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万葉集巻第6_1037番歌(今造る久邇の都は)~アルケーを知りたい(1867)

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▼ 久邇(くに)の京は聖武天皇が740(天平12)年から744(天平16)年の4年間、都にした場所。740年は藤原広嗣の乱とその後処理があり、落ち着かない時期。1037番歌は、開発途中の新都を 山や川がすがすがしいと 褒める作品。  十五年癸未の秋の八月の十六日に、内舎人 大伴宿禰家持 、久邇の京を讃めて作る歌一首 今造る久邇の都は山川の さやけき見ればうべ知らすらし  万1037 *今建設中の久邇の都は山や川が清らかな場所なので、ここに都にするのはもっともなことです。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1035-1036番歌(田跡川の滝を清みか)~アルケーを知りたい(1866)

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▼1035番は出張先の滝の水の清らかさを詠う歌。1036番は出張先から家に帰りたい気持ちが伝わる歌。本音はそうなんだ、と思わせる歌。   大伴宿禰家持 が作る歌一首 田跡川の滝を清みかいにしへゆ 宮仕へけむ多芸の野の上に  万1035 *田跡川の滝が清らかなので昔から多芸の野で宮仕えしてきたのでしょう。  不破の行宮にして、大伴宿禰家持が作る歌一首 関なくは帰りにだにも打ち行きて 妹が手枕まきて寝ましを  万1036 *不破の関がなければ馬で妻が待つ家に戻ってゆっくり寝られるのに。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1034番歌(いにしへゆ人の言ひ来る)~アルケーを知りたい(1865)

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▼今回は養老の滝の歌。ここの滝は老人が若返る水で名高い。万葉の歌人が「昔からそういう言い伝え」と言ってるくらいだから確かだ。現代の地名は 岐阜県養老郡養老町。  美濃の国の多芸の行宮にして、 大伴宿禰東人 が作る歌一首 いにしへゆ人の言ひ来る老人 (おいひと) の をつといふ水ぞ名に負ふ滝の瀬  万1034 *昔から人が言い伝えて来た老人が若返るという水です。養老という名の滝の水です。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1032-1033番歌(大君の行幸のまにま)~アルケーを知りたい(1864)

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▼家持の歌は私のような素人にはとても分からない含みがある。いろんな面があるので予断禁物。1032番歌は、行幸に随行しているオレちゃんだぞーというプライドみたいなのと、妻のもとから離れて長いんだが、というボヤキに見せた気どりと、それだけ長期の行幸に随行してんだぞオレは、という自負みたいなのが入り混じて、この歌が苦いのか甘いのか分からん。1033番は熊野製の小舟といってメーカーの蘊蓄があるのが面白くて共感できる。今回の二首から、やっぱり家持は一筋縄ではいかない人、と思ふ。  狭浅 (ささ) の行宮 (かりみや) にして、 大伴宿禰家持 が作る歌二首 大君の行幸のまにま我妹子が 手枕まかず月ぞ経にける  万1032 *大君の行幸に随行しているので妻と一緒に過ごせないまま月が経ちます。 御食つ国志摩の海人ならし ま熊野の小舟に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ  万1033 *志摩の漁師に違いない。熊野の小舟に乗って沖を漕いで行くのが見えます。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1031番歌(後れにし人を思はく)~アルケーを知りたい(1863)

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▼「後れにし人を思はく」という印象的なフレーズで始まる今回の1031番歌。「しで」を重ねたダジャレが入っている。後書きは「この歌は今回の行幸から生まれた作品ではない」とある。読者はどうすれば良いのだろう? 1029番の前書きにある藤原広嗣の乱から話が転がっているのだが。もう広嗣の乱の件はどうでも良くなったのかな。   丹比屋主真人 が歌一首 後れにし人を思はく思泥 ( しで ) の崎 木綿取り垂 ( し ) でて幸 (さき ) くとぞ思ふ  万1031 *後に残っている人のことを思うと、幸いであって欲しいと思ふ。   右は、案ふるに、この歌はこの行の作にあらじか。 しか言う故は、大夫に勅して河口の行宮より今日に還し、従駕せしむることなし。 いかにしてか思泥の崎にして作る歌を詠むことあらむ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1030番歌(妹に恋ひ吾の松原)~アルケーを知りたい(1862)

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▼前回は聖武天皇の歌で、藤原広嗣の乱の制圧に調停軍を送ったときのもの。今回も続いて聖武天皇の歌。内容は、妻を思いながら干潟を見ると鶴の鳴き声が聞こえた、というもの。後書きに、歌の場所について、前回の歌の河口の宮から、今回の吾の松原は距離的に離れているから何かの誤りではないかという指摘がある。5W1Hから、つじつまが合うかどうかの視点で編集している。  天皇の御製歌一首 妹に恋ひ吾の松原見わたせば 潮干の潟に鶴鳴き渡る  万1030 *妻を思いながら吾の松原を見わたしていると、干潟から鶴の鳴き声が聞こえて来る。   右の一首は、今案ふるに、吾の松原は三重の郡にあり。 河口の行宮を相去ること遠し。 けだし朝明の行宮に御在す時に製らす御歌なるを、伝ふる者誤れるか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6

万葉集巻第6_1029番歌(河口の野辺に廬りて)~アルケーを知りたい(1861)

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▼今回は家持が藤原博嗣を詠った歌。前書きに背景の説明がある。740年に九州で起きた 藤原広嗣の乱の当事者。広嗣は吉備真備と玄昉が朝廷を乱しているから罰すると主張。乱の鎮圧に来た勅使に、ではなぜ軍を起こしたのか、と問われる。しかしこの問いに答えられなかったので味方だった兵が散り、敗けた。1029番は制圧軍を発した聖武天皇が伊勢の国に行幸するとき同行した家持の歌。  十二年庚辰の冬の十月に、大宰少弐 藤原朝臣広嗣 、謀反 (みかどかたぶ) けむとして軍を発すによりて、伊勢の国に幸す時に、河口の行宮にして、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首 河口の野辺に廬りて夜の経れば 妹が手本し思ほゆるかも  万1029 *河口の野原に野宿して夜が遅くなるにつれ、妻が恋しいと思ったかも知れません。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=6