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万葉集巻第6_1032-1033番歌(大君の行幸のまにま)~アルケーを知りたい(1864)

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▼家持の歌は私のような素人にはとても分からない含みがある。いろんな面があるので予断禁物。1032番歌は、行幸に随行しているオレちゃんだぞーというプライドみたいなのと、妻のもとから離れて長いんだが、というボヤキに見せた気どりと、それだけ長期の行幸に随行してんだぞオレは、という自負みたいなのが入り混じて、この歌が苦いのか甘いのか分からん。1033番は熊野製の小舟といってメーカーの蘊蓄があるのが面白くて共感できる。今回の二首から、やっぱり家持は一筋縄ではいかない人、と思ふ。  狭浅 (ささ) の行宮 (かりみや) にして、 大伴宿禰家持 が作る歌二首 大君の行幸のまにま我妹子が 手枕まかず月ぞ経にける  万1032 *大君の行幸に随行しているので妻と一緒に過ごせないまま月が経ちます。 御食つ国志摩の海人ならし ま熊野の小舟に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ  万1033 *志摩の漁師に違いない。熊野の小舟に乗って沖を漕いで行くのが見えます。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1031番歌(後れにし人を思はく)~アルケーを知りたい(1863)

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▼「後れにし人を思はく」という印象的なフレーズで始まる今回の1031番歌。「しで」を重ねたダジャレが入っている。後書きは「この歌は今回の行幸から生まれた作品ではない」とある。読者はどうすれば良いのだろう? 1029番の前書きにある藤原広嗣の乱から話が転がっているのだが。もう広嗣の乱の件はどうでも良くなったのかな。   丹比屋主真人 が歌一首 後れにし人を思はく思泥 ( しで ) の崎 木綿取り垂 ( し ) でて幸 (さき ) くとぞ思ふ  万1031 *後に残っている人のことを思うと、幸いであって欲しいと思ふ。   右は、案ふるに、この歌はこの行の作にあらじか。 しか言う故は、大夫に勅して河口の行宮より今日に還し、従駕せしむることなし。 いかにしてか思泥の崎にして作る歌を詠むことあらむ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1030番歌(妹に恋ひ吾の松原)~アルケーを知りたい(1862)

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▼前回は聖武天皇の歌で、藤原広嗣の乱の制圧に調停軍を送ったときのもの。今回も続いて聖武天皇の歌。内容は、妻を思いながら干潟を見ると鶴の鳴き声が聞こえた、というもの。後書きに、歌の場所について、前回の歌の河口の宮から、今回の吾の松原は距離的に離れているから何かの誤りではないかという指摘がある。5W1Hから、つじつまが合うかどうかの視点で編集している。  天皇の御製歌一首 妹に恋ひ吾の松原見わたせば 潮干の潟に鶴鳴き渡る  万1030 *妻を思いながら吾の松原を見わたしていると、干潟から鶴の鳴き声が聞こえて来る。   右の一首は、今案ふるに、吾の松原は三重の郡にあり。 河口の行宮を相去ること遠し。 けだし朝明の行宮に御在す時に製らす御歌なるを、伝ふる者誤れるか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1029番歌(河口の野辺に廬りて)~アルケーを知りたい(1861)

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▼今回は家持が藤原博嗣を詠った歌。前書きに背景の説明がある。740年に九州で起きた 藤原広嗣の乱の当事者。広嗣は吉備真備と玄昉が朝廷を乱しているから罰すると主張。乱の鎮圧に来た勅使に、ではなぜ軍を起こしたのか、と問われる。しかしこの問いに答えられなかったので味方だった兵が散り、敗けた。1029番は制圧軍を発した聖武天皇が伊勢の国に行幸するとき同行した家持の歌。  十二年庚辰の冬の十月に、大宰少弐 藤原朝臣広嗣 、謀反 (みかどかたぶ) けむとして軍を発すによりて、伊勢の国に幸す時に、河口の行宮にして、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首 河口の野辺に廬りて夜の経れば 妹が手本し思ほゆるかも  万1029 *河口の野原に野宿して夜が遅くなるにつれ、妻が恋しいと思ったかも知れません。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1028番歌(ますらをの高円山に)~アルケーを知りたい(1860)

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▼今回はムササビの歌。今回は1028番のムササビだが、これに先立つ267番で登場している。同じムササビかどうかは分からないけど。 むささびは木末求むとあしひきの 山のさつ男にあひにけるかも 万267 *ムササビは木の末をめざしたら、山のさつ男と出くわしてしまった。 ▼山のさつ男やますらをは、毛皮にするためムササビを捕っていた。暖かいらしい。1028番のムササビは歌になったあと、間違いなく毛皮にされている。   十一年己卯に、天皇、高円の野に遊猟したまふ時に、小さき獣都里の中に泄走す。 ここにたまさかに勇士に逢ひ、生きながらにして獲らえぬ。 すなはち、この歌をもちて御在所に献上るに副ふる歌一首 獣の名は、俗には「むざさび」といふ ますらをの高円山に迫めたれば 里に下り來るむざさびぞこれ  万1028 *益荒男が高円山に上ったので、里に逃げて下りて来たムササビです、これは。   右の一首は、 大伴坂上郎女 作る。 ただし、いまだ奏を経ずして小さき獣死斃ぬ。 これによりて歌を献ること停む。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1026-1027番歌(ももしきの大宮人は)~アルケーを知りたい(1859)

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▼橘諸兄の家で宴会のときの歌の続き。前回に続く後半の二首。前の二首との関連はなさそう。宴会ではどういう流れでこの二首が出たのだろう。1026番は忙しくて自分の領地に行く暇がない大宮人を詠った作。これ、不在地主を揶揄しているのだろうか、と思ふ。1027番はそんな見方に対して、物思いしていることは人には分からんだろう、と返す。これも諸兄宅の宴会の一コマ。 ももしきの大宮人は今日もかも 暇をなみと里に行かずあらむ  万1026 *大宮人は今日も忙しいからといって領地に帰らないのだろうか。   右の一首は、右大臣伝へて「故 豊島采女 が歌」といふ。 橘の本に道踏む八衢に 物をぞ思ふ人に知らえず  万1027 *あれやこれやと物思いしているのだが、人には分かってもらえない。   右の一首は、右大弁 高橋安麻呂 卿語りて「故豊島采女が作なり」といふ。 ただし、或本には「 三方沙弥 、妻園臣に恋ひて作る歌なり」といふ。 しからばすなはち、豊島采女は当時当所にしてこの歌を口吟へるか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1024-1025番歌(長門なる沖つ借島)~アルケーを知りたい(1858)

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▼言わなくても分かる、とか、以心伝心という言葉があるけど、今回の1024番と1025番のやりとりは、そうではない。口に出して、気持ちを伝えた歌。素朴、率直、まっすぐ。賢げな言い回しがない。こういう言い方ができる人になりたい。  秋の八月の二十日に、右大臣橘家にして宴する歌四首 長門なる沖つ借島奥まへて 我が思ふ君は千年にもがも  万1024 *心の奥から思っている我が君におかれては千年めざして長生きしていただきたいです。   右の一首は長門守 巨曾倍対馬 朝臣。 奥まへて我を思へる我が背子は 千年五百年ありこせぬかも  万1025 *同様に貴方様も五百年も千年も長生きしてください。  右の一首は 右大臣 が和ふる歌。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6