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万葉集巻第6_1040番歌(ひさかたの雨は降りしけ)~アルケーを知りたい(1869)

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▼今回は、 安積親王 (あさかしんのう) が藤原八束の家で宴会を開き、同席していた家持が詠んだ 743年の 歌。 安積親王は聖武天皇の息子で、この年、15歳。八束が28歳。家持は25歳。みなさんお若い。雨の夜、仲の良い仲間が集まったのだから、飲み明かしましょう、と詠う家持。   安積親 王 、左少弁 藤原八束 朝臣が家にして宴する日に、内舎人 大伴宿禰家持 が作る歌一首 ひさかたの雨は降りしけ思ふ子が やどに今夜は明して行かむ  万1040 *ひさしぶりの雨が降りしきるので気の合うお方の家で今夜はずっと飲みましょう。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1038-1939番歌(故郷は遠くもあず)~アルケーを知りたい(1868)

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▼今回の歌の作者、 高丘河内は663年に百済から日本に帰化した沙門詠(しゃもんえい)の子 。 沙門詠は、 戦乱を避けて楽浪郡に移住した 秦の王族の子孫 。河内は橘佐為・山上憶良と共に 子ども時代の 聖武天皇が教育係を務めた。   高丘河内 連が歌二首 故郷は遠くもあず一重山 越ゆるがからに思ひぞ我がせし  万1038 *故郷は遠くない。でも山ひとつ隔てられているから、苦しい思いがするだ。 我が背子とふたりし居らば山高み 里には月は照らずともよし  万1039 *妻と二人でいれば、いくら山が高かろうが、里に月が出なかろうが、構わない。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1037番歌(今造る久邇の都は)~アルケーを知りたい(1867)

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▼ 久邇(くに)の京は聖武天皇が740(天平12)年から744(天平16)年の4年間、都にした場所。740年は藤原広嗣の乱とその後処理があり、落ち着かない時期。1037番歌は、開発途中の新都を 山や川がすがすがしいと 褒める作品。  十五年癸未の秋の八月の十六日に、内舎人 大伴宿禰家持 、久邇の京を讃めて作る歌一首 今造る久邇の都は山川の さやけき見ればうべ知らすらし  万1037 *今建設中の久邇の都は山や川が清らかな場所なので、ここに都にするのはもっともなことです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1035-1036番歌(田跡川の滝を清みか)~アルケーを知りたい(1866)

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▼1035番は出張先の滝の水の清らかさを詠う歌。1036番は出張先から家に帰りたい気持ちが伝わる歌。本音はそうなんだ、と思わせる歌。   大伴宿禰家持 が作る歌一首 田跡川の滝を清みかいにしへゆ 宮仕へけむ多芸の野の上に  万1035 *田跡川の滝が清らかなので昔から多芸の野で宮仕えしてきたのでしょう。  不破の行宮にして、大伴宿禰家持が作る歌一首 関なくは帰りにだにも打ち行きて 妹が手枕まきて寝ましを  万1036 *不破の関がなければ馬で妻が待つ家に戻ってゆっくり寝られるのに。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1034番歌(いにしへゆ人の言ひ来る)~アルケーを知りたい(1865)

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▼今回は養老の滝の歌。ここの滝は老人が若返る水で名高い。万葉の歌人が「昔からそういう言い伝え」と言ってるくらいだから確かだ。現代の地名は 岐阜県養老郡養老町。  美濃の国の多芸の行宮にして、 大伴宿禰東人 が作る歌一首 いにしへゆ人の言ひ来る老人 (おいひと) の をつといふ水ぞ名に負ふ滝の瀬  万1034 *昔から人が言い伝えて来た老人が若返るという水です。養老という名の滝の水です。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1032-1033番歌(大君の行幸のまにま)~アルケーを知りたい(1864)

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▼家持の歌は私のような素人にはとても分からない含みがある。いろんな面があるので予断禁物。1032番歌は、行幸に随行しているオレちゃんだぞーというプライドみたいなのと、妻のもとから離れて長いんだが、というボヤキに見せた気どりと、それだけ長期の行幸に随行してんだぞオレは、という自負みたいなのが入り混じて、この歌が苦いのか甘いのか分からん。1033番は熊野製の小舟といってメーカーの蘊蓄があるのが面白くて共感できる。今回の二首から、やっぱり家持は一筋縄ではいかない人、と思ふ。  狭浅 (ささ) の行宮 (かりみや) にして、 大伴宿禰家持 が作る歌二首 大君の行幸のまにま我妹子が 手枕まかず月ぞ経にける  万1032 *大君の行幸に随行しているので妻と一緒に過ごせないまま月が経ちます。 御食つ国志摩の海人ならし ま熊野の小舟に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ  万1033 *志摩の漁師に違いない。熊野の小舟に乗って沖を漕いで行くのが見えます。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1031番歌(後れにし人を思はく)~アルケーを知りたい(1863)

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▼「後れにし人を思はく」という印象的なフレーズで始まる今回の1031番歌。「しで」を重ねたダジャレが入っている。後書きは「この歌は今回の行幸から生まれた作品ではない」とある。読者はどうすれば良いのだろう? 1029番の前書きにある藤原広嗣の乱から話が転がっているのだが。もう広嗣の乱の件はどうでも良くなったのかな。   丹比屋主真人 が歌一首 後れにし人を思はく思泥 ( しで ) の崎 木綿取り垂 ( し ) でて幸 (さき ) くとぞ思ふ  万1031 *後に残っている人のことを思うと、幸いであって欲しいと思ふ。   右は、案ふるに、この歌はこの行の作にあらじか。 しか言う故は、大夫に勅して河口の行宮より今日に還し、従駕せしむることなし。 いかにしてか思泥の崎にして作る歌を詠むことあらむ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6