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1856、モーブ~バーキン(英):アルケーを知りたい(660)

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今回は化学。 ▼ モーブ Mauve :紫色の色素。モーブは紫色の花が咲くゼニアオイのフランス語。世界初の合成染料。 ▼バーキンのここが面白い:産業革命で織物の生産性が高まっていた時期、染料は天然の物質を使っていたので手間とコストがかかっていた。そんなタイミングでパーキンは安価で鮮やかな紫色の合成染料を提供した。若きアントレプレナー。 ブルーオーシャンの好事例。 ▼ パーキン  William Henry Perkin 1838年3月12日 - 1907年7月14日 イギリスの化学者。 【人物】父親は大工の棟梁。 【教育】シティ・オブ・ロンドン・スクール卒業。1853(15) ロンドン王立化学大学に入学。 【職業】1856-74(18-36) 染料会社の創業経営者。 【業績】 1856(18) 世界初の合成染料モーブを発見。特許を取得 。 起業してモーブを普及させた 。 【ネットワーク】 ホフマン  August Wilhelm von Hofmann 1818年4月8日 - 1892年5月5日 ドイツの有機化学者。▼1845-64(27-46) ロンドンに新設された王立化学大学で教授。パーキンの師匠。ホフマンの下でマラリア治療用のキニーネの合成法を研究。その過程でモーブを発見。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/William_Henry_Perkin

1855、ベッセマー製鋼法~ベッセマー(英):アルケーを知りたい(659)

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今回は化学。 ▼ ベッセマー法 :銑鉄から鋼を大量生産する製法。製造コストを従来の六分の一に引き下げた。鋼の普及が一気に進んだ。特許を取得した1855年からほぼ100年間、ベッセマー法が主流だった。 ▼ベッセマーのここが面白い:鉄道レールや橋梁を作るとき安価な鋳鉄を使っていた時代。鋼鉄は高価すぎて工作機械で使われていた時代。そのタイミングでベッセマーが鋼鉄を安価に量産するシステムを発明した。製鉄プロセスを完成させる途中、ベッセマーは不純物を取り除く問題が数千回実験を繰り返しても自力で解決できなかった。それをムシェットという冶金学者の発明があっさりと解決。一気に普及が進み、ベッセマーは財を成す。一方、なぜか貢献が置き忘れられて貧乏暮らしに甘んじていたムシェット。1866年、ムシェットの娘(16才)がベッセマーと直談判。 ベッセマーが ムシェットに 相応の年金を渡すことで話をつけた。良い形に収まった。 ▼ ベッセマー  Henry Bessemer 1813年1月19日 - 1898年3月15日  イングランドの技術者  【人物】父親は技術者・発明家・金属加工工場経営者。 【教育】学校を卒業して父親の工場で冶金を学ぶ。 【職業】発明家 【業績】真鍮の粉末を使った金色の塗料の製造方法で競合の40分の1のコストダウンに成功して財を成す。 1838-83(25-70) 鉄・鋼・ガラス・大砲の分野で129以上の特許を取得。 1855(42) 鋼の安価な製造法を発明 。 1857(44) 連続鋳造の先駆けとなる金属鋳造法を発明。 【ネットワーク】 ミニエー  Claude-Etienne Minié  1804年2月13日 - 1879年12月14日 フランスの陸軍大尉。1846(42) ミニエー弾を発明。1849(45)  ミニエ・ライフルを発明。▼ミニエーとの会話がきっかけでベッセマーが製鋼について考え始めた。1855年1月、ベッセマーは大砲用の鋼を大量生産する製法の研究を開始、10月ベッセマー法の最初の特許を申請。 ナスミス  James Hall Nasmyth 1808年8月19日 - 1890年5月7日 スコットランドのエンジニア・発明家。▼ベッセマー法に似た方法を考えていた。ベッセマー法の話を知り自分の方法を諦めた。ベッセマーから特許の取り分を提案されたけれど、引

1850、熱力学の第二法則~クラウジウス(独):アルケーを知りたい(658)

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今回は物理学。 ▼ 熱力学の第二法則 :熱の移動を伴う状態の変化は、一般に不可逆である(平尾『総合的研究物理』p.273) クラウジウスの法則 :低温の熱源から高温の熱源に正の熱を移す際に、他に何の変化もおこさないようにすることはできない(日本語版wikipedia) ▼クラウジウスのここが面白い:クラウジウスは、カルノーとジュールの理論を新結合したイノベータである。クラウジウスは「宇宙のエネルギーは一定」「宇宙のエントロピーは最大値に向かう」と考えた。これは、巨視的に見ると宇宙は拡大するばかり、と言ってるのと同じ。ちょっとこわい。微視的に見ると地球では命の系のサイクルが回っている。こちらで心を落ち着かせる。 ▼ クラウジウス  Rudolf Julius Emmanuel Clausius 1822年1月2日 - 1888年8月24日 ドイツの理論物理学者  【人物】父親は牧師・小学校の校長。 【教育】1840(18) ベルリン大学入学。  1848(26) ハレ大学で博士。太陽の光が大気中で散乱する現象についての研究。 【職業】1855(33) チューリヒ工科大学で教授。  1857(35) チューリヒ大学教授を兼任。  1867(45) ヴュルツブルク大学で教授。  1869(47) ボン大学で教授。  1879(57) コプリ・メダル受賞。  1884-85(62-63) ボン大学で学長。 【業績】1850(28) 熱力学の論文「熱の動力、およびそこから熱理論のために演繹しうる諸法則について」発表。 1854(32) 論文「力学的熱理論の第二基本定理の1つの改良型について」を発表。熱力学第二法則を確立 。 1865(43) 「エントロピー」という用語を初使用。のちにボルツマンによってデタラメさの尺度と解釈される。 1885(63) 論文『自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類の利益のために利用すること』を発表。 【ネットワーク】 カルノー  Nicolas Léonard Sadi Carno 1796年6月1日 - 1832年8月24日  フランス陸軍の技術者。熱力学の父。1824(28) 仮想熱機関「カルノーサイクル」を発表、 熱力学第二法則の原型となる。▼クラウジウスは1850年の論文で、カルノーサイクルでの熱の出入りを計算した。 ティンダル  John

1850、光速度測定による波動説の証明~フーコー(仏):アルケーを知りたい(657)

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今回は物理学。 ▼ 光速度測定による波動説の証明 :光の波動説と粒子説が対立した時代。フランスの物理学者アラゴは、空気中の光速と水中の光速を比較し、空気中の光速が大きければ波動説が正しく、水中の光速が大きければ粒子説が正しいと主張。 それでフィゾーとフーコ―は光速の測定実験に挑戦。しかし途中で仲違い。フィゾーは回転歯車、フーコーはアラゴが提案した回転鏡とそれぞれの実験方法で測定した。フーコーは、光が空気中よりも水中が遅くなる現象を確認し、光の波動説の優位を示した。 ▼フーコーのここが面白い:フーコーとフィゾーは同じ年の同じ月生まれ。同じテーマに取り組みながら、フーコーは回転鏡で光の波動性を証明し、フィゾーは回転歯車で光速を測定した。共に今でも高校物理で二人の実験装置が並んで紹介されている。二人が今の高校物理を見たら何と言うだろう。仲直りするかな? ▼ フーコー  Léon Foucault 1819年9月18日 - 1868年2月11日 フランスの物理学者 【人物】父親はパリの出版業者。 【教育】健康問題のため家庭教師。パリ大学でドネの実験助手。 【職業】執筆業。 【業績】1843-45(24-26)  フーコーと共同してダゲレオタイプによる太陽の写真撮影に成功。 1850(31) 「フーコー・フィゾーの実験」で空中と水中の光速度を比較。空気中より水中が遅くなる現象を発見。光の波動説の優位を示す。 1851(32) 「フーコーの振り子」実験で地球の自転を証明。 1855(36) 渦電流を発見。コプリ・メダル受賞。 1862(43) ホイートストーンが回転鏡を使った実験装置で光の速度を 298,000 km/sと計算。 【ネットワーク】 ドネ  Alfred François Donné 1801年9月13日 - 1878年3月7日 フランスの細菌学者・医師。顕微鏡写真の発明者。▼フーコーはドネの弟子・実験助手・友人。 ホイートストーン  Charles Wheatstone 1802年2月6日 - 1875年10月19日 イギリスの物理学者。▼1834(32) 電線を伝わる電流の速度の測定を回転鏡を使って挑戦。288,000 km/s と計算。 フィゾー  Armand Fizeau 1819年9月23日 - 1896年9月18日 フランスの物理学者。▼1830-4

1849、地上での光速度測定~フィゾー(仏):アルケーを知りたい(656)

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今回は物理学。 ▼それまでは星の光の観察で光速を測っていたのに対し、初めて 地上で光速度の測定に成功した話。 回転歯車を用いた光速度の測定実験 。高校物理に出てくる。入試の過去問にも出ている歴史的な実験。どんなものかを知るには、YouTubeでフィゾーの実験を見るのが良い。 ▼フィゾーのここが面白い:光の速さを測るという日常の感覚からかけ離れた量の測定を日常の道具を組み立てて行った点。実験装置としてモデル的なので高校物理でも取り上げられる。 ▼ フィゾー  Armand Fizeau 1819年9月23日 - 1896年9月18日  フランスの物理学者 【人物】? 【教育】? 【職業】? 【業績】1843-45(24-26)  友達の フーコー と共同してダゲレオタイプによる太陽の写真撮影に成功。 1847(28) フーコーと決別。単独で実験を継続。 1848(29) 電磁波が赤方に偏移する「ドップラー・フィゾー効果」を発見。 1849(30) 回転歯車を用いて光速度を測定。313,300 km/s と計算 。 1851(32) 動く水の中を光が伝わる速度を測る「フィゾーの実験」 【ネットワーク】 エンペドクレス  Empedoclēs 紀元前490年 - 紀元前430年 古代ギリシアの自然哲学者。▼光の速さは有限と主張した。 レーマー  Ole Roemer 1644年9月25日 - 1710年9月19日 デンマークの天文学者。▼1676(32) 天文観測のデータから初めて光速を測定。213,000 km/s と計算。 ブラッドリー  James Bradley 1693年3月 - 1762年7月13日 イギリスの天文学者。グリニッジ天文台の第3代台長。▼1728(35) 光速度を約301,000 km/s と計算。  アラゴ  François Arago 1786年2月26日 - 1853年10月2日 フランスの数学者。ゲイ=リュサック、フレネル、ビオの仲間。▼1838(52) 光速の測定実験をフィゾーとフーコーに提案。アラゴは自分の視力が落ちていたため実験に参加せず。 ダゲール  Louis Jacques Mandé Daguerre 1787年11月18日 - 1851年7月10日 フランスの画家、写真家。史上初めて実用的な写真技術・ ダゲレオタイプ を

1848、熱力学温度~ケルビン卿(英):アルケーを知りたい(655)

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今回は物理学。 ▼ 熱力学温度 :単位はケルビン。記号は K。絶対温度。温度単位としてケルビンを選んだ場合の温度。絶対零度を基準点とする温度。 ▼ケルビン卿のここが面白い:熱力学温度を発表したのが24才。 神童だった少年が年を重ねるうちに才能の輝きを失う話は珍しくない。しかし、ケルビン卿はその反対。40代で 大西洋横断ケーブルを敷くという大プロジェクトに挑戦し、次々起こる問題と失敗を乗り越えて最終的に成功に導き、ナイトの称号を得る。 経済的な利害がからむリスクの大きな事業でも、自分の理論を実践で応用するガッツがすごい。 ▼ ケルヴィン卿、ウィリアム・トムソン  William Thomson 1824年6月26日 - 1907年12月17日 イギリスの物理学者 【人物】父親はベルファスト大学の数学教授。家庭で教育を受ける。 【教育】1834(10) グラスゴー大学入学。 1845(21) ケンブリッジ大学卒業。コレージュ・ド・フランスに留学、ルニョーに弟子入り。 【職業】1846-99(22-75)  グラスゴー大学で自然哲学教授。 【業績】 1848(24)  絶対温度目盛を導入。絶対温度の概念:温度が物体中のエネルギー総量を表す 。 1851(27) 熱力学の第二法則を定式化。 1866(42) 大西洋横断電信ケーブルの敷設に成功。 1876(52) 磁気コンパスを発明。英海軍に採用、その後全世界で利用。 1883(59) コプリ・メダル受賞。 1890-95(66-71) 第35代の王立協会会長。 1892(68) ケルヴィン卿。 1904-07(80-83) グラスゴー大学で総長。 【ネットワーク】 ジェームズ・トムソン(父)  James Thomson (mathematician) 1786年11月13日- 1849年1月12日 アイルランドの 数学者。物理学者のジェームズ・トムソン(父親と同名)とケルビン卿の父親。 ルニョー  Henri Victor Regnault 1810年7月21日 - 1878年1月19日 フランスの化学者・物理学者。フランス写真協会設立、初代会長。▼パリに短期留学してきたケルビン卿の指導教員。 ジェームズ・トムソン(兄)  James Thomson 1822年2月16日 - 1892年5月8日 イギリスの工学者・物理学

1847、エネルギー保存の法則~ヘルムホルツ(独):アルケーを知りたい(654)

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今回は物理学。 ▼ エネルギー保存の法則 :孤立系のエネルギーの総量は変化しない。 任意の異なる二つの状態について、それらのエネルギー総量の差がゼロである。 力学的・熱・化学・電気・光などのエネルギーは、それぞれの形態に移り変わる。しかしエネルギーの総和は変化しない。 ▼ヘルムホルツのここが面白い:マックス・プランク(19才)は大学に入学してヘルムホルツ先生(54才)の授業を受けた。そのときのヘルムホルツ評が次。「ヘルムホルツは準備万端だったためしがなく、喋り方はゆっくりで、果てしなく計算を間違え、受講生は退屈した」。酷評だ。だけど、プランクはヘルムホルツと仲良くなる。ヘルムホルツはプランクの博士指導教員を担当し、就職の世話もする。写真で見るおっかない印象と面倒見の良さとのギャップが面白い。 ▼ ヘルムホルツ  Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz 1821年8月31日 - 1894年9月8日  ドイツの生理学者・物理学者。 【人物】父親は哲学教師。 【教育】1842(21) フリードリヒ・ヴィルヘルム医学学校で医学博士。 【職業】1842(21) 軍医。兵舎で実験を行い成果を発表する。 1849(28) ケーニヒスベルク大学生理学で教授。 1851(30) 検眼鏡を発明。 1855(34) ボン大学で生理学教授。 1858(37) ハイデルベルク大学で生理学教授。 1871(50) ベルリン大学で物理学教授。 1887(67) シャルロッテンブルク国立理工学研究所で理事。 【業績】 1847(26) 熱力学の第1法則を発表。マイヤー、ジュール、ケルビン卿と並んでエネルギー保存則を確立 。 1849(28) 静定検流計を発明(→606)。神経の伝送速度を測定し 24.6 ~ 38.4 m/sと報告。 1863(42) ヘルムホルツ共鳴器を発明。 1873(52) コプリ・メダル受賞。 【ネットワーク】 マイヤー  Julius Robert von Mayer 1814年11月25日 - 1878年3月20日 ドイツの物理学者。▼熱力学のパイオニア(→649)。 トマス・ヤング  Thomas Young 1773年6月13日 - 1829年5月10日 イギリスの物理学者。▼ヤング=ヘルムホルツの三色説(→582)。 ハイン

1846、グレアムの法則~グレアム(英):アルケーを知りたい(653)

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今回は化学。 ▼ グレアムの法則 。Graham's law。気体の浸出速度は、その分子量の平方根に逆比例する。用途:同位体を分離する方法に応用。原子爆弾の開発工程で重要だった。 ▼グレアムのここが面白い:グレアムはコロイド化学の創始者の一人とされている人物。グレアムの法則を見つけたり透析膜を発見している。重要人物と思われるのに、Wikipedia の紹介は意外にあっさり。 ▼ グレアム  Thomas Graham 1805年12月21日 - 1869年9月16日  スコットランドの化学者。コロイド化学の創始者。  【人物】父親は繊維メーカーの経営者。 【教育】1824(19) グラスゴー大学で修士。師匠はトーマス・トムソン先生。  エジンバラ大学で医学を学ぶ。 【職業】1830(25) アンダーソン医科大学で初の化学教授。ロンドン大学で化学教授。  1854-69(49-64) 造幣局長官。グレアムを最後に以降は大蔵大臣に統合。 【業績】 1836(31) 王立協会フェロー。 1841(36) ロンドン化学協会を設立、初代会長。 1846(41) グレアムの法則を発見 。 1861(56) 粒子が大きくて羊皮紙のフィルターを通過しない状態をコロイドと命名。 1862(57) コプリ・メダル受賞。 【ネットワーク】 トマス・トムソン  Thomas Thomson 1773年4月12日 - 1852年8月2日 スコットランドの化学者、鉱物学者。シリコンの命名者。ドルトンの原子理論を普及させた人物。▼グレアムの修士指導教員。 デーベライナー  Johann Wolfgang Döbereiner 1780年12月13日 - 1849年3月24日 ドイツの化学者。▼グレアムがデーベライナーの水素の動きを観測した論文を見たのがグレアムの法則発見のきっかけになった。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Graham_(chemist)

1845、反磁性~ファラデー(英):アルケーを知りたい(652)

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今回は物理学。 ▼ 反磁性 :「反磁性はすべての材料の特性。磁場に対する材料の応答に常に弱い影響を与える」 https://en.wikipedia.org/wiki/Diamagnetism ▼経緯。 1778年、 ブルグマンス がビスマスとアンチモンが磁場に反発する性質を発見。 1845年、 ファラデー は、磁場に置かれた物質が弱い反発を示す様子を発見し「反磁性  diamagnetism」という用語を作った。 1895年、 ラーモア は反磁性を古典的に説明。 1911年、 ニールス・ボーア は反磁性の古典的な説明が不可能であると証明。 1933年、 マイスナー は超伝導状態の物質は非常に強い反磁性を示すと発見。マイスナー効果。 ▼ファラデーのここが面白い:ファラデーは電磁気現象を発見した後、そこから一歩踏み込んだ磁力線などの知見を同時代の科学者に報告した。でも同時代の人はファラデーの新しい知見を受け入れる用意がなかった。少し時を置いたあとで、マクスウェルは「非常に高次の数学者である。将来の数学者が価値ある方法を導き出す可能性がある」と言い、さらに時を置いてラザフォードはファラデーを「史上最高の発見者」と言った。ファラデーの見つけた知見は時を経るごとに価値の理解が進みファラデーすげえ、になった。ファラデーは無理解や反対に対する耐性が高い人だったので、こういうのがストレスになった形跡がないのが面白い。 ▼ ファラデー (→616) 【ネットワーク】 ブルグマンス  Sebald Justinus Brugmans 1763年3月24日 - 1819年7月22日 オランダの植物学者。▼1778(25) ビスマスとアンチモンが磁力に反発する性質を発見。後に反磁性と命名。 ラーモア  Joseph Larmor 1857年7月11日 - 1942年5月19日 アイルランドの物理学者。▼反磁性の説明が後年「古典的」と位置づけられた。 ボーア  Niels Henrik David Bohr 1885年10月7日 - 1962年11月18日 デンマークの理論物理学者。量子論の育ての親。▼ボーアの反磁性の説明によってラーモアの説明が古典的とされた。 マイスナー  Fritz Walther Meissner 1882年12月16日 - 1974年11月16日 ドイツの物理学者

1844、ルテニウム~クラウス(露):アルケーを知りたい(651)

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今回は化学。 ▼ ルテニウム 。ruthenium。原子番号44、元素記号 Ru。白金族の元素。貴金属。用途は電気の接点や触媒。名前の由来は、サンプルが見つかったルス地域のラテン語名ルテニアに因む。 ▼経緯。 1827年、 ベルセリウス と オサン が共同で新物質(微量のルテニウム)を発見。後で発見を取り下げた。 1840年、 クラウス がサンクトペテルブルク鉱山から白金鉱石を入手、分析を開始。 1844年、クラウスがカザン大学でプラチナ残留物からルテニウムの単離に成功。ルテニウムと命名。サンプルを高名なベルセリウスに送る。ベルセリウスによってクラウスの発見がヨーロッパ中に知れ渡る。 ▼クラウスのここが面白い:この時期の化学者の中には自分が相手をしている物質を液体だろうが固体だろうが毒性があろうが、嗅いだり舐めたり指を漬けたりして確認しないと気が済まない人がいる。クラウスもそのタイプ。ルテニウム化合物を扱っているとき、舐めたせいで口を火傷してしまう。ガスを吸い込んで中毒になったりする。「賢い」と「命知らず」のハイブリッド。 ▼ クラウス  Karl Ernst Claus 1796年1月23日 - 1864年3月24日  ロシアの化学者  【人物】父親は画家。4才で父親が死去、6才で母親が死去。 【教育と職業】正式な教育を受けないまま、1810(14) サンクトペテルブルクの薬局で助手。 1817(21) ロシアで最年少の薬剤師。 1826(30) 薬局を開業。 1827(31) カザン大学エーフェルスマン教授の助手としてウラル地方、ヴォルガ地域の植物を調査旅行。 1928(32) タルトゥ大学に入学。 1831(35) タルトゥ大学で化学研究室の助手。 1837(41) タルトゥ大学で博士(植物由来の化学物質の研究)。 【職業】1837(41) カザン大学の化学実験室で室長。 1839(43) 鉱水からの化学物質の分離の研究で准教授。 1844(48)  カザン大学で教授。 1852-64(56-68) タルトゥ大学で薬学教授。 【業績】 1844(48) ルテニウムを発見。賞金を受け取り経済的に潤う 。 【ネットワーク】 ベルセリウス  Jöns Jacob Berzelius 1779年8月20日 - 1848年8月7日 スウェーデンの化学者・医師。アルファベ

1843、ホイートストン・ブリッジ~ホイートストン(英):アルケーを知りたい(650)

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今回は物理学。 ▼ ホイートストン・ブリッジ Wheatstone bridge:高校物理では既知の3つの抵抗をもとにして未知の1つの抵抗値を求める方法として紹介されている。回路に入れた検流計の配線が、橋のように見えることから、ホイートストン・ブリッジと名前が付いた。 ▼ホイートストンのここが面白い:電気回路の専門家と思ってホイートストンを見ると間違いで、それだけでなくとんでもなく多彩なことをやっていた人。楽器づくりの経験があるのでものづくりの技を持っていた。その技を自分が見て驚いた電気実験を再現するのに使い、新しい発見や発明を積み重ねた。YouTubeだとホイートストンが作った楽器の姿と音が楽しめるし、ホイートストン・ブリッジの高校生向けの解説も聞ける。 ▼経緯。 1833年、 クリスティ が電気抵抗を測る方法を発明。 1843年、ホイートストンが改良・普及。 ▼ ホイートストン  Charles Wheatstone 1802年2月6日 - 1875年10月19日  イギリスの物理学者。 【人物】父親は楽器職人、フルート教師。 【教育】地元の小学校。1816(14) 楽器職人の叔父の弟子。学問は独学。 【職業】1823-34(21-32) ロンドンで楽器製作。 1834(32) キングスカレッジ・ロンドンで実験物理学の教授。 【業績】 1828(26) アコーディオンに似た楽器「 イングリッシュ・コンサーティーナ 」を発明 1833(31) 音響の研究を発表。 1834(32) 電線中の電流の速度を測定 1838(36) ステレオスコープ(立体画像を表示する装置)を発表  1843(41)  クリスティが発明してた電気抵抗の測定法を改良、発表。後のホイートストンブリッジ。 1854(52)「プレイフェア暗号」を考案し友人の プレイフェア卿 との通信に使用。WWI、WWIIで英国軍で使われた。 1868(66) コプリ・メダル受賞。 【ネットワーク】 クリスティ  Samuel Hunter Christie 1784年3月22日 - 1865年1月24日 イギリスの物理学者。▼1833(49) 電気抵抗をいい塩梅に調整する方法を開発、後にホイートストンが取り上げた。 プレイフェア  Lyon Playfair 1818年5月1日 - 1898年5月29日 スコ