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万葉集巻第十七4003-4005番歌(万代に言ひ継ぎゆかむ)~アルケーを知りたい(1517)

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▼前回の家持の立山讃歌を受けて池主が和した長歌と短歌。太陽が昇る方向に立山を見て詠っている。  敬みて立山の賦に和ふる一首  幷せて二絶 朝日さし そがひに見ゆる 神ながら み名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白 に 雪は降り置きて いにしへゆ 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは  万4003 立山に降り置ける雪の常夏に 消ずてわたるは神ながらとぞ  万4004 *立山の雪は降り積もったまま夏の間も消えないのは山の神のお心のままなのです。 落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと 今見る人もやまず通はむ  万4005  右は、掾大伴宿禰池主和ふ。四月の二十八日 *片貝川の激しい流れが絶えないように、これからも見る人が絶えないことでしょう。 【似顔絵サロン】757年の橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 藤原 豊成  ふじわら の とよなり 704 - 766 奈良時代の貴族。藤原仲麻呂の実兄。橘奈良麻呂の乱では事件の究明に努めなかったとして右大臣を罷免、大宰員外帥に左遷。8年後に罪を赦され右大臣として政権復帰。 大伴 池主 おおとも の いけぬし ? - 757 奈良時代の官人・歌人。738年、橘奈良麻呂が宴を催した際に詠んだ和歌。 十月しぐれにあへる黄葉の 吹かば散りなむ風のまにまに  万1590 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七4000-4002番歌(いまだ見ぬ人にも告げむ)~アルケーを知りたい(1516)

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▼家持が越中にいたとき作った長歌と短歌。立山は富山県にある3千メートル級の山。 日本三名山、日本三霊山(三大霊場、三大霊地)、日本四名山、日本百名山、新日本百名山、花の百名山といくつも冠を持つ。  立山の賦一首  幷せて短歌 この山は新川の郡に有り 天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統神の うしはきいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね  万4000 *山の様子も川の様子も素晴らしい立山。まだ見ぬ人が羨ましがるようにこれからもずっと語り継ぎましょう。 立山に降り置ける雪を常夏に 見れど飽かず神からならし  万4001 *立山に降り積もった雪を夏の間ずっと見て飽きないのは、この山の神様が貴いためらしい。 片貝の川の瀬清く行く水の 絶ゆることなくあり通ひ見む  万4002  四月の二十七日に、大伴宿禰家持作る。 *片貝川の瀬を清らかに流れる水が絶えることないのと同じように私もここに通い続けて見ましょう。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 道祖王  ふなどおう ? - 757 天武天皇の孫。孝謙天皇の皇太子となるも素行不良で廃位。橘奈良麻呂の乱に連座、麻度比(まどひ=惑い者の意)と改名させられ拷問で獄死。 新しき年の初めに思ふどちい群れて居れば嬉しくもあるか  万4284 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3995-3999番歌(我が背子が国へましなば)~アルケーを知りたい(1515)

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▼万葉時代の地方官は、担当地域の会計報告のため都に長期出張していた。家持はその役割を担うため越中から奈良へ出かける。越中勤務の家持は出かける前に仲間に送別会を開いてもらい歌のやり取りをする。 場所は池主の家、メンバーは 内蔵縄麻呂や石川水通。 寂しい気持ちを歌にするとこうなる。 それが今回の五首。  四月の二十六日に、掾大伴宿禰池主が館にして、税帳使、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌 幷せて古歌四首 玉桙の道に出で立ち別れなば 見ぬ日さまねみ恋しけむかも   一には「見ぬ日久しみ恋しけむかも」といふ  万3995  右の一首は、大伴宿禰家持作る。 *都に行く道に出てお別れすると、お目にかかれない日が続くので恋しくなるでしょう。 我が背子が国へましなばほととぎす 鳴かむ五月は寂しけむかも  万3996  右の一首は、介 内蔵忌寸縄麻呂 作る。 *貴方様が都にお戻りになると、ホトトギスが鳴く五月は寂しいことになるでしょう。 我れなしとなわび我が背子ほととぎす 鳴かむ五月は玉を貫かさね  万3997  右の一首は、守大伴宿禰家持和ふ。 *私がいないからといって寂しがらないでください。ホトトギスが鳴く五月は薬玉を作って祝ってください。   石川朝臣水通 が橘の歌一首 我がやどの花橘を花ごめに 玉にぞ我が貫く待たば苦しみ  万3998  右の一首は、伝誦して主人大伴宿禰池主しか伝ふ。 *我が家の花橘がまだ花咲いている途中でも薬玉にします。お待ちするだけでは辛いですから。  守大伴宿禰家が館にして飲宴する歌一首 四月の二十六日 都辺に立つ日近づく飽くまでに 相見て行かな恋ふる日多けむ  万3999 *都に戻る日になるまでみなさんと顔を合わせておきましょう。恋しく思う日が増えるでしょうから。 【似顔絵サロン】 内蔵 縄麻呂  くら の つなまろ ? - ? 奈良時代後期の官人。3996番の作者。 石川 水通  いしかわ の みみち ? - ? 奈良時代の歌人。3998番の作者。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3993-3994番歌(白波の寄せ来る玉藻)~アルケーを知りたい(1514)

