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元良親王~百人一首でアルケーを知りたい(903)

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▼ わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ  20 ミニ知識:みをつくし=船が座礁しないように航路をガイドする目印の杭。昔から大阪湾で使っていたので大阪市のシンボルマークになっている。この歌では響きが同じ「身を尽くす」とかけた。 感想:元良親王は陽成天皇(13番歌)の息子。親子で仲良く百人一首入り。 ▼ 元良親王  もとよししんのう  890(寛平2)年 - 943(天慶6)年8月29日   平安前期~中期の皇族・歌人。  陽成天皇の第一皇子。 朝まだきおきてぞ見つる梅の花 夜のまの風のうしろめたさに 来や来やと待つ夕暮と 今はとてかへる朝といづれまされり 花の色は昔ながらに見し人の 心のみこそうつろひにけれ 【キーワードと感想】 澪標   みおつくし 。水先案内のために、水脈の標識としてさす杭。水脈(みを)の串。 【ネットワーク】 陽成天皇  ようぜいてんのう 869(貞観10)年1月2日 - 949(天暦3)年10月23日 第57代天皇。 在位:876貞観18年12月18日 - 884元慶8年3月4日。長男が元良親王。 百人一首13: 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/motoyosi.html

藤原 敏行~百人一首でアルケーを知りたい(902)

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▼ 住江の岸に寄る波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ  18 感想 この歌は、敏行が女性の立場で詠んだもの、という。「夢の通い路」というフレーズが美しい。 ▼ 藤原 敏行  ふじわら の としゆき  ? - 907(延喜7)年  貴族・歌人・書家。 藤原富士麻呂の長男。  三十六歌仙の一人。 古今最高の能書家。  主君:清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇 871(?) 蔵人。 895(?) 蔵人頭。 897(?) 兼近江権守。従四位上。右兵衛督。 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 白露の 色はひとつを いかにして 秋の木の葉を ちぢに染むらん 老いぬとてなどかわが身をせめぎけむ 老いずは今日に逢はましものか 【キーワードと感想】 能書家   三筆 :空海・橘逸勢・嵯峨天皇。 三跡 : 小野 道風・藤原佐理・藤原行成。 【ネットワーク】 醍醐天皇  だいごてんのう 885(元慶9)年2月6日 - 930(延長8)年10月23日 第60代天皇。在位:897(寛平9)年8月4日 - 930(延長8)年10月16日。▼醍醐天皇は即位の年、藤原敏行の働きを評価、役職を引き上げた。 小野 道風  おの の みちかぜ/とうふう 894(寛平6)年 - 967(康保3)年2月9日 貴族・能書家。 三跡 のひとり。▼道風は古今最高の能書家に空海と 藤原敏行 を挙げた。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%95%8F%E8%A1%8C https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tosiyuki.html#nm

在原 業平~百人一首でアルケーを知りたい(901)

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▼ ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは  17 感想 竜田川の水面に紅葉したモミジの葉っぱが集まって模様のように見える情景を詠んだもの、と勝手に解釈している。なんとかズリとか、くくり、は布に染色する手法の名前という。業平は鷹狩り名人だったので、フィールドを駆け巡っているときに目に映った風景を歌にしたのだろう。その時に、染色技法を持ち出す業平さん、ファッションにも詳しい粋人とみた。 ▼ 在原 業平  ありわら の なりひら  825(天長2)年 - 880(元慶4)年7月9日 55歳。  平安初期~前期の貴族・歌人。三十六歌仙の一人。  阿保親王の五男。美男。 鷹狩 の名手。 847(22) 蔵人。 879(54) 蔵人頭。 880(55) 兼美濃権守。 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし 月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ  我が身ひとつは もとの身にして 名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと 【キーワードと感想】 鷹狩  たかがり。飼いならした鷹を山野に放って行う狩猟。 鷹狩の名手に、 坂上田村麻呂 、在原 行平 、在原 業平 がいる。 伊勢物語  いせ ものがたり。 在原業平 の和歌にまつわる短編歌物語集。 「むかし、男ありけり」で始まる作者・時期未詳の文学作品。日本の歌物語中最古の作品。『源氏物語』と双璧をなす。『古今和歌集』を加えて平安時代の三大文学。 【ネットワーク】 在原 行平  ありわら の ゆきひら 818(弘仁9)年 - 893(寛平5)年9月6日 平安初期~前期の公卿・歌人。阿保親王の次男。小倉百人一首では中納言行平。百人一首16: たちわかれ いなばの山の峰におふる 待つとし聞かば いま帰りこむ 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%8E%9F%E6%A5%AD%E5%B9%B3 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/narihira.html

