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アルケーを知りたい(174) ノーベル化学賞 1902年 エミール・フィッシャーさん

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▼第2回のノーベル化学賞の受賞者はエミール・フィッシャーさん。  ▼エピソード1:博士指導教員のフォン・バイヤー先生が大学を移るとき同道して助手を務める。啐啄(そったく)の事例。 ▼エピソード2:ベルリン大学の教授のときの話。オットー・ハーンさんの上司だった。当時のベルリン大学は女性が研究室に出入りさせていなかった。ウィーンから出てきたリーゼ・マイトナーさんがハーンさんとの共同研究を希望したとき、大学の地下の木工作業所の使用を許可した。融通が利く人物像が伝わる。

アルケーを知りたい(173) ノーベル物理学賞 1902年 ピーター・ゼーマンさん

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▼第2回のノーベル物理学賞は受賞者が2人。ローレンツさんと今回のピーター・ゼーマンさん。 ▼ゼーマンさんの気質が伺えるエピソード:ゼーマンさんがノーベル物理学賞を取る元になった研究は、上司の命令に背くものだった。そのせいで職場をクビになった。

アルケーを知りたい(172) ノーベル化学賞 1902年 ヘンドリック・ローレンツさん

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▼ノーベル物理学賞の第二回受賞者は、物理学者のヘンドリック・ローレンツさん。高校物理ではローレンツ力でお馴染み。

アルケーを知りたい(171) ノーベル化学賞 1901年 ファント・ホッフさん

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▼ノーベル化学賞の第一回受賞者は、物理化学者のファント・ホッフさん。高校化学で学ぶ重鎮。

アルケーを知りたい(170) ノーベル物理学賞 1901年 レントゲンさん

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▼今まで登場した物理学者、化学者にはノーベル賞受賞者が多かった。今回からノーベル物理学賞と化学賞の受賞者をと受賞理由を第1回から順にみていく。受賞者の人脈も併せてみていく。

アルケーを知りたい(169) 核力 Nuclear force

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 ▼核力と核子。核子は陽子と中性子の総称。陽子同士が反発する力を上回る力が核力。核力があるので原子核がぎゅっとまとまっている。では核力はどこから来るのか。陽子と中性子は素粒子ではなくクオークから構成される粒子であることがわかった。ではクオークとは何か? ▼陽子と中性子は素粒子で、核力はπ中間子が媒介する、で話が終われば簡単だったのだが。クオークを知ろうが知るまいが日常生活に支障はない。Society5.0は、古典力学の上に量子力学がもっと浸透する社会になるはず。というのも、量子という言葉を冠した量子計算機に注目が集まっているくらいだから。 ▼原子核の話は知るほどに、教育で量子力学的世界観に触れておく必要があるんじゃないか、という気持ちと、とは言っても、誰が・どこまで・どんなふうに説明するのか教材の標準モデルを作るのは難儀だ、という気持ちと、両方ある。 ▼そもそも大学の実験室で取り組める規模を超えてから、量子力学の研究が別の世界の話になってしまった気がする。キャベンディッシュ研究所でやっていた時期とローレンスさんが大型加速器を「建設」して大人数で研究し始めてからを比べると、違いの一つは、人の顔が見えにくくなったことがある。もうひとつは、イギリス・ヨーロッパの研究者がアメリカのマンハッタン計画に吸収されて、原子核の研究がアメリカにシフトしたこと。WWIIという時期もあって、目に見える成果として現れたのが原爆だったこと。しかもアメリカは人が住む日本の都市に2発落とした。 ▲中性子を発見したジェームズ・チャドウィック James Chadwickさん(1891-1974) 1932年(41才)、中性子を発見。1935年(44才)、ノーベル物理学賞受賞(中性子の発見)。 ▲サイクロトロンを発明したアーネスト・ローレンス Ernest Lawrenceさん(1901-1958) 1930年(29才)、サイクロトロンの基礎理論を発表。1939年(38才)、ノーベル物理学賞受賞(サイクロトロンの開発および人工放射性元素の研究)。 ▲π中間子を発見した湯川秀樹さん(1907-1981) 1935年(28才)、核子を結合させる強い相互作用を媒介する中間子の存在を予言。1949年(42才)、ノーベル物理学賞受賞(陽子と中性子との間に作用する核力を媒介するものとして中間子の存在を予想)。

アルケーを知りたい(168) 半減期 half-life

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 ▼半減期。英語ではhalf-lifeという。短いものから長いものまである。長いものは例えばウランは44億年。 ▼ウランを発見したのはドイツの化学者クラプロートさん。97年後に放射線を発していることをベクレルさんが発見。 ▲マルティン・クラプロート Martin Klaprothさん。ウランを発見したドイツの化学者。 1743年、ドイツのザクセン=アンハルト州ヴェルニゲローデ生まれ。1759年(16才) 薬局の助手。働きながら経験を積む。1770年(27才) ベルリンで著名な化学者ローゼの助手。後、後継者になる。1782年(39才) オーストリアの化学者F.J.ミュラーさんが単体分離した新元素をテルルTeと命名。1789年(46才) 閃ウラン鉱から酸化ウランを精製しウランUを発見。1803年(60才) スウェーデンのバストネス鉱山でセリウムCeを発見。1795年(52才) 鉱石から新しい金属を発見、チタンTiと命名。1798年(55才) ジルコン ZrSiO4 からジルコニウムZrを発見。1810年(67才) ベルリン大学が創設、初代の教授(化学)。1817年(74才) 死去。 ▲アンリ・ベクレル Henri Becquerelさん。 1852年、パリ生まれ。エコール・ポリテクニークで自然科学を国立土木学校で工学を学ぶ。1896年(44才) ウラン鉱石の隣の未感光の写真乾板が感光しているのを見てウランが放射線を発するのを確認。1903年(51才) ノーベル物理学賞受賞(放射能の発見)。1908年(56才) ル・クロワジックで死去。1975年、ベクレルさんの名前に因んで放射線の国際単位がベルレルBqになる。

アルケーを知りたい(167) ガイガー=ミュラー計数管 Geiger-Müller counter

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▼ガイガー=ミュラー計数管。放射線の検出装置。放射線の検出方法には、電離作用と発光作用の二つがある。ガイガー=ミュラー計数管は、電離作用を利用するタイプ。一台で両方の機能を備えた装置も販売されている。 ▲ハンス・ガイガー Hans Geigerさん。電離作用を利用したα線検出器ガイガーカウンタを開発。1882年、ドイツ生まれ。1906年(24才) エアランゲン大学で博士。ラザフォード先生と出会う。1907年(25才) マンチェスター大学でラザフォード先生の助手。1908年(26才) ラザフォード先生と電極を封入したガラス管でα粒子のカウンターを制作。1909年(27才) ガイガー・マースデン実験(1913年まで)。論文 『アルファ粒子の拡散反射について』を発表。1910年(28才) 論文『物質によるα粒子の散乱』を発表。1912年(30才) ベルリン連邦物理工学研究所でリーダー。1913年(31才)マースデンさんと論文『大きな角度でのα粒子の偏向の法則』を発表。1925年(43才) クリスティアン・アルブレヒト大学で教授。1928年(46才) ヴァルター・ミュラーとガイガー=ミュラー計数管を開発。1945年(63才) ポツダムで死去。 ▲ヴァルター・ミュラー Walther Müllerさん。ガイガー=ミュラー計数管を開発。1905年、ドイツのハノーファー生まれ。1925年(20才) キール大学でガイガーさんの指導を受ける。1928年(23才) 放射線による気体の電離の研究からガイガー=ミュラー計数管を開発。1939年(34才) WWII。1945年(40才) WWII終戦。テュービンゲン大学で教授。オーストラリアで経済省の顧問。アメリカでGM管の製造会社を設立。1979年(74才) カリフォルニアで死去。

アルケーを知りたい(166) シンチレーション検出器 scintillation detector

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▼シンチレーション検出器。放射線が当たると蛍光を発する現象を利用した装置。最初は人が暗闇に目を慣らしてカウントしていた。それが時代が進むと光電子増倍管によって自動で捉えられるようになる。時代を戻すと分光装置になる。実験装置の発明、発展の過程が伺える。 ▲ロベルト・ブンゼン Robert Bunsenさん。ドイツの物理学者。1811年、ゲッティンゲン生まれ。1828年(17才) ゲッティンゲン大学に入学。数学をガウス先生に習う。1831年(20才) ゲッティンゲン大学でPhD。1834年(23才) ゲッティンゲン大学で講師。実験中に爆発で右目を失明。1841年(30才) マールブルク大学で正教授。ブンゼン電池を発明。1852年(41才) ハイデルベルク大学理学部化学教室で教授。1855年(44才) 加熱した物質から出る光のスペクトルを観察する実験のため安定した高温の炎を出すブンゼン・バーナーを開発。1859年(48才) キルヒホッフさんとプリズムを使ったスペクトル分析法でスペクトル分光装置を開発。この装置とブンゼン・バーナーで新元素の探索を開始。1860年(49才) セシウムCsを発見。1861年(50才) ルビジウムRbを発見。1870年(59才) 氷熱量計を発明。1887年(76才) 蒸気熱量計を発明。1899年(88才) ハイデルベルクで死去。 ▲グスタフ・キルヒホフ Gustav Kirchhoffさん。ロシア生まれ、ドイツの物理学者。1824年、ロシアのカリーニングラード生まれ。1847年(23才) ケーニヒスベルク大学卒業。1849年(25才) 電気回路におけるキルヒホフの法則を発表。1854年(30才) ハイデルベルク大学で教授。R・ブンゼンさんと出会う。分光学的アプローチを開始。1859年(35才) ブンゼンさんと共同で分光器spectroscopeを発明。これを使って太陽光を分析。黒体放射におけるキルヒホフの放射法則を発見。1860年(36才) ブンゼンさんとセシウムCsを発見。フラウンホーファー線が元素の吸収スペクトルを示すと発見。1861年(37才) ブンゼンさんとルビジウムRbを発見。1887年(63才) ベルリンで死去。 ▲ウィリアム・クルックス  William Crookesさん。イギリスの物理学者。1832年、ロンドン生まれ。1848年

アルケーを知りたい(165) 霧箱 cloud chamber

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▼霧箱。目に見えない放射線を視覚的に捉える実験方法。 ▲チャールズ・ウィルソン Charles Wilsonさん。スコットランドの物理学者。1869年、スコットランドのエディンバラ生まれ。1892年(23才) ケンブリッジ大学を卒業。1893年(24才) 気象学に興味を持ち雲の性質の研究を開始。山で観測する雲の状態を実験室で再現したいと考える。1894年(25才) スコットランド最高峰のベン・ネヴィスサンチュの天文台で数週間を過ごす。雲が日光に当たってできる美しい自然現象に心を打たれ、同じ自然現象を実験室で再現したいと思う。1895年(26才) キャベディッシュ研究所でJJトムソン先生の助手。人工的に雲を発生させる研究、霧箱の開発に着手。雲の発生原因について、当時「空中に浮遊する塵」説と「イオン」説が対立していた。1904年(35才) 空気中にイオンが発生する理由が不明のまま、霧箱実験を終了。1910年(41才) イオンを可視化する研究を開始。蒸気の凝縮で荷電粒子の飛跡を観察できる霧箱を使用して、X線の他にα線、β線、γ線の飛跡を発表。1911年(42才) 霧箱を用いて世界で初めてα粒子とβ粒子の飛跡の写真撮影に成功。1912年(43才) さらに改良した霧箱を作成して放射線の飛跡を撮影。1918年(49才) WWI終戦。ケンブリッジ大学で講師(気象電気学)。1927年(58才) ノーベル物理学賞受賞(霧箱の考案)。1936年(67才) カール・アンダーソンさんがノーベル物理学賞受賞(陽電子の発見)。霧箱で宇宙線の軌跡を観測中にポール・ディラックさんが予言していた陽電子を発見。1948年(79才) パトリック・ブラケットさんがノーベル物理学賞受賞(霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見)。1959年(90才) スコットランドのエディンバラで死去。 ▲パトリック・ブラケット Patrick Blackettさん。イギリスの物理学者。1897年、ロンドンのケンジントン生まれ。1914年(17才) WWI。海軍に入りで軍艦乗務で参戦。1919年(22才) WWI終戦後、除隊しケンブリッジ大学で数学と物理を学ぶ。1921年(24才) キャヴェンディッシュ研究所でラザフォード先生の元で実験物理学の修業を開始。1922年(25才) 霧箱を改良(ピストンが自動的に上下

アルケーを知りたい(164) γ線 gamma ray

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▼γ線。原子核から出てくる電磁波。原子から出てくる電磁波はX線。由来が違う。 ▲マリー・キュリー Marie Curieさん。1867年、ポーランドのワルシャワ生まれ。1891年(24才) パリ大学入学。アパートの屋根裏部屋暮らし。1893年(26才) パリ大学で学士(物理学)。1894年(27才) ピエール・キュリーと出会い翌年、結婚。1898年(31才) ピッチブレンドの分析に夫妻で着手、ポロニウム発見の論文を発表。1903年(36才) パリ大学で博士(理学)。ノーベル物理学賞受賞(放射能の研究)。女性初の受賞者。1906年(39才) 夫ピエールが馬車に轢かれて死亡。パリ大学で教授。1911年(44才) ノーベル化学賞受賞(ラジウムおよびポロニウムの発見とラジウムの性質およびその化合物の研究)。1914年(47才) WWI。赤十字放射線局長。1918年(51才) WWI終戦。1925年(58才) キュリー研究所設立。1934年(67才) フランスで死去。 ▲ピエール・キュリー  Pierre Curieさん。1859年、パリ生まれ。1875年(16才) パリ大学(ソルボンヌ)に入学。1877年(18才) パリ大学で学士。1883年(24才) パリ市立工業物理化学高等専門大学で教員。1895年(36才) マリさんと結婚。1898年(39才) マリさんと共同でラジウムRaを発見。放射能や放射性元素という用語を作る。1903年(44才) ノーベル物理学賞受賞(放射能の研究)。体調不良で授賞式を欠席。1904年(45才) パリ大学で物理学教授。1906年(47才) 馬車事故で死去。

アルケーを知りたい(163) γ崩壊 gamma decay

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▼γ崩壊。不安定な原子核が崩壊するときγ線を放出する崩壊。 ▲ポール・ヴィラール Paul Villardさん。γ線を発見したフランスの物理化学者。1860年、フランスのリヨン近郊生まれ。1881年(21才) 高等師範学校を卒業。リセで教師。パリ高等師範学校の化学部門に勤務。1888年(28才) 化合物を研究(1896年まで)。博士。1896年(36才) アンリ・ベクレルさんがウランの放射線を発見。1897年(37才) クルックス管で陰極線とX線を研究。論文発表を開始。1900年(40才) ウランの放射線から、電荷を持たず・透過力が高い放射線を発見。α線とβ線に続く3番目の放射線。しかし、注目を集めなかった。1903年(43才) ラザフォードさん(32才)がヴィラールさんの発見した放射線をγ線と命名。1908年(48才) 安全で正確な放射線量測定方法を研究。電離放射線の線量測定のため電離箱を使用。1934年(74才) フランスのバイヨンヌで死去。 ▲アーネスト・ラザフォード Ernest Rutherford 1871-1937 イギリスの物理学者。原子物理学の父。

アルケーを知りたい(162) β粒子 beta particle

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▼ベータ粒子。β粒子は中性子が崩壊して原子核から飛び出てきた電子をいう。 ▲フレデリック・ライネス Frederick Reinesさん。パウリさんが存在を予想したニュートリノを発見した物理学者。1918年、ニュージャージー州のパターソン生まれ。1944年(26才) ニューヨーク大学でPh.D. マンハッタン計画に参加。1946年(28才) ビキニ環礁での原爆実験クロスロード作戦に参加。1951年(33才) 太平洋で実施した5回にわたる原爆実験グリーンハウス作戦でディレクタ。核汚染の防止策として地下核実験に切り替える。1953年(35才) 原子炉で発生したニュートリノを検出する実験。1954年(36才) 大型装置でニュートリノの発生頻度を計測。パウリさんが予測していたニュートリノの存在を証明。1957年(39才) ロスアラモス国立研究所を退任、ジョージ・ワシントン大学で教授。1966年(48才) カリフォルニア大学アーバイン校で教授。1995年(77才) ノーベル物理学賞受賞(ニュートリノを検出したレプトン物理学の先駆的実験)。2003年(85才) カリフォルニア州オレンジで死去。 ▲クライド・カワン Clyde Cowanさん。アメリカの化学者。1919年、ミシガン州デトロイト生まれ。1940年(21才) ミズーリ工科大学で化学工学を学ぶ。1942年(23才) アイゼンハワー第8航空隊に所属しロンドン勤務。1943年(24才) ドイツ軍のガス攻撃に備えた清浄化装置の設計・開発。1946年(27才) 軍を退役、セントルイス・ワシントン大学で修士。1949年(30才) セントルイス・ワシントン大学で博士。1951年(32才) ロスアラモス国立研究所でフレデリック・ライネスさんとニュートリノの研究を開始(1956年まで)。1956年(37才) ライネスさんと共にニュートリノを発見。1958年(39才) カトリック大学で教授(1974年まで)。1974年(55才) メリーランド州ベセスダで死去。

アルケーを知りたい(161) β崩壊 beta decay

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▼ベータ崩壊。原子核が電子を放出する崩壊。このとき原子核の中性子が陽子に変わる。ニュートリノも出てくる。不思議きわまれり。 ▲ヴォルフガング・パウリ  Wolfgang Pauliさん。ウィーン生まれの物理学者。1900年、ウィーン生まれ。父方がユダヤ系。1921年(20才) ミュンヘン大学で博士。1923年(23才) ハンブルク大学の講師(28年まで)。量子力学の理論を構築。1924年(24才) 同じ量子状態には2個以上の電子が存在できないとするパウリの排他原理を提案。1930年(30才) 放射性同位元素の原子核崩壊によって中性粒子が発生すると予言。1931年(31才) 精神に不調を来たしカール・ユング先生に診察してもらう。1934年(34才) パウリさんが提唱した中性粒子にフェルミさんがニュートリノ(59年に観測)と名付けて論文発表。1940年(40才) アメリカに移住。プリンストン大学の教授(理論物理学)。1945年(45才) WWII終戦。ノーベル物理学賞受賞(パウリの原理とも呼ばれる排他原理の発見)。1946年(46才) チューリッヒに戻る。1958年(58才) 死去。 ▲ウェルナー・ハイゼンベルク  Werner Heisenbergさん。ドイツの物理学者。1901年、ドイツのバイエルン州生まれ。1923年(22才) ミュンヘン大学で博士。1926年(25才) コペンハーゲン大学でボーア先生の助手。1927年(26才) 不確定性原理に取り組む。W・パウリ先生に原理を述べた報告を書く。1932年(31才) ノーベル物理学賞受賞(量子力学の創始ならびにオルト、パラ水素の発見)。1933年(32才) ナチスや反ユダヤ主義の物理学者から「白いユダヤ人」と批判。1942年(41才) カイザー・ヴィルヘルム協会の研究所所長、教授になる。ドイツ軍備大臣に45年までに原子爆弾を製造するのは資金・人材不足の理由で困難とレポート。1946年(45才) マックス・プランク物理学研究所の所長(70年まで)。1953年(52才) 欧州原子核研究機構CERNの創設に貢献。1976年(75才) 死去。

アルケーを知りたい(160) α粒子 alpha particle

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▼α粒子。α崩壊によって出てくる粒子。α粒子の流れがα線。 ▲ジョージ・ガモフ George Gamowさん。ロシア生まれのアメリカの物理学者、著作家。1904年、ロシア帝国オデッサ生まれ。1928年(24才) レニングラード大学を卒業。ケンブリッジ大学へ入学。α粒子が原子核を出る説明に量子論のトンネル効果を適用。1931年(27才) レニングラード大学で教授。1933年(29才) スターリン独裁のソ連を嫌って出国。1934年(30才) ジョージ・ワシントン大学で教授(1954年まで)。1940年(36才) アメリカ国籍を取得。1956年(52才) コロラド大学ボルダー校で教授。1968年(64才) コロラド州ボルダーで死去。

アルケーを知りたい(159) α崩壊 alpha decay

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 ▼α崩壊。放射性物質が質量数4のHeの原子核を放出する崩壊。崩壊して最後は鉛Pbになる。 ▲アーネスト・ラザフォード Ernest Rutherfordさん。1871-1937 原子物理学の父。1908年、ノーベル化学賞受賞(元素の崩壊、放射性物質の化学に関する研究) ▲トーマス・ロイズ Thomas Roydsさん。1884-1955 イギリスの物理学者。1907~1909年、マンチェスター大学でラザフォード教授(物理学)の元でα粒子の識別に取り組む。1911年、マンチェスター大学で博士(物理学)。南インドのコダイカナル太陽観測所で助手。後、所長。1938年、トルコのイスタンブール大学で教授(天文学)と天文台所長を務める(1947年まで)。

アルケーを知りたい(158) 放射線 ionising radiation

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▼放射線。高エネルギーの粒子や電磁波のこと。人体に影響するので取扱いが厳重注意。 ▲ロルフ・マキシミリアン・シーベルト Rolf Maximilian Sievertさん。スウェーデンの放射線物理学者。1896年、スウェーデンのストックホルム生まれ。父は電線製造のシーベルトケーブルワークス創業者。1913年(17才) 父が死去。会社を相続。1919年(23才) ウプサラ大学入学で修士(理学)。シーベルトケーブルワークスの代表就任。ノーベル研究所で助手。1920年(24才) 自費で渡米、放射線の研究・治療施設を視察。放射線量を測定する電離箱であるシーベルトチャンバーを開発。1924年(28才) 私設の研究所「ラジウムヘメット」を開設。後、スウェーデン国立放射線防護研究所。初代所長(1937年まで)。1928年(32才) シーベルトケーブルワークスの経営を叔父に任せる。国際X線ラジウム防護委員会(IXRPC、後の国際放射線防護委員会)の設立メンバー、初代議長。1932年(36才) ウプサラ大学入学で博士。ストックホルム大学で准教授。1941年(45才) カロリンスカ研究所で教授(放射線物理)。1958年(62才) 国際放射線防護委員会(ICRP)で委員長(1962年まで)。原子放射線の影響に関する国連科学委員会で委員長(1960年まで)。1966年(70才) ストックホルムで死去。 1976年、ICRPが放射線の人体に与える影響量の単位にシーベルト〔Sv〕を制定。 マックス・シーベルト Maximilian Friedrich Sievert ロルフの父親、企業経営者。1849年、ドイツのザクセン州ツィッタウ生まれ。ドイツの工業機械をスウェーデンで販売。1884年(35才) スウェーデン市民になる。1888年(39才) 電線会社シーベルトケーブルワークスを兄弟と設立。スウェーデンの企業で最大の雇用規模になる。1896年(47才) ロルフが誕生。1913年(64才) ストックホルムで死去。

アルケーを知りたい(157) 放射能 radioactivity

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▼放射能。放射線を出す能力のことを放射能という。放射能の単位はベクレル。ベクレルが大きいほど、たくさんの放射線が出ている。 ▼ベクレルはフランスの物理学者アンリ・ベクレルさんの名前に因んだ単位。ベクレルさんにレントゲンさんのX線論文を紹介したのはフランスの数学者のポアンカレさん。 ▲アントワーヌ・アンリ・ベクレル Antoine Henri Becquerelさん。フランスの物理学者。1852年、パリ生まれ。4代にわたる物理学者の家系生まれ。エコール・ポリテクニークで自然科学、国立土木学校で工学を学ぶ。1892年(40才) 国立自然史博物館、パリ国立高等鉱業学校で研究。1896年(44才) レントゲンさんがX線を発見。ポアンカレさんからその論文を貰う。ウランの放射線を確認。1903年(51才) マリー・キュリーさんの博士指導教員としてパリ大学博士(理学)DScを後押し。ノーベル物理学賞をキュリー夫妻と受賞(放射能の発見)。1908年(56才) 放射線障害で死去。1975年、ベクレルさんの名前に因んで放射線の国際単位がベルレルBqになる。 ▲ジュール=アンリ・ポアンカレ Jules-Henri Poincaréさん。フランスの数学者。1854年、北フランスのナンシー生まれ。父はナンシー大学の医学教授。1873年(19才) エコール・ポリテクニーク入学。シャルル・エルミートさんの下で数学を学ぶ。1875年(21才) エコール・ポリテクニーク卒業。1875年(21才) 高等鉱業学校で鉱業工学と数学を学ぶ。1879年(25才) 鉱業技術者の学位を取得。パリ大学で博士(理学)、指導教員はシャルル・エルミートさん。ノルマンディーのカーン大学で講師(数学)。1881年(27才) パリ大学の理学部で准教授。1896年(42才) 同僚のベクレルさんにレントゲンさんのX線の論文を渡す。1905年(51才) 重力波を提唱。1912年(58才) パリで死去。