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大伴旅人の万葉集872-875番歌~アルケーを知りたい(1116)

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▼松浦佐用姫が山に登り船旅で海を行く夫に別れを惜しむ場面の歌の追和。 ▼海旅に出ると無事に帰れるかどうか分からない時代だった。  後人の追和 山の名を言ひ継げとかも佐用姫が この山の上に領巾を振りけむ  万872 *山の名前を語り継ぎなさいとばかりに作用姫がこの山の上で頭巾を降ったのです。  最後人の追和 万代に語り継げとしこの岳に 領巾振りけらし松浦佐用姫  万873 *これから万代にわたって語り継げとばかりに、この山で頭巾を振った松浦の作用姫です。  最最後人の追和二首 海原の沖行く船を帰れとか 領巾振らしけむ松浦佐用姫  万874 *海の沖を行く船に無事のお帰りを祈って頭巾を振った松浦の作用姫。 行く船を振り留みかねいかばかり 恋しくありけむ松浦佐用姫  万875 *行く船をここで止めたいと願うくらいに船中の夫を恋しく思った松浦作用姫。 【似顔絵サロン】 旅人(665-731)の同時代人。 吉備 真備  695 - 775 80歳。22歳のとき阿倍仲麻呂、玄昉らと共に長安に留学。留学生活18年間。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集871番歌~アルケーを知りたい(1115)

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▼山上憶良の868から870までの歌への旅人の返し。 憶良の 868番に松浦の佐用姫の話が出てきた。 ▼そこで、旅人が作用姫エピソードと871番を添えて 憶良に返信したのが今回の歌。  大伴佐堤比古郎子、ひとり朝命を被り、使ひを蕃国に奉はる。 艤棹してここに帰き、やくやくに蒼波に赴く。 妾松浦、この別れの易きことを嗟き、その会ひの難きことを嘆く。 すなはち高き山の嶺に登り、離り去く船を遥望し、悵然肝を断ち、黯然魂を銷(け)つ。 つひに領巾を脱きて麾る。 傍の者涕を流さずといふことなし。 よりて、この山を号けて、領巾麾の嶺といふ。 すなはち歌を作りて曰はく、 遠つ人松浦佐用姫夫恋に 領巾振りしより負へる山の名  万871 *遠くにいる人を待つという松浦の佐用姫が夫に向かって領巾を振ったことから名づけられた山の名です。 【似顔絵サロン】旅人の同時代人。 玄昉  ? - 746 奈良時代の学問僧。717年、阿倍仲麻呂、吉備真備らと長安に留学。735年に帰国。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集868-870番歌~アルケーを知りたい(1114)

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▼旅人は松浦ツアーに参加できなかった山上憶良に853から863の歌を贈った。以下の868から870までの歌は憶良から旅人に宛てた返答の歌3首。  憶良 誠惶頓首 謹みて啓す。 憶良、聞くに、「方岳諸侯・都督刺史、ともに典法によりて部下を巡行し、その風俗を察る」と。 意内多端にして、口外に出だすこと難し。 謹みて三首の鄙歌をもちて、五臓の鬱結を写かむと欲ふ。 その歌に曰はく、 松浦県佐用姫の子が領巾振りし 山の名のみや聞きつつ居らむ  万868 *松浦で作用姫が頭巾を降ったというエピソードがある山の名前だけを聞き伺っております(聞くだけで私がこの目で見ていないのが口惜しい)。 足姫神の命の魚釣らすと み立たしせりし石を誰れ見き <一には「鮎釣る」といふ> 万869 *足姫命が魚(鮎)を釣るときにお立ちになったという石。この石を誰が見たのでしょう(私が見ていないのが口惜しい)。 百日しも行かぬ松浦道今日行きて 明日は来なむを何か障れる *道中に百日もかからない松浦道。今日行って明日帰るのに何の差し障りがあるでしょう(行かない自分が歯がゆい)。  天平二年七月十一日 筑前国司山上憶良 謹上 【似顔絵サロン】 孟 浩然  689 - 740 51歳。詩人。春眠不覺曉 處處聞啼鳥 夜來風雨聲 花落知多少 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集864-867番歌~アルケーを知りたい(1113)

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▼旅人は都にいる医師の吉田連の宣(よろし)に、前出の815から863の歌を贈った。 ▼その返答として宣は大宰府にいる旅人に返書と一緒に以下の864から867までの歌を贈った。 ▼宜は 孝昭天皇 の後裔。医術に優れた元、僧。  諸人の梅花の歌に和へ奉る一首 後れ居て長恋せずは御園生(みそのふ)の 梅の花にもならましものを  万864 *そちらでお仲間に入ることもなくこちらで長々と思いめぐらしてばかりするよりも、貴方様の庭の梅の花になるほうがマシですよね。  松浦の仙媛の歌に和ふる一首 君を待つ松浦の浦の娘子らは 常世の国の海人娘子かも  万865 *貴方様をお待ちしている松浦の浦の娘さんたちは、常世の国の漁師の娘たちかも知れません。  君を思ふこと尽きずして、重ねて題す二首 はろはろに思ほゆるかも白雲の 千重に隔てる筑紫の国は  万866 *はるか遠くに思えるのです。千も重なる白雲が隔てる筑紫の国は。 君が行き日長くなりぬ奈良道なる 山斎の木立も神さびにけり  万867 *貴方様が着任してからの日数も重なりました。奈良道にあるお宅の庭の木々は神さびております。  751天平2年七月十日 【似顔絵サロン】 孝昭天皇  こうしょうてんのう 第5代天皇。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集861-863番歌~アルケーを知りたい(1112)

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▼今回も 「松浦川に遊ぶ」物語の歌の続き。旅人と憶良の共作。863番は、もろに旅人を羨ましがっている 憶良であることよ、とまる分かり。  後人の追和する歌三首 帥老 松浦川川の瀬早み紅の裳の 裾濡れて鮎か釣るらむ  万861 *松浦川の川の瀬の流れが早いので、紅の裳の裾を濡らしながら鮎を釣っていることでしょう。 人皆の見らむ松浦の玉島を 見ずてや我れは恋ひつつ居らむ  万862 *人は誰でも見る松浦の玉島を私は見ずに恋心ばかり抱いております。 松浦川玉島の浦に若鮎釣る 妹らを見らむ人の羨しさ  万863 *松浦川の玉島の浦で若鮎を釣る娘さんらを見ている人が羨ましいです。 【似顔絵サロン】 鑑真  がんじん 688 - 763 75歳。奈良時代の僧人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集855-860番歌~アルケーを知りたい(1111)

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▼「 松浦川に遊ぶ 」物語の歌の続き。 ▼物語の世界での歌のやりとり。男性の歌が3首、女性の歌が3首。  蓬客のさらに贈る歌三首 松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる 妹が裳の裾濡れぬ  万855 *松浦川の瀬が光り鮎を釣って立っておられる貴方様の裳の裾が濡れています。 松浦なる玉島川に鮎釣ると 立たせる子らが家道知らずも  万856 *松浦にある玉島川で鮎釣りをして立っている貴方様は家に行く道を教えてくれません。 遠つ人松浦の川に若鮎釣る 妹が手本を我こそまかめ  万857 *松浦川で若鮎を釣る貴方様の手を私の枕にしたい。  娘子らがさらに報ふる歌三首 若鮎釣る松浦の川なみの 並にし思はば我れ恋ひめやも  万858 *若鮎を釣る松浦の川なみ、貴方様はなみのお方ではないので私は恋しています。 春されば我家の里の川門には 鮎子さ走る君待ちがてに  万859 *春が去れば我が家がある里の川門には、鮎の子が貴方を待って水中を走っているでしょう。 松浦川七瀬の淀は淀むとも 我れは淀まず君をし待たむ  万860 *松浦川の七瀬の淀は淀んでも、私は淀むことなく貴方様をお待ちします。 【似顔絵サロン】 レオン3世   Leōn III ho Isauros  685 - 741 56歳。東ローマ帝国の初代皇帝。聖像禁止令を発出。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集853-854番歌~アルケーを知りたい(1110)

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▼物語になっている序と和歌2首。 ▼ 万葉集初心者の私にはどう捉えてよいか分からない作品なので、 旅人はこういう作品も作っていたんだ、と思いながら味わいます。  松浦川に遊ぶ 序 余、たまさかに松浦の県に往きて逍遥し、いささかに玉島の潭に臨みて遊覧するに、たちまちに魚を釣る娘子らに値ひぬ。 花容双びなく、光儀匹ひなし。 柳葉を眉の中に開き、桃花を頬の上に発く。 意気は雲を凌ぎ、風流は世に絶れたり。 僕、問ひて「誰が郷誰が家の子らぞ、けだし神仙にあらむか」といふ。 娘子ら、みな咲み答へて「児等は漁夫の舎の児、草庵の微しき者なり。 郷もなく家もなし。 何ぞ称り云ふに足らむ。 ただ性水に便ひ、また心山を楽しぶ。 あるいは洛浦に臨みて、いたづらに玉魚を羨しぶ、あるいは巫峡に臥して、空しく煙霞を望む。 今たまさかに貴客に相遭ひ、感応に勝へず、すなはち款曲を陳ぶ。 今より後に、あに偕老にあらざるべけむ」といふ。 下官、対へて「唯々、敬みて芳命を奉はらむ」といふ。 時に、日は山の西に落ち、驪馬去なむとす。 つひに懐抱を申べ、よりて詠歌を贈りて曰はく、 あさりする海人の子どもと人は言へど 見るに知らえぬ貴人の子と  万853 *漁をする海人の子だと人は言うのだけれど、身分を隠した貴人のお子とお見受けしました。  答ふる詩に曰はく、 玉島のこの川上に家はあれど 君を恥しみあらはさずありき  万854 *家は玉島のこの川上にございますけれど、貴方様を見て恥ずかしいので黙っておりました。 【似顔絵サロン】 旅人の 43歳年下のドイツの 人。 カール・マルテル  Karl Martell 688 - 741 53歳 フランク王国の宮宰。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集849-852番歌~アルケーを知りたい(1109)

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▼梅花の宴の歌の数々と員外の2首に続いて旅人が追和した4首。 ▼4首の中の2首の下の句に「 見む人もがも 」という言葉が入っている。亡くした妻と一緒に見られたら良かったのに、という思いが伝わる。 ▼最後の1首は酒が出てくるので旅人っぽくて嬉しい。  後に梅の歌に追和する四首 残りたる雪に交れる梅の花 早くな散りそ雪は消すとも  万849 *溶けずに残った雪と梅の花よ、すぐに散らないでね、雪は消えても。 雪の色を奪ひて咲ける梅の花 今盛りなり見む人もがも  万850 *雪の色を奪い取ったように咲いている梅の花は今が盛り。一緒に見てくれる人がいれば良いのに。 我がやどに盛りに咲ける梅の花 散るべくなりぬ見む人もがも  万851 *我が家に咲き誇る梅の花が散る時がきました。一緒に見てくれる人がいれば良いのに。 梅の花夢に語らくみやびたる 花と我れ思ふ酒に浮かべこそ  一には「 いたづらに我れを散らすな酒に浮かべこそ 」といふ 万852 *夢で梅の花が語るには「雅な花と思いますので、酒に浮かべてください」。別バージョンとして「いたづらに私を散らさないでください、酒に浮かべてください」がある。 【似顔絵サロン】旅人のほぼ同時代人(30歳年上)でドイツの人。 ピピン2世  Pippin der Mittlere 635 - 714 79歳 フランク王国の宮宰。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集847-848番歌~アルケーを知りたい(1108)

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▼梅花の歌三十二首の後に続く旅人の歌二首。 ▼初めが元気が出ないと嘆く歌、後が都に戻れば元気になるという望郷の歌。  員外、故郷を思ふ歌両首 我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ 薬食むともまたをちめやも  万847 *私の盛んだった時期は過ぎてしまった。飲めば雲にまで飛べるという薬を飲んでも無駄のようだ。 雲に飛ぶ薬食むよは都見ば いやしき我が身またをちぬべし  万848 *雲にまで飛べる薬を飲むより、都を見るほうが、卑しいわが身も元気になる。 【似顔絵サロン】 天武天皇  622 - 686 64歳。中大兄皇子の弟。持統天皇の夫。「日本」を国号とした天皇。「政の要は軍事である」と語った天皇。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集838-846番歌~アルケーを知りたい(1107)

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▼梅花の歌三十二首その4 ▼梅の花、柳、かんざし、うぐいす、雪、酒。これらの言葉が梅花の宴のキーワードやなと思ふ(思わんでもキーワードやがな)。 梅の花散り乱ひたる岡びには うごひす鳴くも春かたまけて  大隅目榎氏鉢麻呂 万838 *梅の花が咲き乱れているこの岡では、鶯も鳴いています。まさに春たけなわです。 春の野に霧立ちわたり降る雪と 人の見るまで梅の花散る  筑前目田氏氏真上 万839 *春の野に霧が立ち雪が降っているのかと見まがうほどに梅の花が散っています。 春柳かづらに折りし梅の花 誰か浮かべし酒坏の上に  壱岐目村氏彼方 万840 *春の柳を折り取ってかづらにし、梅の花を酒の上に浮かべていらっしゃる人びと。 うぐひすの音聞くなへに梅の花 我家の園に咲きて散る見ゆ  対馬目高氏老 万841 *鶯の鳴き声を聞くたびにこの庭の梅の花が咲いては散るのが見えます。 我がやどの梅の下枝に遊びつつ うぐひす鳴くも散らまく惜しみ  薩摩目高氏海人 万842 *この庭園の梅の枝を飛び移りながら鶯が花が散るのを惜しんで鳴いています。 梅の花折りかざしつつ諸人の 遊ぶを見れば都しぞ思ふ  土師氏御道 万843 *梅の花を折ってかざしにして遊ぶ皆さまを見ていると都を思い出します。 妹が家に雪かも降ると見るまでに ここだもまがふ梅の花かも  小野氏国堅 万844 *妻の家に雪が降ったのかと思うほどにここでは梅の花が咲き乱れています。 うぐひすの待ちかてにせし梅が花 散らずありこそ思ふ子がため  筑前掾門氏石足 万845 *鶯ちゃんが待ちかねていた梅の花よ、散らずにいてね、梅の花を思い慕う子のために。 霞立つ長き春日をかざせれど いやなつかしき梅の花かも  小野氏淡理 万846 *霞立つ長い春の一日、梅の花をかんざしにしているけど、ますます心惹かれるものですな。 【似顔絵サロン】 持統天皇  645 - 703 58歳。中大兄皇子(天智天皇)の娘。天武天皇の皇后。百人一首2: 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5

大伴旅人の万葉集830-837番歌~アルケーを知りたい(1106)

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▼梅花の歌三十二首その3。 ▼花見の宴に人が集い、花を頭につけ、一杯やって皆で楽しむ様子が伝わる。 万代に年は来経とも梅の花 絶ゆることなく咲きわたるべし  筑前介佐氏子首 万830 *これから万代にわたって年は改まっても梅の花は絶えることなく咲くことでしょう。 春なればうべも咲きたる梅の花 君を思ふと夜寐(よい)も寝なくに  壱岐守板氏安麻呂 万831 *春になると美しく咲く梅の花、その花を思うと夜もおちおち寝られません。 梅の花折りてかざせる諸人は 今日の間は楽しくあるべし  神司荒氏稲布 万832 *梅の花を折ってかざす皆さまは、今日一日、楽しいことでしょう。 年のはに春の来らばかくしこそ 梅をかざして楽しく飲まめ  大令史野氏宿奈麻呂 万833 *年の初めに春が来るのでこのように梅をかざして楽しく一杯やるのです。 梅の花今盛りなり百鳥の 声の恋しき春来るらし  少令史田氏肥人 万834 *梅の花は今が盛りです。たくさんの鳥の鳴き声が心地よい春が来たようです。 春さらば逢はむと思ひし梅の花 今日の遊びに相見つるかも  薬師高氏義通 万835 *春が来れば逢いたいと思っていた梅の花、今日のこの宴会でお互い出会えましたね。 梅の花手折りかざして遊べども 飽き足らぬ日は今日ありけり  陰陽師磯氏法麻呂 万836 *梅の花を手折ってかざして遊んでいますが、遊び飽きない日とは今日のことであります。 春の野に鳴くやうぐひすなつけむと 我が家の園に梅が花咲く  算師志氏大道 万837 *春の野で鳴く鶯をなつけようとして、我らがこの庭で梅の花が咲いているのでしょう。 【似顔絵サロン】 中臣 鎌足  614 - 669 55歳。 31歳のとき中大兄皇子と共に乙巳の変を実行。 われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり  万95 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集823-829番歌~アルケーを知りたい(1105)

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▼梅花の歌三十二首その2 ▼梅の花を詠むときのそれぞれの詠み手の工夫が参考になる。 花が散った後を気にしてみる、ウグイス・青柳・桜を引き合いに出す、かんざしにして遊ぼうと呼びかける等。 梅の花散らくはいづくしかすがに この城の山に雪は降りつつ  大監伴氏百代 万823 *梅の花は散るとどこに行くのでしょう、この城の山に雪が降っているようですけど。 梅の花散らまく惜しみ我が園の 竹の林にうぐひす鳴くも  少監阿氏奥島 万824 *梅の花が散るのを惜しんでこの庭の竹林で鶯が鳴いています。 梅の花咲きたる園の青柳を かづらにしつつ遊び暮らさな  少監土氏百村 万825 *梅の花が咲いている庭の青柳を蔓にして一日遊びましょう。 うち靡く春の柳と我がやどの 梅の花とをいかにか分かむ  大典史氏大原 万826 *柔らかく靡く春の柳と我われの庭の梅の花をどうやって見分けましょう。 春されば木末隠りてうぐひすぞ 鳴きて去ぬなる梅が下枝に  少典山氏若麻呂 万827 *春が終われば木の末に隠れて鶯が鳴くことでしょう。鳴いては梅の下枝に移るのです。 人ごとに折りかざしつつ遊べども いやめづらしき梅の花かも  大判事丹氏麻呂 万828 *人びとが折りかざして遊んでおられる、それにしても素晴らしい梅の花です。 梅の花咲きて散りなば桜花 継ぎて咲くべくなりにてあらずや  薬師張氏福子 万829 *梅の花が咲いて散ったら続いて桜花が咲くのでしょうね。 【似顔絵サロン】 皇極天皇 / 斉明天皇  594 - 661 67歳。 乙巳の変のときの天皇。 天智天皇・天武天皇の母親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集815-822番歌~アルケーを知りたい(1104)

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▼730年、大宰府帥の旅人が開いた梅花の宴で参加者が詠んだ歌32首。4回に分けて見て行く。 ▼九州の出身者であれば、梅花の宴の参加者の肩書に出る筑前、豊後、筑後などの地名を見ておおっと思うことでしょう。私は大分市出身なので豊後が来ると、理由なく嬉しい。下記に 豊後守大伴大夫が登場する。 ▼最初の6名が詠んだあと沙弥満誓が1首詠み、続いて旅人の1首が来る。この旅人の1首で全8首がひとまとまりになる。 ▼この時代の人は花見のときにやたら枝を折る。今の感覚でいうと、それよくないすよ、という気持ちになる。枝を折って何にするかというとかんざしにして頭に乗っける。元気を貰う意味合いがあるらしい。気持ちはよく分かる。  梅花の歌三十二首 幷せて序 天平二年の正月の十三日に、帥老の宅に集まりて、宴会を申ぶ。 時に、初春の 令 月にして、気淑く風 和 ぐ。 海は鏡前の粉を披く、蘭は珮後(はいご)の香を燻らす。 しかのみにあらず、曙の嶺に雲移り、松は羅を掛けて蓋(きぬがい)を傾く、夕の岫(くき)に霧結び、島はうすものに封(と)ぢらえて林に迷ふ。 庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。 ここに、天を蓋にして地を坐にし、膝を促け觴(さかづき)を飛ばす。 言を一室の裏に忘れ、矜を煙霞の外に開く。 淡然自ら放し、快然自ら足る。 もし翰苑にあらずは、何をもちてか情を攄(の)べむ。 詩に落梅の篇を紀す、古今それ何ぞ異ならむ。 よろしく園梅を賦して、いささかに短詠を成すべし。 正月立ち春の来らばかくしこそ 梅を招きつつ楽しき終へめ  大弐紀卿(きのまへつきみ) 万815 *正月になり春を迎えましたので、こんなふうに皆で梅を眺めて楽しく過ごしましょう。 梅の花今咲けるごと散り過ぎず 我が家の園にありこせぬかも  少弐小野大夫 万816 *梅の花よ、今咲いている調子で散り過ぎないようにして、この庭にいてください。 梅の花咲きたる園の青柳は かづらにすべくなりにけらずや  少弐粟田大夫 万817 *梅の花が咲いている庭には青柳もいる。これも頭に乗っけるかづらになりそうです。 春さればまづ咲くやどの梅の花 ひとり見つつや春日暮らさむ  筑前守山上大夫 万818 *春になるとすぐに咲くのが庭の梅の花です。ひとりで眺めて春の日を過ごしたいものです。 世の中は恋繁しゑやかくしあらば 梅の花にもならましものを  

大伴旅人の万葉集812番歌~アルケーを知りたい(1103)

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▼(前回の続き)旅人から琴を受け取った 藤原房前 の和歌付きの礼状。 ▼729年の話なので、年齢を計算すると旅人が64歳、房前が48歳。旅人が愛用の琴を贈るほどの相手だから、房前はきっと素晴らしい人物だと思う。 跪きて芳音を承はり、嘉懽こもこも深し。 すなはち知る、竜門の恩、また蓬身の上に厚しといふことを。 恋望の殊念は、常の心に百倍す。 謹みて白雲の什に和へ、もちて野鄙の歌を奏す。房前謹状 言とはぬ木にもありとも我が背子が 手馴れの御琴地に置かめやも  万812 *もの言わぬ木であっても貴方様がご愛用の御琴ですから大事にさせていただきます。  729年十一月八日 還使の大監に附く  謹通 尊門 記室 【似顔絵サロン】 藤原 房前  681 - 737 56歳。藤原四兄弟の次男。長屋王と 詩歌仲間。藤原北家の祖。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集810-811番歌~アルケーを知りたい(1102)

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▼旅人が 729年に 藤原四兄弟の房前に琴を贈ったときの和歌つきの手紙。 ▼琴の材木に由来を語らせている。高い山で太陽の光を受けて育った材。木目が密と想像できる。それが自分で「質荒く音少なき」と言い、材質が荒く、音の出方も少ないと謙遜している。こうなると楽器に適した良い材に違いない。それが良匠の手によって小琴となった。 ▼クレモナでバイオリン作りが始まる1000年前の話。 ▼同年、長屋王の変が起きている。旅人が琴を贈った相手はこの変に関わる藤原四兄弟のひとり房前。  大伴淡等謹状(おおとものたびときんじょう) 梧桐(ごとう)の日本琴(やまとこと)一面 対馬の結石の山の孫枝なり この琴、夢に娘子に化りて曰はく、「余、根を遥島の崇巒(すうらん)に託せ、幹を九陽の休光にさらす。長く煙霞を帯びて、山川の阿に逍遥す、遠く風波を望みて、雁木の間に出入す。 ただに恐る、百年の後に、空しく溝壑(こうかく)に朽ちなむことのみを。 たまさかに良匠に遭ひ、斬られて小琴と為る。 質荒く音少なきことを顧みず、つねに君子の左琴を希ふ」といふ。 すなわち歌ひて曰はく、 いかにあらむ日の時にかも声知らむ 人の膝の上我が枕かむ  万810 *いつのときに私の響きを聞き分けてくださる方の膝の上で音を鳴らせるのでしょう。 僕、詩詠に報へて曰はく、 言とはぬ木にはありともうるはしき 君が手馴れの琴にしあるべし  万811 *木はものを言いませんが、あなた様であれば演奏上手な人の琴になるに違いありません。  琴娘子、答へて曰はく、「敬しみて徳音を奉はる。幸甚々々」といふ。 片時ありて覚き、すなはち夢の言に感け、慨然止黙をること得ず。 故に公使に附けて、いささかに進御らくのみ。 謹状 不具  天平元年十月七日 使いに附けて進上る  謹状中衛高明閣下 謹空 【似顔絵サロン】 阿倍 比羅夫 (あべ の ひらふ) ? - ? 将軍。663年、白村江の戦いで敗北した日本軍の将軍。戦後は筑紫大宰帥。仲麻呂は孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%

大伴旅人の万葉集806-807番歌~アルケーを知りたい(1101)

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▼旅人がまだ太宰帥であった時期の歌。 ▼奈良の貴人からの便りを貰った旅人が返信として「早く都に戻ってお目にかかりたい」という希望を歌った2首。 その貴人からの返事の歌2首と合わせて4首。  伏して来書を辱(かたじけ)なみし、つぶさに芳旨を承はる。たちまちに隔漢(かくかん)の恋を成し、また抱梁(ほうりょう)の意を傷ましむ。ただ羨(ねが)はくは、去留(きょりゅう)恙なく、つひに披雲(ひうん)を得たまくのみ。  歌詞両首 太宰帥大伴卿 竜の馬も今も得てしかあおによし 奈良の都に行きて来むため  万806 *奈良の都に行って貴方様にお目通りするため、大型でパワフルな馬をすぐにでも手に入れたいものです。 うつつには逢ふよしもなしぬばたまの 夜の夢にを継ぎて見えこそ  万807 *現実にはお目にかかる方法もございません。夜の夢で絶えることなくお目にかかりたいです。  答ふる歌二首(奈良にいる人からの返事の歌) 竜の馬を我は求めむあをによし 奈良の都に来む人のたに *私も竜の馬が欲しいと思います。奈良の都においでになる人のために。 直(ただ)に逢はずあらくも多く敷栲(しきたへ)の 枕去らずて夢にし見えむ *直接お目にかかれずとも、あなたの夢でお目にかかりましょう。 【似顔絵サロン】 則天武后 (そくてんぶこう) 624 - 705 81歳。高宗の皇后。中国史上唯一の女帝。白村江の戦いに勝ち、5年後に高句麗を滅ぼした。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集793番歌~アルケーを知りたい(1100)

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▼今回の歌は、 妻を亡くしたのに続いて妹の夫を亡くした 旅人が悲しんで作った歌。 ▼歌の後に山上憶良が文章を付した。  大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首  禍故重畳(かこんちょうじょう)し、凶問累集(るいじゅう)す。 永(ひたふる)に崩心の悲しびを懐(むだ)き、独(もは)ら断腸の泣(なみだ)を流す。 ただ、両君の大助(たいじょ)によりて、傾命をわづかに継ぐげらくのみ。 筆の言を尽さぬは、古今嘆くところ。 *不幸が重なり、悪い知らせが重なる。ひたすら心が砕かれるような悲しみに断腸の涙を流す。それでも身近な二人の者の助けのおかげでわが余命が続いている。筆では言い尽くせないのは古今から嘆くところ。 世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり  万793 *世の中は空しいものと知る時に、いよいよますます悲しくなるものだ。   728 神亀五年六月二十三日  以下は山上憶良の後文 けだし聞く、四生(ししょう)の起滅は夢のみな空しきがごとく、三界の漂流は環の息(とど)まらぬがとごし。 このゆゑに、維摩大士も方丈に在りて染疾の患(うれへ)を懐くことあり、釈迦能仁も双林に坐して泥洹(ないをん)の苦しびを免れたまふことなし、と。 故に知りぬ、二聖の至極すらに力負(りきふ)の尋ね至ることを払ふことあたはず、三千世界に誰れかよく黒闇(こくあん)の捜(たづ)ね来ることを逃れむ、といふことを。 二鼠競ひ走りて、度目(ともく)の鳥旦(あした)に飛ぶ、四蛇(しだ)争ひ侵して、過隙の駒夕に走る。 ああ痛きかも。 紅顔は三従と共に長逝す、素質は四徳とともに永滅す。 何ぞ図りきや、偕老は要期に違い、独飛して半路に生かむとは。 蘭室には屏風(へいふう)いたづらに張り、断腸の悲しびいよいよ痛し、枕頭には明鏡空しく懸かり、染筠(ぜんゐん)の涙いよよ落つ。 泉門ひとたび掩ざされて、また見るに由なし。 ああ哀しきかも。 愛河の波浪はすでにして滅ぶ、 苦海の煩悩もまた結ぼほるることなし。 従来よりこの穢土を厭離す、 本願生をその浄刹に託せむ。 【似顔絵サロン】 高宗  こうそう 628 - 683 55歳。663年、白村江の戦いで倭・百済遺民連合軍に勝った 唐の皇帝。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-yms

大伴旅人の万葉集579-580番歌~アルケーを知りたい(1099)

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▼今回の歌は、旅人の逝去後、454-458番を歌った家人の余明軍が旅人の息子の 大伴家持 に贈った歌二首。 余明軍は大伴家で幼かった家持の世話をしていた人物。 ▼歌から 余明軍の 真っすぐな心根が伝わる。旅人の「 賢しみと物言ふよりは酒飲みて 酔ひ泣きするしまさりたるらし  万341」は 余明軍のことだろう 、と思えるほど。  余明軍、大伴宿祢家持に与ふる歌二首。明軍は大納言卿の資人なり。 見まつりていまだ時だに変らねば 年月のごと思ほゆる君  万579 *お世話していた頃からそれほど時が経ったとも思えないのに、長い昔のことのように思える貴方様です。 あしひきの山に生ひたる菅の根の 根もころ見まく欲しき君かも  万580 *ねんごろにお世話したいと思う貴方様です。 【似顔絵サロン】 大伴 家持   718 - 785 67歳。 かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞふけにける   百人一首6 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集578番歌~アルケーを知りたい(1098)

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▼今回の歌は、旅人の逝去後、家人だった三依(みより)が 家を去るときに 別れを悲しむ歌。 ▼主人が死去すると住込みで働いていた家人は失業して家を出ることになる。悲しさ倍増だろう。  大伴宿祢三依が悲別の歌一首 天地とともに久しく住まはむと 思ひてありし家の庭はも  万578 *末永くここに住み込んで働くものと思っていた家の庭でしたが・・・。 【似顔絵サロン】 石上 麻呂 (いそのかみ の まろ) 640 - 717 77歳 万葉集で初めて「日本」を詠んだ歌人。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集577番歌~アルケーを知りたい(1097)

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▼今回の歌は、旅人が京都に戻る途中で接待してくれた大原高安 に贈った歌。 ▼ 高安 に 「人にあげちゃダメだよ、君が着るんだよ」と言うために、その「君」のことを「 網を引く難波壮士=漁師 」と表現したのが面白い。 ▼高安には「 沖辺行き辺を行き今や妹がため 我が漁れる藻臥束鮒  万625」という歌があって、実際に魚を獲っていた様子がうかがえる。 ▼ 隠岐に流された小野篁の 「 思ひきや鄙のわかれにおとろへて 海人の縄たきいざりせむとは  古今961」という歌があるのを思い出した。「俺ともあろう者がここで漁師の真似事をするとは思わなんだわ」と自分を嘆いた歌だ。 ▼ここからすると難波壮士というワードを出すことで、旅人が釣り好きの高安を 親しみを込めながら からかっている風情もある。気の置けない間柄だったのだろう。  大納言大伴卿、新袍(しんほう)を摂津大夫(せっつのかみ)高安王(たかやすのおほきみ)に贈る歌一首 我が衣人にな着せそ網引(あびき)する 難波壮士(なにはをとこ)の手には触るとも  万577 *私が贈った上衣はほかの人に着せないようにしてくださいね。網を引く難波壮士(高安王のこと)の手に触れることがあっても。 【似顔絵サロン】 藤原 不比等  659 - 720 61歳  中臣鎌足 の子。藤原四兄弟の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集576番歌~アルケーを知りたい(1096)

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▼今回の歌は、旅人が京都に戻った後、「梅花の宴」に参加していた筑後守の葛井連大成 (ふぢゐのむらじおほなり) が寂しがって詠んだ歌。  太宰帥大伴卿が京に上りし後に、筑後守葛井連大成が悲嘆(かな)しびて作る歌一首 今よりは城山(きやま)の道はさぶしけむ 我が通はむと思ひしものを  万576 *これからは大宰府に向かう城山の道を歩くときは寂しい気持ちになります。旅人様とお目にかかれると楽しみに通っていた道ですから。 ▼旅人がまだ大宰帥だった時に開いた「梅花の宴」で参加者は次々に歌を詠んだ。このとき 葛井連大成が詠んだ歌は「 梅の花今盛りなり思ふどち かざしにしてな今盛りなり  万820」。「思ふどち」は気の合う仲間同士の意味。良い言葉、好きな言葉だ。 【似顔絵サロン】 藤原 麻呂 (ふじわら の まろ) 695 - 737 42歳。長屋王と対立した藤原四兄弟の四男。藤原京家の祖。長屋王の変の8年後、天然痘で死去。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集572-575番歌~アルケーを知りたい(1095)

