投稿

1月, 2022の投稿を表示しています

目的を果たすため人脈を生かして行動する:マーク・オリファントさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(326) マーク・オリファント 今回の話題は(A)物理学。 ▼マーク・オリファントさんの教訓: 目的を果たすため人脈を生かして行動する 教訓の理由 3つある。まず、フリッシュさんを助けた話:1939年、デンマークにいたフリッシュさん(35)は、ドイツがデンマーク侵攻に踏み切る前の渡英を考えていた。それに応えたのがバーミンガム大学で物理学の教授、オリファントさん(38)だった。オリファントさんは補助講師(auxiliary lecturer)の仕事を提供してフリッシュさんが一息つけるようにした。 2番目は、フリッシュさんと(次回取り上げる)パイエルスさんから上がってきた報告を、すぐ上司のヘンリー・ティサードさんに伝えさせたこと。重要な案件を遅滞なく伝える適切な相手を持っていたこと。 3番目は、イギリスが原爆の実現性を認め素早く行動を起こし、アメリカにも情報を提供した。しかしなぜかアメリカの動きが鈍い。そこでオリファントさんは渡米して旧知のキーパーソンを訪ねて説得する。その結果、アメリカが動き始めた。 オリファントさんは人脈をどこで作ったか見ると、イギリスではキャヴェンディッシュ研究所のラザフォード先生の下で、アメリカでは留学先のバークレー研究所だ(ローレンスさんと)。 感想 ナレッジを増幅させる知的創造プロセスとしてこの例を見ると、オリファントさんの動きで分かるのは、目的達成が滞ったとき、その滞りを修正するのは、人であり、人と人が会って話をすることの力だ。この場合はイギリスからアメリカに文書が渡っていたにも関わらず、受け取った責任者が金庫に入れたままだった。重要なことも、文書にし、人が動かなければ成されない、という話。 マーク・オリファント  Mark Oliphant, 1901年10月8日 - 2000年7月14日 1901年、オーストラリアのアデレード生まれ。父は公務員。 1914(13)WWI。 1918(17)WWI終戦。アデレード高校を卒業。 1919(18)アデレード大学入学。 1921(20)アデレード大学で学士。 1925(24)ラザフォードさんの講演を聞く。結婚。 1927(26)奨学金を得てケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に入る。知り合った人は: ジェームズ・チャドウィック  James Chadwick, 189

師匠と同じ選択をしなくても良い:ポール・エーレンフェストさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(325)  ポール・エーレンフェスト/Paul Ehrenfest,_教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼ポール・エーレンフェストさんの教訓: 師匠と同じ選択をしなくても良い 教訓の理由 エーレンフェストさんが博士になったのは24才。指導教員は(リーゼ・マイトナーさんも講義ぶりを賞賛した)ボルツマン先生。ボルツマン先生はエーレンフェストさんが26才のとき62才で自殺。エーレンフェストさん自身は53才で自殺。ここは師匠とは違う道を歩んで長生きして欲しい、と思ったから。 感想 エーレンフェストさんは50代から鬱病で苦しんだ。自殺の一か月前、ボーアさんが主催する会議の発表でチョークをキィキィ言わせたフリッシュさんにヤジを飛ばしている。会議ではみんな笑って場が和んだろう。なのにどうして、と残念だ。  ポール・エーレンフェスト  Paul Ehrenfest, 1880年1月18日 - 1933年9月25日 1880年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。両親は食料品店経営。 最初、ウィーンにある名門のAkademischesギムナジウムに入学。うまく馴染めずFranz Josefギムナジウムに転校、こちらではうまくいき卒業。 1899(19)ウィーン工科大学入学。化学を勉強。 ウィーン大学で ボルツマン 先生(Ludwig Eduard Boltzmann, 1844年2月20日 - 1906年9月5日)の授業を受け理論物理学に興味を持つ。 1901(21)ゲッティンゲン大学。 1903(23)旅行中、ライデンで ヘンドリック・ローレンツ さん(Hendrik Antoon Lorentz, 1853年7月18日 - 1928年2月4日)に会う。 1904(24)ウィーン大学で博士。指導教員はボルツマン先生。ゲッチンゲンで出会ったロシアの数学者と結婚。 1905(25)ウィーン大学でポスドク。 1906(26)ゲッティンゲン大学。ボルツマンさんが自殺。 1907(27)サンクトペテルブルクに夫婦で転居。教授職が得られず根を下ろすには難しいと判断。 1912(32)ライデン大学で教授( ローレンツさんの後任 )。物理学の夜のコロキウムを開始。 1919(39)オランダ王立芸術科学アカデミー会員。 1914(34)WWI。 1918(38)WWI終戦。 1925(4

無作法も性格の一部:パウリさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(324)  ヴォルフガング・エルンスト・パウリ/Wolfgang Ernst Pauli_教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼パウリさんの教訓:  無作法も性格の一部 教訓の理由 パウリさんはフリッシュさんより4つ年上。師匠はゾンマーフェルト先生。師匠に「私がパウリに教えることは何もない」と言わせる力量の持ち主。ゾンマーフェルト先生の依頼で執筆した相対性理論の解説記事は何年にもわたって最良の論説と見なされた。仲間の仕事での間違いには辛辣。ミスると「役立たずの馬鹿」と罵る。この無作法を、仲間はパウリさんの性格の一部と捉えていた。 感想 フリッシュさんによると、オットー・シュテルンさんとパウリさんはきわめて仲の良い友達だった。パウリさんの口が悪いのをシュテルンさんは笑って聞きながら食事を共にした。この話の時期は1930-33年のことで、パウリさんは神経不調のためカール・ユング先生に診察してもらっている。後に共著を出しているので、治療の効果があったのだろう。無作法が治ったかは不明。  ヴォルフガング・エルンスト・パウリ  Wolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日 1900年、ウィーン生まれ。父方がユダヤ系。 1914(14)WWI。 1918(18)WWI終戦。ウィーンのドブリンガー・ギムナジウムを卒業。 1921(20)ミュンヘン大学で博士。水素分子イオンの量子論。指導教員は アルノルト・ゾンマーフェルト 先生。 1921(21)ゲッティンゲン大学で マックス・ボルン 先生の助手。 1922(22)コペンハーゲン大学の理論物理学研究所( ニールス・ボーア 研究所)で研究。 1923(23)ハンブルク大学の講師(28年まで)。量子力学の理論構築。 1924(24)同じ量子状態には2個以上の電子が存在できないパウリの排他原理を提案。 1926(26) ハイゼンベルク さんが行列力学を発表。パウリさんはこの理論で水素原子のスペクトルを理論的に説明。 1927(27)スピン演算子の基底にパウリ行列を導入。この結果に ポール・ディラック さんが影響を受ける。 1928(28)スイス、チューリッヒ連邦工科大学で教授(理論物理学)。 1929(29)ローマ・カトリック教会を脱退。 1930(30)放射性同位元

仕事は前もって計算し、細かい点までチェックする:オットー・シュテルンさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(323)   オットー・シュテルン /  Otto Stern _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼オットー・シュテルンさんの教訓: 仕事は前もって計算し、細かい点までチェックする 教訓の理由 フリッシュさんの本にあるエピソードから。フリッシュさんは26才から3年間、ハンブルグ大学でシュテルンさんのアシスタントを務めた。あるとき原子ビームの回折実験を行ったところ、3%の誤差が出た。これくらいの誤差は無視したくなるところ。だが、シュテルンさんは誤差1%で設計していたので、何かが間違っていると言って数日かけて装置を見直した。全部、正しい。最後に、シュテルンさんはフリッシュさんに、実験に使った金属円盤にスリットが400個あるか数え直すよう頼む。フリッシュさんが念を入れて二度数え直したところ、スリットの数は408あった。原因はスリット加工を外注した先のミスだった。これで2%の誤差の問題が解消した。 感想 道具や測定の精度の話。何かを確かめる実験のため、自分で設計して装置を作り、結果を確かめる、という工程はふつうの仕事にも応用できる。これは、やらねば。 オットー・シュテルン   Otto Stern, 1888年2月17日 — 1969年8月17日 1888年、プロイセン王国のゾーラウ(現在、ポーランドのジョルィ)生まれ。ユダヤ人。 1912(24)ブレスラウ大学(現ポーランドのヴロツワフ大学)で博士。指導教員は オットー・ザックル 先生(Otto Sackur, 1880年9月28日 – 1914年12月17日)。 1914(26)WWI。フランクフルト大学(1921年まで)。 1915(27)フランクフルト大学で教授資格。 1918(30)WWI終戦。 1919(31)実験物理学にシフト。原子線、分子線の実験方法を開発。 1921(33)ロストック大学で教授。 1922(34) ヴァルター・ゲルラッハ さん(Walther Gerlach, 1889年8月1日– 1979年8月10日)とシュテルン=ゲルラッハの実験。電子にスピンがあることを示す実験。加熱・蒸発した銀粒子のビームが磁界中を通過すると2点に分かれる。 1923(35)ハンブルク大学で教授(物理化学)。 1930(42) オットー・フリッシュ さん(26才)が助手になる。 1933(45

生意気なクソガキにも理あり:レヴ・ランダウさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(322)  レブ・ランダウ / Lev Landau _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼ランダウさんの教訓: 生意気なクソガキにも理あり 教訓の理由 フリッシュさんの本に出てくるエピソードがある。ドイツ物理学会の会合でアインシュタインさんが新しい考えについて講演をした。質疑応答のときホールの後ろにいた若者が「下手なドイツ語と最も驚くべきマナー in bad German and a most surprising manner」で質問を始めた。ホールの誰もがこの無礼な若者を見た。しかしアインシュタインは質問の内容を聞いて考え込んだ。しばらくしてアインシュタインさんは聴衆に向かって「今、後ろの若い人が言ったことは完全に正しい」と言った。この若者が後にソ連第一の理論物理学者になるレヴ・ランダウさんだった、という話。 感想 このエピソードはアインシュタインさんの間違いを進んで認める潔さの例として挙げられている。同時にレヴ・ランダウさんの推論力の高さを示している。誰が・何を言ったかを、好きか嫌いか✖論理的か非論理的かの2✖2のマトリックスにしたとき、好きな人が論理的なこと言う組み合わせには簡単に賛同できる。この場合は、嫌いな人が論理的なことを言う組み合わせに相当する。アインシュタインさんは「最も驚くべきマナー」に気を取られず、語られた内容だけを吟味して論理的であることを認めた。目的に叶うことであれば、生意気なクソガキの言うことでも採用するほうが益になる。 レヴ・ランダウ  Lev Landau, 1908年1月22日 - 1968年4月1日 1908年、アゼルバイジャンのバクー生まれ。父は石油技術者、母は勉強家で教育熱心。豊かなユダヤ人家庭。 1914(6)WWI。子供時代から数学の神童。 1918(10)WWI終戦。530万人の犠牲者を出す。二月革命が起きロシア帝政が終わる。 1920(12)微分法をマスター。 1921(13)積分法をマスター。ギムナジウムを卒業。バクー経済技術学校に入学。 1922(14)バクー国立大学入学。物理数学科と化学科に在籍。ソビエト連邦の設立。 1924(16)レニングラード国立大学に転学。理論物理学を学ぶ。レーニンが死去、権力闘争が発生、スターリンが政権。 1927(19)レニングラード国立大学卒業。レニング

私の熱力学第三法則:ヴァルター・ネルンストさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(321)  ヴァルター・ネルンスト /Walther Nernst_教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼ネルンストさんの教訓: 私の熱力学第三法則 教訓の理由 フリッシュさんの本にはネルンストさんについて20行(訳本は14行)が充てられている。その中に「物理学の偉大な原理のひとつである熱力学第三法則はネルンストの創造であり、今世紀の初めにはカイザーにも大きな影響力があった(p.45)」と書かれている。創造者は自分の法則をとても大事にして、講義ではいつも私の熱力学第三法則と言っていたという(日本版Wikipedia)。私の「〇〇」というものを持ってるのはさぞ楽しいことだろうと思ったのがこの教訓の理由。 感想 WWIで息子2人が戦死、WWIIでは娘の結婚相手がユダヤ人だったため国外脱出。親として 二度も 辛い経験をした。終戦を見ないまま死去。しかし、悲しみだけではないのがネルンストさん。人とのコミュニケーションも達者でビジネスの才覚もあり、経済的には最後まで豊かに生きた。 ヴァルター・ネルンスト Walther Nernst, 1864年6月25日 – 1941年11月18日 1864年、プロイセン王国ブリーゼン(現ポーランドのヴォンブジェジノ)生まれ。父は裁判官。 グラウデンツの小学校。グラウデンツのギムナジウム。 1883(19)チューリッヒ大学、ベルリン大学、グラーツ大学(ボルツマンさんが指導)で物理と数学を学ぶ。 1886(22)ボルツマン先生のもとで研究、ネルンスト効果を発表。 1887(23)ヴュルツブルク大学で博士。指導教員は フリードリッヒ・コールラウシュ 先生(Friedrich Kohlrausch, 1840年10月14日 - 1910年1月17日) 1889(25)ライプツィヒ大学で教授資格取得。ライプツィヒ大学で フリードリヒ・ヴィルヘルム・オストヴァルト 先生(Friedrich Wilhelm Ostwald, 1853年9月2日 – 1932年4月4日)の助手。電流の熱力学を研究。 1892(28)結婚。ゲッティンゲン大学で講師。教科書「Theoretical Chemistry」を発刊。好評で英語・フランス語・ロシア語に翻訳される。 1895(31)研究所開設。電球を発明し特許権を売却。 1905(41)ベ

廊下では口笛を吹かないように:ヴァルター・ボーテさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(320)  ヴァルター・ボーテ /Walther Bothe _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼ボーテさんの教訓: 廊下では口笛を吹かないように 教訓の理由 ボーテさんが研究室で技術者にα粒子を教えているとき、廊下から(フリッシュさんの)口笛が聞こえると混乱するのでやめるように、とフリッシュさんが注意を受けたエピソードがある(p.39)。 感想 ボーテさんはピアノを弾く人だから、フリッシュさんがバッハを口笛で吹くと余計気が散ったのだ。しかもボーテさんがやっていたのは後にノーベル賞につながる研究だった。フリッシュさんは口笛がきっかけで室内楽マニアと知り合いになったこともあったという。しかし、ボーテさんと合奏したという話は見当たらない。だからやっぱり人の耳につくところで口笛を吹くのはやめておいた方が良い、という教訓。 ヴァルター・ボーテ   Walther Bothe,  1891年1月8日 – 1957年2月8日 1891年、ドイツのオラニエンブルク生まれ。絵とピアノ演奏に長ずる。 1908(17)ベルリン大学に入学。 1912(21)ベルリン大学を卒業。 1913(22)ベルリンの物理工学院(Physikalisch-Technische Reichsanstalt)の放射能研究部門で ハンス・ガイガー 先生(Hans Geiger, 1882年9月30日– 1945年9月24日)の助手(1927年まで)。複数のガイガー計数管を用いた同時計数回路を開発。 1914(23)ベルリン大学で博士(指導教員はマックス・プランク先生)。WWI、ドイツ軍騎兵隊に入隊。ロシア軍の捕虜になりシベリアの収容所でロシア語を学び理論物理学の研究を継続(5年間)。 1918(27)WWI終戦。 1920(29)ロシアで知り合った女性と結婚。 1924(33)コインシデンス法(同時計数法)を発表。 1925(34)ベルリン大学で私講師。教授資格を取得。 1927(36)ガイガー先生の後任でPTR放射能研究部門の部長(1930年まで)。アルファ線衝突による元素の核変換をコインシデンス法を用いて研究。 フリッシュ さん(23才)がPTRの光学部門で研究。 1929(38)ベルリン大学で助教授。PTRで ヴェルナー・コルヘルスター さん(Werner Kolhörster

高校生諸君、水素原子スペクトルの赤外線領域は私の系列ですぞ:フリードリッヒ・パッシェンさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(319)  フリードリッヒ・パッシェン /  Friedrich Paschen _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼パッシェンさんの教訓: 高校生諸君、水素原子スペクトルの赤外線領域は私の系列ですぞ 教訓の理由 水素原子のスペクトルは、高校物理で学ぶ原子構造で学ぶ。分光学はイギリスやドイツほかで開拓・蓄積された学問。水素原子のスペクトルの可視光領域の波長を導き出す式は、スイスの高校教師ヨハン・ヤコブ・バルマーさんが1885年に見つけた。フリッシュさんによると「バルマーの自慢は、どんな四つの数字が与えられても、その数字を結び付ける数式を見つけ出すこと」で「友達が水素原子の特性を示す四本の線スペクトルの波長をバルマーに与え」たところ「驚いたことに、バルマーはその波長の測定値と気味が悪いほどの精度で一致するたいへん簡単な式を導いた」という。バルマーさんは関係式を1885年に公表したものの、誰も物理的な意味を見出せないままの状態が続いた。しかし「プランクの量子のアイディアを原子の構造に応用しようと苦闘していたニールス・ボーアがとうとうバルマーの式にたどりついたとき『全てがはっきりした』」(p.28) いまや水素原子のスペクトルは、紫外線領域はライマン系列、可視光線領域はバルマー系列、赤外線領域はパッシェン系列と三つの系列に整理され、高校物理の参考書で表に整理されている。Wikipediaを見ると、さらに三つの系列が紹介されている。 感想 データから理論を抽出する活動について、平尾物理(旺文社の総合的研究物理p.651)は、「精密なデータと明晰な分析の連携から導かれた理論という意味で、ティコ・ブラーエ、ケプラーからニュートンへ至る道のりと共通するものが感じられる」と言っている。また、フリッシュさんもディラックさんについて言及した箇所で「ディラックの数学は素晴らしい成功を収め、線スペクトルの微細構造とゼーマン効果を説明することができた」「ディラックの論文は純粋数学の技術力の素晴らしい証明」と言っている。ここでのフリッシュさんの締めは「しかし、大勢の実験家たちは、まだ彼ら数学屋が何をやっているか、ついていけた日々を、悲しみとともに思い起こすのだけれど」(p.33) 高校情報でもデータサイエンスが重視されるようになったのは、データから理論を導き出す天才的な

寡黙は美徳:ポール・ディラックさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(318)  ポール・ディラック /  Paul Dirac _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼ディラックさんの教訓: 寡黙は美徳 教訓の理由 若い時のディラックさんは口の重い人だった。同僚が1時間につき1単語を1ディラックと呼んだエピソードがある。 感想 ウィキペディアのポール・ディラックさんの項目に載っているエピソードはどれも可笑しくて、自然にディラックさんが好きになる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF  ポール・ディラック  Paul Dirac, 1902年8月8日 - 1984年10月20日 1902年、イギリスのブリストル生まれ。父はスイス人、フランス語教師。母はイングランド人で図書館員。 父と会話するときはフランス語という決まりになっていた。喋れないので寡黙が身に着いた。 ケンブリッジ大学の同僚が寡黙ぶりを示す単位にディラック「1時間につき1単語」を作った。 1914(12)WWI。マーチャント・ヴェンチャラーズ・スクールに入学。首席。 1918(16)WWI終戦。マーチャント・ヴェンチャーラーズ・カレッジに入学。工学を学ぶ。 1919(17)一家でスイス国籍からイギリス国籍に変更。 1921(19)ブリストル大学に入学。電気工学と数学を学ぶ。 1923(21)ブリストル大学で学士(数学)。 1925(23)ケンブリッジ大学に入学。 ラルフ・ファウラー 先生(Ralph Howard Fowler, 1889年1月17日-1944年7月28日)の影響で量子力学に興味。 1925(23) ハイゼンベルク さんの行列力学を発展。 1926(24)波動力学と行列力学の等価性を シュレーディンガー さんとは別に証明。 1928(26)ディラック方程式を発表。 1929(27)ケンブリッジ大学でPhD。指導教員はファウラー先生。テーマは「量子力学」。 日本で開催される学会に ハイゼンベルク さんと船旅。 1929(27)米ウィスコンシン-マディソン大学で visiting professor。 1932(30)ケンブリッジ大学のルーカス教授(数学)。

モデルはチェンジせよ:シュレディンガーさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(317) エルヴィン・シュレディンガー / Erwin Schrödinger_教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼シュレディンガーさんの教訓: モデルはチェンジせよ 教訓の理由 「シュレディンガーの方程式は、原子の新しいモデルであり、電子は軌道を回る小惑星というよりも、いまや脈動する雲のようなものにより似ていた(「何と少ししか」のp.31)。シュレディンガーさんは、ラザフォードさんの原子モデル、それをボーアさんが精密化した原子モデルをさらに進化させたから。でも古典物理学アタマの人間には、すっきりした形ではなくなった。電子は核子の周りにある雲? なんだそれは?  感想 シュレディンガーさんが方程式でモデルを記述した結果、どんなビジュアルの原子モデルになったのか? その先に数学で考える物理学者に分かる世界。ここが境目。 数学を使った シュレディンガーさんによる原子のモデルチェンジについていけない。 脈動する雲とは? 電子が確率的にどこかにいることを雲と言ってるようだぞ。   エルヴィン・シュレディンガー   Erwin Schrödinger, 1887年8月12日 - 1961年1月4日 1887年、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ。父は企業家、植物学者。 ギムナジウムで自然科学、古典言語、ドイツの詩、ドイツ哲学者を学ぶ。 1906(19)ウィーン大学に入学。物理学を専攻。ボルツマンさんがうつ病で自殺、後任が フリードリヒ・ハーゼノール 先生(Friedrich Hasenöhrl , 1874年11月30日 - 1915年10月7日)。 1910(23)ウィーン大学で博士。指導教員はハーゼノール先生。 1911(24)ウィーン大学物理学研究室 フランツ・S・エクスナー 先生(Franz S. Exner, 1849年3月24日 – 1926年10月15日)の助手。 ショーペンハウエル の哲学に傾倒。 1914(27)WWI。オーストリア軍で砲兵部隊の将校。 1915(28) ハーゼノール先生が戦死 。 1918(31)WWI終戦。 1920(33)結婚。フリードリヒ・シラー大学イェーナで物理学者 マックス・ヴィーン 先生(Max Karl Werner Wien, 1866年12月25日 - 1938年2月24日)の助手。シュトゥッ

ド・ブロイ波とはどんな波?:ルイ・ド・ブロイさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(316)  ルイ・ド・ブロイ / Louis de Broglie _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼マクスウェルさんの教訓: ド・ブロイ波とはどんな波? 教訓の理由 中学のときの友達が隣の県に引っ越した。高校になってその友達が手紙で「ド・ブロイ波について述べよ」と言ってきた。答えられませんでしたねえ、当時。もとい、当時も今も。 感想 ラザフォード先生の原子モデル以来、電子や原子核を小さい粒の絵で描いてきた。でもホントに粒なんだろうか。粒の性質を示すけれども、小さな粒として捉えないほうが良さそうではないのか。同様に、波の性質を示すけれども、波ではない、みたいな。アルケーを知りたいのだけれど、これ、という捉え方はできず、粒の性質を見せたり、波の性質を見せたりする現象の元がアルケーなのかな。 ルイ・ド・ブロイ   Louis de Broglie, 1892年8月15日 - 1987年3月19日 1892年、フランスのディエップ生まれ。貴族の家系。 ソルボンヌ大学で歴史学を専攻。兄の影響で物理学にシフト。 1910(18)パリ大学でBA(歴史学)。 1913(21)パリ大学でBA(科学)。 1914(22)WWI。入隊し エッフェル塔 で電波技術者。潜水艦との無線通信技術を追求。 アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル (Alexandre Gustave Eiffel, 1832年12月15日 - 1923年12月27日) 1918(26)WWI終戦。兄( 第6代当主モーリス・ド・ブロイ )と自宅の実験室で研究。 1924(32)光の波と粒子の二重性理論を提案しパリ大学で博士(物理学)。 アインシュタイン さんの光電効果・電磁波の粒子性論(1905年)、 コンプトン さんの電子によるX線の散乱(1923年)を念頭に ド・ブロイ波 (粒子である電子が波のように振る舞う)を提唱。博士論文に対しアインシュタインさんがノーベル賞を取れる、とか、ノーベル賞以上の価値と言ってお墨付きを出す。 1926(34)ソルボンヌ大学で授業。 1927(35)ド・ブロイ波の理論が実験で検証される。 1928(36)アンリ・ポアンカレ研究所で教授(理論物理学)。 ジュール=アンリ・ポアンカレ (Jules-Henri Poincaré, 1854年4月29日

先達の仕事に付加価値を付けるのはキミの役だ:マクスウェルさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(315)  ジェームズ・クラーク・マクスウェル /James Clerk Maxwell _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼マクスウェルさんの教訓: 先達の仕事に付加価値を付けるのはキミの役だ 教訓の理由 マクスウェルさんは、ファラデーさんとは直接会ってコミュニケーションを取る機会があった(これはすごい!)。キャヴェンディッシュさんとは、残された書き物を通じてコミュニケーションが取れた。マクスウェルさんを境に「それ以来、物理学者は、より難しい実験を行おうとする技能派と、精密さを増す数学を扱う理論派の、いずれかへと、より専門化されるようになった」( フリッシュ さんの「何と少ししか」のp.27)。 感想 イギリスのケンブリッジ大学、キャヴェンディッシュ研究所は、日本ではイメージしにくい「ありよう」を持っているようだ。知の蓄積、伝承に対する意志の強さと大学がうまく結びついている。 ジェームズ・クラーク・マクスウェル   James Clerk Maxwell, 1831年6月13日 - 1879年11月5日 1831年、スコットランドのエディンバラ生まれ。父は弁護士。 近所に学校がなかったので母が教育。 1839(8)母が死去。家庭教師に教育を受ける。 1841(10)エディンバラ中等学校入学。 1845(14)自作の詩が『エディンバラ通信』に掲載。 1847(16)エディンバラ大学入学。 1850(19)ケンブリッジ大学ピーターハウスカレッジに入学。次の学期からトリニティカレッジ。 1854(23) エドワード・ラウス さん(Edward Routh, 1831年1月20日 - 1907年6月7日)に続く第2位の成績でトリニティカレッジ卒業。フェローとして研究と教育。 1855(24)マイケル・ファラデーさんの磁気力線に関する論文を発表。 1856(25)トリニティーカレッジの研究員。父が死去。スコットランドのマーシャルカレッジで教授(科学哲学)。 1857(26)懸賞論文「土星の環の構造と安定性」でケンブリッジ大学アダムズ賞受賞。 1858(27)結婚。 1860(29)キングス・カレッジ・ロンドンで教授(自然哲学)。 1861(30)王立研究所でファラデーさんと定期的に会合。電磁誘導の概念モデルを完成。光の三原色ごとのフィルターで撮影した

人づき合いに疲れたら実験に打ち込め:マイケル・ファラデーさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(314)  マイケル・ファラデー /Michael Faraday _教訓: 今回の話題は(A)物理学。 ▼マイケル・ファラデーさんの教訓: 人づき合いに疲れたら実験に打ち込め 教訓の理由:ファラデーさんは価値あるアウトプットによって、自分のネガティブな経験をチャラにする生き方をしたから。 感想:ニュートンさんは人に対して攻撃的だった。ファラデーさんはエネルギーを攻撃ではなく、実験に集中させた。人と争うと力が湧くタイプなのかな、ニュートンさんは。享年はニュートンさんが84、ファラデーさんが76。ニュートンさんより短い。椅子に座ったまま死去。亡くなり方は理想的だ 。 マイケル・ファラデー   Michael Faraday, 1791年9月22日 - 1867年8月25日 1791年、イングランドのサリー州 ニューイントン・バッツ(現在のロンドンの南)生まれ。父は鍛冶屋の見習い。 1805(14)小学校を出たあと近所の製本兼書店で見習い(1812年まで)。読書を通じて電気に興味。見習い仲間から絵の手ほどきを受ける。科学の本に出てくる実験装置を正確に描写。 1812(21)ロンドン市哲学協会で勉強。応援者から貰った入場券で化学者 ハンフリー・デービー さん(Humphry Davy, 1778年12月17日 - 1829年5月29日)の講演会に何度も参加。自作したボルタ電池で硫酸マグネシウムを電気分解。 1813(22)王立研究所でデービーさんの化学助手。従者兼 実験助手としてヨーロッパ旅行に同行(1815年まで)。多くの知己を得る。 1821(30)結婚。デービーさんと ウイリアム・ウォラストン さん(William Wollaston, 1766年8月6日- 1828年12月22日)が電動機の開発に失敗。2人から話を聞き、電磁技術の基礎となる電磁回転装置を完成、発表。以後、デービーさんとの関係が悪化。 1823(32)塩素の液化に成功。 1824(33)王立協会フェローに選出。デービーさんは反対。 1825(34)ベンゼンを発見。デービーさんの後任で英国王立実験所長。 1829(38)デービーさん死去(50才)。 1831(40)電磁誘導を発見。 1832(41)オックスフォード大学から名誉博士号。 1833(42)電気分解の法則を発見。