位体の分離方法を追求。フリッシュさんのクラウジウス管を使う方法は無理と分かり、サイモンさんの多孔膜を使う方法の有効性を確認した。 英国の技術者集団(ティザード使節団)が渡米。米国にレーダー、ジェットエンジン、核研究などの技術情報を提供。 12月  オックスフォード大学MAUD委員会の サイモン さんらが「実際の分離プラントのサイズの推定」という報告書を提出。 チャドウィック さんがインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)に六フッ化ウランの製造を六フッ化ウランを5kg、5,000ポンドで発注。 フィリップ・バクスター  Philip Baxter , 1905年5月7日ウェールズ - 1989年9月5日シドニー バーミンガム大学で博士。化学技術者。ICI中央研究所の責任...

組成から解散までのあらまし(上):MAUD委員会(18)

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アルケーを知りたい( 347 )  今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼MAUD委員会の組成から解散までのプロセスは、いくつものノーベル賞受賞の発見が原爆製造へと進んでいくプロセス。時間の経緯を追いながら、いつ・誰が・何をしたのかを上と下に分けて整理する。 組成から解散までのあらまし(上) 1932年2月  ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の ジェームズ・チャドウィック さんが中性子を発見。【中性子の発見で1935年、ノーベル物理学賞受賞】 1932年4月  ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の ジョン・コッククロフト さんと アーネスト・ウォルトン さんが加速した陽子でリチウム原子の核変換に初めて成功。【加速荷電粒子による原子核変換の研究で1951年、ノーベル物理学賞を共同受賞】 1934年  フランスの フレデリック・ジョリオ・キュリー さんと イレーヌ・キュリー さんは、アルミニウムにアルファ線を照射し人工の放射性同位元素の合成に初めて成功。【人工放射性元素の発見で1935年、夫婦でノーベル化学賞受賞】 1938年12月  ドイツのベルリン大学で オットー・ハーン さんと フリッツ・シュトラスマン さんがウランに中性子を照射してバリウムを生成。【原子核分裂の発見で1944年、ハーンさんが単独でノーベル化学賞を受賞】 ハーンさんは実験結果の解釈をベルリンから脱出した リーゼ・マイトナー さんに相談。リーゼ・マイトナーさんは甥の オットー・フリッシュ さんと議論。 1939年1月  リーゼ・マイトナーさんとフリッシュさんは、ハーン=フリッツ・シュトラスマンさんの実験結果を 核分裂 と命名。 2月  パリの フレデリック・ジョリオ・キュリー さん、 ハンス・フォン・ハルバン さん、 ルー・コワルスキ さん、 フランシス・ペラン さんは連鎖反応=原子爆弾の実現可能性を確信。また、製造には重水が必要と判断。 1940年  パリのグループは重水を製造するノルウェーの水力発電所の在庫をドイツに先んじて全量(187リットル)買い取る。 2月  インペリアル・カレッジ・ロンドンの ジョージ・トムソン さん【結晶による電子線回折現象の発見で1937年のノーベル物理学賞を受賞】のチームは、天然ウランでは連鎖反応は起きないから追求する価値なし、と結論。 3月...

頼りにした仲間が敵国スパイだった場合・・・:MAUD委員会の教訓(17)

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アルケーを知りたい(346) MAUD委員会(18) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 バーミンガム大学 MAUD委員会 ・リーダーは「 フリッシュ-パイエルスの覚書 」を作成したパイエルスさん。 ・チームの人数は4名。平均年齢は39才。 ・ウラン同位体を分離する方法として、フリッシュさんの熱拡散法とサイモンさんのガス拡散法の2つでアプローチ。結果的にガス拡散法が現実となる。 ・このチームは、原爆の製造に関して化学的アプローチと理論問題を扱った。 ・パイエルスさんが採用した助手フックスさんはソ連のスパイだった。 リーダー: ルドルフ・パイエルス (33)  Rudolf Ernst Peierls , 1907年6月5日 - 1995年9月19日 → アルケーを知りたい(327) ルドルフ・パイエルス メンバー: クラウス・フックス (29)  Klaus Fuchs , 1911年12月29日ドイツ– 1988年1月28日東ベルリン 物理学者。ブリストル大学で博士(指導教員はネヴィル・モット先生)。1941年、パイエルスさんの助手として理論計算を担当。1942年、イギリス市民。1950年、ソ連に原爆情報を流したスパイとして有罪判決。1959年、禁固から釈放、東ドイツに移住。 ノーマン・ハワース (57)  Norman Haworth , 1883年3月19日ランカシャー - 1950年3月19日ウスターシャー イギリスの有機化学者。ゲッチンゲン大学で博士(指導教員はオットー・ヴァラッハ先生)。マンチェスター大学で博士(指導教員はウィリアム・ヘンリー・パーキンJr先生)。WWIIの間、MAUD委員会のメンバー。 クリストファー・ホリス・ジョンソン (36)  Christopher Hollis Johnson , 1904年3月18日-1978年4月9日 イギリスの化学者・物理学者。六フッ化ウランの特性を研究する化学者をリード。 No Photo

プランAがダメならプランBだ、の成功例:MAUD委員会の教訓(16)

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アルケーを知りたい(345) MAUD委員会(17) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 オックスフォード大学 MAUD委員会 ・リーダーはフランシス・サイモンさん。チームが全員、非イギリス人。多くが サイモンさんの門下生。 ・チャーチル首相の科学顧問 フレデリック・リンデマン さんがリクルートした人たち。 ・サイモンさんの主導でガス拡散法でウラン235の分離に成功した。 ・1940年12月、「実際の分離プラントのサイズの推定」という報告書を提出した。 ・メンバーは6名 。うち4名のプロフィールはMAUD委員会の教訓(7)で紹介済み。ここでは残りの2名を紹介する。()内は1940年時点の年齢。 ・平均年齢は35才。 クルト・メンデルスゾーン (32)  Kurt Alfred Georg Mendelssohn , 1906年1月7日ベルリン - 1980年9月18日オックスフォード ベルリン大学で博士(指導教員はフランツ・サイモン先生=いとこ)。物理学者。フレデリック・リンデマンさんの勧誘で1933年からオックスフォード大学クラレンドン研究所。サイモンさんが開発する機器を取り扱う技術を持つ。 ハインツ・ロンドン (33)  Heinz London , 1907年11月7日ドイツのボン - 1970年8月3日 ミュンヘン大学で博士(指導教員はフリッツ・サイモン先生)。実験物理学者。フレデリック・リンデマンさんの勧誘で1933年からオックスフォード大学クラレンドン研究所。サイモンさんの助手。 フランシス・サイモン (47)  Francis Simon , 1893 - 1956 リーダー。リンデマンさんの招待。→ アルケーを知りたい(335)  ハインリッヒ・クーン (36)  Heinrich Gerhard Kuhn , 1904 - 1994 リンデマンさんの招待。→ アルケーを知りたい(335)  ニコラス・クルティ (32)  Nicholas Kurti , 1908 - 1998 師匠のサイモンさんと一緒にオックスフォード大学へ。→ アルケーを知りたい(335)  ヘンリー・シュール・アームズ (28)  Henry Shull Arms , 1912 - 1972  アメリカ人。アイダホ大学で物理学を学ぶ。ローズ奨学金...

外の知恵を受け入れ、尖った研究成果をあげる:MAUD委員会の教訓(15)

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アルケーを知りたい(344) MAUD委員会(16) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ケンブリッジ大学MAUD委員会 ・リーダーはブラッグさんとコックロフトさんの2人体制。 ・メンバーは6名。コンサルタント1名。合計9名。 ・9名の平均年齢は40才。 ・パリから逃れてきたハルバン-コワルスキー組と重水など研究資材を受け入れた。 ・成果  プルトニウム を使った爆弾の可能性を発見。 リーダー: ウィリアム・ローレンス・ブラッグ (50)  William Lawrence Bragg , 1890年3月31日 - 1971年7月1日 オーストラリアのアデレード生まれ。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業。物理学者。 1915(25)ノーベル物理学賞受賞(X線による結晶構造解析に関する研究) WWII終戦後、キャヴェンディッシュ研究所の所長 → アルケーを知りたい(198) ノーベル物理学賞 1915年 ローレンス・ブラッグさん ジョン・コッククロフト (43)  John Douglas Cockcroft , 1897年5月27日 - 1967年9月18日  イギリスのヨークシャー生まれ。物理学者。 1932(35)リチウムに陽子を衝突させて原子核の変換に成功。 WWIIの間はレーダー研究に注力。 1951(54)ノーベル物理学賞受賞(加速荷電粒子による原子核変換の研究) → アルケーを知りたい(239) ノーベル物理学賞 1951年 ジョン・コッククロフトさん 次の4名は、アルケーを知りたい(333) MAUD委員会(5)で紹介済み。 エゴン・ブレッチャー (39) Egon Bretscher, 1901 - 1973 ノーマン・フェザー (36) Norman Feather, 1904 - 1978 ハンス・フォン・ハルバン (32) Hans von Halban, 1908 - 1964 レヴ・コワルスキー (33) Lew Kowarski, 1907 - 1979 ヘルベルト・フロイントリッヒ (60)  Herbert Freundlich , 1880年1月28日ベルリンのシャルロッテンブルク– 1941年3月30日ミネソタ州ミネアポリス 父はドイツ系ユダヤ人、母はスコットランド人。 1919 - 1933 カイザーヴィルヘルム物理化学...