在原 行平~百人一首でアルケーを知りたい(900)

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▼ たちわかれ いなばの山の峰におふる 待つとし聞かば いま帰りこむ  16 感想 この歌に詠まれた因幡~鳥取県の山の松は今も年を重ねているのだろうか。 ▼ 在原 行平  /  中納言行平  ありわら の ゆきひら 818(弘仁9)年 - 893(寛平5)年9月6日 75歳。  平安初期~前期の公卿・歌人。    阿保親王 の次男。 平城天皇 の孫。 業平 は7歳年上の弟。  藤原基経 と対立。 840(22) 仁明天皇の蔵人。 855(37) 因幡守。 859(41) 播磨守。 870(52) 参議。 873(55) 参議兼大宰権帥。 881(63) 在原氏の学問所・大学別曹 奨学院 を創設。 882(64) 中納言。887(69) 引退。  親交があった 源融 が行平に贈った歌: 照る月をまさきの綱によりかけて あかず別るる人をつながむ 行平の返歌: 限りなき思ひの綱のなくはこそ まさきの葛かづらよりもなやまめ 【キーワードと感想】 奨学院  しょうがくいん。平安時代の公家の教育機関であり大学別曹のひとつ。 大学寮  だいがくりょう。律令制のもとで作られた官僚育成機関。 【ネットワーク】 阿保 親王  あぼしんのう 792延暦11年 - 842承和9年12月1日 平城天皇の第一皇子。在原行平・業平の父。性格は謙譲で控え目。腕っぷしが強く文武の才を兼ね備える。絃歌(弦楽器を演奏しながら歌うこと)に優れる。 平城天皇  へいぜいてんのう 774宝亀5年9月25日 - 824天長元年8月5日 第51代天皇。 阿保親王の父親。  在位:806延暦25年4月9日 - 809大同4年5月18日。 藤原 基経  ふじわら の もとつね 836承和3年 - 891寛平3年2月24日 平安時代前期の公卿。 清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたる朝廷の実力者。 仁明天皇  にんみょうてんのう 810弘仁元年10月25日 - 850嘉祥3年5月6日 第54代天皇。菊の花を愛した。在位: 833天長10年3月22日 - 850嘉祥3年5月4日 源 融  みなもと の とおる 822(弘仁13)年 - 895(寛平7)年9月17日 平安時代初期~前期の貴族。小倉百人一首では河原左大臣。百人一首14: 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに みだれそめにし 我ならなくに 在原 業平

光孝天皇~百人一首でアルケーを知りたい(899)

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▼ きみがため 春の野に出でて わかなつむ 我がころもでに 雪は降りつつ  15 感想 光孝天皇は 役人をやっていた時期は 料理が趣味だった。若菜を摘んだ後、キッチンで調理。ゆえにこれは馳走の前段の歌、とみた(笑)。 ▼ 光孝天皇  こうこうてんのう  830(天長7)年 - 887(仁和3)年9月17日 57歳。  第58代天皇。 仁明天皇 の第三皇子。  在位:884元慶8年3月4日 - 887仁和3年9月17日。 843(13) 元服。親王。  882(52) 一品。親王の筆頭。 884(54) 陽成天皇が譲位、第58代天皇。  太政大臣 藤原基経 が実質的関白。 「天皇少く(わかく)して聡明、好みて経史を読む。 容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。 性、風流多く、尤も人事に長ず」 (日本三代実録) 仁和の御時、親交があった僧正 遍昭 への七十の賀の御歌  かくしつつ とにもかくにも永らへて  君が八千代に あふよしもがな 【キーワードと感想】 七十の賀  70歳の誕生のお祝い。 八千代   とこしえの長寿。 【ネットワーク】 仁明天皇  にんみょうてんのう 810弘仁元年10月25日 - 850嘉祥3年5月6日 第54代天皇。 在位:833天長10年3月22日 - 850嘉祥3年5月4日。嵯峨天皇の第二皇子。 仁明天皇は菊の花を愛したことから、淡い黄色は 仁明天皇カラー。 陽成天皇  ようぜいてんのう 869(貞観10)年1月2日 - 949(天暦3)年10月23日 第57代天皇。 在位:876 貞観18 年12月18日 - 884 元慶8 年3月4日。 藤原 基経  ふじわら の もとつね 836承和3年 - 891寛平3年2月24日。平安時代前期の公卿。 基経は 陽成天皇の母方の叔父。 僧正 遍昭  へんじょう 816(弘仁7)年 - 890(寛平2)年2月12日 僧・歌人。三十六歌仙の一人。百人一首12: 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ  /  すゑの露 もとのしづくや 世の中の おくれ先だつ ためしなるらん   【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87 https://www.asahi-net.