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▼前回は、布勢水海を「思ふどち」と一緒に遊覧した家持の歌で、今回は池主の歌。長歌と短歌のセットになっているのは同じ。違いは家持が「併せて短歌」、池主が「併せて一絶」。池主が五言絶句の絶を使って漢詩風味を出している。  敬みて布勢の水海に遊覧する賦に和ふる一首  幷せて一絶 藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも ほととぎす 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 港の洲鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 妻呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿の 荒磯の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 縵に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人舟に ま楫掻い貫き 白栲の 袖振り返し 率ひて 我が漕ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒ぎ さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも  君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや  万3993 *春も秋も、立っても座っていても見飽きない布勢の風景。貴方様と一緒に眺めて楽しむ日が絶えることなどあるはずがありません。 白波の寄せ来る玉藻 世の間も継ぎて見に来む清き浜びを  万3994  右は、掾大伴宿禰池主作る。四月の二十六日に追ひて和ふ *白波が寄せて持ってくる玉藻。この世にいる間、絶えることなく見に来ましょう、この清らかな浜辺の玉藻を。 【似顔絵サロン】757年、橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 黄文王  きぶみおう ? - 757 長屋王の子。橘奈良麻呂の乱に連座。久奈多夫礼(くなたぶれ=愚かな者)と改名させられた後、杖で打たれる拷問で刑死。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3991-3992番歌(思ふどちかくし遊ばむ)~アルケーを知りたい(1513)

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▼今回は、 布勢の水海を詠った長歌と短歌。Wikipediaによると「 布勢水海(ふせのみずうみ)は、かつて 富山県氷見市南西部に存在した潟湖」で「湖岸には至るところに小さな湾や岬があって、風光絶佳であった 」という。家持一行は、馬を並べて陸から風景を楽しんだ後、舟を出した。そして「 沖辺を漕ぎながら岸辺を見ると 渚ではあぢ鴨の群が騒いでおり、 島の周りには木々が花を咲かせている。 ここの眺めはまことに目に賑やか」と喜び、この仲間同士でまた見に来ような、と約束する。風景も人も全部よき。  布勢の水海に遊覧する賦一首 幷せて短歌  この海は射水の郡の古江の村に有り もののふの 八十伴の男の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 渋谿の 崎た廻り 麻都太江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群騒き 島廻には 木末花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥 二上山に 延ふ蔦の 行きは別れず あり通ひ  いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと  万3991 *気の合った仲間で二上山を廻るのは楽しい。それに飽き足らず舟で海に出ると、こんなにも眺めが素晴らしいのかと驚く。これからも毎年、気の合う仲間でこうやって遊びましょう。 布勢の海の沖つ白波あり通ひ いや年のはに見つつ偲はむ  万3992  右は、守大伴宿禰家持作る。四月の二十四日 *布勢の海の沖の白波のように毎年重ねて眺めましょう。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々:安宿王 あすかべおう ? - ? 奈良時代の皇族。長屋王の五男。757年の乱の後、佐渡に流罪。 印南野の赤ら柏は時はあれど 君を我が思ふ時はさねなし  万4301 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3989-3990番歌(奈呉の海の沖つ白波)~アルケーを知りたい(1512)

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▼家持が朝廷(聖武天皇)に越中の財務報告をするために都に行くとき 秦忌寸八千島 の館で壮行会が行われたときの歌二首。このとき家持39歳。お役人としての仕事をしていたのだ。  大目秦忌寸八千島が館にして、守大伴宿禰家持を餞する宴の歌二首 奈呉の海の沖つ白波しくしくに 思ほえむかも立ち別れなば  万3989 *奈呉の海の沖の白波のように、繰り返して思い出すことでしょう、お別れした後は。 我が背子は玉にもがもな手に巻きて 見つつ行かむを置きて行かば惜し  万3990  右は、守大伴宿禰家持、正税帳をもちて、京師に入らむとす。 よりて、この歌を作り、いささかに相別るる嘆きを陳ぶ。四月の二十日 *貴方様が玉であれば手に巻いていつも見ながら行けるものを。お別れせねばならないのが残念です。 【似顔絵サロン】 757年の 橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 藤原 仲麻呂  ふじわら の なかまろ 706 - 764 奈良時代の公卿。 橘奈良麻呂の 乱を抑え政敵を一掃、翌年、淳仁天皇から恵美押勝の名を与えられた。   天雲の去き還りなむもの故に 思ひそ我がする別れ悲しみ  万4242  秦忌寸八千嶋  はだ の いみき やちしま ? - ? 奈良時代の役人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17

万葉集巻第十七3985-3987番歌(渋谿の崎の荒磯に)~アルケーを知りたい(1511)

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▼ 二上山は、富山県高岡市と氷見市にまたがる山。 西の城山と併せて二神山と呼ばれていたという。射水川、渋谿は今もある。家持像も建っている。万葉集の歌が1300年継承されている。よき。  二上山の賦一首 この山は射水の郡に有り 射水川 い行き廻れる 玉櫛笥 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 統め神の 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒磯に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ  万3985 *射水川や二上山は貴いので、絶えることなく昔から今まで見る人が心にかけて思いを寄せるのでしょう。 渋谿の崎の荒磯に寄する波 いやしくしくにいにしへ思ほゆ  万3986 *渋谿の崎の荒磯に寄せる波のように、くりかえし昔のことを思います。 玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の 恋しき時は来にけり  万3987 *二上山で鳴く鳥の声が恋しくなる時が来ました。 【似顔絵サロン】橘奈良麻呂の乱に関係した人々: 橘 奈良麻呂  たちばな の ならまろ 721 - 757 奈良時代の公卿。藤原仲麻呂への謀反計画が漏れ、逮捕、尋問、獄死。36歳。 奥山の真木の葉しのぎ降る雪のふりはますとも地に落ちめやも  万1010 大伴家持(718 - 785)は関与なし、39歳。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集四』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=17