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山上憶良の沈痾自哀文第六段~アルケーを知りたい(1146)

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▼憶良の沈痾自哀文 (ちんあじあいぶん) 第六段。締めくくりの段。 おもひみるに、 人、賢愚となく、世、古今となく、ことごとくに 嗟嘆す。 歳月競ひ流れて、昼夜も息まず、 <會子曰はく、「往きて反らぬは年なり」といふ。宜尼が臨川の嘆きもこれなり> 老疾相催して、朝夕に侵し動く。 一代の懽楽、いまだ席前にも尽きねば、 <魏文の時賢を惜しむ詩には「いまだ西苑の夜をも尽さねば、にはかに北芒の塵と作る」といふぞ> 千年の愁苦、さらに座後に継ぐ。 <古詩には「人生百に満たず、何ぞ千年の憂へを懐かむ」といふぞ> もしそれ群生品類、みな有尽の身をもちて、ともに無窮の命を求めずといふことなし。 このゆゑに、道人方士の、自ら丹経を負ひ、名山に入りて薬を合するは、性を養ひ神を怡びしめて、長生を求むるぞ。 抱朴子に曰はく、「神農云はく、『百病愈えず、いかにしてか長生すること得む』といふ」と。 帛公また曰はく、「 生は好き物なり、死は悪しき物なり 」といふ。 もし不幸にして長生すること得ずは、なほ生涯病患なき者をもちて、福はひ大きなりとなさむか。 今し吾れ、病に悩まさえ、臥坐すること得ず。 かにかくに、なすところを知ることなし。 福はひなきことの至りて甚だしき、すべて我れに集まる。 「人願へば天従ふ」と。 もし実にあらば、 仰ぎて願はくは、たちまちにこの病を除き、さきはひに平のごとくなること得む 。 鼠をもちて喩へとなす、あに愧ぢずあらめやも。 <すでに上に見ゆ> 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 素性  そせい ? - ? 歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。 今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな   百人一首21 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の沈痾自哀文第五段~アルケーを知りたい(1145)

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▼憶良の沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)第五段。 帛公略説には「伏して思ひ自ら励むに、この長生をもちてす。 生は貪るべし、死は畏るべし 」といふ。 天地の大徳を生といふ。 故に 死にたる人は生ける鼠にだに及かず 。 王侯なりといへども、一日気を絶たば、積める金山のごとくにありとも、誰れか富めりとなさむ。 遊仙窟には「 九泉の下の人は、一銭にだに値せず 」といふ。 孔子曰はく、「これを天に受けて、変易すべからぬものは形なり、これを命に受けて、請益すべからぬものは寿なり」といふ。鬼谷先生の相人書に見ゆ 故に知りぬ、 生の極めて貴く、命の至りて重し といふことを。 言はむと欲へども言窮まる、何をもちてか言はむ。 慮らむと欲へども慮絶ゆ、何によりてか慮らむ。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 壬生 忠見  みぶ の ただみ ? - ? 歌人。父は壬生忠岑。 恋すてふ我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか  百人一首41 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の沈痾自哀文第四段~アルケーを知りたい(1144)

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▼憶良の沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)第四段。   命根すでに尽き、その天年を終ふるすらに、なほ哀しびとなす。 <聖人賢者、一切の含霊、誰かこの道を免れめや> いかにいはむや、生録いまだ半ばにもあらねば、鬼に枉殺せらえ、顔色壮年なるに、病に横困せらゆる者はや。 世に在る大患の、いづれかこれより甚だしからむ。 <志恠記に云はく、「広平の前の大守北海の徐玄方が女、年十八歳にして死ぬ。 その霊、馮馬子に謂ひて『我が生録を案ふるに、寿八十余歳に当る。 今妖鬼に枉殺せらえて、すでに四年を経たり』といふ。 ここに馮馬子に遇ひて、すなはちさらに活くこと得たり」といふはこれなり。 内教には「瞻浮州の人は寿百二十歳なり」といふ。 謹みて案ふるに、この数かならずしもこれに過ぐること得ずといふにはあらず。 故に、寿延経には「比丘あり、名を難逹といふ。 命終らむとする時に臨み、仏に詣でて寿を請ひ、すなはち十八年を延べたり」といふ。 ただ善く為むる者は天地と相畢る。 その寿夭は業報の招くところにして、その修き短きに随ひて半ばとなるぞ。 いまだにこの算にも盈たずして、たちまちに死去す。 故に「 病は口より入る、故に君子はその飲食を節す 」といふ。 これによりて言えば、人の疾病に遭ふは、かならずしも妖鬼にあらず。 それ、医方諸家の広説、飲食禁忌の厚訓、知易行難の鈍情の三つは、目に盈ち耳に満つこと、以来久しきぞ。 抱朴子には「 人はただそのまさに死なむとする日を知らず、故に憂へぬのみ 。 もしまことに羽翮して期を延ぶること得べきを知らば、かならずこれをなさむ」といふ。 ここをもちて観れば、すなはち知りぬ、我が病はけだし飲食の招くところにして、自ら治むること能はぬものかといふことを。> 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 麻呂  ふじわら の まろ 695 - 737 42歳。奈良時代の公卿。藤原不比等の四男。藤原四兄弟の四男。藤原京家の祖。 上には聖主有りて、下には賢臣有り僕のごときは何を為さんや。なお琴酒を事とするのみ 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h

