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山上憶良の沈痾自哀文第四段~アルケーを知りたい(1144)

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▼憶良の沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)第四段。   命根すでに尽き、その天年を終ふるすらに、なほ哀しびとなす。 <聖人賢者、一切の含霊、誰かこの道を免れめや> いかにいはむや、生録いまだ半ばにもあらねば、鬼に枉殺せらえ、顔色壮年なるに、病に横困せらゆる者はや。 世に在る大患の、いづれかこれより甚だしからむ。 <志恠記に云はく、「広平の前の大守北海の徐玄方が女、年十八歳にして死ぬ。 その霊、馮馬子に謂ひて『我が生録を案ふるに、寿八十余歳に当る。 今妖鬼に枉殺せらえて、すでに四年を経たり』といふ。 ここに馮馬子に遇ひて、すなはちさらに活くこと得たり」といふはこれなり。 内教には「瞻浮州の人は寿百二十歳なり」といふ。 謹みて案ふるに、この数かならずしもこれに過ぐること得ずといふにはあらず。 故に、寿延経には「比丘あり、名を難逹といふ。 命終らむとする時に臨み、仏に詣でて寿を請ひ、すなはち十八年を延べたり」といふ。 ただ善く為むる者は天地と相畢る。 その寿夭は業報の招くところにして、その修き短きに随ひて半ばとなるぞ。 いまだにこの算にも盈たずして、たちまちに死去す。 故に「 病は口より入る、故に君子はその飲食を節す 」といふ。 これによりて言えば、人の疾病に遭ふは、かならずしも妖鬼にあらず。 それ、医方諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知易行難の鈍情の三つは、目に盈ち耳に満つこと、以来久しきぞ。 抱朴子には「 人はただそのまさに死なむとする日を知らず、故に憂へぬのみ 。 もしまことに羽翮して期を延ぶること得べきを知らば、かならずこれをなさむ」といふ。 ここをもちて観れば、すなはち知りぬ、我が病はけだし飲食の招くところにして、自ら治むること能はぬものかといふことを。> 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 麻呂  ふじわら の まろ 695 - 737 42歳。奈良時代の公卿。藤原不比等の四男。藤原四兄弟の四男。藤原京家の祖。 上には聖主有りて、下には賢臣有り僕のごときは何を為さんや。なお琴酒を事とするのみ 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h

山上憶良の沈痾自哀文第三段~アルケーを知りたい(1143)

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▼憶良の 沈痾自哀文(ちんあじあいぶん) 第三段 。 ▼昔も今も病に対する気持ちは同じ。   吾れ、身はすでに俗を穿ち、心もまた塵に累ふをもちて、禍の伏すところ、祟の隠るるところを知らむと欲ひ、亀卜の門、巫の室、① 往きて問はずといふことなし 。 もしは実にもあれ、もしは妄にもあれ、その教ふるところに随ひて、幣帛を奉り、祈祷らずといふことなし。 ②しかれども いよよ増苦あり、かつて減差なし 。 吾れ聞くに、「③ 前の代に、多く良医あり て、蒼生の病患を救療す。 楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景らのごときに至りては、みな世に在りける良医にして、除愈さずといふことなし」と。 <扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。 胸を割き心(心臓)を採り、易へて置き、投(い)るるに神薬をもちてすれば、すなはち寤めて平(つね)のごときぞ。 華他、字は元化、沛国の譙の人なり。 もし病の結積沈重して内にある者あれば、腸を刳りて病を取り、縫復して膏を摩る、四五日にして差ゆ。> ④ 件の医を追ひ望むとも、あへて及ぶところにあらじ 。 ⑤ もし 聖医神薬に逢はば 、仰ぎて願はくは、五蔵を割り刳き、百病を抄り探り、 膏肓の奥処に尋ね達り 、 <肓は鬲なり、心の下を膏となす。これを攻むれども可からず、これに達せども及ばず、薬も至らぬぞ> 二竪の逃れ匿れたるを顕はさむ と欲ふ。 <晋の景公疾めるときに、秦の医緩視て還るは、鬼に殺さゆといふべしといふことをいふぞ。> *ここではだいたい次のような話。 ①病気が良くなりそうなところには全て行ってみた。 ②しかし良くなることはなかった。 ③昔は名医がたくさんいたという。 ④今、そのような名医を望んでも会えるはずもない。 ⑤しかし、もしも名医や良い薬に出会えたならば、膏肓に入った病根を露わにしたい。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 宇合  ふじわら の うまかい 694 - 737 43歳。奈良時代の公卿。藤原不比等の三男。藤原四兄弟の三男。藤原式家の祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-

山上憶良の沈痾自哀文第二段~アルケーを知りたい(1142)

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▼憶良の 沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)第二段。 初め痾(やまひ)に沈みしより已来、年月やくやくに多し。 <十余年を経たることをいふ> 是時年七十有四。 鬢髪斑白にして、筋力尩羸(わうるい)なり。 ただに年老いたるのみにあらず、またこの病を如ふ。 諺に曰はく、「痛き瘡は塩を灌き、短き材は端を截る」といふは、この謂ひなり。 四支動かず、百節みな疾み、身体はなはだ重きこと、鈞石を負へるがごとし。 <二十四銖を一両となし、十六両を一斤となし、三十斤を一鈞となし、四鈞を一石となす。合せて一百二十斤なり。> 布に懸かりて立たむと欲へば、折翼の鳥のごとし、杖に倚りて歩まむとすれば、跛足の驢のごとし。 *初めて病を得て以来、年月がじわじわと重なる (十数年が経過した) 。 今は年齢、74歳。 髪にも髭にも白いものが混じり、筋力もすっかり衰えた。 ただ年老いただけでなく、病気も加わった。 諺で「痛い傷には塩を擦りこみ、短い材は端を切り詰める」というのはこのことだ。 手も足も思うように動かせなくなり、節々はみな痛み、体が重く感じるのは重りを背負っているようだ。 ( 百二十斤は 72kg) 天井から下げた布を掴んで立つとする様子はまるで翼の折れた鳥だ、杖にすがって歩こうとする足を怪我した驢馬のようだ。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 房前  ふじわら の ふささき 681 - 737 56歳。飛鳥時代~奈良時代前期の貴族。藤原不比等の次男。藤原四兄弟の次男。藤原北家の祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の沈痾自哀文第一段~アルケーを知りたい(1141)

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▼今回は憶良の沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)。「沈痾自哀」は憶良が、病に沈んだ自らを哀しむ歌。 ▼全六段あって、今回は第一段、イントロダクションに当たる。 ▼憶良は、幼少の頃から善人でありたいと心がけ、仏法僧と百神(今はゲームのタイトルになっている!)を敬っていた人物であると分かる。  沈痾自哀文 山上憶良作  第一段 ひそかにおもひみるに、朝夕山野に佃食する者すらに、なお災害なくして世を渡ること得、 <常に弓箭を執り六斎を避けず、値へる禽獣の、大きなると小さきと、孕むと孕まぬとを論はず、ことごとに殺し食ふ、これをもちて業とする者をいふぞ> 昼夜河海に釣漁する者すらに、なほ慶福ありて俗を経ることを全くす。 <漁夫・潜女、おのおのも勤むるところあり、男は手に竹竿を把りて、よく波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帯びて、潜きて深潭の底に採る者をいふぞ> いはむや、我れ胎生より今日までに、自ら修善の志あり、かつて作悪の心なし。 <諸悪莫作、諸善奉行の教へを聞くことをいふぞ> このゆゑに三宝を礼拝し、日として勤めずといふことなし、 <日毎に誦経し、発露懺悔するぞ> 百神を敬重し、夜として欠くることありといふことなし。 <天地の諸神等を敬拝することをいふぞ> ああ恥しきかも、我れ何の罪を犯せばかこの重き疾に遭へる。 <いまだ、過去に造れる罪か、もしは現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すことなくは、何ぞこの病を獲むといふぞ> *山野で獲れる動物の肉、海で獲れる魚介の肉を食べて元気な人びとがいる。 一方、私は善であるよう心がけ、悪を為そうという気持ちは一切なかった。 だから仏法僧を尊重する日々を重ね、天地の諸神を敬拝した。 ところが何ということか、重い病を患うことになった。 これは過去に犯した罪のためか、それとも今何か罪をなしているのだろうか。 何か罪を犯してなければ、どうしてこんな病になってしまったというのか。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 武智麻呂  ふじわら の むちまろ 680 - 737 57歳。飛鳥時代~奈良時代前期の貴族。藤原不比等の長男。藤原四兄弟の兄。藤原南家の開祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B

山上憶良の万葉集894-896番歌~アルケーを知りたい(1140)

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▼憶良が遣唐使の旅の安全を祈って作った「好去好来」の歌。タイトルの 好去好来という語呂が良き。 ▼この作品 で憶良は日本を「 言霊の幸はふ国 」と呼んでいる。 言霊の幸はふ国にいる自分だから、言葉の選び方、使い方では前向き・明るい・和するを心がけねばと思ふ。  好去好来の歌一首 反歌二首 神代より 言ひ伝て来らく  そらみつ  大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり   今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり  人さはに 満ちてはあれども  高光る 日の大朝廷 神ながら 愛での盛りに  天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて  勅旨(おほみこと) <反(かへ)して「大命」といふ>  戴き持ちて  韓国の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ  海原の 辺にも沖にも 神づまり  うしはきいます  もろもろの 大御神たち 船舳に <反して「ふなのへに」といふ>  導きまをし  天地の 大御神たち 大和の 大国御魂  ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ  事終り 帰らむ日には またさらに  大御神たち 船舳に 御手うち懸けて  黒縄を 延へたるごとく あちかをし  値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに  御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ 万894  反歌 大伴の御津の松原かき掃きて 我れ立ち待たむ早帰りませ  万895 *御津の松原をきれいに掃き清めて、私たちは立って待っております、早くお帰りください。 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば 紐解き放けて立ち走りせむ  万896 *難波津に船が着いたと聞けば、嬉しくて飛び上がって喜ぶことでしょう。  天平五年の三月の一日に、良が宅にて対面す。  献るは三日なり。 山上憶良 謹上  大唐大使卿 記室 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 舎人親王  とねりしんのう 676 - 735 59歳。天武天皇の皇子。政治家・歌人。 ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の 高屋の上にたなびくまでに  万1706 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.j

山上憶良の万葉集892-893番歌~アルケーを知りたい(1139)

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▼これも教科書に出てくる超有名な山上憶良の作品、貧窮問答歌。 ▼問答歌なので、憶良は前半で自分を「しかとあるわけではないひげを掻き撫でて、世の中に俺ほどの人物はいないぞと威張って見るけど寒くて仕方ないので麻布団を引き被って、それでもまだ寒いのでありったけの服を着る」といい、自分より 劣悪な環境にいる 人々はどうやって過ごしているのだろうか、と問いかける。 ▼この問いかけに対して貧しい一家の主人が答える、という構成。  貧窮問答の歌一首 幷せて短歌 風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る  天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる  日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ  人皆か 我のみやしかる  わくらばに 人とはあるを 人並みに 我れも作るを  綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け  伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて  父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ  かまどには 火気吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて  飯炊(いひかし)く ことも忘れて  ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて  短き物を 端切ると いへるがごとく  しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ  かくばかり すべなきものか 世の中の道  万892 *雨風や雪の夜。寒いから堅塩をかじり酒粕の湯をすする。くしゃみが出て鼻水も止まらない。あるかないか分からないくらいのあごひげを掻き撫でて、俺をおいて人物はおらぬ、などと強がってみる。でも寒いので布団を引き被り、重ね着する。このような夜、私より貧しい家の父や母は寒かろう。妻や子どもは腹が減ったと泣いているだろう。こんな時はどうやってしのいでいるのだろうか。  お答えしましょう。  天地は広いと世間は言うけれど、私のためには狭くなっております。  日月は明るいと世間は言うけれど、私

山上憶良の万葉集886-891番歌~アルケーを知りたい(1138)

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▼前回の麻田陽春が詠った熊凝の2首に続いて、山上憶良が和した前書きつきの6首。 ▼序と886番の長歌で事情が分かる。そのおかげで志なかばで倒れた 熊凝の心情、申し訳なさ、無念さが伝わってくる。  熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首 幷せて序    筑前国司山上憶良 大伴君熊凝 は、肥後の国益城の郡の人なり。 年十八歳にして、天平三年の六月の十七日をもちて、相撲使某国司官位姓名の従人となり、都に参ゐ向ふ。 天に幸(さき)はひせらえず、路に在りて疾を獲、すなはち安芸の国佐伯の郡高庭の駅家にして身故(みまか)りぬ。 臨終(みまか)る時に、長嘆息して曰はく、「伝え聞くに、『仮合の身は滅びやすく、泡沫の命は駐めかたし』と。このゆゑに、千聖もすでに去り、百賢も留まらず。 いはむや凡愚の微しき者、いかにしてかよく逃れ避(さ)らむ。 ただし、我が老いたる親、ともに庵室に在す。 我を待ちて日を過ぐさば、おのづからに傷心の恨みあらむ、我れを望みて時に違はば、かならず喪明の泣を致さむ。 哀しきかも我が父、痛きかも我が母。 一身の死に向ふ途は患へず、ただ二親の生に在す苦しびを悲しぶるのみ。 今日長(とこしへ)に別れなば、いづれの世にか覲(まみ)ゆること得む」といふ。 すなはち歌六首を作りて死ぬ。 その歌に曰はく、 うちひさす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を 百重山 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し 労はしければ 玉桙の 道の隈みに 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父取り見まし 家にあらば 母取り見まし 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ  <一には「我が世過ぎなむ」といふ>  万886 *輝かしい都に上れるのだと母の元を離れ、見たことのないたくさんの国や山を通り過ぎながらいつごろ都を見られるのだろうと仲間と語りあっていたのだが、体の具合が悪くなり道中で伏してしまった。国にいれば父が心配してくれるだろう、家にいれば母が介抱してくれるだろうけれども、世の中はうまくいかないものだ。犬のように道に倒れて一生を終えるとは。 たらちしの母が目見ずておほほしく いづち向きてか我が別るらむ  万887 *母の顔も見られず心晴れないまま、いったいどちらの