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1885、エフェドリン~長井長義(日):アルケーを知りたい(691)

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今回は化学。 ▼ エフェドリン :ephedrine。充血除去薬。交感神経興奮剤。気管支拡張剤。名前の由来は生薬の原料植物、マオウ Ephedra sinica Stapf。 ▼長井長義のここが面白い:明治新政府第一回国費留学生としてドイツ留学に行き、 ホフマン にたいへん大事にされ、学位も取得し、結婚の世話までしてもらった。日本に戻っても引っ張りだこの人気。明治天皇勅令による理学博士と薬学博士を授かる。海外でも国内でも通用する人柄と能力の持ち主である点が面白い。 ▼ 長井 長義  ながい ながよし 1845年7月24日 - 1929年2月10日  日本の薬学者、化学者。日本薬学の父 【人物】代々徳島藩の藩医。父親は医師・本草学者。 【教育】父親が教育熱心で自ら教え、漢学塾と蘭学塾にも通わせた。 1866(21) 藩主命令で長崎留学。 1868(23) 東京大学医学部に入学。 1871(26) 明治新政府第一回国費留学生としてドイツ留学。 1872(27) ベルリン大学に入学。ヘルムホルツの植物学、 ホフマン の化学を受講。 【職業】 1874(29) ホフマンの助手。ベルリン大学で博士。 1883(38) テレーゼと出会う。 1884(39) 帰国。大日本製薬合資会社設立、技師長。 1887(42) ドイツに戻りテレーゼと挙式。帰国、帝国大学で教授、日本薬学会で会頭。 【業績】 1885(40) 麻黄からエフェドリンを発見 。 【ネットワーク】 ホフマン  August Wilhelm von Hofmann 1818年4月8日 - 1892年5月5日 ドイツの化学者 リービッヒの弟子 クルックスが有機化学を学んだ 1875(57) コプリ・メダル受賞 ボードウィン  Anthonius Franciscus Bauduin 1820年6月20日 - 1885年6月7日 オランダ出身の軍医。1862-66(42-46) 江戸幕府の招きで来日、長崎養生所で教頭。幕府に医学・理学学校の建設を呼びかけ。1867-73(47-53) 再来日し大阪陸軍病院勤務。1873(53) オランダ陸軍に復帰。▼長井長義 (21) が長崎留学した時に化学を教えてくれた先生。 上野 彦馬  うえの ひこま 1838年10月15日 - 1904年5月22日 写真家(写真師)。化学の視点から

1885、水素スペクトル系列~バルマー(スイス):アルケーを知りたい(690)

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今回は化学。 ▼ 水素スペクトル系列 :水素原子から出る光の線スペクトルの波長の規則性を式にしたもの。高校物理の範疇。 ▼バルマーのここが面白い:イギリスの物理学者オットー・フリッシュによると「 バルマーの自慢は、どんな四つの数が与えられても、その数を結び付ける数式を見つけだすこと 」で「友達が水素原子の特性を示す四本の線スペクトルの波長をバルマーに与えると、驚いたことに、バルマーはその波長の測定値と気味が悪いほどの精度で一致するたいへん簡単な式を導いた」という。これはフリッシュの「何と少ししか覚えていないことだろう」に出てくるエピソード。 ▼ バルマー  Johann Jakob Balmer 1825年5月1日-1898年3月12日  スイスの数学者  【人物】父親は裁判長。 【教育】1849(24) バーゼル大学で博士。 【職業】バーゼルの女子学校で教師。 【業績】 1885(60) 水素原子の線スペクトルを記述する実験式を発表。水素原子のバルマー系列。可視光線領域 。 【ネットワーク】 オングストローム  Anders Jonas Angstrom 1814年8月13日-1874年6月21日 スウェーデンの天文学者・物理学者。分光学のパイオニア。水素のスペクトル分析の元祖。1852(38) 吸収の法則→キルヒホッフの熱放射の法則。▼バルマーはオングストロームが残した水素原子の線スペクトルの波長データから規則性を発見した。 ハーゲンバッハ=ビショフ  Eduard Hagenbach-Bischoff 1833年2月20日 - 1910年12月23日 スイスの物理学者。▼ハーゲンバッハ=ビショフが友達のバルマーに水素原子の波長の計算を提案した。 リュードベリ  Johannes Rydberg 1854年11月8日 - 1919年12月28日 スウェーデンの物理学者。1888(34) 分光学に関するリュードベリの式。▼バルマーの公式はリュードベリの公式の特別な場合。 パッシェン  Louis Carl Heinrich Friedrich Paschen 1865年1月22日 - 1947年2月25日 ドイツの物理学者。▼1908(43) パッシェン系列を発見。赤外線領域。 ライマン  Theodore Lyman 1874年11月23日 - 1954年10月

