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6月, 2023の投稿を表示しています

山口 素堂~定型詩でアルケーを知りたい(841)

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今回は俳句。 ▼ 目には青葉 山ほととぎす はつかつお 感想 目にすると自然に頬が緩む句。句と描かれた風物は日本の財産やなと思ふ。 ▼ 山口 素堂  やまぐち そどう 俳人 【プロフィール】 1642(寛永19)年6月1日、甲斐国(山梨県)甲府生まれ。父親は酒造業。 1662(20) 家業の酒造業を弟に譲る。江戸に出て林羅山の息子・ 林鵞峰 に漢学を学ぶ。 1675(33) 上野不忍池で退隠生活。 芭蕉 と句会で知り合い友達になる。 1676(34) 『江戸両吟集』を発表。 1678(36) 芭蕉と共に『江戸三吟』を発表。 1685(43) 深川の芭蕉庵に近い上野の不忍池や葛飾の安宅で隠居暮らし。 1695(53) 甲斐旅行。 1696-98(54-56) 甲府代官の依頼で濁川の治水工事を行う。 1698(56) 山口堤を完成、感謝される。江戸に帰還。 『 とくとくの句合 』発表。「 目には青葉といひて耳に郭公、口に鰹とをのづから聞ゆるにや。かまくら中の景色これにすぎず 」 1716(享保元)年9月30日、隠居宅で死去。74歳。   宿からん 花に暮なば 貫之の  茶の花や 利休が目には 吉野山   唐土に 富士あらばけふの 月もみよ 【キーワードと感想】 とくとくの句合 とくとく、という音の響きが丸っこくて良い。 【ネットワーク】 林 鵞峰  はやし がほう 1618(元和4)年7月21日 - 1680(延宝8)年6月1日 儒者。林羅山の三男。 松島、この島の外に小島若干あり、ほとんど盆池月波の景の如し  ▼素堂の漢学の師匠。  松尾 芭蕉  まつお ばしょう 1644(寛永21)年 - 1694(元禄7)年11月28日 俳諧師。 古池や蛙飛びこむ水の音  ▼素堂と芭蕉は仲の良い友人同士。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E7%B4%A0%E5%A0%82

安住 敦~定型詩でアルケーを知りたい(840)

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今回は俳句。 ▼ 芹をつみ来し 妻の手が 夜はにほふ 感想 自分の手の事例で言うと、にんにく醤油 作ったあとの手のかおり。 ▼ 安住 敦  あずみ あつし 俳人 【プロフィール】  1907年7月1日、東京市芝区生まれ。 1926(19) 立教中学校卒業。 1928(21) 逓信官吏練習所卒業。逓信省簡易保険局に入所。 1930(23) 短歌を橋田東声に師事。俳句を上司の 富安風生 に師事。 以後8年の間短歌と俳句をともに続ける 1935(28) 日野草城 に師事。 1946(39) 『 春燈 』の創刊編集人。主宰は 久保田万太郎 、発行人は大町糺。「 花鳥とともに人生があり、風景のうしろに人生がなければつまらない 」  1963-88(56-81) 万太郎(74)の死去後、『春燈』を主宰。 1988年7月8日、肺炎で死去。81歳。  ふらんす映画の 終末のごとき別れ とつぶやく  花明し わが死の際も 誰がゐむ 【キーワードと感想】 花鳥とともに人生があり、風景のうしろに人生がなければつまらない  これは『春燈』の編集人としてのメッセージ。そうだ!と共感。知識のうしろ、技術のうしろの人が見えると俄然面白くなる。 【ネットワーク】 富安 風生  とみやす ふうせい 1885(明治18)年4月16日 - 1979(昭和54)年2月22日 俳人。師匠は虚子。よろこべばしきりに落つる木の実かな ▼富安さんは安住さんと職場の上司・部下であり、句作の師匠・弟子の関係だった。22歳違いなので、ほぼ親子ほどの年齢差。 久保田 万太郎  くぼた まんたろう 1889(明治22)年11月7日 - 1963(昭和38)年5月6日 俳人。神田川祭の中をながれけり ▼『春燈』の創刊仲間。 「 いくら苦しくなつても、たとへば、夕霧の中にうかぶ春の灯は、われわれにしばしの安息をあたへてくれるだらう 」と創刊の辞を綴った。 日野 草城  ひの そうじょう 1901(明治34)年7月18日 - 1956(昭和31)年1月29日 俳人。 ミヤコホテルシリーズの作者。▼こちらも安住さんの師匠。富安さんよりぐっと若く、安住さんの6歳上。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BD%8F%E6%95%A6

原 石鼎~定型詩でアルケーを知りたい(839)

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今回は俳句。 ▼ 竹筒に 竹箸なんど 夜鷹蕎麦 感想 昔の屋台の蕎麦屋はエコだったんだ。いま、竹筒に竹箸は贅沢よ。 ▼ 原 石鼎  はら せきてい 俳人。 【プロフィール】 1886年3月19日、島根県出雲市生まれ。父親は医師。 1908(22) 京都府立医科大学入学。校内で句会を起こす。 1911(25) 落第して放校処分。 放浪生活 。 1912(26) 次兄の医業を手伝いながら ホトトギス に投句。 1913(27) 虚子 が称揚 。帰郷し両親から勘当。再び放浪生活。 1915(29) ホトトギス社に入社。虚子の口述筆記などを担当。   秋風や 模様のちがふ 皿二つ 1917(31) ホトトギス社を退社。 1921(35) 小野蕪子の「草汁」を譲り受け「鹿火屋」に改称、主宰。 1923(37) 関東大震災。以降、神経衰弱。 虚子 と対立 。 1934(48) 雪に来て 美事な鳥の だまり居る 1937(51)『自選句集 花影』発表。 1951年12月20日、死去。65歳。   松朽ち  葉 かゝらぬ五百木 無かりけり 【キーワードと感想】 放浪生活 俳人は旅したり、徘徊したりして、句を作る。 【ネットワーク】 高濱 虛子  たかはま きょし 1874(明治7)年2月22日 - 1959(昭和34)年4月8日 松山出身の俳人・小説家。▼虚子が石鼎の句にスポットライトを当てた。10年後に対立してしまう。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%9F%B3%E9%BC%8E

村上 鬼城~定型詩でアルケーを知りたい(838)

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今回は俳句。 ▼ 鷹のつら きびしく老いて 哀れなり 感想 鷹にはきびしくが似合う。鷹を猫に置き換えると違う味わいになる 。 ▼ 村上 鬼城  むらかみ きじょう 俳人、司法代書人。 【プロフィール】 1865(慶応元)年6月10日、江戸の小石川生まれ。父親は鳥取藩士。 1873(8) 群馬県高崎市に移住。 1876(11) 母方の村上家の養子となり村上姓を名乗る。 1884(19) 上京、明治大学で法学を学ぶ。   耳を患う。座右の銘が心耳 。  高崎の裁判所で司法代書人。   子規 と 虚子 に師事。 1913(48) 『 ホトトギス 』同人。 1917(52) 『鬼城句集』 1938(昭和13)年9月17日、高崎市の自宅で死去。73歳。  浅間山 春の名残の 雲かかる  かまきりに 負けてほえ立つ 小犬かな 【キーワードと感想】 心耳 座右の銘。聴覚が不自由だった。   小鳥この頃 音もさせずに来て 居りぬ 困窮生活 8人の娘と2人の息子。  麦飯に 何も申さじ 夏の月  痩馬の あはれ機嫌や 秋高し 【ネットワーク】 高濱 虛子  たかはま きょし 1874(明治7)年2月22日 - 1959(昭和34)年4月8日 松山出身の俳人・小説家。▼鬼城は、51歳の時に代書人を解雇される。この時、虚子が門下の弁護人を立てて応援、復職できた。 阿波野 青畝  あわの せいほ 1899(明治32)年2月10日 - 1992(平成4)年12月22日 難聴の俳人。山又山山桜又山桜 ▼虚子は同じ難聴の青畝に鬼城を紹介、激励した。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%AC%BC%E5%9F%8E

五十嵐 播水~定型詩でアルケーを知りたい(837)

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今回は俳句。 ▼ 初暦 めくれば月日 流れそむ 感想 この句で、それまで気づいたことない感覚が刺激された。そうか、そうだったんだ!と気づいた。 ▼ 五十嵐 播水  いがらし ばんすい 俳人、内科医  【プロフィール】 1899年1月10日、姫路市生まれ。父親は医師。   帰省子に 父の医学の 古びたり 1919(20) 草城 と「神陵俳句会」を結成。 1920(21)  神陵俳句会を発展させた 京大三高俳句会 を結成。 虚子 を招いて結成式。 1923(24) 京都帝国大学医学部卒業。松尾内科勤務。 1930(31) 「九年母 くねんぼ」選者。 1931(32) 京都帝国大学医学部で博士。 大試験 今終りたる 比叡かな 1932(33) 「 ホトトギス 」同人。 1933(34)  秋櫻子 ・ 草城 ・ 誓子 ・ 鈴鹿野風呂らと共に「 京大俳句 」創刊。 1934(35) 「九年母」主宰。 1925-59(26-60) 神戸市立中央市民病院で副院長・院長。 1961-93(62-94) 五十嵐内科。 2000年4月23日、兵庫県で 死去。101歳。   左右より話一度に日短  家中が昼寝してをり猫までも 【キーワードと感想】 虚子 虚子に始まり最後まで 京大医学部博士 素晴らし 101歳  このうえなし 【ネットワーク】 日野 草城  ひの そうじょう 1901(明治34)年7月18日 - 1956(昭和31)年1月29日 俳人。 高熱の 鶴青空に 漂へり  /  夏布団 ふわりとかかる 骨の上  ▼草城と播水は学生時代からの仲間同士。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%B5%90%E6%92%AD%E6%B0%B4

日野 草城~定型詩でアルケーを知りたい(836)

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今回は俳句。 ▼ ものの種 にぎればいのち ひしめける 感想 最初「桃の種」かと思った。ではなくて、ものの種だから種全般の話。そうか、種にはいのちがひしめいているんだ、と教えてもらった。 ▼ 日野 草城  ひの そうじょう 俳人 【プロフィール】 1901(明治34)年7月18日、東京都台東区生まれ。 1918(17) 第三高等学校第一部乙類(英文科)入学。 1919(18) 五十嵐播水 と「神陵俳句会」を結成。 1920(19) 「京大三高俳句会」に改組。 虚子 を招いて結成式。 1924(23) 京都帝国大学法学部法律科卒業。 1924-49(23-48) 大阪海上火災保険に入社。大阪住友海上火災保険株式会社で人事部長、神戸支店長。 1928(27) 秋櫻子 らと共に「 馬酔木 」同人。 1933(32) 秋櫻子 、 誓子 、 播水 、鈴鹿野風呂 らとともに 京大三高 俳句会の俳句誌 「 京大俳句 」の創刊顧問。 1934(33) 「 ミヤコホテル 」10句を発表。 永き日や 相触れし手は 触れしまま 1949(48) 肺結核のため保険会社を退職。 1951(50) 緑内障により右目を失明。 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く 1956(昭和31)年1月29日、心臓衰弱で死去。55歳。  みずみずし セロリを噛めば 夏匂う 【キーワードと感想】 虚子 草城の俳句の始まりは虚子だった。 【ネットワーク】 五十嵐 播水  いがらし ばんすい 1899年1月10日 - 2000年4月23日 俳人、内科医。 草城見舞ふや 矢車草の路を択る   ▼草城と播水は三高時代からの仲間。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E8%8D%89%E5%9F%8E

金子 兜太~定型詩でアルケーを知りたい(835)

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今回は俳句。 ▼ おおかみに 蛍が一つ 付いていた 感想  おおかみと蛍!  思いもよらない組合せ! ▼ 金子 兜太  かねこ とうた 俳人 【プロフィール】 1919(大正8)年9月23日、埼玉県生まれ。父親は開業医、馬酔木の俳人。 1921-23(2-4) 一家で父の勤務地、上海で生活。 1937(18) 高校で句作開始。 白梅や 老子無心の 旅に出る 1941(22) 東京帝国大学経済学部に入学、 楸邨 (36)に師事。 1943(24) 大学卒業、日本銀行入行。 帝国海軍で主計中尉 。  トラック島で命拾い。ミクロネシアで米航空基地建設。 1947-74(28-55) 日本銀行に復職。60年から本店で金庫番。 1974-79(55-60) 上武大学で教授。 1983-(64-) 現代俳句協会で会長。 1987-(68-) 朝日俳壇選者。 2018(平成30)年2月20日、熊谷で死去。98歳。 【キーワードと感想】 上海、トラック島、ミクロネシア  WWIIの間、計6年の海外生活 【ネットワーク】 加藤 楸邨  かとう しゅうそん 1905(明治38)年5月26日 - 1993(平成5)年7月3日 俳人。 木の葉 ふりやまず いそぐな いそぐなよ  ▼楸邨は兜太の師匠。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%85%9C%E5%A4%AA

久保田 万太郎~定型詩でアルケーを知りたい(834)

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今回は俳句。 ▼ 神田川 祭の中を ながれけり 感想 うますぎる句を作るヤな人だねと思った。けど、『春燈』創刊の序文を見て良い心持ちの人だね、と思った。 ▼ 久保田 万太郎  くぼた まんたろう 俳人。 【プロフィール】 1889(明治22)年11月7日、台東区雷門生まれ。父親は足袋製造。 1907(18) 慶應大学予科のとき 東洋城 に俳句を師事。 1911(22) 慶應大学本科に進学。小説や戯曲を『 三田文学 』で発表。 1914(25) 慶應大学文学科を卒業。 1916(27) 傘雨の号で俳句を再開。 1919-26(30-37) 慶應大学で作文講師。戯曲や小説を発表。 1926-33(37-44) 日本放送協会で演劇科長、音楽課長、文芸課長。   あきかぜの ふきぬけゆくや 人の中 1937(48) 劇団文学座を結成。 竹馬や いろはにほへと ちりぢりに   太田 道灌 「 小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる 」 1945(56) 空襲で家財を焼失。 1946(57) 俳句誌『 春燈 』を創刊主宰。「 いくら苦しくなつても、たとへば、夕霧の中にうかぶ春の灯は、われわれにしばしの安息をあたへてくれるだらう 」 1958(69) 叱られて 目をつぶる猫 春隣 『流寓抄』 1963(昭和38)年5月6日、慶應大学病院で死去。74歳。 【キーワードと感想】 雷門生まれ バリバリの江戸っ子。 【ネットワーク】 松根 東洋城  まつね とうようじょう 1878(明治11)年2月25日 - 1964(昭和39)年10月28日 俳人。漱石の弟子。 渋柿の 如きものにては 候へど  ▼東洋城は万太郎の師匠。 安住 敦  あずみ あつし 1907年7月1日 - 1988年7月8日 俳人。芹をつみ来し妻の手が夜はにほふ ▼1946(39)年、万太郎 (57) と 『 春燈 』 を創刊。「 花鳥とともに人生があり、風景のうしろに人生がなければつまらない 」  太田 道灌  おおた どうかん 1432(永享4)年 - 1486(文明18)年8月25日 江戸城を築城した武将。▼ いろはにほへと ちりぢりに のフレーズの先達 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B

荻原 井泉水~定型詩でアルケーを知りたい(833)

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今回は俳句。 ▼ うちの蝶として とんでいる しばらく 感想 笑顔になる句。うちの猫として 座っている しばらく とか、うちの鳥として とまっている しばらく とか言いたくなる。 ▼ 荻原 井泉水  おぎわら せいせんすい 俳人 【プロフィール】 1884(明治17)年6月16日、港区生まれ。父親は雑貨商。  麻布中学。俳句を作り始める。 1908(24) 東京帝国大学文科大学言語学科卒業。 1911(27) 新傾向俳句誌「層雲」を主宰。 碧梧桐 が参加。 1913(29) 山頭火 が層雲に投稿開始。 1915(31) 自然のリズム重視、 無季自由律俳句 を提唱。  碧梧桐は別の道へ。 1923(39) 旅の生活。 1929(45) 鎌倉に転居。 1940(56) 日本俳句作家協会で理事。  昭和女子大学で教授。 1976(昭和51)5月20日、鎌倉の自宅で死去。91歳。  月光ほろほろ 風鈴に戯れ  棹さして 月のただ中  げに山河あり 雲のいでて 月の清さなり 【キーワードと感想】 無季自由律俳句 季語なし5-7-5のリズムなしの俳句、と言あげしたもののやうだ。 【ネットワーク】 種田 山頭火  たねだ さんとうか 1882(明治15)年12月3日 - 1940(昭和15)年10月11日 俳人。 あるけばかつこういそげばかつこう   ▼山頭火は 投稿先に層雲を選んだ。 尾崎 放哉  おざき ほうさい 1885(明治18)年1月20日 - 1926(大正15)年4月7日 俳人。 咳をしても一人   ▼荻原井泉水に師事。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E5%8E%9F%E4%BA%95%E6%B3%89%E6%B0%B4

種田 山頭火~定型詩でアルケーを知りたい(832)

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今回は俳句。 ▼ おちついて 死ねそうな 草萌ゆる 感想  おちついて 死ねそうな 〇〇、の型として 応用してみたくなる句。〇〇は、例えば、花燃ゆる /  空高く  / 川流る / 月の夜 / 日の光 ▼ 種田 山頭火  たねだ さんとうか 俳人。 【プロフィール】 1882(明治15)年12月3日、山口県防府市生まれ。父親は大地主、酒造家 。 1893(11) 母親が死去。 1897(15) 防府高校で文芸同人誌を発行。句作開始。 1904(22) 神経衰弱のため早稲田大学を退学。帰郷。 1913(31) 荻原井泉水 が主宰する『層雲』に山頭火の俳号で投稿。 1916(34) 父親の酒造事業が破産。熊本に移住。弟が死去。 1923(41) 上京時、関東大震災に遭遇。 1924( 42 ) 熊本市の曹洞宗報恩寺で 出家得度 。 1925(43) 吟行開始。旅先から『層雲』に投稿。 1939(57) 松山市に移住「 一草庵 」を結庵。 1940(昭和15)年10月11日、一草庵で死去。58歳。   あるけばかつこういそげばかつこう  へうへうとして水を味ふ  一羽来て啼かない鳥である 【キーワードと感想】 一草庵  自分の居場所に名前をつけるのは格好良い。 【ネットワーク】 荻原 井泉水  おぎわら せいせんすい 1884(明治17)年6月16日 - 1976(昭和51)5月20日 俳人。 げに山河あり 雲のいでて 月の清さなり  ▼井泉水は山頭火の師匠。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E7%94%B0%E5%B1%B1%E9%A0%AD%E7%81%AB

石田 波郷~定型詩でアルケーを知りたい(831)

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今回は俳句。 ▼ 柿食ふや 命あまさず 生きよの語 感想 子規を思った句、だと思う。 ▼ 石田 波郷  いしだ はきょう 俳人。 【プロフィール】 1913(大正2)年3月18日、愛媛県生まれ。父親は農家。  1929(16) 同級生の勧めで俳句を始める。 1930(17) 『 馬酔木 』に投稿開始。 1932(19) 上京し 秋櫻子 (34)のもとで句作。 1933(20) 『馬酔木』で最年少同人になる。 1935(22) 横光利一 (37)や 久保田万太郎 (46)と知り合う。 1936(23) 明治大学文学部を中退、句作に専念。 1937(24) 楸邨(32)と共に『馬酔木』の編集・発行事務。 1942(29) 『馬酔木』同人を辞め、千葉の陸軍に入隊。  山東省に駐留。胸膜炎になる。 1945(32) 帰国、除隊。 1946(33) 「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」 1948(35) 『馬酔木』同人に復帰。 1969(昭和44)年11月21日、東京で死去。56歳。 【キーワードと感想】 馬酔木  波郷に馬酔木があって良かった 【ネットワーク】 横光 利一  よこみつ りいち 1898(明治31)年3月17日 - 1947(昭和22)年12月30日 小説家・俳人。 蟻 臺上に餓えて 月高し / 梅雨晴れや 手枕の骨 鳴るままに  ▼波郷が横光利一と知り合った翌年の1936年に利一はベルリンオリンピック観戦記を書くため外遊する。 久保田 万太郎  くぼた まんたろう 1889(明治22)年11月7日 - 1963(昭和38)年5月6日 小説家、劇作家、俳人。 神田川 祭の中を ながれけり  ▼波郷は大学を中退した後、久保田万太郎を慕って句作に専念した。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%B3%A2%E9%83%B7

加藤 楸邨~定型詩でアルケーを知りたい(830)

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今回は俳句。 ▼ 木の葉 ふりやまず いそぐな いそぐなよ 感想 時の流れ 止まることなし いそぐな いそぐなよ ▼ 加藤 楸邨  かとう しゅうそん 俳人。 【プロフィール】 1905(明治38)年5月26日、東京大田区生まれ。父親は国鉄職員。 1923(18) 金沢一中卒業。小学校で代用教員。 1929(24) 埼玉県立粕壁中学校で教員。 1931(26) 同僚に誘われ俳句を始める。 秋櫻子 と会い師事。『 馬酔木 』に投句開始。 1935(30) 『馬酔木』同人。 1937(32) 秋櫻子の勧めで筑波大学国文科に入学。波郷(24) と共に『馬酔木』の編集・発行事務。 1940(35) 筑波大学を卒業。都立小山台高等学校で教諭。『寒雷』を創刊・主宰。 1942(37) 『馬酔木』同人を辞す。 1945(40) 『寒雷』を休刊。1946(41) 『寒雷』を復刊。 1954-74(49-69) 青山学院女子短期大学国文科で教授。 1993(平成5)年7月3日、東京で死去。88歳。  雉の眸(め)の かうかうとして 売られけり  天の川 わたるお多福 豆一列  たんぽぽの ぽぽと綿毛の たちにけり  秋刀魚焼く 匂の底へ 日は落ちぬ 【キーワードと感想】 馬酔木  投稿、同人、編集で関わったんだ。 【ネットワーク】 水原 秋櫻子  みずはら しゅうおうし 1892(明治25)年10月9日 - 1981(昭和56)年7月17日 医師・俳人。月見草 神の鳥居は 草の中 ▼青邨と秋櫻子は同じ年生まれ。 石田 波郷  いしだ はきょう 1913(大正2)年3月18日 - 1969(昭和44)年11月21日 俳人。バスを待ち 大路の春を うたがはず ▼『馬酔木』の仲間。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%A5%B8%E9%82%A8

阿波野 青畝~定型詩でアルケーを知りたい(829)

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今回は俳句。 ▼ 飯にせむ 梅も亭午と なりにけり 感想 亭午(ていご) は、牛(うま)の刻=昼の12時に亭(いた)る、の意。時計になると牛はうま。昼飯前に使ってみたくなる。飯にせむ 腹も亭午と なりにけり ▼ 阿波野 青畝  あわの せいほ 俳人。 【プロフィール】  1899(明治32)年2月10日、奈良県生まれ。父親は銀行員。 幼少時、難聴になる。 1915(16) 「 ホトトギス 」を知り句作を開始。 1917(18) 句会で 虚子 と出会い師事。 1918(19) 奈良県立畝傍中学校を卒業。南都銀行に入行。 1919(20) 虚子の客観写生に抗議。返書で諭され納得。 1924(25)「ホトトギス」選者。 1929(30) 俳誌「かつらぎ」の主宰。「ホトトギス」同人。 1942(43) 戦時統制令で「かつらぎ」が他誌と合併。 1946(47) 「かつらぎ」を復刊、発行人。 1951(52) 虚子の「ホトトギス」選者退任に伴い「ホトトギス」へ投稿を終える。 1969-(70-) よみうり俳壇大阪本社選者。 1973(74) 第7回 蛇笏 賞受賞。 1992(平成4)年12月22日、兵庫県で死去。93歳。  ルノアルの 女に毛糸 編ませたし  モジリアニの 女の顔の 案山子(かかし)かな  牡丹百 二百三百 門一つ  山又山 山桜又 山桜 【キーワードと感想】 虚子の「ホトトギス」選者退任に伴い「ホトトギス」へ投稿を終える 青畝にとってホトトギスとの付き合いは虚子との付き合いだったんだ。 【ネットワーク】 高濱 虛子  たかはま きょし 1874(明治7)年2月22日 - 1959(昭和34)年4月8日 松山出身の俳人・小説家。▼虚子の「客観写生」に抗議。これに対し虚子は「あなたの芸術を大成するために大事なこと。他日成程と合点の行くときが来る」と返事。青畝、納得。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E9%87%8E%E9%9D%92%E7%95%9D

中村 草田男~定型詩でアルケーを知りたい(828)

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今回は俳句。 ▼ 降る雪や 明治は遠く なりにけり 感想 1931(昭和6)年の作。1989(昭和64/平成元)年。2019(平成31/令和元)年。吹く風や 昭和も遠く なりにけり ▼ 中村 草田男  なかむら くさたお 俳人。 【プロフィール】 1901(明治34)年7月24日、中国の福建省生まれ。父親は領事。 1904(3) 愛媛、1908(7) 東京、1912(11) 松山、1925(24) 東京。 1925(24) 東京帝国大学文学部独文科に入学。 1929(28) 虚子に師事。 東大俳句会 に入会。秋櫻子の指導を受ける。「草田男」の俳号で『 ホトトギス 』に投稿。 1931(31) 独文科から国文科に転科。 1933(32) 東京帝国大学国文科を「子規の俳句観」で卒業。成蹊学園で教師。 1934(33) 『ホトトギス』同人。 1939(38) 学生俳句連盟機関誌「成層圏」を指導。 1949-(48-) 成蹊大学政経学部で国文学教授。 1959-(58-) 朝日俳壇選者。 1967(66) 成蹊大学文学部を退職。非常勤講師。 1969-(68-) 成蹊大学文学部で名誉教授。 1983(昭和58)年8月5日、世田谷の病院で死去。82歳。  友もやや 表札古りて 秋に棲む  葡萄食ふ 一語一語の 如くにて 【キーワードと感想】 【ネットワーク】 加藤 楸邨  かとう しゅうそん 1905(明治38)年5月26日 - 1993(平成5)年7月3日 俳人。 木の葉 ふりやまず いそぐな いそぐなよ ▼ 草田男は 楸邨、 波郷と共に俳句誌の座談会で同席した仲。 石田 波郷  いしだ はきょう 1913(大正2)年3月18日 - 1969(昭和44)年11月21日 俳人。 バスを待ち 大路の春を うたがはず ▼ 草田男は波郷、楸邨と共に俳句誌の座談会で同席した仲。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E8%8D%89%E7%94%B0%E7%94%B7

飯田 龍太~定型詩でアルケーを知りたい(827)

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今回は俳句。 ▼ 白梅の あと紅梅の 深空あり 感想 白、紅、そして濃い青。 ▼ 飯田 龍太  いいだ りゅうた 俳人。 【プロフィール】 1920(大正9)年7月10日、山梨県生まれ。 飯田蛇笏 の四男。 1930(10) 父が自宅で俳誌『雲母』を発行。  1940(20) 折口信夫 に惹かれ、國學院大學文学部国文科に入学。   句作を開始。父の俳誌「 雲母 」の句会に入る。 1941(21) 次兄が病死。病気で休学。 1944(24) 長兄が戦死。 1946(24) 三兄が戦死。 1947(25) 國學院大學を卒業。帰郷し『雲母』の編集に従事。 1951-53(31-33) 山梨県立図書館に勤務。 1952(32) 俳句作家。 1962(42) 父が死去。飯田家の家督を継ぐ。『雲母』主宰を継承。 1966(46) 父母の亡き 裏口開いて 枯木山 1992(72) 『雲母』を900号で終刊。 2007(平成19)年2月25日、甲府で死去。86歳。 【キーワードと感想】 雲母  親子で900号まで続けた俳句誌。 【ネットワーク】 飯田 蛇笏  いいだ だこつ 1885(明治18)年4月26日- 1962(昭和37)年10月3日 俳人。▼龍太は飯田蛇笏の四男。 折口 信夫  おりくち しのぶ 1887(明治20)年2月11日 - 1953(昭和28)年9月3日 民俗学者。▼ 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E9%BE%8D%E5%A4%AA