源融~百人一首でアルケーを知りたい(898)

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▼ 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに みだれそめにし 我ならなくに  14 感想 14番は、源融が河原左大臣の名前で詠んだ和歌。しのぶもぢずりは、草木染の模様のことを言うようだ。とても都会的な歌の気がする。よく分からんが。 ▼ 源融  みなもと の とおる  822(弘仁13)年 - 895(寛平7)年9月17日 73歳。  平安時代初期~前期の貴族。 嵯峨天皇 の第十二皇子。  小倉百人一首では河原左大臣。 光源氏 のモデル(?)。 838(16) 元服。839(17) 侍従。 851(29) 公卿。武官。 856(34) 参議。 870(48) 大納言。 872(50) 左大臣。 876(54) 陽成天皇、藤原基経の体制。自宅に引籠。 891(69) 宇多天皇 の下で太政官。   けふ桜しづくに我が身いざ濡れむ  香ごめにさそふ風の来ぬまに  ぬしやたれ問へどしら玉いはなくに  さらばなべてやあはれと思はむ 家に 行平 朝臣 まうで来たりけるに、月のおもしろかりけるに、酒などたうべて、まかりたたむとしけるほどに   照る月をまさ木のつなによりかけて  あかず別るる人をつながむ 行平の返歌: 限りなき思ひの綱のなくはこそ  まさきの葛かづらよりもなやまめ 【キーワードと感想】 光源氏   ひかるげんじ。紫式部の物語『源氏物語』の主人公。 朝臣  あそん。684年に制定された八色の姓(やくさのかばね)の上から二番目。 皇族以外の臣下の中で最上位。 八色の姓  やくさのかばね。天武天皇が684年に制定した八つの姓。 真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置。 【ネットワーク】 嵯峨天皇  さがてんのう 786延暦5年10月3日 - 842承和9年8月24日 第52代天皇。 在原 行平  ありわら の ゆきひら 818(弘仁9)年 - 893(寛平5)年9月6日 平安初期~前期の公卿・歌人。阿保親王の次男。小倉百人一首では中納言行平。百人一首16: たちわかれ いなばの山の峰におふる 待つとし聞かば いま帰りこむ 宇多天皇  うだてんのう 867貞観9年6月10日 - 931承平元年9月3日 第59代天皇。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E8%9E%8D https://www.asahi-

陽成天皇~百人一首でアルケーを知りたい(897)

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▼ 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる  13 感想 聞けばその通り、何であれ集まり積もれば深い淵となる。だから人にどうせよ、というのではない。 この句は、人それぞれが 感想を持つ余白を残す。押しつけがましくないのが良い。 ▼ 陽成天皇  ようぜいてんのう 陽成院。 869(貞観10)年1月2日 - 949(天暦3)年10月23日 80歳。 清和天皇の第一皇子。 876(7) 父親の 清和天皇 が譲位し、第57代天皇になる。   藤原基経 が摂政。 880(11) 清和天皇が崩御。基経と関係悪化。 883(14) 基経が 政務放棄 。 884(15) 退位し 太上天皇 になる。大叔父の 光孝天皇 が即位。 887(18) 光孝天皇が崩御。 宇多天皇 が即位。 890(21) 第一皇子の 元良親王 が誕生。   上皇 歴65年、歴代1位。 【キーワードと感想】 政務放棄   基経は 陽成天皇との関係が悪化し、自宅にとじ籠った。翌年、天皇が代わっている。 太上天皇  だいじょうてんのう、だじょうてんのう。譲位して皇位を後継者に譲った天皇の尊号。 上皇  じょうこう。退位した天皇の称号。 【ネットワーク】 清和天皇  せいわてんのう 850嘉祥3年5月10日 - 881元慶4年1月7日 第56代天皇。武門の棟梁・清和源氏の祖。文徳天皇の第四皇子。陽成天皇の父親。 藤原 基経  ふじわら の もとつね 836承和3年 - 891寛平3年2月24日 平安時代前期の公卿。 清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたって朝廷の実権を握った実力者。 史上初の関白。 光孝天皇  こうこうてんのう 830(天長7)年 - 887(仁和3)年9月17日 第58代天皇 百人一首15: きみがため 春の野に出でて わかなつむ 我がころもでに 雪は降りつつ 宇多天皇  うだてんのう 867貞観9年6月10日 - 931承平元年9月3日 第59代天皇。 元良親王  もとよししんのう 890(寛平2)年 - 943(天慶6)年8月29日 平安前期~中期の皇族・歌人。陽成天皇の第一皇子。百人一首20: わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99