1885、ネオジム~ヴェルスバッハ(墺):アルケーを知りたい(689)

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今回は化学。 ▼ ネオジム :neodymium。原子番号60。金属元素。元素記号 Nd。希土類元素。比重 7.0、融点 1,024 ℃、沸点 3,027 ℃。名前は「新しいジジミウム」の意味。ギリシャ語で「新しい」の意味の neos と先に発見されていたネオジムを含む混合物「ジジミウム didymium」の名称を合成した。用途は ネオジム磁石 の原料。 ▼ヴェルスバッハのここが面白い:オリジナルの手法や装置で研究した成果を元に会社を起こして社会に普及させるまでの総合力を持つ人物。「もっと光を plus lucis」というモットーを掲げていたのが面白い。アメリカで コールマンが ガスマントルをキャンプ用ランプに採用した。ネオジムを磁石にしたのは日本の佐川眞人。 ▼ ヴェルスバッハ  Carl Auer von Welsbach 1858年9月1日 - 1929年8月4日  オーストリアの化学者  【人物】父親は貴族で帝国印刷局長。 【教育】1878(20) ウィーン大学で数学、化学、物理学、熱力学を学ぶ。 1880(22) ハイデルベルク大学の ブンゼン のもとで分光法を学ぶ。 1882(24) ハイデルベルク大学で博士。師匠はブンゼン。 【職業】ウィーン大学で無給の助手。 【業績】 1885(27) 自分で開発した分別結晶法と装置でネオジムを発見 。 1886(28) ガスマントルを発明し特許取得。販売会社を設立するもマントルの光が緑色がかっていたため人気が出ず1889(31)に会社を閉じる。 1890(32) 白色の明るい光が得られるガスマントルの開発に成功 。 1891(33) 新会社を設立、ガスマントルがヨーロッパ中に普及。米コールマン社がガスマントルを採用。 1903(45) 発火石の特許を取得。 1907(49) 発火石の製造販売会社 Treibacher Chemische Werke GesmbH を設立。 【ネットワーク】 ブンゼン  Robert Bunsen 1811年3月30日 - 1899年8月16日 ドイツの化学者。▼ヴェルスバッハの師匠。 コールマン  William Coffin Coleman 1870年5月21日 - 1957年11月2日 米コールマン社の創設者。▼コールマンがランプに採用したガスマントルはヴェルスバッハ製だった。

1884、エジソン効果~エジソン(米):アルケーを知りたい(688)

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今回は物理学。 ▼ エジソン効果 :白熱電球の中に正極の金属板を入れるとフィラメントとの間に電流が流れる現象。 電球から真空管へ進む研究の始まり。 ▼エジソンのここが面白い:エジソンが親日家だった点が面白い。その理由は日本人助手が良かったから。それが 岡部芳郎 。エジソンは岡部について「自分の子供たちはしょっちゅう自分の周りから金品を勝手に持ち出していくが、この日本の青年はテーブルの上にお金が置いてあっても、手をつけることなど全くない」(Wikipedia)と語っている。エジソンが親日家になったのも岡部によるところが大きい。 ▼ エジソン  Thomas Alva Edison 1847年2月11日 - 1931年10月18日   アメリカの発明家 【人物】母親は学校教師。 【教育】学校から追放され独学、実験。電信技術を習得。 【職業】1864(17) カナダの駅で夜間電信係。 1868(21) 電気投票記録機の特許を取得。しかし売れず。ニーズがなければ特許取得の意味がないことを悟る。 1869(22) 株式相場表示機の特許を取得。高値で売れ、発明家の道を目指す。 【業績】 1877(30) 蓄音機の商品化に成功。 1878(31) エジソン電気照明会社を設立、白熱電球を事業化。 1880~1884(33~37) 電球の黒化の理由を探求中、 熱電子放出=エジソン効果 を確認 。 1889(42) 電流戦争。エジソン・ゼネラル・エレクトリック・カンパニーを設立。 1892(45) JPモルガンがゼネラル・エレクトリックGEを設立。 【ネットワーク】  JP モルガン  John Pierpont Morgan 1837年4月17日 - 1913年3月31日 アメリカ5大財閥の1つモルガン財閥の創始者。▼エジソンの電流事業を支援、GEを設立。 フレミング  John Ambrose Fleming 1849年11月29日 - 1945年4月18日 イギリスの電気技術者・物理学者。▼1904(55) エジソン効果を追求して二極真空管を発明。 フォード  Henry Ford 1863年7月30日 - 1947年4月7日 アメリカの企業家。▼1891-99(28-36) エジソン照明会社で技術者。1899(36) フォード・モーター創設。 ファイアストーン  Harvey

1883、レイノルズ数~レイノルズ(英):アルケーを知りたい(687)

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今回は物理学。 ▼ レイノルズ数 :流体力学分野の話。慣性力と粘性力との比。レイノルズ数が低いと流れを支配するのが粘性で、黒潮と親潮が並行する層流になる。レイノルズ数が高いと慣性力が支配的で、渦のような乱流になる。 ▼レイノルズのここが面白い:20代で造船工場の現場で働いた経験から流体力学の意義を知り、力学や物理学を追求するには数学の理解が必要不可欠と悟り、英国初の工学教授として活躍した点。設計や造船の現場と理論を結び付けて研究したスタンスが面白い。 ▼ レイノルズ  Osborne Reynolds 1842年8月23日 - 1912年2月21日 イギリスの物理学者 【人物】父親は数学者と牧師を兼務。 【教育】父に数学を学ぶ。1867(25) ケンブリッジ大学卒業。 【職業】大学入学前、造船工場で見習い。流体力学の意義を知る。 1867(25) 土木会社で下水道の技師見習い。 1868-1905(26-63)マンチェスター大学で工学教授。 【業績】 1883(41) レイノルズ数(慣性と粘性の比)の発見。 管内の流れで層流と乱流が発生するメカニズムを明らかにした。船の設計では、縮小モデルで船体の水の摩擦による抵抗を計算し、設計のレベルアップに貢献。 【ネットワーク】 フルード  William Froude 1810年11月28日 - 1879年5月4日 イギリスの技術者・水力学者・船舶工学者。▼船体が起こす波による抵抗を計算して船の設計のレベルアップに貢献した。 ストークス  George Gabriel Stokes 1819年8月13日 - 1903年2月1日 アイルランドの数学者・物理学者 1845(26) 粘性流体のナビエ・ストークス方程式。▼流体力学分野でのレイノルズの先達。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Osborne_Reynolds

1883、ケルダール法~ケルダール(蘭):アルケーを知りたい(686)

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今回は化学。 ▼ ケルダール法 :化学物質に含まれる窒素の量を求める分析法。用途は、食品や鉱物に含まれる窒素の量を求めたり、水質調査。 ▼ケルダールのここが面白い:穀物中のタンパク質の量を正確に測定する必要があった。窒素の含有量が決め手になると知り、窒素の測定方法を開発した。押してもダメなら引いてみな的なアプローチで成功したのが面白い。ケルダール法は汎用性が高く今でも使われているという。調べた限りネットワーク(人のつながり)が分からなかった点も謎で面白い。 ▼ ケルダール  Johan Kjeldahl 1849年8月16日 - 1900年7月18日  デンマークの化学者  【人物】父親は医師。 【教育】1873(24) デンマーク工科大学卒業。 1873-75(24-26) 同大学で助手。 【職業】1876-1900(27-51) コペンハーゲンのカールスバーグ研究所で化学部門の責任者。 【業績】 1883(34) ケルダール法を開発。 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Johan_Kjeldahl

1880、インディゴの合成~バイヤー(独):アルケーを知りたい(685)

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今回は化学。 ▼ インディゴ :indigo。ジーンズに使う青色の染料。 ▼バイヤーのここが面白い:博士号取得を目指していた時期に指導教員をチェンジしたこと。チェンジした理由が口論。指導教員を替えたりすると、ろくなことにならない気がするんだけど。しかも口論だから、下手するととてもまずい状況になるんだけど。でもバイヤーはピンチをうまく切り抜けた好例を作った。 ▼ バイヤー  Johann Friedrich Wilhelm Adolf von Baeyer 1835年10月31日 - 1917年8月20日 ドイツの化学者   【人物】父親は測地学者、プロイセン王立陸軍中将。 【教育】1856(21) ハイデルベルク大学で ブンゼン に学ぶ。ブンゼンと口論。 1858(23) ベルリン大学で博士。指導教員は ケクレ 。 【職業】 1858-60(23-25) ゲント大学に移ったケクレについて行く。 1860(25) 王立貿易アカデミーで講師。 1871(36) ストラスブール大学で教授。 1875(40) ミュンヘン大学でリービッヒの後任の化学教授。 【業績】 1865(30) インディゴの研究を開始。 1880(45) インディゴの合成に成功。 1881(46) デービー・メダル受賞。 1883(48) インディゴの構造を報告。 1897(62) 化学工業会社BASFが工業的合成法を開発。 1905(70) ノーベル化学賞受賞(有機染料およびヒドロ芳香族化合物の研究) 1913(78) インディゴは天然から合成に置換 。 【ネットワーク】 ブンゼン  Robert Bunsen 1811年3月30日 - 1899年8月16日 ドイツの化学者。ブンゼンバーナーで名高い。光化学のパイオニア。▼バイヤー(21) は博士指導教員のブンゼン(45)と決裂。 ケクレ  Friedrich August Kekulé von Stradonitz 1829年9月7日 - 1896年7月13日 ドイツの有機化学者。 1865(36) ベンゼンの環状構造式を提案。▼バイヤー(21) はケクレ(29)に指導教員になってもらう。気が合ったようで、ケクレが大学を変わるときについていって助手を務めた。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.

1879、シュテファンの法則~シュテファン(墺):アルケーを知りたい(684)

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今回は物理学。 ▼ シュテファンの法則 :黒体を熱したときに出てくる電磁波のエネルギーは温度の4乗に比例する。黒体は全ての電磁波を吸収する理想的存在。 ▼シュテファンのここが面白い:シュテファンが法則を導き出した経緯がWikipdiaを見ると二つあるのが面白い。一つは、英語版Wikipediaのシュテファンの解説に出てくる「デュロンとプティの測定値から法則を導き出した」説。もう一つは日本語版Wikipediaのボルツマンの解説に出てくる「実験的に明らかにした」説。過去の経緯を見ていると、時々こういう違いがある。これが面白い。 ▼ シュテファン  Joseph Stefan 1835年 3月24日 - 1893年 1月7日  オーストリアの物理学者 【人物】父親は製粉工場の労働者。 【教育】小学校時代から才能が目立ったので進学。1858(23) ウィーン大学で教授資格を取得。指導教員は エッティングスハウゼン 。 【職業】1858(23) ウィーン大学で物理学の教員。 1866(31) ウィーン大学物理学研究所で所長。 【業績】1866(31) ボルツマン の博士指導。 1867(32) ボルツマンを助手にする。 1879(44) シュテファンの法則を発表。 1884(49) ボルツマンがシュテファンの法則を理論的に証明し、シュテファン=ボルツマンの法則となる。 【ネットワーク】 デュロン  Pierre Louis Dulong 1785年2月12日 - 1838年7月19日 フランスの化学者・物理学者。ルイ・テナールの弟子。1819(34)金属の比熱容量に関するデュロン・プティの法則。▼シュテファンはデュロンとプティのデータを元にシュテファンの法則を導出。 プティ  Alexis Thérèse Petit 1791年10月2日 - 1820年6月21日 フランスの物理学者。1819(28)金属の比熱容量に関するデュロン・プティの法則。▼シュテファンはデュロンとプティのデータを元にシュテファンの法則を導出。 エッティングスハウゼン  Andreas Freiherr von Ettingshausen 1796年11月25日 - 1878年5月25日 オーストリアの数学者・物理学者。▼ウィーン大学でシュテファンの師匠。 ボルツマン  Ludwig Eduard B

1879、スカンジウム~ニルソン(瑞):アルケーを知りたい(683)

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今回は化学。 ▼ スカンジウム :scandium。原子番号 21。元素記号 Sc。希土類元素。比重2.99、融点1541 °C、沸点2836 °C。用途は高強度アルミ合金ほか。名前はスカンジナビアを意味するラテン語のスカンジアからニルソンが命名。 ▼ニルソンのここが面白い:分析化学を軸にして「一身にして二生」の人であること。前半はスカンジウムを発見、後半はスウェーデンの土壌を調べそれまで使えなかった土地を改良してサトウダイコンの栽培に成功。スウェーデンの主要作物になった。 ▼ ニルソン  Lars Fredrik Nilson 1840年5月27日-1899年5月14日  スウェーデンの化学者。  【人物】父親は農場経営者。 【教育】1866(26) ウプサラ大学で化学博士。師匠はスヴァンベリ。 【職業】1866-(26-) ウプサラ大学スヴァンベリ研究室で助手兼化学実験担当。 1874-78(34-38) ウプサラ大学で一般化学と農業化学の教授。 1878-83(38-43) ウプサラ大学で分析化学の教授。 1883-(43-) スウェーデン王立農林学アカデミーで化学教授。 【業績】 1879(39) スカンジウムを発見 。 1883-(43-) サトウダイコンの導入ほかスウェーデンの農業に貢献。 【ネットワーク】 スヴァンベリ  Lars Fredrik Svanberg 1805年5月13日 - 1878年7月16日 スウェーデンの化学者・鉱物学者。▼ニルソンの博士指導教員。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Lars_Fredrik_Nilson

1880、ガドリニウム~マリニャク(瑞):アルケーを知りたい(682)

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今回は化学。 ▼ イッテルビウム :ytterbium。原子番号 70。元素記号 Yb。希土類元素。比重6.97、融点824 °C、沸点1193 °C。名前の由来は発見地であるスウェーデンのイッテルビー町 Ytterby 。用途は、ガラスの着色剤、YAGレーザーの添加物。 ▼マリニャクのここが面白い:マリニャクはサンプルを分析するとき、オーソドックスな方法と新しい方法の二つを使った。二つの異なる方法で得られた結果を照らし合わせて正確な答えを探した。そう簡単には一致しなかっただろう。正確さのために労を惜しまなかったのが面白い。 ▼ マリニャック  Jean Charles Galissard de Marignac 1817年4月24日 - 1894年4月15日  スイスの化学者  【人物】父親は裁判官。 【教育】1833-37(16-20) パリのエコール・ポリテクニーク。 1837-39(20-22) パリ鉱山学校。 1837-39(20-22) エコール・デ・ミーヌ(国立鉱山学校)。 1840(23) ギーセン大学の リービッヒ の下で学ぶ。セーヴル磁器工場の ブロンニャール 所長の下で学ぶ。 【職業】1841-78(24-61) ジュネーヴ大学で化学と鉱物学の教授。 1878-84(61-67) 自宅の実験室で仕事。 【業績】1866(49) タンタル石に含まれている元素はタンタルとニオブの2種類であると証明。 1878(61) イッテルビウムを発見 。 1880(63) ガドリニウムを発見。 【ネットワーク】 リービッヒ  Justus Freiherr von Liebig 1803年5月12日 - 1873年4月18日 ドイツの化学者。ゲイリュサックの弟子。ゲイリュサックの息子はリービッヒの助手。▼1840年、ギーセン大学教授のリービッヒ(37)はマリニャック(23)の留学を受け入れた。 ブロンニャール  Alexandre Brongniart 1770年2月5日 - 1847年10月7日 フランスの化学者・鉱物学者。1800-47(30-77) セーヴル磁器工場で所長。▼1840年、マリニャック(23)の留学を受け入れた。このときブロンニャールは70才。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.or

1878、ホルミウム、ツリウム~クレーヴェ(瑞):アルケーを知りたい(681)

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今回は化学。 ▼ ホルミウム :holmium。原子番号67。元素記号 Ho。希土類元素。比重8.80、融点1461 °C、沸点2600 °C。名前はクレーヴェがストックホルムのラテン名 holmia から命名。用途は、YAGレーザの添加物。 ▼ ツリウム :thulium。原子番号69。元素記号 Tm。加工が容易な金属。名前はクレーヴェがスカンジナビアの古代ギリシア語のThuleから命名。用途はX線装置・固体レーザの放射線源。 ▼クレーヴェのここが面白い:豊かな人脈ネットワークの持ち主であること。スウェーデンの鉱物分析の伝統にいて(例えば モサンデル や ヴェルスバッハ )、鉱物学を通してヨーロッパの人と交流があり(例えば ヴュルツ )、子孫から ノーベル賞受賞者が2人 出ている。 ▼ クレーヴェ  Per Teodor Cleve 1840年2月10日 - 1905年6月18日  スウェーデンの化学者 【人物】父親は商人。 【教育】1860年代、イギリス、フランス、イタリア、スイスの研究所を訪問。パリでは ヴュルツ の研究室で多くの友人を作る。 1868(28) ウプサラ大学で博士。 【職業】1860(20)ウプサラ大学で鉱物学の助教授。 1868(28) 化学の助教授。 1874(34) ウプサラ大学で一般化学・農業化学の教授。 【業績】 1879(39) ホルミウムとツリウムを発見 。 1894(54) デービーメダル受賞。 【ネットワーク】 モサンデル  Carl Gustaf Mosander 1797年9月10日 - 1858年10月15日 スウェーデンの化学者。ベルセリウスの弟子。1839-43(42-46) ランタナ(ランタン) lanthana とジジミア didymia を発見。▼1874年、クレーヴェ(34)がジジミアは2つの希土類元素の混合物であることを発見。 ヴュルツ  Charles Adolphe Wurtz 1817年11月26日 - 1884年5月10日 フランスの化学者。1875(58) パリ大学で初の有機化学教授。▼1860年代、フランスの化学教育の振興に力を入れていたヴュルツのもとにクレーヴェが滞在し、多くの出会いが生まれた。 ヴェルスバッハ  Carl Auer von Welsbach 1858年9月1日 - 1929年

1877、酸素の液化~カイユテ(仏)とピクテ(瑞):アルケーを知りたい(680)

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今回は物理学。 ▼ 液体酸素 :Liquid OXygen。淡い青色。沸点は−183℃、凝固点は−219℃。水より重い。磁性あり。用途は、製鉄や医療現場の酸素源やロケットの酸化剤。 ▼二人のここが面白い:同じ時期に異なる場所で、同じ結果を異なる方法で導き出したこと。 ▼ カイユテ  Louis Paul Cailletet 1832年9月21日 - 1913年1月5日  フランスの物理学者、発明家 【人物】父親は製鉄所のオーナー。 【教育】パリで教育を受ける。 【職業】製鉄所の管理。高炉から出るガスを分析して鉄の状態を把握。 【業績】 1877(45) ピクテと異なる方法で液体酸素の生成に成功 。 1878(46) デービー・メダルを受賞。 ▼ ピクテ  Raoul Pictet 1846年4月4日 - 1929年7月27日 スイスの物理学者   【人物】ジュネーヴ生まれ。 【教育】? 【職業】ジュネーブ大学で教授。 【業績】 1877(31) カイユテと異なる方法で酸素の液化に成功 。 1878(32) デービー・メダルを受賞。 【同時代の日本人】 中村 正直  Nakamura Masanawer John 1832年6月24日 - 1891年6月7日 明治時代の啓蒙思想家、教育者。1870(38) サミュエル・スマイルズの『Self Help』を翻訳し『西国立志編』として出版し100万部以上を売り上げる。▼カイユテと同い年生まれ。 長井 長義  Wilhelm Nagayoshi Nagai 1845年7月24日 - 1929年2月10日 薬学者、化学者。ベルリン大学でホフマンの助手。ベルリン大学で哲学博士、明治天皇勅令の理学博士・薬学博士。▼ピクテの一つ年上。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Paul_Cailletet https://en.wikipedia.org/wiki/Raoul_Pictet