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1908、ガイガー=マースデンの実験~ガイガー(独):アルケーを知りたい(719)

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今回は物理学。 ▼ ガイガー=マースデンの実験 :別名、 ラザフォードの散乱実験 。1908年、マンチェスター大学の物理学研究室でラザフォード(37)の指導の下でガイガー(26)とマースデン(19)が行った実験。実験の目的は原子の姿を解明すること。当時の原子モデルはJ.J.トムソンらが考えたものだった。これに今ひとつ納得がいかなかったラザフォードは、金箔に正電荷のα粒子を通過させる実験を行った。ほとんどのα粒子は金箔を通過した。しかし、一部のα粒子は、曲がったり跳ね返された。ラザフォードは驚いて「 大砲をティッシュペーパーに打ち込んだら、弾が跳ね返って戻ってきた 」と言った。正電荷のα粒子のほとんどが金箔を通過することと時折曲がったり跳ね返されたりすることから、正電荷の原子核はそれまで考えられていたものよりずっと小さいことが分かった。この実験の結果、 今でもアメリカ原子力委員会が採用している原子モデルが誕生 した。 ▼ガイガーのここが面白い:ドイツの大学で24才で博士号を取った後、イギリスの大学に留学。 ラザフォード から優秀さを買われて、実験担当の研究員になる。これがガイガーが人と巡り会う運の良さ(例1)。ラザフォード研究室の若手の マースデン を弟分にして、今の高校物理の教科書にも出てくるガイガー=マースデンの実験(あるいはラザフォードの散乱実験)ができた運の良さ(例2)。ドイツに帰ってからは自分の年齢の半分の ミュラー とガイガー=ミュラーカウンターを開発できた運の良さ(例3)。 ▼ ガイガー  Hans Wilhelm Geiger 1882年9月30日 - 1945年9月24日 ドイツの物理学者。 【人物】父親はインド学の学者でエアランゲン大学教授。 【教育】1902-06(20-24) エアランゲン大学で物理学と数学を学ぶ。 1906(24) エアランゲン大学で博士。 【活動/業績】1906(24) マンチェスター大学に留学し シュスター の助手。 1907-12(25-30) マンチェスター大学でシュスターの後任の物理学教授ラザフォードのもとで研究員。 1908-12(26-30) ラザフォードの監督の元でガイガー=マースデンの実験 など、原子の構造を追求する実験を開始。論文 『物体によるアルファ粒子の散乱について』を発表。 α粒子をカウントするガイガ

1908、液体ヘリウム~オネス(蘭):アルケーを知りたい(718)

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今回は物理学。 ▼ 液体ヘリウム :-269 ℃の極低温の液体。用途は、超伝導電磁石の冷却や物理学実験用。1908年、オネスが初めて液化に成功。 ▼オネスのここが面白い:まず、超低温での物性を調べようという関心の方向性が面白い。次に、熱力学のクラウジウス→状態方程式のファン・デル・ワールス→今回のオネス→後任のケーソンという低温物理学の系譜に入っていること。そして、超伝導現象を発見し、新しい学問分野の創始者になったこと。関心から始まり、伝統の流れに入り、新しい世界を創造した。 ▼ オネス  Heike Kamerlingh Onnes 1853年9月21日-1926年2月21日  オランダの物理学者。低温物理学のパイオニア。 【人物】父親はレンガ工場のオーナー。 【教育】1870(17) フローニンゲン大学に入学。 1871-73(18-20) ハイデルベルク大学で ブンゼン 、 キルヒホフ に師事。 1878(25) フローニンゲン大学で修士。 1879(26) フローニンゲン大学で博士。 【活動/業績】1878-82(25-29) デルフト工科大学で物理学者 ボッシャ の助手。 1881-82(28-29)  デルフト工科大学で講師。 1882-1923(29-70) ライデン大学で実験物理学教授。 1904(51) ライデン大学で低温物理学研究所を設立。 リンデ の冷却機を使い酸素、窒素、空気の液化を研究。 1908(55) ヘリウムの液化に成功。当時の世界一の低温を実現 。 1911(58) 超低温での水銀、スズ、鉛の電気的性質を研究し、電気抵抗がゼロになる 超伝導現象を発見。 1913(70) ノーベル物理学賞受賞(低温における物性の研究、特にその成果である液体ヘリウムの生成)。 【ネットワーク】 ボッシャ  Johannes Bosscha Jr. 1831年11月18日 - 1911年4月15日 オランダの物理学者。▼1878年から4年間、デルフト工科大学でオネスが助手を務めた。 ファン・デル・ワールス  Johannes Diderik van der Waals 1837年11月23日 - 1923年3月8日 オランダの物理学者。1910(73) ノーベル物理学賞受賞(気体および液体の状態方程式に関する研究)。▼ファン・デル・ワールスは、オネスが低

1907、ルテチウム~アーバン(仏):アルケーを知りたい(717)

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今回は化学。 Charles James▼ ルテチウム :lutetium。原子番号 71。元素記号 Lu。銀白色の金属。用途は、鉱物や隕石の年代決定や化学反応の触媒。名前の由来はパリの古いローマ風の呼び方でラテン語のLutetia Parisiorum。 ▼アーバンのここが面白い:複数の化学者が同時期に同じ発見をするのは時々ある話。ルテチウムもその例。発見した化学者は 仏のアーバン 、 墺のヴェルスバッハ 、 米のジェームス の三名。発見後の3人の振る舞い。アーバンとヴェルスバッハは優先順位で論争、ジェームスはこの論争に入らずルテチウムの精製を目指す。1907年に始まった論争は1949年に決着がつくまで42年間続き、化学史上最長の優先権争いとなった。42年も続いたので、ドイツ語圏ではヴェルスバッハが命名したカシオペウムが使われていた。国際原子量委員会が下した裁定は、報告書を先に書いたアーバンに優先権を認める、というもの。この結果が出たとき3名は物故者。 ▼ アーバン  Georges Urbain 1872年4月12日- 1938年11月5日  フランスの化学者。  【人物】? 【教育】1894(22) ESPCI パリとソルボンヌ大学を卒業。 【活動/業績】 1894-95(22-2 7 ) ESPCI パリなど複数の研究所で研究院。 1899-1904(27-32) 企業でアークランプの光源研究。 1906, 08(34, 36) ソルボンヌ大学で教員。 1907 (35) ルテチウムを発見 。 1914-18(42-46) WWI。陸軍省で実験室長。 1928-(56-)  ソルボンヌ大学で一般化学の教授。 【ネットワーク】 マリニャック  Jean Charles Galissard de Marignac 1817年4月24日 - 1894年4月15日 スイスの化学者。1878(61) イッテルビウム 発見。▼アーバンはイッテルビウムから2 つの成分分離し「ネオイッテルビア」と「 ルテシア 」と命名。1909年、原子質量委員会がルテシアをルテチウムとして採用。 ヴェルスバッハ  Carl Auer von Welsbach 1858年9月1日 - 1929年8月4日 オーストリアの化学者。1885(27) ネオジム発見。▼1907(49) アーバンとは独

1907、ミンコフスキー空間~ミンコフスキー(独):アルケーを知りたい(716)

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今回は物理学。 ▼ ミンコフスキー空間 :Minkowski space。空間と時間を組み合わせた時空概念。 アインシュタインの特殊相対性理論(1905 年) の幾何学的解釈を容易にするというのが「ミンコフスキー時空」。空間と時間を4次元空間として記述した基礎的な研究。 ▼ミンコフスキーのここが面白い: 3次元空間しかイメージできないので、時間を加えた4次元空間はまさしく異界。新しい世界を創って遊べるのはうらやま面白い。 ▼ ミンコフスキー  Hermann Minkowski 1864年6月22日 - 1909年1月12日  ユダヤ系ドイツ人数学者。 【人物】父親は商人。 【教育】1885(21) ケーニヒスベルク大学で博士。指導教員は リンデマン 先生。 ヒルベルト と友達。 【活動/業績】1883(19) 自然数を5つの平方数の和で表す研究でフランス科学アカデミー数学大賞受賞。 1885(21) ボン大学で客員教授。 1894(30) ケーニヒスベルク大学で ヒルベルト の後任の助教授。 1896(32) チューリッヒのスイス連邦工科大学で助教授。『数の幾何学』を発表。 1902-09(38-45) ヒルベルトの尽力でゲッティンゲン大学がミンコフスキーの数学講座を設置、同教授。 1907(43) 『ミンコフスキー空間』を発表 。 1909(45) 『空間と時間』を発表。虫垂炎のため急死。「最良にして本当の友人」を失ったヒルベルトは悲しんだ。 【ネットワーク】 リンデマン  Carl Louis Ferdinand von Lindemann 1852年4月12日 - 1939年3月6日 ドイツの数学者。円周率 π が超越数であることを示した。▼ミンコフスキーの博士指導教員。 フルヴィッツ  Adolf Hurwitz 1859年3月26日 - 1919年11月18日 ドイツのユダヤ人数学者。▼ヒルベルトとミンコフスキーの師匠。 ヒルベルト  David Hilbert 1862年1月23日 - 1943年2月14日 ドイツの数学者。現代数学の父。▼フルヴィッツの弟子。ミンコフスキーの友達。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Minkowski

1906、ハーバー・ボッシュ法~ボッシュ(独):アルケーを知りたい(715)

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今回は化学。 ▼ ハーバー・ボッシュ法 :ハーバーが発明したアンモニアの生成法をボッシュが工業化した。 ▼ボッシュの苦悩:人として反ナチス、経営者としてナチスに協力。 ▼ カール・ボッシュ  Carl Bosch 1874年8月27日 - 1940年4月26日  ドイツの化学者・経営者  【人物】父親は配線・ガス・水道部品の製造・販売事業者。ロバート・ボッシュは叔父。 【教育】1894(20) ベルリン工科大学で冶金学と機械工学を学ぶ。 1898(24) ライプツィヒ大学で博士。指導教員は ウィスリケヌス 。 【活動/業績】1899(25) 化学メーカーBASFに就職。 1900(26) アンモニア合成の実験を開始。 オストヴァルト による固定窒素製造の特許の追試を担当。再現できず、 オストヴァルトと論争になるも、最終的に 理由を解明。オストヴァルトは納得し特許を取り下げ。事の成り行きを見ていた BASF幹部がボッシュを信頼する。 1902(28) 工場の実験室で固定窒素製造法の研究を継続。 1909(35) ハーバー がオスミウムを触媒にした アンモニア合成法を発表 。 ハーバーの研究室を訪問し、実験装置を見学。アンモニアの生成を確認 。 1911-13(37-39) BASFの仮工場でハーバー・ボッシュ法を実行 、1日2トンのアンモニア生産を実現。量産を目指す新工場の建設責任者。 1914-18(40-44) WWI。アンモニア工場を硝酸の生産に切り替える。BASFは政府から硝酸の大量生産を受託。 1918(44) フランスとの間の戦後処理をBASF取締役・ドイツ工業会代表として交渉、まとめる。 1919(45) BASFで取締役会長。工場でストが始まる。 1921(47) 561人の死者を出す爆発事故が発生。以降、人との関わりを避ける。 1925(51) BASFは他の企業とトラストを組み、世界最大の化学企業IGファルベンになる。ボッシュが取締役会長。 1931(57) ノーベル化学賞(高圧化学的方法の発明と開発)。 1933(59) ヒトラー が政権を取る。経済諮問委員会の委員になりヒトラーと面談するも決裂。ユダヤ人の公職追放が始まる。追放されたハーバーに援助する手紙を送る。 1935(61) プランクが主催したハーバーの追悼式に出席。IGファルベンで監査役

1906、ハーバー・ボッシュ法~ハーバー(独):アルケーを知りたい(714)

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今回は化学。 ▼ ハーバー・ボッシュ法 :アンモニアを工業的に大量生産する方法。 ▼ハーバーの苦悩:ドイツに尽くした。ナチスに追われた。 ▼ ハーバー  Fritz Haber 1868年12月9日 - 1934年1月29日  ドイツの物理化学者 【人物】父親は染料商人。ユダヤ人。 【教育】1886(18) ベルリン大学入学。ホフマン(68)に有機化学を師事。 1887(19) ハイデルベルク大学で ブンゼン に師事。 1888-89(20-21) 兵役。 1890(22) シャルロッテンブルク工科大学で リーバーマン に師事。 1891(23) ベルリン大学で 博士。 【活動/業績】1894(26) カールスルーエ大学で無給助手。 1896(28) カールスルーエ大学で私講師。 1898(30) 電気化学の教科書『理論的基盤による技術的電気化学概論』を出版、好評を得る。カールスルーエ大学で助教授。 1904(36) アンモニア合成法の開発を開始。 1906(38) カールスルーエ大学で教授。 アンモニアの生産法を開発、発表 。 1909(41) 化学メーカーBASF社からボッシュがアンモニア製造装置を見学 。 1912-33(44-65) BASF社がハーバー・ボッシュ法を実用化 。カイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所で所長。 1914-18(46-50)  WWI。軍用毒ガスの開発に従事。終戦後、一時スイスに避難。 1918(50) ノーベル化学賞受賞(アンモニア合成法の開発)。 星一 が カイザー・ヴィルヘルム研究所に 寄付。 1924(56) 星一 の招待で日本に2か月滞在 。 1933(65) ナチスが政権をとり、ユダヤ人追放が始まる。ボッシュから援助する手紙を受け取る。 1934(66) パレスチナのヴァイツマン科学研究所で所長職につくため移動中、スイスで死去。 【ネットワーク】 ホフマン  August Wilhelm von Hofmann 1818年4月8日 - 1892年5月5日 ドイツの有機化学者。師匠はリービッヒ。1845-64(27-46) ロンドンの王立化学大学で教授。1865-(47) ベルリン大学で教授。長井長義、柴田承桂、中濱東一郎の師匠。▼ハーバーの師匠。 リーバーマン  Carl Theodor Liebermann 

1906、熱力学第三法則~ネルンスト(独):アルケーを知りたい(713)

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今回は物理学。 ▼ 熱力学第三法則 :third law of thermodynamics。有限回の操作では絶対零度に到達できないという定理。 ▼ネルンストのここが面白い:ネルンストは熱力学第三法則と言わず、いつも私の熱力学法則と呼んでいた。回りから熱力学第三法則を辞典で引くときは「私」の項を探さなければならない(笑)と言われていた。そんなエピソードが残っている。 大変な時代を生きたドイツの化学者。 ▼ ネルンスト  Walther Hermann Nernst 1864年6月25日 - 1941年11月18日  ドイツの化学者、物理化学者 【人物】父親は裁判官。 【教育】1887(23) ライプツィヒ大学で博士。指導教員は コールラウシュ 先生。 【活動/業績】ライプツィヒ大学で講師。 1895-(31-) ゲッティンゲン大学で物理化学の教授。電燈の特許を取得、売却益で研究室を拡充。 1905(41) ベルリン大学で教授。 1906(42) 熱力学第三法則を発表 。 1907(43) プランク と共同して アインシュタイン をベルリン大学に招聘。 1911(47) ソルベー と共同して第一回ソルベー会議を開催。カイザー・ヴィルヘルム協会の設立に貢献。 1914-17(50-53) WWIIの間、息子2人と共に軍に入隊。軍事研究。息子2人は戦死。 1920(56) ノーベル化学賞受賞(熱化学の研究) 1921-22(57-58) ベルリン大学で総長。 1924-(60-) ベルリン大学物理化学研究所で所長。 【ネットワーク】 ソルベー  Ernest Solvay 1838年4月16日 - 1922年5月26日 ベルギーの化学者、実業家。ソルベー法の発明者、ソルベー社の創業者。▼ネルンストの提案を受け物理学者・化学者が集まり情報交換するソルベー会議を開催。 コールラウシュ  Friedrich Wilhelm Georg Kohlrausch 1840年10月14日 - 1910年1月17日 ドイツの物理学者。▼ネルンストの師匠。 マックス・プランク  Max Karl Ernst Ludwig Planck 1858年4月23日 - 1947年10月4日 ドイツの物理学者。量子論の父。1918(60) ノーベル物理学賞受賞(エネルギー量子の発見による物理学の進展

1905、テルミット反応~ゴルトシュミット:アルケーを知りたい(712)

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今回は化学。 ▼ テルミット反応 :酸化鉄がアルミニウム金属を酸化するとき熱を発生する反応のこと。YouTubeで見ると高温ぶりが一目瞭然。用途は、鉄道の車軸・レールの溶接、軍用暗号機の破壊・大砲の無力化。 ▼ゴルトシュミットのここが面白い:テルミット反応の動画は見ごたえがあって面白い。発見者のゴルトシュミットは人物像が伝わる情報がない。この対比が面白い。 ▼ ゴルトシュミット  Johannes Wilhelm Goldschmidt  1861年1月18日 - 1923年5月20日  ドイツの化学者。 【人物】父親は化学者で化学会社の創業経営者。 【教育】ベルリン大学で博士。指導教員はブンゼン。 【活動/業績】 1893(32) テルミット反応を発見 。溶接や焼夷弾に使える。 1895(34) テルミット法の特許を取得 。 1899(38) 路面電車(車軸、レール)の溶接で最初の応用例を作る 。 【ネットワーク】 ブンゼン  Robert Bunsen 1811年3月30日 - 1899年8月16日 ドイツの化学者。▼ゴルトシュミットの博士指導教員。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Hans_Goldschmidt

1901、熱電子~リチャードソン(英):アルケーを知りたい(711)

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今回は物理学。 ▼ 熱電子 :Thermo electron。1883年、 エジソン が白熱電球の長寿命化を研究していたとき、フィラメントを陰極にしてちょっと離れたところに陽極板を置いてみた。そしたらフィラメントと陽極板は接触してないのに電流が流れた。これは何だ? エジソンが解き明かせなかった謎は、18年後にリチャードソンが熱せられたフィラメントから出てくる熱電子の働きであると解明した。 ▼リチャードソンのここが面白い:自分も師匠もノーベル物理学賞の受賞者である。加えて師匠の息子と自分の弟子がノーベル物理学賞の共同受賞者である。ゴージャス。 ▼ リチャードソン  Owen Willans Richardson 1879年4月26日 - 1959年2月15日  イギリスの物理学者  【人物】? 【教育】1900(21) ケンブリッジ大学を卒業。 1900-06(21-27) キャベンディッシュ研究所で高温物体からの熱電子放出を研究。 1904(25) ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで博士。博士指導教員は J・J・トムソン 先生。 【活動/業績】1901(22) エジソン効果をリチャードソン効果で説明 。 1906-13(27-34) プリンストン大学で教授。  1914-44(35-65) ロンドン大学キングス・カレッジで ホイートストン 物理学教授。 1927(48) 当代一流の物理・化学者が集う第5回 ソルベイ 会議に参加。テーマは「電子と光子」。 1928(49) ノーベル物理学賞受賞(熱電子の研究およびリチャードソン効果の発見) 。 【ネットワーク】 ホイートストーン  Charles Wheatstone 1802年2月6日 - 1875年10月19日 イギリスの物理学者。ロンドン大学キングス・カレッジ教授。1833(31) 電気抵抗の測定法ホイートストン・ブリッジを編み出す。▼リチャードソンはホイートストンの名を冠した教授職に就いた。 ソルベイ  Ernest Solvay 1838年4月16日 - 1922年5月26日 ベルギーの化学者、実業家。ソルベイ法の発明者、ソルベイ社の創業者。▼1911(73) ドイツの化学者ネルンストの提案で「放射理論と量子」をテーマにして第1回ソルベイ会議を開催。 エジソン  Thomas Alva Edison 18

1901、ユウロピウム~ドマルセ(仏):アルケーを知りたい(710)

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今回は化学。 ▼ ユウロピウム :europium。原子番号 63。元素記号 Eu。比重 5.24。銀白色の金属。用途は、磁性半導体や白色ダイオードの原料。名前は、地名のヨーロッパに因む。 ▼ドマルセのここが面白い:ドマルセは、分光法の匠(たくみ)である。分光法の匠の技で自らユウロビウムを発見し、キュリー夫妻に協力して微量な新元素の発見を助けた。 ▼ ドマルセ  Eugène-Antole Demarçay 1852年1月1日 - 1903年3月5日  フランスの化学者  【人物】祖父はフランス革命時の将軍。 【教育】1870(18) エコール・ポリテクニークに入学、 デュマ 先生に師事。卒業後は カウル の助手。 1880(28) エコール・ポリテクニークで博士。実験中の爆発事故で片目を失明。 【活動/業績】 1881-82(29-30) 真空システムを開発、 分光法の匠 になる。 1896(44) サマリウムから分光法でユウロピウムを発見 。 1898(46) 分光法の匠の技で キュリー夫妻 に協力しラジウムの分離を確認。 1901(49) ユウロピウムの単離に成功 。 【ネットワーク】 デュマ  Jean Baptiste André Dumas 1800年7月14日 - 1884年4月10日 フランスの化学者。原子量を決定した。▼ドマルセの師匠。 カウル  August André Thomas Cahours 1813年10月2日 - 1891年3月17日 フランスの化学者。▼ドマルセの師匠。ドマルセは助手として師匠のエジプトやインドへの研究旅行にも同行した。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Eug%C3%A8ne-Anatole_Demar%C3%A7ay