僧正遍昭~百人一首でアルケーを知りたい(896)

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▼ 天つ風 雲の通ひぢ 吹き閉ぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ  12 感想 後半の7-7がキラーフレーズ、名コピー。雲が通う道が閉ざされると、なぜ乙女の姿がとどまることになるのか。そこのところが分からないのだけれど。 ▼ 僧正 遍昭  へんじょう 816(弘仁7)年 - 890(寛平2)年2月12日 74歳。  僧・歌人。三十六歌仙の一人。桓武天皇の孫。 849(33) 仁明天皇の 蔵人頭 。 850(34) 仁明天皇が崩御、出家。 885(69) 京都市山科区花山の元慶寺で僧正。  すゑの露 もとのしづくや 世の中の おくれ先だつ ためしなるらん  里は荒れて人はふりにし宿なれや 庭もまがきも秋の野らなる  秋山のあらしのこゑをきくときは 木の葉ならねど物ぞかなしき 【キーワードと感想】 蔵人  くろうど。日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割。 【ネットワーク】 桓武 天皇  かんむてんのう 737天平9年 - 806延暦25年4月9日 第50代天皇。平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。 仁明天皇  にんみょうてんのう 810弘仁元年10月25日 - 850嘉祥3年5月6日 第54代天皇。仁明天皇は菊の花を愛した人。そこで 仁明天皇カラーは淡い黄色。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8D%E6%98%AD https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/henjou.html

小野 篁~百人一首でアルケーを知りたい(895)

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▼ わたの原 八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね  11 感想 遣唐使の船の乗り組みメンバーの急な変更が発生。こんなやつと同じ船に乗れないと反発。で、あれやこれやとトラブルになり、嵯峨天皇から少し頭を冷やしたらどうかという含みで 隠岐国に遠流。この歌はその時のもの。 島に着いたら着いたで、 思ひきや鄙のわかれにおとろへて 海人のなはたきいさりせむとは とか、 しかりとて背かれなくに事しあれば まづ嘆かれぬあな憂世の中 などとこぼしている。まっすぐで好感が持てる人物。 ▼ 小野 篁  おの の たかむら /  参議 篁 さんぎたかむら 802(延暦21)年 - 853(仁寿2)年2月3日 51歳。 平安時代初期の公卿、文人。 815(13)  陸奥守になった父親の 岑守 と陸奥国に同行。  弓馬に熱中。 嵯峨天皇 から「漢詩に優れる岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか」と嘆かれる。一念発起して学問。 822(20) 文章生試に合格。 834(32) 遣唐副使。 838(36) 遣唐使でトラブル。隠岐国へ流罪。 840(38) 赦免、帰京。 841(39) 刑部大輔。 845(43) 蔵人頭。 847(45) 参議 。 泣く涙雨と降らなむわたり川 水まさりなばかへりくるがに 花の色は雪にまじりて見えずとも 香をだににほへ人の知るべく 【キーワードと感想】 隠岐国  おきのくに。かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。日本海にある島根県所属の島々。180余りの島々から成り立つ群島型離島。 参議   さんぎ。朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つ。四等官の中の次官(すけ)に相当。 【ネットワーク】 小野 岑守  おの の みねもり 778宝亀9年 - 830天長7年5月14日 平安時代初期の公卿・文人。小野 篁の父親。小野小町の曾祖父。 嵯峨天皇  さがてんのう 786延暦5年10月3日 - 842承和9年8月24日 第52代天皇。 白 居易 / 白楽天 はく きょい 772年2月28日 - 846年9月8日 唐の漢詩人。 平安貴族と同じ仏教信者。 篁が遣唐使になった話を聞き、会うのを楽しみにしていた。 『長恨歌』 漢皇色を重んじて傾国を思ふ 御宇多年求むれども得ず 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikiped

喜撰法師~百人一首でアルケーを知りたい(894)

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▼ 我が庵は みやこの辰巳 しかぞ住む 世を宇治山と 人は言ふなり  8 感想 調べて分かったことがある。辰巳は南東の方向。しかぞ住むは鹿が住んでいるのではなく、穏やかに住んでいるという意味。宇治山は今の名前は喜撰山。そこで一句。わが庵は みやこの卯 しかぞ住む 余を深大寺と どなたも言わず ▼ 喜撰  法師 きせん  ? - ?   平安時代 初期の真言宗の僧・歌人。  宇治山に住んだ僧。   六歌仙 の1人。   木の間より 見ゆるは谷の蛍かも  いさりに海人の 海へ行くかも 【キーワードと感想】 平安時代  日本の歴史の時代区分のひとつ。794延暦13年、桓武天皇が平安京(京都府京都市)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間。 六歌仙  ろっかせん。『古今和歌集』の序文に出ている六人の歌人。僧正遍昭、在原業平、文屋康秀、喜撰法師、小野小町、 大伴黒主 。 【ネットワーク】 大友 黒主 / 大伴 黒主  おおとも の くろぬし ? - ? 平安時代の歌人・官人。六歌仙の一人。 鏡山いざたちよりて見てゆかむ 年へぬる身は老いやしぬると  /  さく花に思ひつくみのあぢきなさ 身にいたつきの入るも知らずて 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E6%92%B0

安倍仲麿~百人一首でアルケーを知りたい(893)

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▼ 天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも  7 感想 19歳で唐に留学して以来、一度も日本に戻れなかった仲麻呂。その経験を思うと、この歌を通して仲麻呂さんの生き方に頭が下がる。 ▼ 阿部 仲麿 / 阿倍 仲麻呂  あべ の なかまろ 百人一首では、 安倍仲麿 。 698(文武天皇2)年 - 770(宝亀元)年1月 72歳。  筑紫大宰帥・ 阿倍比羅夫 の孫。  中務大輔・阿倍船守の長男。 717(19) 遣唐使 に同行して 吉備真備 、 玄昉 らと 唐の長安に留学。  玄宗に仕える。  中国での名前は、朝衡、晁衡。   李白 ・ 王維 ・儲光羲ら詩人と親交。  帰国叶わず。 【キーワードと感想】 遣唐使  けんとうし。日本が唐に派遣した使節。目的は唐の技術・政治制度・文化・仏典等の導入。使節団の人数は250人~500人。官僚・留学生。4隻に分乗。始まりは630年、以降十数回、200年以上続く。907年、唐が滅亡。 【ネットワーク】 阿倍 比羅夫  あべ の ひらふ ? - ? 飛鳥時代の将軍。蝦夷征討・粛慎討伐。663年、白村江の戦いで敗北。664年、筑紫大宰帥。 仲麻呂 は孫。 吉備 真備  きび の まきび 695持統天皇9年 - 775宝亀6年11月3日 奈良時代の公卿・学者。717(22) 遣唐使に同行して唐の長安に留学。留学生活18年間。 仲麻呂、 玄昉 と仲間。 玄昉  げんぼう ? - 746天平18年7月15日 奈良時代の僧。717年、仲麻呂、真備らと遣唐使に同行して長安に留学した学問僧。735年に帰国。 藤原 清河  ふじわら の きよかわ ? - ? 奈良時代の公卿。遣唐大使。 仲麻呂 と共に唐朝に仕える。 春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで  /  あらたまの年の緒長く我が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ 李 白  り はく 701年 - 762年10月22日 唐の詩人。詩仙。『静夜思』 牀前 月光を看る   疑らくは是れ地上の霜かと   頭を挙げて 山月を望み   頭を低れて 故郷を思ふ   王 維  おう い 699年 - 759年 唐の官僚、詩人。 空山 人を見ず 但だ人語の響きを聞く  返景 深林に入り 復た青苔の上を照らす 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org