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▼今回の歌は、旅人が京都に戻った後、満誓が詠んで贈った歌2首と旅人がそれに応えた歌2首。 ▼ 満誓は旅人、山上憶良と共に筑紫歌壇のメンバー。良い感じの歌を詠む人。似顔絵にしたいけど元情報がなくて・・・。 太宰帥大伴卿の京に上りし後に、沙弥満誓、卿に贈る歌二首。 まそ鏡見飽かぬ君に後れてや 朝夕にさびつつ居らむ  万572 *(女性になりきって詠んでいます)いくら見ても見飽きることのなかった貴方様に筑紫に残された私、朝も夕も寂しく過ごしています。 ぬばたまの黒髪変わり白けても 痛き恋には逢ふ時ありけり  万573 *黒い髪が白髪になる年齢になっても、心が痛む恋って、あるものなのですね。 大納言大伴卿が和(こた)ふる歌二首 ここにありて筑紫やいづち白雲の たなびく山の方にしあるらし  万574 *ここ京都からみると、筑紫はどちらの方向にあるのでしょう。白雲がたなびく山の方でしょうか。 草香江の入江にあさる葦鶴(あしたづ)の あなたづたづし友なしにして  万575 *草香江の入江で魚を獲る葦鶴の姿が見えます。友達がいないと何と心細いことでしょう。 【似顔絵サロン】 舎人親王 (とねりしんのう) 676 - 735 59歳 はじめは長屋王と政治を行うも、次第に藤原四兄弟の側となり、 長屋王の変 で対立。天然痘で死去。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集568-571番歌~アルケーを知りたい(1094)

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▼今回の歌は、帰京が決まった旅人の送別会「梅花の宴」が開かれたときに参加者が詠んだ歌4首。 ▼紀貫之は古今和歌集の仮名序で和歌の機能として「心々を見たまひて、賢し、愚かなりとしろしめしけむ」と書いている。旅人も送別会で歌を披露する人々の人柄を見たのだろう。人々もまたお互いの和歌に人柄を見たのだろう。 大宰帥大伴卿、大納言に任(ま)けらえて京に入るときに臨み、府の役人ら、卿を筑前の国蘆城(あしき)の駅家(うまや)にて餞する歌四首。 み崎みの荒磯(ありそ)に寄する五百重波(いほへなみ) 立ちても居ても我が思へる君  万568 右の一首は筑前掾門部連石足(ちくぜんのじょう かどべのむらじ いそたり) *荒磯に繰り返し寄せる波のように、立っていても座っていても思い続ける貴方様であります。 韓人の衣染むといふ紫の 心に沁みて思ほゆるかも  万569 *韓人が布を染める紫のように私の心に貴方様が沁みております。 大和へ君が発つ日の近づけば 野に立つ鹿も響(とよ)めてぞ鳴く  万570 右の二首は、大典麻田連陽春(だいてん あさだのむらじ やす)。 *大和の都に貴方様が旅立つ日が近づくと、野にいる鹿も声を響かせて鳴いています。 月夜よし川の音清しいざここに 行くも行かぬも遊びて行かむ  万571 右の一首は防人佑大伴四綱(さきもりのすけ おほとものよつな)。 *今夜はよい月夜、川の音もすがすがしい。大和に行く人も行かない人も、ここで遊んで行きましょう。 【似顔絵サロン】 藤原 宇合 (ふじわら の うまかい) 694 - 737 43歳 長屋王と対立した藤原四兄弟の三男。兵士を率いて長屋王邸を包囲した。藤原式家の祖。長屋王の変の8年後、天然痘で死去。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集555番歌~アルケーを知りたい(1093)

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▼今回の歌は、仕事仲間の丹比県守卿(たぢひのあがたもりのまへつきみ)が異動すると知って、 旅人が 贈った歌。 なんともいえない寂しさの香りが残る。 大宰帥大伴卿、大弐丹比県守卿が民部卿に遷任するに贈る歌一首 君がため醸みし待酒(まちざけ)安の野に ひとりや飲まむ友なしにして  万555 *君のために特別に仕込んでおいた来客用の酒があるんだけど、これからは朝倉の夜須の野で私一人で飲むことになるんだなあ、友達がいなくるので。 【似顔絵サロン】 藤原 房前 (ふじわら の ふささき) 681 - 737 56歳。長屋王と対立した藤原四兄弟の次男。四兄弟の中で最も繁栄した藤原北家の開祖。長屋王の変の8年後、天然痘で死去。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA