投稿

2月, 2024の投稿を表示しています

大伴旅人の万葉集331-332番歌~アルケーを知りたい(1085)

イメージ
▼今回の歌は、万葉集に収められた旅人の歌のうち二番目に出てくる作品。大宰府で詠んだ歌。今回は2の1。 ▼この歌が詠まれた背景:小野老 (おののおゆ) 朝臣が大宰少弐として大宰府に着任したので歓迎の宴席が設けられた。 ▼まず小野老が「 あおによし奈良の都は咲く花の にほふがごとく今盛りなり (万328)」で口火を切る。 ▼次に大宰府防人司祐の大伴四綱が「 やすみしし我が大君の敷きませる 国の中には都し思ほゆ (万329)」と「 藤波の花は盛りになりにけり 奈良の都を思ほすや君 (万330)」を詠み、次を旅人に振る。 ▼これを受けて旅人が詠んだのが331から335の歌。 ▼大伴旅人の和歌と*勝手に解釈 帥大伴卿(そちおおとものまへつきみ)が歌五首(はじめの二首) 我が盛りまたをちめやもほとほとに 奈良の都を見ずかなりなむ  万331 *私の盛りの時期はまた戻ってくるのでしょうか。すっかり参ってしまいましたから、奈良の都をまた見ることはないかも知れません。 我が命も常にあらぬか昔見し 象の小川を行きて見むため  万332 *私の命が長らえると良いのですが。というのも、昔見た奈良の象(さき)の小川をまた見に行きたいからです。 ▼ 大伴 旅人  おおともの たびと  665天智天皇4年 - 731天平3年8月31日 66歳。 飛鳥時代~奈良時代初期の公卿・歌人。父親は大伴安麻呂。妻は大伴郎女、百人一首6番歌の歌人・ 大伴家持 は息子。728(63) 大宰府に赴任、山上憶良・満誓らと筑紫歌壇を形成。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の万葉集315-316番歌~アルケーを知りたい(1084)

イメージ
▼今回は聖武天皇が即位した724年、59歳の旅人が作った歌。万葉集に収められた旅人の歌で最初に出てくる作品。 ▼「 山は貴く、水は清く、天地長久、万代不改 」などの言葉で幸いを祈る良い言葉遣いのお手本。聞いていると気持ちが澄んでくる。 ▼ 大伴旅人 の和歌と*勝手に解釈 暮春の月に、吉野の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、中納言大伴卿、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首 并せて短歌 いまだ奏上を経ぬ歌 み吉野の 吉野の宮は 山からし 貴くあらし 水からし さやけくあらし 天地と 長く久しく 万代(よろづよ)に 改(かは)らずあらむ 幸(いでま)しの宮  万315 *吉野の宮においては、山は貴く、水は清いものです。吉野の宮が天地長久、万代にわり変わらず幸いの宮でありますように。 反歌 昔見し象(きさ)の小川を今見れば いよよさやけくなりにけるかも  万316 *昔見た象の小川を今見ると、いよいよ清らかさが増しています。 ▼ 大伴 旅人  おおともの たびと  665天智天皇4年 - 731天平3年8月31日 66歳。 飛鳥時代~奈良時代初期の公卿・歌人。百人一首6番歌の歌人・ 大伴家持 は息子。 728(63) 大宰府に赴任、山上憶良・満誓らと筑紫歌壇を形成。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の酒を讃むる歌13首(4の4)~アルケーを知りたい(1083)

イメージ
▼大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首の三回目。万葉集の347~350。 ▼旅人って良いなと思う歌が続く。旅人の「楽しい」というキーワードが沁みる。 世間(よのなか)の遊びの道に楽しきは 酔ひ泣するにあるべかるらし  万347 *世の中にある遊びの中でいちばん楽しいのは、酔い泣きすることだよ。 この世にし楽しくあらば来む世には 虫にも鳥にも我れはなりなむ  万348 *この世で楽しく過ごせるものなら、来世は虫になっても鳥になっても私は良いぞ。 生ける者遂にも死ぬるものにあれば この世にある間は楽しくをあらな  万349 *生きている者は最後は死ぬのだから、この世に生きている間は楽しくないとね。 黙居(もだお)りて賢しらするは酒のみて 酔い泣きするになほ及かずけり  万350 *沈黙を守って賢ぶっても、酒を飲んで酔い泣きするのには及ばないのだ。 ▼この一連の歌に続いて沙弥満誓が「 世間 (よのなか) を何に譬へむ朝開き 漕ぎ去(い)にし船の跡なきごとし  万351」と詠む。 ▼ 大伴 旅人  おおともの たびと  665天智天皇4年 - 731天平3年8月31日 66歳。 飛鳥時代~奈良時代初期の公卿・歌人。 息子が大伴家持。主君は、文武天皇→元明天皇→元正天皇→ 聖武天皇 。 728(63) 大宰府に赴任、山上憶良・満誓らと筑紫歌壇を形成。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の酒を讃むる歌13首(4の3)~アルケーを知りたい(1082)

イメージ
▼大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首の三回目。万葉集の345~346。宝物よりも酒(ほどよい量)、憂さを晴らすのに酒(適量)。旅人が言うんだからなんぼでも酒を呑んで良いのだ、というわけではもちろん、ない。酒を呑むTPO、範囲を踏まえての話が前提。 値なき宝といふとも一坏の 濁れる酒にあにまさめやも  万345 *金額のつけようもないほどの宝であろうと、一杯の濁り酒にどうして勝るものか。 夜光る玉といふとも酒飲みて 心を遣るにあに及かめやも  万346 *夜に光る貴重な玉であろうと、酒を飲んで憂さを晴らすのに及ぶものではない。 ▼ 大伴 旅人  おおともの たびと  665天智天皇4年 - 731天平3年8月31日 66歳。 飛鳥時代~奈良時代初期の公卿・歌人。 息子が大伴家持。 主君は、 文武天皇 → 元明天皇 → 元正天皇 →聖武天皇。 728(63) 大宰府に赴任、山上憶良・満誓らと筑紫歌壇を形成。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の酒を讃むる歌13首(4の2)~アルケーを知りたい(1081)

イメージ
▼大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首の二回目。万葉集の342~344。旅人さんが「 賢しらをすとあな醜 (賢げな態度はみっともないぞ)」と仰る歌があります。なんだか無駄に入っていた肩の力が抜ける気がします。 言はむすべ為(せ)むすべ知らず極まりて 貴きものは酒にしあるらし  万342 *言いようも為しようもないほど究極に貴いのは酒らしい。 なかなかに人とあらずは酒壺に なりにてしかも酒に染みなむ  万343 *なまじっか賢い人物になるよりいっそ酒壺になれば酒が染みてヨシ。(昔の中国の賢人が自分が死んで300年経ったら土になっているので、その土で酒壺を作るようにと遺言したエピソードを踏まえた歌という話) あな醜賢しらをすと酒飲まぬ 人をよく見ば猿にかも似む  万344 *あららみっともないねえ、賢そうにして酒を飲まない人は。よく見ると猿に似てる。 ▼ 大伴 旅人  おおともの たびと  665天智天皇4年 - 731天平3年8月31日 66歳。 飛鳥時代~奈良時代初期の公卿・歌人。 父親は大伴安麻呂。妻は大伴郎女、息子は、百人一首6番歌の歌人・大伴家持。主君は、 文武天皇 → 元明天皇 →元正天皇→聖武天皇。 728(63) 大宰府に赴任、山上憶良・満誓らと筑紫歌壇を形成。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

大伴旅人の酒を讃むる歌13首(4の1)~アルケーを知りたい(1080)

イメージ
▼大伴旅人は 百人一首の6番歌の作者。旅人の歌は万葉集にたくさんある。たくさんある中で、旅人は 酒を讃める歌を13個作っている。これがしみじみと良いので4回に分けて味わう。 ▼酒を讃めるスタイルを取りつつ、悩む人に向けてもっと力を抜いて、楽しく生きる考え方を教えてくれる箴言集だ。 ▼これらの歌から感じる心情がアルケーではないか、と思うほど。 ▼大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首 万葉集の 338 ~ 341 まで。 験なきものを思はずは 一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし  万338 *どうにもならないことを考えるよりも、一杯の濁り酒を楽しむほうがヨシ。(どうにもならないことに頭を持っていかれるな、何を考えるかを決めるのは自分なのだから) 酒の名を聖と負せしいにしへの 大き聖の言の宜しき  万339 *酒と言わずに聖(ひじり)と呼んだ中国の偉大なる聖人の言やヨシ。 いにしへの七の賢しき人たちも 欲りせしものは酒にしあるらし  万340 *昔の七賢人たちも、欲しがったものは酒だったそうだよ。 賢しみと物言ふよりは酒飲みて 酔ひ泣きするしまさりたるらし  万341 *賢そうにものを言うより、酒を飲んで酔い泣きするほうが勝っているらしいぞ。(賢いのは貴い、賢げにものを言うのがダサい。どうしたら良いか分からん・・・とうろたえるほうがマシだ) ▼大伴 旅人 おおともの たびと  665天智天皇4年 - 731天平3年8月31日 66歳。 飛鳥時代~奈良時代初期の公卿・歌人。 息子は、百人一首6番歌の歌人・大伴家持。 主君は、 文武天皇 →元明天皇→元正天皇→聖武天皇。 728(63) 大宰府に赴任、山上憶良・満誓らと筑紫歌壇を形成。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tabito2.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E6%97%85%E4%BA%BA

百人一首、まとめ~アルケーを知りたい(1079)

イメージ
▼1番から100番までの歌と作者のプロフィールを見てきた。濃かった。 以下、仮まとめ。 (1)大化の改新で始まり、承久の乱で終わる。 ・ 天智天皇 の歌で始まり、 順徳天皇 の歌で締められている。 ・天智天皇は 大化の改新 の中心人物。 ・順徳天皇の父、 後鳥羽天皇 は 承久の乱 の中心人物。 (2)1番歌と100番歌の時代差は約 600年間 。 ・天智天皇が生まれたのは626年、後鳥羽天皇が亡くなったのは1239年。 ・大化の改新は645年、承久の乱は1221年。 (3)有名な歌集の編集者もいらっしゃる。 ・6番歌の 大伴家持 は万葉集を編集者。 ・35番歌の 紀貫之 は古今和歌集の編集者。 ・97番歌の 藤原定家 は百人一首の撰者。 (4)これからどうやってアルケーを知るか。  ここまで来たので、 ・大伴家持の父親の旅人の歌が良き。万葉集に載っている旅人の歌を吟味する。 ・旅人の歌仲間、山上憶良の歌がこれまた良き。そこで万葉集に出ている憶良の歌を吟味する。 ・家持が山柿の門と呼んだ山部赤人と柿本人麻呂の歌を万葉集で吟味。 ・紀貫之が編集した古今和歌集には良き歌が多く、要吟味。 ・物理学はアルケーを探求する学問。和歌はアルケーと通じる方法。そんな気がする。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 wikipedia https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin.html https://honda-n2.com/

天智天皇の歌~アルケーを知りたい(1078)

イメージ
▼ 天智天皇 は百人一首1番歌「 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露に濡れつつ 」の作者。 ▼百人一首のトップバッター、天智天皇。天智天皇の業績を知らないときにみた1番歌と、知ったあとで見る1番歌は、同じ歌なのに印象が変わる。またこれからも変わるのだろう。和歌とは不思議なもの。 ▼天智天皇 / 中大兄皇子 てんちてんのう 626推古天皇34年 - 672天智天皇10年1月7日 46歳。   舒明天皇 の第二皇子、第38代天皇。母親は 皇極天皇 (のち斉明天皇)。 中臣鎌足 と乙巳の変、大化の改新。娘が 持統天皇 。息子が大友皇子( 弘文天皇 )。弟が大海人皇子( 天武天皇 )。 ▼天智天皇の和歌と*勝手に解釈 わたつみの豊旗雲に入日さし 今夜の月夜さやけかりこそ *夕陽が海の上の豊旗雲を照らして輝いている。今夜は清い月夜であろう。 題しらず 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ 我が衣手は露にぬれつつ *秋の田の刈穂を小屋の屋根に差しかけた荒い目なので、私の袖の手は露に濡れている。 題しらず 朝倉や木の丸殿に我がをれば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ *九州朝倉に建てた木の丸殿に私がいると自分の名前を名乗って通り過ぎる者がいる。誰の子だろう。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tennji2.html

持統天皇の歌~アルケーを知りたい(1077)

イメージ
▼ 持統天皇 は百人一首2番歌「 春すぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山 」の作者。 ▼今は2月なので、しばらくすると2番歌の時期になる。 ▼持統天皇と 志斐嫗(しひのおみな)の歌のやりとりが楽しい。 ▼持統天皇 じとうてんのう  645大化元年 - 703大宝2年1月13日 58歳。  中大兄皇子( 天智天皇 )の娘。 天武天皇 の皇后。 ▼持統天皇の和歌と*勝手に解釈 天皇の志斐嫗(しひのおみな)に賜ふ御歌一首 いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語り このごろ聞かずて我恋ひにけり *もういいわと言っても話を止めず強引に聞かせる志斐の婆さま。でもこの頃、 婆さまの 語りを聞いてないので恋しい気がする。 志斐嫗が和へ奉る歌一首 いなと言へど語れ語れと宣らせこそ 志斐いは申せ強ひ語りと言ふ *私が嫌ですと言っても語れ語れと仰るから語りましたのに、それを無理強いして聞かせる強ひ語りなどと仰る。 春過ぎて夏来きたるらし白たへの 衣乾したり天の香具山 *春が過ぎ、夏が来たようだ。天の香具山に白妙の服が干してある。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jitou2.html

柿本人麻呂の歌~アルケーを知りたい(1076)

イメージ
▼ 柿本人麻呂 は百人一首3番歌「 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む 」の作者。 ▼ 大伴家持 は 倭歌の学びの道を 山部赤人・山上憶良、柿本人麻呂に倣う 「山柿之門」とし、 紀貫之 は人麻呂を「 うたのひじり」、 藤原俊成 は「 歌聖」と呼んだ 。 ▼恥ずかしながら私は3番歌にはピンと来なかった。「 磯城島の大和の国は言霊の 助くる国ぞま幸くありこそ 」や「 水沫の如し世の人吾等 」に惹かれる。でもこの先、定家がこの歌を3番歌に選んだ気持ちが分かるかも知れないと思うと楽しみ。 ▼柿本 人麻呂 / 人麿 / 人丸 かきのもと ひとまろ 645大化元年 - 724神亀元年3月18日 79歳。  飛鳥時代の歌人。 持統天皇 の宮廷歌人。三十六歌仙の一人。 ▼柿本人麻呂の和歌と*勝手に解釈 天(あめ)を詠む 天の海に雲の波立ち月の船 星の林に榜ぎ隠る見ゆ *天の海に雲の波を立てながら、月の船が星々の間を漕ぎ渡っていくのが見え隠れする。 雲を詠む あしひきの山河の瀬の鳴るなへに 弓月が岳に雲立ち渡る *川瀬の流れの音が鳴っている山で弓月が雲を引き連れて動いている。 山を詠む 鳴神の音のみ聞きし巻向の 檜原の山を今日見つるかも *噂を聞いていた巻向の檜原山を今日見たのだよ。 河を詠む ぬば玉の夜さり来れば巻向の 川音高しも嵐かも疾(と)き *漆黒の夜になると巻向の川の音が高く響く。すぐに嵐が来るかも。 葉を詠む いにしへにありけむ人も我がごとか 三輪の檜原に挿頭(かざし)折りけむ *昔の人も私のように、三輪の檜原で折り取った枝を頭に差していたのだろう。 所に就けて思ひを発ぶ 巻向の山辺(やまへ)響(とよみ)て行く水の 水沫の如し世の人吾等(われは) *巻向の山で音を立てて流れる川に浮かぶ水沫のようなものだ、世の人間である我われは。 磯城島の大和の国は言霊の 助くる国ぞま幸くありこそ *磯城島の大和の国は言霊が助ける国である。幸いであって欲しい。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro

山部赤人の歌~アルケーを知りたい(1075)

イメージ
▼ 山部赤人 は百人一首4番歌「 田子の浦ゆうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ 」の作者。 ▼万葉集を見るとこの歌には「赤人が富士の山を望(み)る歌一首併せて短歌」のタイトルがついている。「歌一首」が317番(後日吟味)で「併せて短歌」が318番。この歌は318番のほう。 ▼酒でいうと万葉集はにごり酒、百人一首は極上清酒。 ▼赤人の歌には心優しさが感じられて気持ちが和らぐ。 ▼山部 赤人 やまべ の あかひと  ? - 736(天平8)年、滋賀県で死去。?歳。  奈良時代の歌人。歌聖。三十六歌仙の一人。 生年不明。千葉県生まれ。役人。 聖武天皇 の行幸に随行し和歌を詠む。 紀貫之 『古今和歌集』の仮名序: 人麻呂 は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麻呂が下に立たむことかたくなむありける。 ▼山部赤人の和歌と*勝手に解釈 山部宿禰赤人の歌四首 春の野にすみれ摘みにと来こし我ぞ 野をなつかしみ一夜寝にける *春の野原にすみれ狩りにやって来た。野原が良い感じなので一泊したよ。 あしひきの山桜花日並べて かく咲きたらばいと恋ひめやも *山桜が毎日咲き続けるとしたら、こんなにも花を恋しがるかな。 我が背子に見せむと思ひし梅の花 それとも見えず雪の降れれば *妻に見せてやろうと思っていた梅の花。雪が降り積もっているので花かどれか分からない。 明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に 昨日も今日も雪は降りつつ *明日から春菜を摘もうと思って狙いをつけている野原に、昨日も今日も雪が降っております。 反歌 田子の浦ゆ打ち出いでて見れば真白にぞ 富士の高嶺に雪は降りける *田子の浦に出かけると富士山の高嶺に真っ白に雪が降り積もっている。 霞をよみ侍りける 昨日(きのう)こそ年は暮れしか春霞 かすがの山にはやたちにけり *昨日、年が暮れたばかりだというのに、春日山には春霞が立っている。 題しらず ももしきの大宮人はいとまあれや 桜かざして今日も暮らしつ *宮廷勤めの人は隙なのか?桜を頭に差して今日も遊んでいるよ。 題しらず 春雨はいたくなふりそ桜花 まだ見ぬ人に散らまくも惜し *春雨よ、あまり降らないでね。というのも、散ってしまうと まだ桜花を見てない人が 惜しむからね。 山の端に月のいざよふ夕暮は 檜原がうへも霞みわたれり *山の端で月が出るのをスタンバイしている夕暮

猿丸大夫の歌~アルケーを知りたい(1074)

イメージ
▼ 猿丸大夫 は百人一首5番歌「 奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき 」の作者。 ▼5番歌も良いけれど「 秋は来ぬ紅葉は宿に降りしきぬ 道ふみわけてとふ人はなし 」から伝わる静けさ、侘しさが良い。訪う人のいないことをただ寂しいではなく、わずらわしくなくて幸いと思っている節もある。 ▼猿丸 大夫 さるまるの たいふ  ? - ?  歌人。三十六歌仙の一人。  平安時代の書物に「何(いず)レノ世ノ人トモ知レズ」とある謎の人。『古今和歌集』の真名序に「 大友黒主 の歌は、古の猿丸大夫の次(ついで)なり」とある。 ▼猿丸大夫の和歌と*勝手に解釈  題しらず ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬ と思ふは山のかげにぞありける *ひぐらしが鳴いているな、と思っていると日が暮れた、と思っていたら山の影にいたのだった。 是貞親王の家の歌合の歌 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋はかなしき *山の奥で紅葉を踏み分ける鹿の鳴き声が聞こえた。その声を聞くと秋の悲しさを感じる。 題しらず 秋は来ぬ紅葉は宿に降りしきぬ 道ふみわけてとふ人はなし *秋が来た。紅葉が家に降ってくる。道を踏み分けて訪問する人はいない。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E4%B8%B8%E5%A4%A7%E5%A4%AB https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sarumaro.html

大伴家持の歌~アルケーを知りたい(1073)

イメージ
▼ 大伴家持 は百人一首6番歌「 かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞふけにける 」の作者。 ▼ かささぎの渡せる橋=天の川、置く霜の=夜空の星々なので、この歌は「 天の川と周辺で輝く星々を見ているうちに夜が更けた」という意味。 ▼今の言葉に置き換えると意味は分かるけど、元の味わいがなくなる。元の言葉にぞ香り残れる。 ▼大伴 家持 おおともの やかもち 718(養老2)年 - 785(延暦4)年10月5日 67歳。 公卿・歌人。父親は 大伴旅人 。筑紫歌壇の影響の下、若年から歌作りに精進。 憶良・ 人麻呂 ・ 赤人 の伝統を継承。万葉集の編集者。三十六歌仙の一人。 731(13) 父・旅人が死去。 738(20) 内舎人。 784(66) 持節征東将軍。 ▼大伴家持の和歌と*勝手に解釈 船を多胡の浦に泊てて、藤の花を望み見て、懐を述べて作る歌 藤なみの影成す海の底清み しづく石をも珠とぞ我が見る *海が澄んで底が藤の花が影を成しているようだ。濡れた石も玉に見えるよ。 雨晴れて清く照りたる此の月夜 また更にして雲なたなびき *雨が止み月がきれいに照り渡っているこの夜。その上、さらに雲がたなびいている。 珠洲郡より船を発して治郡に還りし時に、長浜の湾に泊てて、月光を仰ぎ見て作る歌 珠洲の海に朝開きして榜ぎ来れば 長浜の浦に月照りにけり *朝、珠洲の海を船出して漕ぎ進んでいると、長浜の浦に着いたときは月が照っていた。 還る時、浜の上に月光を仰ぎ見る歌 渋谷を指して我が行く此の浜に 月夜飽きてむ馬しまし停め *渋谷 (しぶたに) を目指して我らが進んでいるこの海岸。月夜に満足するまで馬をしばし休めましょう。 八月七日夜、守(かみ)大伴宿禰家持の館たちに集ひて宴せる歌 馬並めていざ打ち行かな 渋谷の清き磯廻に寄する波見に *馬を並べ、皆でうち揃って行きましょう。渋谷の清い磯廻(いそみ) に寄せている波を見に。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yakamot2.html

阿倍仲麻呂の歌~アルケーを知りたい(1072)

イメージ
▼ 阿倍仲麻呂 は百人一首7番歌「 天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも 」の作者。 ▼ 阿倍仲麻呂、すごい人。19歳で唐に留学、以後、帰国できず72歳で亡くなるまで唐で過ごした。 ▼安倍 仲麿 / 阿倍 仲麻呂 あべ の なかまろ 698(文武天皇2)年 - 770(宝亀元)年1月 72歳。  奈良時代の遣唐留学生。筑紫大宰帥・ 阿倍比羅夫 の孫。中務大輔・阿倍船守の長男。 717(19) 遣唐使に同行して唐の長安に留学。仲間の留学生に 吉備真備 と 玄昉 がいた。 唐では 玄宗 に仕えた。中国名は、朝衡、晁衡。 李白 ・ 王維 ・ 儲光羲 ら詩人と親交。帰国叶わず。 ▼阿倍仲麻呂の和歌と*勝手に解釈 もろこしにて月を見てよみける あまの原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも *大空を仰ぐと見えるのは、春日の三笠山に出たあの月かも。 この歌には次の説明がついている。「この歌は、昔、仲麿を、もろこしに物習(ものなら)はしに遣はしたりけるに、あまたの年を経て帰りまうで来ざりけるを、この国よりまた使(つかひ)まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、うまのはなむけしけり。夜になりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見て、よめるとなむ、語りつたふる」 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%80%8D%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyuman2.html