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大伴旅人の万葉集812番歌~アルケーを知りたい(1103)

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▼(前回の続き)旅人から琴を受け取った 藤原房前 の和歌付きの礼状。 ▼729年の話なので、年齢を計算すると旅人が64歳、房前が48歳。旅人が愛用の琴を贈るほどの相手だから、房前はきっと素晴らしい人物だと思う。 跪きて芳音を承はり、嘉懽こもこも深し。 すなはち知る、竜門の恩、また蓬身の上に厚しといふことを。 恋望の殊念は、常の心に百倍す。 謹みて白雲の什に和へ、もちて野鄙の歌を奏す。房前謹状 言とはぬ木にもありとも我が背子が 手馴れの御琴地に置かめやも  万812 *もの言わぬ木であっても貴方様がご愛用の御琴ですから大事にさせていただきます。  729年十一月八日 還使の大監に附く  謹通 尊門 記室 【似顔絵サロン】 藤原 房前  681 - 737 56歳。藤原四兄弟の次男。長屋王と 詩歌仲間。藤原北家の祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集810-811番歌~アルケーを知りたい(1102)

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▼旅人が 729年に 藤原四兄弟の房前に琴を贈ったときの和歌つきの手紙。 ▼琴の材木に由来を語らせている。高い山で太陽の光を受けて育った材。木目が密と想像できる。それが自分で「質荒く音少なき」と言い、材質が荒く、音の出方も少ないと謙遜している。こうなると楽器に適した良い材に違いない。それが良匠の手によって小琴となった。 ▼クレモナでバイオリン作りが始まる1000年前の話。 ▼同年、長屋王の変が起きている。旅人が琴を贈った相手はこの変に関わる藤原四兄弟のひとり房前。  大伴淡等謹状(おおとものたびときんじょう) 梧桐(ごとう)の日本琴(やまとこと)一面 対馬の結石の山の孫枝なり この琴、夢に娘子に化りて曰はく、「余、根を遥島の崇巒(すうらん)に託せ、幹を九陽の休光にさらす。長く煙霞を帯びて、山川の阿に逍遥す、遠く風波を望みて、雁木の間に出入す。 ただに恐る、百年の後に、空しく溝壑(こうかく)に朽ちなむことのみを。 たまさかに良匠に遭ひ、斬られて小琴と為る。 質荒く音少なきことを顧みず、つねに君子の左琴を希ふ」といふ。 すなわち歌ひて曰はく、 いかにあらむ日の時にかも声知らむ 人の膝の上我が枕かむ  万810 *いつのときに私の響きを聞き分けてくださる方の膝の上で音を鳴らせるのでしょう。 僕、詩詠に報へて曰はく、 言とはぬ木にはありともうるはしき 君が手馴れの琴にしあるべし  万811 *木はものを言いませんが、あなた様であれば演奏上手な人の琴になるに違いありません。  琴娘子、答へて曰はく、「敬しみて徳音を奉はる。幸甚々々」といふ。 片時ありて覚き、すなはち夢の言に感け、慨然止黙をること得ず。 故に公使に附けて、いささかに進御らくのみ。 謹状 不具  天平元年十月七日 使いに附けて進上る  謹状中衛高明閣下 謹空 【似顔絵サロン】 阿倍 比羅夫 (あべ の ひらふ) ? - ? 将軍。663年、白村江の戦いで敗北した日本軍の将軍。戦後は筑紫大宰帥。仲麻呂は孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%

大伴旅人の万葉集806-807番歌~アルケーを知りたい(1101)

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▼旅人がまだ太宰帥であった時期の歌。 ▼奈良の貴人からの便りを貰った旅人が返信として「早く都に戻ってお目にかかりたい」という希望を歌った2首。 その貴人からの返事の歌2首と合わせて4首。  伏して来書を辱(かたじけ)なみし、つぶさに芳旨を承はる。たちまちに隔漢(かくかん)の恋を成し、また抱梁(ほうりょう)の意を傷ましむ。ただ羨(ねが)はくは、去留(きょりゅう)恙なく、つひに披雲(ひうん)を得たまくのみ。  歌詞両首 太宰帥大伴卿 竜の馬も今も得てしかあおによし 奈良の都に行きて来むため  万806 *奈良の都に行って貴方様にお目通りするため、大型でパワフルな馬をすぐにでも手に入れたいものです。 うつつには逢ふよしもなしぬばたまの 夜の夢にを継ぎて見えこそ  万807 *現実にはお目にかかる方法もございません。夜の夢で絶えることなくお目にかかりたいです。  答ふる歌二首(奈良にいる人からの返事の歌) 竜の馬を我は求めむあをによし 奈良の都に来む人のたに *私も竜の馬が欲しいと思います。奈良の都においでになる人のために。 直(ただ)に逢はずあらくも多く敷栲(しきたへ)の 枕去らずて夢にし見えむ *直接お目にかかれずとも、あなたの夢でお目にかかりましょう。 【似顔絵サロン】 則天武后 (そくてんぶこう) 624 - 705 81歳。高宗の皇后。中国史上唯一の女帝。白村江の戦いに勝ち、5年後に高句麗を滅ぼした。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集793番歌~アルケーを知りたい(1100)