山上憶良の沈痾自哀文第三段~アルケーを知りたい(1143)

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▼憶良の 沈痾自哀文(ちんあじあいぶん) 第三段 。 ▼昔も今も病に対する気持ちは同じ。   吾れ、身はすでに俗を穿ち、心もまた塵に累ふをもちて、禍の伏すところ、祟の隠るるところを知らむと欲ひ、亀卜の門、巫の室、① 往きて問はずといふことなし 。 もしは実にもあれ、もしは妄にもあれ、その教ふるところに随ひて、幣帛を奉り、祈祷らずといふことなし。 ②しかれども いよよ増苦あり、かつて減差なし 。 吾れ聞くに、「③ 前の代に、多く良医あり て、蒼生の病患を救療す。 楡柎、扁鵲、華他、秦の和、緩、葛稚川、陶隠居、張仲景らのごときに至りては、みな世に在りける良医にして、除愈さずといふことなし」と。 <扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。 胸を割き心(心臓)を採り、易へて置き、投(い)るるに神薬をもちてすれば、すなはち寤めて平(つね)のごときぞ。 華他、字は元化、沛国の譙の人なり。 もし病の結積沈重して内にある者あれば、腸を刳りて病を取り、縫復して膏を摩る、四五日にして差ゆ。> ④ 件の医を追ひ望むとも、あへて及ぶところにあらじ 。 ⑤ もし 聖医神薬に逢はば 、仰ぎて願はくは、五蔵を割り刳き、百病を抄り探り、 膏肓の奥処に尋ね達り 、 <肓は鬲なり、心の下を膏となす。これを攻むれども可からず、これに達せども及ばず、薬も至らぬぞ> 二竪の逃れ匿れたるを顕はさむ と欲ふ。 <晋の景公疾めるときに、秦の医緩視て還るは、鬼に殺さゆといふべしといふことをいふぞ。> *ここではだいたい次のような話。 ①病気が良くなりそうなところには全て行ってみた。 ②しかし良くなることはなかった。 ③昔は名医がたくさんいたという。 ④今、そのような名医を望んでも会えるはずもない。 ⑤しかし、もしも名医や良い薬に出会えたならば、膏肓に入った病根を露わにしたい。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 宇合  ふじわら の うまかい 694 - 737 43歳。奈良時代の公卿。藤原不比等の三男。藤原四兄弟の三男。藤原式家の祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-

山上憶良の沈痾自哀文第二段~アルケーを知りたい(1142)

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▼憶良の 沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)第二段。 初め痾(やまひ)に沈みしより已来、年月やくやくに多し。 <十余年を経たることをいふ> 是時年七十有四。 鬢髪斑白にして、筋力尩羸(わうるい)なり。 ただに年老いたるのみにあらず、またこの病を如ふ。 諺に曰はく、「痛き瘡は塩を灌き、短き材は端を截る」といふは、この謂ひなり。 四支動かず、百節みな疾み、身体はなはだ重きこと、鈞石を負へるがごとし。 <二十四銖を一両となし、十六両を一斤となし、三十斤を一鈞となし、四鈞を一石となす。合せて一百二十斤なり。> 布に懸かりて立たむと欲へば、折翼の鳥のごとし、杖に倚りて歩まむとすれば、跛足の驢のごとし。 *初めて病を得て以来、年月がじわじわと重なる (十数年が経過した) 。 今は年齢、74歳。 髪にも髭にも白いものが混じり、筋力もすっかり衰えた。 ただ年老いただけでなく、病気も加わった。 諺で「痛い傷には塩を擦りこみ、短い材は端を切り詰める」というのはこのことだ。 手も足も思うように動かせなくなり、節々はみな痛み、体が重く感じるのは重りを背負っているようだ。 ( 百二十斤は 72kg) 天井から下げた布を掴んで立つとする様子はまるで翼の折れた鳥だ、杖にすがって歩こうとする足を怪我した驢馬のようだ。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 房前  ふじわら の ふささき 681 - 737 56歳。飛鳥時代~奈良時代前期の貴族。藤原不比等の次男。藤原四兄弟の次男。藤原北家の祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の沈痾自哀文第一段~アルケーを知りたい(1141)

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▼今回は憶良の沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)。「沈痾自哀」は憶良が、病に沈んだ自らを哀しむ歌。 ▼全六段あって、今回は第一段、イントロダクションに当たる。 ▼憶良は、幼少の頃から善人でありたいと心がけ、仏法僧と百神(今はゲームのタイトルになっている!)を敬っていた人物であると分かる。  沈痾自哀文 山上憶良作  第一段 ひそかにおもひみるに、朝夕山野に佃食する者すらに、なお災害なくして世を渡ること得、 <常に弓箭を執り六斎を避けず、値へる禽獣の、大きなると小さきと、孕むと孕まぬとを論はず、ことごとに殺し食ふ、これをもちて業とする者をいふぞ> 昼夜河海に釣漁する者すらに、なほ慶福ありて俗を経ることを全くす。 <漁夫・潜女、おのおのも勤むるところあり、男は手に竹竿を把りて、よく波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠を帯びて、潜きて深潭の底に採る者をいふぞ> いはむや、我れ胎生より今日までに、自ら修善の志あり、かつて作悪の心なし。 <諸悪莫作、諸善奉行の教へを聞くことをいふぞ> このゆゑに三宝を礼拝し、日として勤めずといふことなし、 <日毎に誦経し、発露懺悔するぞ> 百神を敬重し、夜として欠くることありといふことなし。 <天地の諸神等を敬拝することをいふぞ> ああ恥しきかも、我れ何の罪を犯せばかこの重き疾に遭へる。 <いまだ、過去に造れる罪か、もしは現前に犯せる過なるかを知らず、罪過を犯すことなくは、何ぞこの病を獲むといふぞ> *山野で獲れる動物の肉、海で獲れる魚介の肉を食べて元気な人びとがいる。 一方、私は善であるよう心がけ、悪を為そうという気持ちは一切なかった。 だから仏法僧を尊重する日々を重ね、天地の諸神を敬拝した。 ところが何ということか、重い病を患うことになった。 これは過去に犯した罪のためか、それとも今何か罪をなしているのだろうか。 何か罪を犯してなければ、どうしてこんな病になってしまったというのか。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 武智麻呂  ふじわら の むちまろ 680 - 737 57歳。飛鳥時代~奈良時代前期の貴族。藤原不比等の長男。藤原四兄弟の兄。藤原南家の開祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B

山上憶良の万葉集894-896番歌~アルケーを知りたい(1140)

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▼憶良が遣唐使の旅の安全を祈って作った「好去好来」の歌。タイトルの 好去好来という語呂が良き。 ▼この作品 で憶良は日本を「 言霊の幸はふ国 」と呼んでいる。 言霊の幸はふ国にいる自分だから、言葉の選び方、使い方では前向き・明るい・和するを心がけねばと思ふ。  好去好来の歌一首 反歌二首 神代より 言ひ伝て来らく  そらみつ  大和の国は 皇神の 厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり   今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり  人さはに 満ちてはあれども  高光る 日の大朝廷 神ながら 愛での盛りに  天の下 奏したまひし 家の子と 選ひたまひて  勅旨(おほみこと) <反(かへ)して「大命」といふ>  戴き持ちて  韓国の 遠き境に 遣はされ 罷りいませ  海原の 辺にも沖にも 神づまり  うしはきいます  もろもろの 大御神たち 船舳に <反して「ふなのへに」といふ>  導きまをし  天地の 大御神たち 大和の 大国御魂  ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔り 見わたしたまひ  事終り 帰らむ日には またさらに  大御神たち 船舳に 御手うち懸けて  黒縄を 延へたるごとく あちかをし  値嘉(ちか)の崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊てに  御船は泊てむ 障みなく 幸くいまして 早帰りませ 万894  反歌 大伴の御津の松原かき掃きて 我れ立ち待たむ早帰りませ  万895 *御津の松原をきれいに掃き清めて、私たちは立って待っております、早くお帰りください。 難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば 紐解き放けて立ち走りせむ  万896 *難波津に船が着いたと聞けば、嬉しくて飛び上がって喜ぶことでしょう。  天平五年の三月の一日に、良が宅にて対面す。  献るは三日なり。 山上憶良 謹上  大唐大使卿 記室 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 舎人親王  とねりしんのう 676 - 735 59歳。天武天皇の皇子。政治家・歌人。 ぬば玉の夜霧ぞ立てる衣手の 高屋の上にたなびくまでに  万1706 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.j

山上憶良の万葉集892-893番歌~アルケーを知りたい(1139)

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▼これも教科書に出てくる超有名な山上憶良の作品、貧窮問答歌。 ▼問答歌なので、憶良は前半で自分を「しかとあるわけではないひげを掻き撫でて、世の中に俺ほどの人物はいないぞと威張って見るけど寒くて仕方ないので麻布団を引き被って、それでもまだ寒いのでありったけの服を着る」といい、自分より 劣悪な環境にいる 人々はどうやって過ごしているのだろうか、と問いかける。 ▼この問いかけに対して貧しい一家の主人が答える、という構成。  貧窮問答の歌一首 幷せて短歌 風交り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 我れをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 ありのことごと 着襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る  天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる  日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ  人皆か 我のみやしかる  わくらばに 人とはあるを 人並みに 我れも作るを  綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け  伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて  父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ  かまどには 火気吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて  飯炊(いひかし)く ことも忘れて  ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて  短き物を 端切ると いへるがごとく  しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ  かくばかり すべなきものか 世の中の道  万892 *雨風や雪の夜。寒いから堅塩をかじり酒粕の湯をすする。くしゃみが出て鼻水も止まらない。あるかないか分からないくらいのあごひげを掻き撫でて、俺をおいて人物はおらぬ、などと強がってみる。でも寒いので布団を引き被り、重ね着する。このような夜、私より貧しい家の父や母は寒かろう。妻や子どもは腹が減ったと泣いているだろう。こんな時はどうやってしのいでいるのだろうか。  お答えしましょう。  天地は広いと世間は言うけれど、私のためには狭くなっております。  日月は明るいと世間は言うけれど、私

山上憶良の万葉集886-891番歌~アルケーを知りたい(1138)

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▼前回の麻田陽春が詠った熊凝の2首に続いて、山上憶良が和した前書きつきの6首。 ▼序と886番の長歌で事情が分かる。そのおかげで志なかばで倒れた 熊凝の心情、申し訳なさ、無念さが伝わってくる。  熊凝のためにその志を述ぶる歌に敬和する六首 幷せて序    筑前国司山上憶良 大伴君熊凝 は、肥後の国益城の郡の人なり。 年十八歳にして、天平三年の六月の十七日をもちて、相撲使某国司官位姓名の従人となり、都に参ゐ向ふ。 天に幸(さき)はひせらえず、路に在りて疾を獲、すなはち安芸の国佐伯の郡高庭の駅家にして身故(みまか)りぬ。 臨終(みまか)る時に、長嘆息して曰はく、「伝え聞くに、『仮合の身は滅びやすく、泡沫の命は駐めかたし』と。このゆゑに、千聖もすでに去り、百賢も留まらず。 いはむや凡愚の微しき者、いかにしてかよく逃れ避(さ)らむ。 ただし、我が老いたる親、ともに庵室に在す。 我を待ちて日を過ぐさば、おのづからに傷心の恨みあらむ、我れを望みて時に違はば、かならず喪明の泣を致さむ。 哀しきかも我が父、痛きかも我が母。 一身の死に向ふ途は患へず、ただ二親の生に在す苦しびを悲しぶるのみ。 今日長(とこしへ)に別れなば、いづれの世にか覲(まみ)ゆること得む」といふ。 すなはち歌六首を作りて死ぬ。 その歌に曰はく、 うちひさす 宮へ上ると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処を 百重山 越えて過ぎ行き いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひ居れど おのが身し 労はしければ 玉桙の 道の隈みに 草手折り 柴取り敷きて 床じもの うち臥い伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父取り見まし 家にあらば 母取り見まし 世の中は かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ  <一には「我が世過ぎなむ」といふ>  万886 *輝かしい都に上れるのだと母の元を離れ、見たことのないたくさんの国や山を通り過ぎながらいつごろ都を見られるのだろうと仲間と語りあっていたのだが、体の具合が悪くなり道中で伏してしまった。国にいれば父が心配してくれるだろう、家にいれば母が介抱してくれるだろうけれども、世の中はうまくいかないものだ。犬のように道に倒れて一生を終えるとは。 たらちしの母が目見ずておほほしく いづち向きてか我が別るらむ  万887 *母の顔も見られず心晴れないまま、いったいどちらの

山上憶良の万葉集884-885番歌~アルケーを知りたい(1137)

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▼今回は、 麻田陽春 という人物が 熊凝(くまごり)という人物の身になって詠んだ歌2首。 ▼この2首に続き、山上憶良が詳しい説明の前書きをつけた長短合わせて6首の歌を詠んでいる。  大伴君熊凝が歌二首 大典麻田陽春作 国遠き道の長手をおほほしく 今日や過ぎなむ言とひもなく  万884 *故郷を遠く離れた長い旅の道中で行き倒れてしまった、誰からも言葉をかけてもらうこともなく今日死んでしまうかもしれない。 朝露の消やすき我が身他国(ひとくに)に 過ぎかてぬかも親の目を欲り  万885 *朝露のように消えてしまいそうな我が身だ。異国の地で死んでしまう前にひと目親に会いたい。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 麻田 陽春  あさだ の ようしゅん 689 - 745 56歳。奈良時代の官人・文人。万884-885の大伴君熊凝が歌二首の作者。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の万葉集868-870番歌~アルケーを知りたい(1136)

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▼旅人の松浦ツアーに憶良は仕事と重なって参加できなかった。そこで後から作って 旅人に 贈った歌3首。 ▼仕事先での見聞がよほど重くのしかかったのか「五蔵の鬱結 」と表現している。3首の歌を詠んでその複雑な思いを取り除こうとした。  憶良 誠惶頓首 謹みて啓す。 憶良、聞くに、「方岳諸侯・都督刺史、ともに典法によりて部下を巡行し、その風俗を察る」と。 意内多端にして、口外に出だすこと難し。 謹みて三首の鄙歌をもちて、五蔵の鬱結を写かむと欲ふ。 その歌に曰はく、 松浦県作用姫の子が領巾振りし 山の名のみや聞きつつ居らむ  万868 *松浦県の作用姫が領巾を振ったという伝説の山。その山の名前だけをここで聞いております。 足姫神の命の魚釣らすと み立たしせりし石を誰れ見き  万869 *足姫神の命が魚を釣ろうとお立ちになった石、この石は誰がご覧になったのでしょう。 百日しも行かぬ松浦道今日行きて 明日は来なむを何か障れる  万870 *往復に百日もかからない松浦道を今日出発して明日は帰るのに何の支障がありましょうか。  天平二年七月十一日 筑前国司山上憶良 謹上 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 猿丸 大夫  さるまるの たいふ ? - ? 歌人。『古今和歌集』の時代の人。 奧山のもみぢ踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋はかなしき  百人一首5 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の万葉集813-814番歌~アルケーを知りたい(1135)

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▼筑前の国、怡土 郡 (いとぐん) 深江にある石の伝説を憶良が歌にした作品。怡土は、福岡県にあった郡。現在は糸島郡二丈町深江。 鎮懐石八幡宮 。  筑前の国怡土の郡深江の村子負の原に、海に臨める丘の上に二つの石あり。 大きなるは、長一尺二寸六分、囲み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは、長さ一寸一尺、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。 ともに楕円く、状鶏子のごとし。 その美好しきこと、勝げて論ふべからず。 いはゆる径尺の壁これなり。< 或いは「この二つの石は肥前の国彼杵の郡平敷の石なり、占に当りて取る」といふ > 深江の駅家を去ること二十里ばかり、路の頭に近く在り。 公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。 古老相伝へて「往昔、息長足日女命、新羅の国を征討したまふ時に、この両つの石をもちて、御袖の中に挿著みて鎮懐と為したまふ。< 実には御裳の中なり > このゆゑに行く人この石を敬拝す」といふ。  すなはち歌を作りて曰はく、 かけまくは あやに畏し 足日女 神の命  韓国を 向け平らげて  御心を 鎮めたまふと い取らして 斎ひたまひし 真玉なす  二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと  海の底 沖つ深江の うなかみの 子負の原に  御手づから 置かしたまひて  神ながら 神さびいます 奇(く)し御魂(みたま)  今のをつつに 貴きろかむ  万813 *言葉に出すのも畏れ多い足日女(神功皇后)が韓国を平定した後、御心を鎮めるために手に取った二つの石を世の人に示して後の世に語り継がせるため、深江の子負の原に御手づからお置きになりました。その石は神々しく今でも貴いものです。 天地のともに久しく言ひ継げと この奇し御魂敷 (し) かしけらしも  万814 *天地と共に永らく語り継ぐようにとこの不思議な石を置かれたらしい。  右の事、伝へ言ふは、那珂の郡伊知の郷簑島の人、建部牛麻呂なり。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 元真  ふじわら の もとざね ? - ? 貴族・歌人。おなじくは我が身も露と消えななむ消えなばつらき言の葉も見じ 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF

山上憶良の万葉集804-805番歌~アルケーを知りたい(1134)

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▼憶良流、齢を取るのは嫌だね節。嘆きの中におかしみの味あり。悲しうて、すこし可笑しくて、やがてまた悲しくての繰り返し。  世間の住みかたきことを哀しぶる歌一首 幷せて序 集まりやすく排ひかたきものは八大の辛苦なり、遂げかたく尽しやすきものは百年の賞楽なり。 古人の嘆くところ、今にも及ぶ。 このゆゑに、一章の歌を作り、もちて二毛の嘆を撥ふ。 その歌に曰はく、 世の中の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来る  娘子らが 娘子さびすと 韓玉を 手本に巻かし  <或いはこの句有り、曰はく「白栲(しろたへ)の 袖振り交し 紅の 赤裳裾引き」といふ>  よち子らと 手たづさはりて 遊びけむ  時の盛りを 留みかね 過しやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の  <一には「丹のほなす」といふ>  面の上に いづくゆか 皺が来りし  <一には「常なりし 笑まひ目引き 咲く花の うつろひにけり 世間は かくのみならし」といふ>  ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし 世の中や 常にありける 娘子らが さ寝す板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば   手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ   老よし男は かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為むすべもなし  万804 *杖をついてこちらに行けば人に嫌がられ、あちらに行けば人に嫌われる。年老いた男というものは、こんなものであるらしい。命は惜しいけれども寄る年波に為すすべもない。  反歌 常盤なすかくしもがもと思へども 世の事理なれば留みかねつも  万805 *岩のようにいつまでも変わらずにいたいと思うけれども、世の理なので、同じ年齢のままに留まっておくこともできない。  神亀五年七月二十一日 嘉摩の郡にして撰定す。  筑前国守山上憶良 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 興風  ふじわら の おきかぜ ? - ? 平安時代前期 歌人・官人。 誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに  百人一首34 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wiki

山上憶良の万葉集802-803番歌~アルケーを知りたい(1133)

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▼今回は教科書で紹介される山上憶良の代表的な和歌。「 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 」「 銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも 」 ▼親にこれほど思ってもらえる子どもは幸いなり。学校の先生が尊敬されるのは家の宝を育てているからなり。  子等を思ふ歌一首 幷せて序 釈迦如来、金口(こんく)に正に説きまたはく、「等しく衆生を思ふこと羅睺羅(らごら)のごとし」と。 また、説きたまはく、「愛は子に過ぎたることなし」と。 至極の大聖すらに、なほ子を愛したまふ心あり。 いはむや、世間の蒼生、誰か子を愛せずあらめや。 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかにひ もとなかかりて 安眠し寝さぬ  万802 *瓜を食べると子どものことを思う。栗を食べるともっと子どものことを思う。この子らは、どこからどういう因縁で来たのだろう。目の前をちらちら動いておちおち眠れないのだが。  反歌 銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも  万803 *銀も金も玉も何だというのか。子どもに勝る宝などないよ。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人(?)。 菩提 達磨  ぼだい だるま ? - ? インド人仏教僧。禅宗の開祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の万葉集800-801番歌~アルケーを知りたい(1132)

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▼山上憶良が家族を放り出そうとする身勝手な者を説諭する歌。 ▼「あなたのやっていることは、いかがなものでしょう。筋が違うのではないか」と 長歌で 説得し、 短歌で 「 家に帰りて業を為まさに 」とその人が何をするべきかを示している。 ▼憶良の丁寧な仕事ぶりが伝わってくる。 ▼この姿勢、見習うべし、とぞ思ふ。道に迷った人を正すには長歌で説き短歌で命ずるのがよろしきかも  惑情を反さしむる歌一首 幷せて序 或人、父母を敬うことを知りて侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱屣(だつし)よりも軽みす。 自ら倍俗先生と称(なの)る。 意気は青雲の上に揚るといへども、身体はなほ塵俗の中に在り。 いまだ修行得道の聖に験あらず。 けだしこれ山沢に亡命する民ならむか。 *(大意)ある人が自分を倍俗先生(脱俗を気取る人)と名乗って、家族を顧みず大言壮語ばかりしている。これは戸籍を抜けようとする輩である。 このゆゑに、三綱を指し示し、五経を更(あらた)め開(と)き、遣るに歌をもちてし、その惑ひを反さしむ。 *だから、この者に、君臣・父子・夫婦の道(三綱)を示し、父に義・母に慈・兄に友・弟に恭・子に孝(五経)をあらためて説く。これを歌をもって行い、この者の迷いを直す。 歌に曰はく、 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくそことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(うけぐつ)を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がままに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか  万800 *万800の説得の仕方を順に見て行く。 ①世の中とはこういうものではないか、と憶良が考える標準(ことわり)を示す。 ② 憶良から 相手の行動がどのように見えているかを説明。 ③標準に対する相手の行動の問題を示し、お前はいったい何者か?と問いかける。 ④天にいるのであれば好きにやるが良い、しかしここは大君が隅々まで治める国である。 ⑤思いのままにやるのは良いが、道理は私の言うとおりではないか、と投げかける。  反歌 ひさかたの天道は遠しなほなほに 家に帰りて業を為まさに  万801 *天への道は遠いのだから、家に帰っ

山上憶良の万葉集794-799番歌~アルケーを知りたい(1131)

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▼今回の歌は、大伴 旅人が 大宰帥の時、妹の夫が死去し、続いて妻を亡くしたときの心情を 山上憶良が 歌ったもの。最後の憶良の署名がなければ、旅人の歌と見まがう。 ▼時期は神亀五年=728年とあるから、660年生まれの 憶良は 68歳。旅人は665年生まれだから63歳。  大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首 世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり 万793  日本挽歌一首 大君の 遠の朝廷と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕い来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うち靡き 臥やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに 石木をも 問ひ放け知らず 家ならば かたちはあらむを 恨めしき 妹の命の 我れをばも いかにせよとか にほ鳥の ふたり並び居 語らひし 心背きて 家離りいます 万794  反歌 家に行きていかにか我がせむ枕付く 妻屋寂しく思ほゆべしも  万795 *奈良の自宅に帰って妻と二人で過ごした部屋を見れば寂しさがこみ上げることだろう。 はしきよしかくのみからに慕ひ来し 妹が心のすべもすべなき  万796 *筑紫に転勤になる私を慕って付いてきてくれた妻の気持ちを思うとやりきれない。 悔しかもかく知らませばあをによし 国内ことごと見せましものを  万797 *こうなることが分かっていたら、奈良の都のあちらこちらをもっともっと見せてやれば良かった・・・悔いが残る。 妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし 我が泣く涙いまだ干なくに  万798 *妻が奈良で見ていた楝の花は散ってしまったに違いない。私が泣く涙はいまだ止まらない。 大野山霧立ちわたる我が嘆く おきその風に霧立ちわたる  万799 *大野山には霧が立ち込めている。私の嘆きが風に乗って霧が立ちこめている。  神亀五年七月二十一日 筑前国守山上憶良 上 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 陳 子昂  ちん すごう 661 - 702 唐の詩人。 前不見古人 後不見来者 念天地之悠悠 独愴然而涕下 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg

山上憶良の万葉集337番歌~アルケーを知りたい(1130)

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▼大伴旅人が官人・小野老の昇進を祝う宴を開いた。5名が参加し、順番に歌を披露。憶良が最後に締めとなる歌を詠んだ。それが「 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ 」で有名な337番。 ▼ 宴の 流れはこうだ。小野老と大伴四綱が奈良の話ばかりする、大人たる旅人は二人の奈良の話を受けて4つの歌を詠む、5つめで大宰府に触れる。 ▼続いて沙弥満誓が筑紫の話に転換し奈良話を終わらせる、そして最後に憶良が良い感じで閉会に導く。 旅人・満誓・憶良ら筑紫歌壇の連係プレイがヨシ。 ▼小野老の328番歌から順に見て行こう。  小野老朝臣 あおによし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり  万328 *奈良の都は、いま桜が匂うがごとく満開であります。  大伴四綱 やすみしし我が大君の敷きませる 国の中には都し思ほゆ  万329 *我らが大君があまねく治めておられる国の中では都が一番懐かしく思います。 藤波の花は盛りになりにけり 奈良の都を思ほすや君  万330 *大宰府の藤の花が盛りです。貴方様も奈良の都を思っていらっしゃるのではありませんか。  大伴旅人 我が盛りまたをちめやもほとほとに 奈良の都を見ずかなりなむ  万331 我が命も常にあらぬか昔見し 象の小川を行きて見むため  万332 浅茅原つばらつばらにもの思へば 古りにし里し思ほゆるかも  万333 忘れ草我が紐に付く香具山の 古りにし里を忘れむがため  万334 我が行きは久にはあらじ夢のわだ 瀬にはならずて淵にしありこそ  万335  沙弥満誓 しらぬひ筑紫の綿は身に付けて いまだは着ねど暖けく見ゆ 万336 *ここ筑紫産の真綿はまだ身に付けておりませんけど、きっと暖かいものでしょうね。  山上憶良臣、宴を罷る歌一首 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむぞ  万337 *さてさて憶良らはこれで退出することにいたします。家では子供が寂しがって泣いているでしょう、その母親も私めを待っているでしょうから。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 元明天皇  げんめいてんのう 661 - 721 60歳。第43代天皇。文武天皇の母親。藤原不比等を重用。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8

山上憶良の万葉集143-145番歌~アルケーを知りたい(1129)

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▼いにしへの人びとは、再会の願いを込めて松の枝を結んでいた。それを見た人が歌を詠んでいた。  長忌寸意吉麻呂、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首 岩代の崖の松が枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも  万143 *岩代の崖に生えている松の枝を結んだ人は、再び帰って見ることができたのでしょうか。 岩代の野中に立てる結び松 心も解けずいにしへ思ほゆ  万144 *岩代の野の中に生えている松の結びよ。私の心も解けないまま昔に思いをはせるのです。  山上臣憶良が追和の歌一首 天翔りあり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るらむ  万145 *松の枝を結んだ方の霊は天を駆け巡って見ておられることでしょう。人には分からないけれども、松は知っているのでしょう。  右の件の歌どもは、柩を挽く時に作るところにあらずといへども歌の意を准擬(なずら)ふ。 この故に挽歌の類に載す。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 道慈  どうじ ? - 744 奈良時代の僧。粟田真人の遣唐使に憶良らと共に加わる。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の万葉集63番歌~アルケーを知りたい(1128)

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▼遣唐使のメンバーとして唐に渡っていた憶良がいよいよ日本に帰るときの歌。 ▼日本の 難波津の浜 の「松」が「待ち」焦がれているとシャレを言ってる。  山上臣憶良、大唐に在る時に、本郷を憶ひて作る歌 いざ子ども早く日本へ大伴の 御津の浜松待ち恋ひぬらむ  万63 *さあ皆さん、早く日本へ帰ろうではありませんか。難波津の浜の松も我々を待ち焦がれていることでしょう。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 不比等  ふじわら の ふひと 659 - 720 61歳。飛鳥時代~奈良時代初期の公卿・政治家。中臣鎌足の子。子:武智麻呂、房前、宇合、麻呂 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html

山上憶良の万葉集34番歌~アルケーを知りたい(1127)

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▼今回から万葉集に載っている 山上憶良 の歌を見て行く。最初が「川島皇子が作った歌、あるいは憶良が作るという前書がついた 34番 。 ▼川島皇子は天智天皇の 第二皇子。 川島皇子が34歳で逝去した後、柿本人麻呂が挽歌を詠んでいる。   紀伊の国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或いは「山上憶良作る」といふ 白松の浜松が枝の手向けくさ 幾代までにか年の経ぬらむ   一には「年は経にけむ」といふ  万34 *白浜の浜松の枝の手向けは、結ばれてからどれくらいの年が経つのでしょうか。  日本紀には「(690年)朱鳥の四年庚寅の秋の九月に、天皇紀伊の国に幸す」といふ。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 粟田 真人  あわた の まひと ? - 719 飛鳥時代後期~奈良時代の公卿。702年、遣唐使の総責任者。憶良が同道。708年、大宰帥。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html  

大伴旅人の万葉集1639-1640番歌~アルケーを知りたい(1126)

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▼今回で旅人の歌はおしまい。といっても、次回からの山上憶良の歌にも旅人の歌が出てくる。和歌でのコミュニケーションが楽しみだ。  大宰帥大伴卿、冬の日に雪を見て、京を憶ふ歌一首 沫雪のほどろほどろに降りしけば 奈良の都し思ほゆるかも  万1639 *沫雪が薄く降り積もっているのを見ると、奈良の都を思い出してしまいます。  大宰帥大伴卿が梅の歌一首 我が岡に盛りに咲ける梅の花 残れる雪をまがへつるかも  万1640 *私の庭の梅の花が盛りを迎えています。まだ雪が残っているので花と雪を見間違えそうです。 【似顔絵サロン】旅人(665-731)の同時代人。 阿倍 比羅夫  あべ の ひらふ ? - ? 飛鳥時代の将軍。蝦夷征討・粛慎討伐。663年、白村江の戦いで敗北。664年、筑紫大宰帥。仲麻呂は孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集1541-1542番歌~アルケーを知りたい(1125)

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▼今回の歌で、旅人の自宅の庭には鹿が来るんだ、と驚いた。 ▼旅人は萩の花が好きらしい。萩の花言葉は内気。鹿と萩、よき組合せ。  大宰帥大伴卿が歌二首 我が岡にさを鹿来鳴く初萩の 花妻どひに来鳴くさを鹿  万1541 *私の庭に雄鹿が来て鳴いている。初めて萩の花が咲いたので雌鹿を求めて雄鹿が鳴いている。 我が岡の秋萩の花風をいたみ 散るべくなり見む人もがも  万1542 *私の庭の秋萩に咲く花が吹き抜ける風で散りそうです。一緒に見てくれる人がいれば良いのに。 【似顔絵サロン】旅人(665-731)の同時代人。 持統天皇  じとうてんのう 645 - 703 58歳。第41代天皇。中大兄皇子の娘。天武天皇の皇后。 春過ぎて夏来るらし白妙の 衣干したり天の香具山  万28 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA