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方解石の複屈折の発見~ラスムス・バルトリン:アルケーを知りたい(538)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼ 方解石の複屈折 は教科書では写真入りで紹介される光の屈折の典型例。これを発見したのがデンマークのラスムス・バルトリン。 ▼分からないことがある。ラスムスは10代の間、ヨーロッパを遊学している。この時期のヨーロッパでは80年戦争や30年戦争が起きている。 戦争が起こっていても遊学できた、というのはどういう感じだったのだろう?  危なくて遊学なんかさせられないと親は思わないのだろうか。バルトリンの実家は学者一族なので、学問研鑽のため、他国に危険を避けて旅をするノウハウの伝承があったのだろうか。 ▼もうひとつ分からないこと。医師で文法学者のラスムスが複屈折を発見して報告したこと。物理学者の仕事でしょう、と思う内容だ。 今の専門分野の目で400年前の人たちの仕事を見ると、捉えにくいことがたびたび出てくる 。今回もそうだ。専門の看板の下で仕事をするというより、興味があることを追いかけていたようだ。 ▼ ラスムス・バルトリン  Rasmus Bartholin 1625 - 1698 デンマークの医師、文法学者 【時代環境】 1618 - 1648 ~ 30年戦争(カトリックvsプロテスタント戦争@ドイツ) 1643 - 1645 ~ トルステンソン戦争(30年戦争中のデンマークvsスウェーデンの局地戦) 1657 - 1660 ~ カール・グスタフ戦争(デンマークvsスウェーデン間の戦争。デンマークは敗北して領土を失いヨーロッパの小国になる) 1675 - 1679 ~ スコーネ戦争(デンマークvsスウェーデン間の領土争い。フランスの仲裁で引き分け) 【教育】ヨーロッパを10年間遊学、1647(22)コペンハーゲン大学で修士。1654(29)パドヴァ大学で博士。 【職業】コペンハーゲン大学で教授、幾何学と医学。 【業績】1657(32)デンマーク語の文法書『 De studio lingvæ danicæ 』をラテン語で執筆、発表。 1669(44)方解石による光線の複屈折を発見。当時は現象の説明がつかず。130年後、トマス・ヤングによる光の波動説で説明可能となった。 【ネットワーク】 トーマス・バルトリン  Thomas Bartholin  1616 – 1680  ラスムスの 兄。人間のリンパ系を発見したデンマークの医師。 トマス・ヤング

リンの発見~ヘニッヒ・ブラント:アルケーを知りたい(537)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今回はリンを発見した人物。ヘニッヒ・ブラントはドイツの錬金術師。 錬金術師のテーマは「賢者の石」の発見で、その過程でブラントはリンを発見した という。前回の ロバート・ボイルはブラントより3つ年上の錬金術師 。錬金術師と呼ぶか、化学者と呼ぶかでイメージががらりと変わる。ボイルは両方の顔を持っていた。 ▼ブラントがリンを発見したことを知ったボイルは自分も作りたいと考え、ドイツの錬金術師を雇って挑戦して1680年に成功する。ブラントの発見の11年後の話。 ▼ リン について。元素記号 P 、原子番号 15 。phosphorus。ギリシャ語で「 光を運ぶもの 」の意。 ▼ ヘニッヒ・ブラント  Hennig Brand 1630-1692 ドイツの錬金術師  【時代環境】1618 - 1648 ~ 30年戦争(カトリックvsプロテスタント戦争@ドイツ) 【教育】? 【職業】ガラス職人見習い、30年戦争中は下級陸軍士官、錬金術師 【業績】 1669、人の尿からリンを分離。製法を公開しフリードリヒ公から報酬を受け取る 【ネットワーク】 ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャー  Johann Joachim Becher 1635年5月6日 – 1682年10月 ドイツの医師、錬金術師。一時期、ボイルに錬金術師として雇われた。ゴッドフリーをボイルの助手として推薦した アンブローズ・ゴッドフリー  Ambrose Godfrey 1660 - 1741 ドイツ生まれ 1679~82、リンの製造に興味を持っていたロバート・ボイルの助手を務める。リンの製法を学びにブラントを訪問。1680、ボイルによるリンの発見に貢献。1707~英国でリン製造業者になる 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Hennig_Brand

ボイルの法則~ボイル:アルケーを知りたい(536)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼ ボイルの法則 は、例えば、注射器型のシリンダーの出口をふさいでピストンに力を加えて押すと容積が小さくなる。逆にピストンを引っ張ると容積が増える。 気体の体積と圧力の積は一定 、別の言い方をすると、 気体の体積は圧力と反比例する 、というもの。 ▼ボイルが気体に関心を持ったきっかけはゲーリケの真空ポンプだ。ゲーリケは、半球を合わせて真空ポンプで中を真空にし、馬で引っ張っても離れないという、ビジュアル的にも映えるデモを行っていた。このインパクトがヨーロッパからイギリスのボイルまで伝わった。 ▼ボイルは、真空ポンプ面白い、作ってみよう、ということで ロバート・フック (22)を助手にしてプロジェクト開始。このときボイル30歳。着手して2年で完成し、気体の計測実験やデモを行う。3年目の1660年、ボイルは研究成果を出版。この一連の間、フックは製作だけでなく、実験、計測、人前でのデモなどで大活躍した。 ▼1660は王政復古の年。オランダに亡命していたチャールズ2世を軍艦で迎えに行く一団にボイルも加わっていた。こんな大騒動の最中にボイルは真空ポンプ実験の一連を発表している。アタマの切り替えの上手さ! ▼ボイルはロンドン理学協会あるいは Invisible College と呼ばれる私的な研究グループに参加していた。こういうグループはちょっと秘密っぽくて良い。けど、後で王立協会という大権威になるので、発展は大いに喜ばしいことであるものの、その前段階の興味関心を同じくして集まった人の会合に魅力がある。しかも名前がインビジブル=見えない、だからなおさら。ネーミングで惹かれるグループとしては百年後に出てくるルナ・ソサイエティ Lunar Society がある。 ▼ロバート・ボイル Robert Boyle 1627 - 1691 アイルランド・リズモア出身の化学者、錬金術師。 【時代環境】1642、清教徒革命。ボイルの兄が戦死 1660、王政復古 1665、ペスト流行 1666、ロンドン大火 【教育】家庭教師。イートン・カレッジ卒業 【職業】資産家 【業績】 1661、アリストテレスの4元素説(空気、水、土、火)を批判する著作『懐疑的化学者』を発表。近代化学の祖とされる 1662、ボイルの法則を発表 【ネットワーク】 ガリレオ・ガリレイ Galileo

幾何光学のフェルマーの原理~フェルマー:アルケーを知りたい(535)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼フェルマーは、本業がフランスの裁判官、余暇に数学を楽しむ数学者で「 数論の父 」と呼ばれる人。アルケーを知りたい(533)で、27歳のホイヘンスが光の問題の解決に数学を導入したいと思って20以上年上のフェルマー(49)に連絡するけれど、結局うまくやりとりができなかった、というエピソードを紹介した。結局、 フェルマーは単独で光の伝搬に関する問題に取り組み、54歳のときにフェルマーの原理に到達 する。 ▼ホイヘンスがレンズを磨いたり望遠鏡を組み立てたりする理論・実行タイプであるのに対し、フェルマーは理論タイプ。1世紀の数学者 ディオファントス の著書『算術』を書き込みを入れながら考えるスタイル。発表には関心がなかったようで、フェルマーの仕事が知られるのは死後、息子が『算術』の書き込みを公開してから。 ▼ ピエール・ド・フェルマー  Pierre de Fermat 1607 - 1665  【時代環境】フェルマーが41歳のとき80年戦争と30年戦争が終わる。ナントの勅令は生まれて死去するまで有効だった。 1568 - 1648 ~ 80年戦争(対スペインのオランダ独立戦争) 1598 - 1685 ~ ナントの勅令(フランス王がプロテスタントにカトリックと同じ権利を認めた) 1618 - 1648 ~ 30年戦争(カトリックvsプロテスタント戦争@ドイツ) 【教育】オルレアン大学で民法の学士 【職業】トゥールーズ高等法院の法律家 【業績】 1661、フェルマーの原理を発見 【ネットワーク】 ディオファントス Diophantus 214 -  298 エジプトの数学者。『算術』の著者。「代数学の父」 1630、フェルマーは。ディオファントスの『算術』に48の注釈を入れる。 ジェロラモ・カルダーノ Gerolamo Cardano 1501 - 1576 イタリアの数学者。フェルマーはカルダーノの確率論を勉強した。カルダーノの名言「 ギャンブラーは、全くギャンブルをしないことが最大の利益となる 」 ルネ・デカルト  René Descartes 1596 - 1650 フランスの数学者。1636、フェルマーと交流。フェルマーはデカルトとは 別に 解析幾何学を考案。 ブレーズ・パスカル Blaise Pascal 1623 - 1662 フラン

フックの法則~ロバート・フック:アルケーを知りたい(534)

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  今回の話題は(A)物理学。 ▼ ばねの復元力を表すフックの法則 。高校物理では力学の最初に出てくる話題(私は今もばねは難しいと思っている)。 ▼フックはホイヘンスと同時代人。ホイヘンスのいたオランダ、フランスもごちゃついて落ち着かない時代だった。イギリスも内戦をやったりして何とも知れない。それでも王立協会が設立され、世界で初めての学術誌の刊行が始まるなど創造的な動きもあった。 ▼フックは 王立協会の実験デモ担当、事務局長 としてイギリスとヨーロッパの最新の科学的知見を受け付ける立場にあった。すごく有利なポジションにいたわけだ。 ▼ ロバート・フック  Robert Hooke 1635 - 1703 イギリス 自然哲学者 【時代環境】 1600 - 1874、イギリス東インド会社 1642 - 49、国王派vs議会派の戦い、清教徒革命 1660、王立協会創設 1666、ロンドン大火 【教育】オックスフォード大学クライスト・チャーチで学士。1691、グレシャム大学で医学博士 【職業】1662、 王立協会の実験監督 、1665から 王立協会事務局長 。1664、グレシャム大学で幾何学教授 【業績】1660、 弾性についての『フックの法則』を発見 1670、王立協会でぜんまいばねのデモを行う 1665、『 顕微鏡図譜 』を出版。 cell(細胞) という用語を使う 【ネットワーク】 トーマス・ウィリス Thomas Willis 1621 - 1675 イングランドの医師。王立協会の創設メンバー。1656-58、オックスフォード大学の 化学助手として雇ったフック(21-23)を大いに評価 した。 ロバート・ボイル Robert Boyle 1627 - 1691 アイルランドの化学者。1657、オックスフォード大学で ゲーリケの真空ポンプを製作(1659完成)するときフックが助手を務めた (1662まで)。1660、ボイルの法則を発表。 ピーター・レリー Peter Lely 1618 - 1680 オランダ出身のイングランド宮廷画家。 フックは13歳で弟子入り、短期間、画家修業 。 クリストファー・レン Christopher Wren 1632 - 1723 イギリス王室の建築家。1666、ロンドン大火後の復興に尽力。グリニッジ天文台、後の大英博物館になるモンタギ

振子時計を発明した~ホイヘンス:アルケーを知りたい(533)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼ 振子の等時性を発見したガリレオ 。 振子の等時性を活用して時計にしたのがホイヘンス 。高校物理では波の伝わり方でホイヘンスの原理が出てくる。 ▼世界史で「 ナントの勅令 」という用語が出てくる。ホイヘンスがフランスで20年近く働くことができたのはナントの勅令があったから。1685年に廃止されるとホイヘンスはフランスで働けなくなり、オランダに戻る。こういう影響を及ぼしたのがナントの勅令である。 ▼ホイヘンスの父親がガリレオやデカルトと友達だったので、クリスティアーンはこういう人たちと話をして考え方や実験方法を知るという経験ができた。 ▼クリスティアーンの魅力は多いので、箇条書きしてみた。 ・ハープシコードを弾いていた。音律は平均率が好きだった。 ・航海用の時計(マリン・クロノメーター )を作るのが狙いで振子時計を作った。しかし振子時計は揺れる船では使えなかった。後年、懐中時計を発明してマリン・クロノメーターの足がかりを作る。 ・レンズ磨きオタクだった。 ・周囲の人と摩擦を起こすタイプではなかった。 ・父親が外交官でヨーロッパの知識人とネットワークがあり、クリスティアーンの無形資産になった。 ・鬱に苦しんだ。 ・生まれたときから56歳までカトリックvsプロテスタントの対立の影響下にあった。 ▼ クリスティアーン・ホイヘンス  Christiaan Huygens 1629 - 1695 オランダの数学者・物理学者・天文学者 理論物理学者の祖、近代数理物理学の創始者 【時代環境】 1568 - 1648 ~ 80年戦争 (対スペインのオランダ独立戦争) 1598 - 1685 ~ ナントの勅令 (フランス王がプロテスタントにカトリックと同じ権利を認めた) 1618 - 1648 ~ 30年戦争 (カトリックvsプロテスタント戦争@ドイツ) 【教育】家庭教師。ライデン大学 【職業】フランス科学アカデミー研究者 【業績】 1655、自作望遠鏡で土星のタイタンを発見。翌年、オリオン大星雲を発見 1657、 『振子時計』を発明、特許取得。ヨーロッパ中に普及 1666 - 85、パリのフランス科学アカデミーで活動 1675、 ヒゲゼンマイを設計し、懐中時計の特許を取得 1678、光の波動理論『ホイヘンスの原理』を発表。1821、フレネルが『ホイヘンス

光の回折diffractionという用語を作った~グリマルディ:アルケーを知りたい(532)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今回は(光の) 回折という用語を作った イタリアの物理学者グリマルディ。 師匠のリッチョーリが素晴らしく冴えた人 で、実験で確かめて理論を固めるタイプの学者だった。おかげで自由落下の実験や子午線弧長を測ったりしていた。 ▼ 偉大な師匠の下で埋もれてしまいそうだったグリマルディだったけど、光の研究で「回折」という用語を作り、日本の理科年表に掲載されることになった。良かった。 ▼光が回り込むように折れ曲がる現象は何を意味するのか、これはきっと光は粒じゃなくて波だろう、みたいな議論になる。グリマルディは光の波動説の祖のような存在。 ▼ フランチェスコ・マリア・グリマルディ  Francesco Maria Grimaldi 1618 - 1663 イタリアの物理学者、イエズス会士 【教育】イエズス会の学校、ボローニャ大学で博士 【職業】イエズス会で司祭、ボローニャ大学で教授 【業績】1640~50、師匠のリッチョーリと落体の自由落下を研究し、落下距離が時間の2乗に比例すると発見 1644~56、リッチョーリと子午線弧長を測量して算出。残念ながら測定の精度はスネルに劣った 1660、 光の回折を研究し、diffraction(回折)という用語を作る 【ネットワーク】 ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei 1564 - 1642 イタリアの天文学者。1592、落体の研究。 ヴィレブロルト・スネル  Willebrord Snell  1580 – 1626 オランダの天文学者・数学者。三角測量法で子午線弧長を約107kmとした ジョヴァンニ・リッチョーリ  Giovanni Riccioli 1598 - 1671 イタリアの天文学者。グリマルディの師匠。落体の実験を精密に行いガリレイを批判した。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Francesco_Maria_Grimaldi

真空にした2つの半球は馬で引いても離れない~ゲーリケのデモ:アルケーを知りたい(531)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今回のゲーリケは、物理学者にして三十年戦争で壊滅したマクデブルグを再建した人物。ゲーリケが生まれた町マクデブルグはプロテスタントだったためカトリック軍の攻撃に遭い1631年に敗北。そのさいの歴史的な「マクデブルクの略奪」で町は壊滅。29歳のゲーリケは家と町の再建復興に明け暮れた。 ▼ゲーリケのすごいところは、 政治的交渉に長けた物理学者という二枚腰 であること。家と町の再建のためまずビール醸造業で経済基盤を作り、次にマグデブルグ市の代表としてヨーロッパ各地の要人や組織と交渉を重ねた。その時に、交渉が有利に進むよう先進的な科学的知見を披露した。 ▼ 町の名前をアピールするマグデブルク半球と名付けた銅製の半球 を二つ合わせて空気を抜き、これを馬で引っ張っても離れないという真空の存在と力を見せるデモは、政治的有力者たちの前で行ったものだ。 マグデブルグ、やるじゃないかと認識させる狙い。こうした物理のデモが交渉相手の高官やイエズス会からの好印象を引き出した。 ▼オットー・フォン・ゲーリケ  Otto von Guericke  1602 - 1686 ドイツ・マグデブルグの貴族、物理学者、政治家。 【時代環境】1618~1648、三十年戦争 【教育】家庭教師。ライプツィヒ大学、ヘルムシュテット大学、イエナ大学、ライデン大学。イギリスとフランスにも留学。法学、数学、物理学、軍事工学を学ぶ。 【職業】貴族。マクデブルク市会議員、市長。 【業績】1631、三十年戦争で破壊されたマグデブルグの再建開始。1646~78、マクデブルグ市長。 1650、 真空ポンプを発明 。 1661、気圧計で気象予測。静電気の研究。 1663、 ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの前でデモ :銅製の半球を組み合わせ、真空ポンプで排気すると、12頭の馬で引っ張っても離れない実験。 1993、ゲーリケの名を冠したオットー・フォン・ゲーリケ大学マグデブルグが設立された。 【ネットワーク】 アリストテレス Aristotelēs BC384 - 322 「自然は真空を嫌う」と言ったギリシアの哲学者。トリチェリに続きゲーリケも人工的に真空を創り出した。 エヴァンジェリスタ・トリチェリ Evangelista Torricelli 1608 - 1647 イタリアの物理

水銀を入れたガラス管で真空を視覚化した~トリチェリ:アルケーを知りたい(530)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼水が10m以上高いところまで組み上げられないのは昔から常識だった。でもその説明ができなかった。トリチェリは水の13倍重い水銀を満たした1メートルのガラス管で実験した。 水銀は76センチまで 登り、それ以上は空白だった。ガラス管の空白地帯を真空とした。 ▼青年期のトリチェリは経済的に恵まれていなかった。けど、冴えた人だったので、 数学教授の秘書をしながら数学を学んだ 。勤労学生だ。 ▼トリチェリは ガリレオより44歳年下。トリチェリの師匠たちがガリレオを応援する人たちだったので、トリチェリが 目が見えなくなっていた晩年のガリレオの口述筆記ができるよう段取りした。 ▼ エヴァンジェリスタ・トリチェリ  Evangelista Torricelli 1608 - 1647 イタリア 物理学者   【教育】サピエンツァ大学の数学教授 ベネデット・カステッリ の秘書をしながら数学を学ぶ 【職業】トスカーナ大公フェルディナンド2世の数学者・哲学者、ピサ大学でガリレオの後任の数学教授 【業績】1641、 ガリレイの口述筆記で『新科学対話』を完成 1643、 「トリチェリの真空」のデモ 1644、 気圧計の発明 1954、圧力の単位がトリチェリに因んだトルTorr に決定 【ネットワーク】 ガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei 1564 - 1642 トリチェリの師匠 ベネデット・カステッリ  Benedetto Castelli 1578 – 1643 イタリアの数学者。 トリチェリがガリレイのもとで『新科学対話』の口述筆記する段取りを整えた人 。ガリレオの弟子で友人。ピサ大学でガリレオの後任の数学教授。 ボナベンチュラ・カバリエリ Bonaventura Francesco Cavalieri 1598 – 1647  ガリレオを尊敬していたイタリアの数学者 。 トリチェリの師匠 。ピサ大学でカステッリの後任の数学教授。 ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ Vincenzo Viviani 1622 - 1703 イタリアの数学者。 トリチェリの弟子、晩年のガリレオの助手でガリレオの死後、伝記を執筆 。フィレンツェの美術アカデミー (Accademia dell'Arte del Disegno di Firenze)でトリチェ

父を助けるために10代で計算機を作った~パスカル:アルケーを知りたい(529)

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  今回の話題は(*)歴史~計算。 ▼今回は、ドイツでシッカートが機械仕掛けの計算機を作った20年後、 フランスで機械式計算機を作ったパスカル 。 パスカルというと「人間は考える葦である」が有名。実際は考えるだけでなく行動する数学者、物理学者。 ▼シッカートとパスカルの開発目的は似ている。シッカートはケプラーの天体計算の省力化だった。 パスカルは徴税官だった父親が税金計算で疲れ果てているのを見て助けるため だった。 人に辛い作業を機械にやらせようとした点が共通。 ▼ 開発したときの年齢はシッカートが31、パスカルは20前 。若いこと、仕掛けを考える時間的余裕、製作を外注する資金力があることも 二人の共通点だ。 ▼ ブレーズ・パスカル  Blaise Pascal 1623 - 1662  【教育】父親による英才教育 【職業】? 【業績】1642、 機械式計算機「パスカリーヌ」 完成 1655、「パスカルの三角形」発表 1662、乗合馬車システム「5ソルの馬車」事業をパリで創業 【ネットワーク】 マラン・メルセンヌ  Marin Mersenne 1588 – 1648 フランスの博学者。1600年代前半、ヨーロッパの科学と数学に関する人的ネットワークの中心人物。 16歳のパスカルが書いた論文(パスカルの定理)を受け取りデカルトに見せる ルネ・デカルト  René Descartes 1596 - 1650 フランスの数学者。メルセンヌが見せたパスカルの論文を見て、 16歳で書けるものではない、パスカルの父親が書いたものと言って譲らなかった ピエール・ド・フェルマー  Pierre de Fermat 1607 – 1665 フランスの 数学者。1654、パルカルと 確率論 を手紙でやり取り。確率をやる数学者にはギャンブラーがいるけど、二人はそうではなかった ニクラウス・ヴィルト Niklaus Wirth 1934 - スイスの計算機科学者。1970、 プログラミング言語Pascal を発表 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Blaise_Pascal

機械式計算機の生みの親~シッカート:アルケーを知りたい(528)

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今回の話題は(*)歴史~計算。 ▼今回は、 世界で初めて機械式計算機を作ったドイツの数学者 、シッカート。人が難儀する仕事が効率的に行えるよう新しい仕組みを作り出す他人思いの人。 【時代環境】1618-48、 三十年戦争 ( プロテスタントvsカトリック )。1634年にカトリック軍が勝ち テュービンゲンを占領、軍が持ち込んだペストが流行。シッカート一家も犠牲になった。 ▼ ヴィルヘルム・シッカート  Wilhelm Schickard 1592 - 1635  【教育】テュービンゲン大学で修士 【職業】ルター派の教会牧師、テュービンゲン大学でヘブライ語、数学、天文学の教授 【業績】 1623、大学の先輩で 21歳年上の ケプラーのために天文表作成の四則演算を行うホイール回転式の機械式計算機「 Rechenuhr 」を開発 (製作は時計職人に委託。後に計算時計 「 Calculating Clock 」と呼ばれる)。また、ケプラーに 計算機による天体計算法を提案した。 1627、 テュービンゲン大学で ヘブライ語の学習に苦戦する学生のために文法教科書を作ったり、 ローターの回転で動詞の活用が分かる文法計算機「 Hebraea Rota」を 開発 した。 【ネットワーク】 ジョン・ネイピア  John Napier 1550 - 1617 スコットランドの数学者。 「ネイピアの骨」の発明者 。 ヨハネス・ケプラー  Johannes Kepler  1571 - 1630 ドイツの天文学者。テュービンゲン大学卒業。ティコ・ブラーエが行った16年間分の天文観測データを解析し 『ケプラーの法則』(1609) を発表。 1620-21、 母親が テュービンゲンで 魔女裁判に巻き込まれたため、弁護のために奔走。このときシッカートと出会う。 ブレーズ・パスカル  Blaise Pascal  1623 - 1662 フランスの自然哲学者。父親が行う徴税の面倒な計算を助けるため 機械式計算機「パスカリーヌ」 の製作に着手、19歳で完成させた。試作機を50台作り、多少、売れたという。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Wilhelm_Schickard

光の屈折の法則~スネル:アルケーを知りたい(527)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今回は、光の屈折に関する「 スネルの法則 」を発表したオランダの数学者・天文学者のスネル。 スネルの法則とは、 光が媒質を伝わるときの速度と別の媒質に進むときの入射角・屈折角の関係の法則 。 中学、高校の物理に出てくる。 ▼スネルは1580年生まれのオランダ人。昨日のレーウェンフック(1632 - 1723)と生年で比べると、52年前の人。同じ1580年生まれの人にオランダのガラス職人で顕微鏡の発明者とされるサハリアス・ヤンセン(1580 - 163)がいる。オランダが勢いを増す時代の人。 ▼ ヴィレブロルト・スネル  Willebrord Snell 1580 - 1626  オランダの数学者 【教育】? 父親はライデン大学の数学教授 【職業】ライデン大学で数学教授 【業績】1615、三角測量法で 緯度差1度の子午線弧長を107kmと算出 (実際は約111km)。 1621、 光の屈折に関する『スネルの法則』 を発見。 円周率 π を求める計算法を考案し7桁まで計算。 【光つながりのネットワーク】 クラウディオス・プトレマイオス  Claudius Ptolemaeus 83 - 168 光の入射角・屈折角の関係を発見した古代ローマの学者 イブン・アル=ハイサム  Ibn al-Haitham 965 - 1040 『光学の書』(1021)で屈折の法則の発見に近づいたイスラムの数学者。 光学の父 クリスティアーン・ホイヘンス  Christiaan Huygens 1629 - 1695 『光についての論考』(1678)でスネルの法則に言及し再評価のきっかけとなる。スネルが発表して57年後 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Willebrord_Snellius