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▼今回の歌は、 妻を亡くしたのに続いて妹の夫を亡くした 旅人が悲しんで作った歌。 ▼歌の後に山上憶良が文章を付した。  大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首  禍故重畳(かこんちょうじょう)し、凶問累集(るいじゅう)す。 永(ひたふる)に崩心の悲しびを懐(むだ)き、独(もは)ら断腸の泣(なみだ)を流す。 ただ、両君の大助(たいじょ)によりて、傾命をわづかに継ぐげらくのみ。 筆の言を尽さぬは、古今嘆くところ。 *不幸が重なり、悪い知らせが重なる。ひたすら心が砕かれるような悲しみに断腸の涙を流す。それでも身近な二人の者の助けのおかげでわが余命が続いている。筆では言い尽くせないのは古今から嘆くところ。 世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり  万793 *世の中は空しいものと知る時に、いよいよますます悲しくなるものだ。   728 神亀五年六月二十三日  以下は山上憶良の後文 けだし聞く、四生(ししょう)の起滅は夢のみな空しきがごとく、三界の漂流は環の息(とど)まらぬがとごし。 このゆゑに、維摩大士も方丈に在りて染疾の患(うれへ)を懐くことあり、釈迦能仁も双林に坐して泥洹(ないをん)の苦しびを免れたまふことなし、と。 故に知りぬ、二聖の至極すらに力負(りきふ)の尋ね至ることを払ふことあたはず、三千世界に誰れかよく黒闇(こくあん)の捜(たづ)ね来ることを逃れむ、といふことを。 二鼠競ひ走りて、度目(ともく)の鳥旦(あした)に飛ぶ、四蛇(しだ)争ひ侵して、過隙の駒夕に走る。 ああ痛きかも。 紅顔は三従と共に長逝す、素質は四徳とともに永滅す。 何ぞ図りきや、偕老は要期に違い、独飛して半路に生かむとは。 蘭室には屏風(へいふう)いたづらに張り、断腸の悲しびいよいよ痛し、枕頭には明鏡空しく懸かり、染筠(ぜんゐん)の涙いよよ落つ。 泉門ひとたび掩ざされて、また見るに由なし。 ああ哀しきかも。 愛河の波浪はすでにして滅ぶ、 苦海の煩悩もまた結ぼほるることなし。 従来よりこの穢土を厭離す、 本願生をその浄刹に託せむ。 【似顔絵サロン】 高宗  こうそう 628 - 683 55歳。663年、白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍に勝った 唐の皇帝。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-yms

大伴旅人の万葉集579-580番歌~アルケーを知りたい(1099)

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▼今回の歌は、旅人の逝去後、454-458番を歌った家人の余明軍が旅人の息子の 大伴家持 に贈った歌二首。 余明軍は大伴家で幼かった家持の世話をしていた人物。 ▼歌から 余明軍の 真っすぐな心根が伝わる。旅人の「 賢しみと物言ふよりは酒飲みて 酔ひ泣きするしまさりたるらし  万341」は 余明軍のことだろう 、と思えるほど。  余明軍、大伴宿祢家持に与ふる歌二首。明軍は大納言卿の資人なり。 見まつりていまだ時だに変らねば 年月のごと思ほゆる君  万579 *お世話していた頃からそれほど時が経ったとも思えないのに、長い昔のことのように思える貴方様です。 あしひきの山に生ひたる菅の根の 根もころ見まく欲しき君かも  万580 *ねんごろにお世話したいと思う貴方様です。 【似顔絵サロン】 大伴 家持   718 - 785 67歳。 かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞふけにける   百人一首6 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集578番歌~アルケーを知りたい(1098)

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▼今回の歌は、旅人の逝去後、家人だった三依(みより)が 家を去るときに 別れを悲しむ歌。 ▼主人が死去すると住込みで働いていた家人は失業して家を出ることになる。悲しさ倍増だろう。  大伴宿祢三依が悲別の歌一首 天地とともに久しく住まはむと 思ひてありし家の庭はも  万578 *末永くここに住み込んで働くものと思っていた家の庭でしたが・・・。 【似顔絵サロン】 石上 麻呂 (いそのかみ の まろ) 640 - 717 77歳 万葉集で初めて「日本」を詠んだ歌人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集577番歌~アルケーを知りたい(1097)

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▼今回の歌は、旅人が京都に戻る途中で接待してくれた大原高安 に贈った歌。 ▼ 高安 に 「人にあげちゃダメだよ、君が着るんだよ」と言うために、その「君」のことを「 網を引く難波壮士=漁師 」と表現したのが面白い。 ▼高安には「 沖辺行き辺を行き今や妹がため 我が漁れる藻臥束鮒  万625」という歌があって、実際に魚を獲っていた様子がうかがえる。 ▼ 隠岐に流された小野篁の 「 思ひきや鄙のわかれにおとろへて 海人の縄たきいざりせむとは  古今961」という歌があるのを思い出した。「俺ともあろう者がここで漁師の真似事をするとは思わなんだわ」と自分を嘆いた歌だ。 ▼ここからすると難波壮士というワードを出すことで、旅人が釣り好きの高安を 親しみを込めながら からかっている風情もある。気の置けない間柄だったのだろう。  大納言大伴卿、新袍(しんほう)を摂津大夫(せっつのかみ)高安王(たかやすのおほきみ)に贈る歌一首 我が衣人にな着せそ網引(あびき)する 難波壮士(なにはをとこ)の手には触るとも  万577 *私が贈った上衣はほかの人に着せないようにしてくださいね。網を引く難波壮士(高安王のこと)の手に触れることがあっても。 【似顔絵サロン】 藤原 不比等  659 - 720 61歳  中臣鎌足 の子。藤原四兄弟の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA