山上憶良の沈痾自哀文第六段~アルケーを知りたい(1146)
▼憶良の沈痾自哀文 (ちんあじあいぶん) 第六段。締めくくりの段。 おもひみるに、 人、賢愚となく、世、古今となく、ことごとくに 嗟嘆す。 歳月競ひ流れて、昼夜も息まず、 <會子曰はく、「往きて反らぬは年なり」といふ。宜尼が臨川の嘆きもこれなり> 老疾相催して、朝夕に侵し動く。 一代の懽楽、いまだ席前にも尽きねば、 <魏文の時賢を惜しむ詩には「いまだ西苑の夜をも尽さねば、にはかに北芒の塵と作る」といふぞ> 千年の愁苦、さらに座後に継ぐ。 <古詩には「人生百に満たず、何ぞ千年の憂へを懐かむ」といふぞ> もしそれ群生品類、みな有尽の身をもちて、ともに無窮の命を求めずといふことなし。 このゆゑに、道人方士の、自ら丹経を負ひ、名山に入りて薬を合するは、性を養ひ神を怡びしめて、長生を求むるぞ。 抱朴子に曰はく、「神農云はく、『百病愈えず、いかにしてか長生すること得む』といふ」と。 帛公また曰はく、「 生は好き物なり、死は悪しき物なり 」といふ。 もし不幸にして長生すること得ずは、なほ生涯病患なき者をもちて、福はひ大きなりとなさむか。 今し吾れ、病に悩まさえ、臥坐すること得ず。 かにかくに、なすところを知ることなし。 福はひなきことの至りて甚だしき、すべて我れに集まる。 「人願へば天従ふ」と。 もし実にあらば、 仰ぎて願はくは、たちまちにこの病を除き、さきはひに平のごとくなること得む 。 鼠をもちて喩へとなす、あに愧ぢずあらめやも。 <すでに上に見ゆ> 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 素性 そせい ? - ? 歌人・僧侶。桓武天皇の曾孫。 今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな 百人一首21 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/okura2.html