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波 Waves:アルケーを知りたい(385)

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今回の話題は(A)物理学。 ▼今日から第3回学力向上アプリコンテストのエントリー受付です。このブログは学力向上アプリコンテストに付属するブログなので、話題を学校で学ぶ教科から取り上げてきました。これからしばらく 中学の物理ワールドを散策しながら、 先達の蓄積を味わいます。 キーワード、その説明、計算がある場合は、その計算式も見て行きます。 ▼現役生が中学物理を学習するうえで大事な姿勢は、教科書に書いてある説明を素直に受け取ること、です。今はYouTubeにいろんな説明動画があるので、理解の助けになります。それでも腑に落ちないことがあれば、それはきっと自分にとって大事な疑問です。すぐには解決しないかもしれません。そのような場合、教科書の説明や図表は「物理学ゲーム」の「ルール解説」のようなものと解釈し、疑問は いったん保留にして次に進むのが良いと思います。 ▼ 最初は 波 。 【 波 waves】振動が次々と伝わる現象。 ▼「つぎつぎとおしよせるもの(小学館の国語辞典)」 ▼<解字>サンズイ(水)+皮の形成文字。音符の皮は、毛がわの意。毛がわのようになみうつ水、なみの意(新漢語林)。 【 縦波 Longitudinal wave】波の伝わり方のひとつ。波の進行方向と振動方向が同じ波。疎密波。 ▼媒質の振動方向が、波の進行方向と一致する波動。空気中を伝わる音波など。疎密波は縦波の一種(広辞苑第7版) ▼<解字>糸+従の形成文字。音符の従は、たてに人がつきしたがうの意。たて糸の意味から、たての意(新漢語林)。 【 横波 Transverse wave】波の伝わり方のひとつ。波の進行方向と振動方向が垂直である波。 ▼波の進む方向と直角にゆれる波。地震のS波など(小学館の国語辞典) ▼減を振動させたときに生じる波などのように、波動を伝える媒質の各部が波の進む方向に垂直に振動する波動 (広辞苑第7版) ▼<解字>木+黄の形成文字。音符の黄は、腰のよこにつける帯び玉の意。木を付し、よこの意(新漢語林)。 ▼人物:   クリスティアーン・ホイヘンス  Christiaan Huygens 1629年4月14日、オランダのハーグ生まれ - 1695年7月8日、オランダのハーグで死去(66歳)。★史上最高の科学者のひとり  one of the greatest scientist

見せかけだけの機密保護を全く信用しない(ジェームズ・チャドウィックさん):アルケーを知りたい(384)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ チャドウィック さんはこれまで何度もこのブログに登場した人物。想像を絶する世界を経験した人。生き方の軌跡が味わい深い。フリッシュさんとパイエルスさんの本に出てくるチャドウィックさんの描き方が味わい深い。 ジェームズ・チャドウィック  James Chadwick, 1891年10月20日、イングランドのチェシャー州生まれ - 1974年7月24日、イングランドのケンブリッジで死去。 ラザフォード さんの弟子。英国の物理学者。1932(41)中性子を発見。1935(44)ノーベル物理学賞受賞(中性子の発見)。MAUD報告の最終案の執筆者。マンハッタン計画のイギリス代表。 フリッシュ 本:フリッシュさんが初めてチャドウィックさんと会う場面。最初にここを読んだときは、チャドウィックさんが奇妙な人物に思えた。「(サー)ジェームズ・チャドウィック(中性子の発見者)の招きで、初めてリバプールを訪問した時、私はパイエルスと一緒だった。(中略)大学の物理学部で私たちはチャドウィックの部屋に案内された。しばらくすると チャドウィックが入ってきて、自分の机に座り、鳥のように頭を両側に揺らしながら、私たちをじろじろと詮索しはじめた。ちょっと当惑した が、私たちはじっと待っていた。三十秒後に、チャドウィックは「どれくらいヘックスがいるんだね」と言った。 形式的ではなく直接に要点を突くのが彼のやり方だった (pp.164-165)」 WWIIの時期、イギリスにいたフリッシュさんが見たチャドウィックさん。「チャドウィックは、何回も、別の場所の研究者仲間と、物事を議論する機会を与えてくれた。 チャドウィックは、個々の研究者に必要なことしか知らせない、知識の分断化に頼るような見せかけだけの機密保護を全く信用していなかった。彼は、そのような種類の機密保護は仕事を非効率に導くだけであると考えていた (p.177)」 マンハッタン計画のメンバーにフリッシュさんを選んだチャドウィックさんの語り口が面白い。フリッシュさんの返事も面白い。「ある日、チャドウィックがやって来て、いつもの直接的なマナーで「 君はアメリカで働く気はないか 」と聞いた。私はすぐに、「 せひそうしたいと思います 」と言った。「 しかし、それならイギリス市民にならないといけないんだが 」とチャドウ

オックスフォード大学を物理学の拠点に仕立てた(フレデリック・リンデマンさん):アルケーを知りたい(383)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ リンデマン さんは、ドイツ生まれのイギリスの物理学者でチャーチル首相の顧問だった人物。フリッシュ本とパイエルス本の両方に出てくる。フリッシュさんは大きく距離を取った。パイエルスさんは口論で終わった。 フレデリック・リンデマン  Frederick Lindemann, 1886年4月5日、ドイツのバーデンバーデン生まれ - 1957年7月3日、オックスフォードで死去。ベルリン大学で博士(指導教員はヴァルター・ネルンスト先生)。物理学者。ウィンストン・チャーチルの科学顧問を務めた。MAUD委員会にも関係した。 フリッシュ 本:MAUD委員会の仕事をしていたフリッシュさんがオックスフォードで働いた時の記述にリンデマン教授の名前が出てくる。「私が、ドイツ生まれの科学者のフランツ・サイモンの指導の下で数カ月働いた クラレンドン研究所 のあるオックスフォードでは、殆ど[爆撃の]被害はなかった。 フランツ・サイモンは著名な物理学者で、ヒトラーの反セム主義オン体制から、古い仲間の リンデマン教授(後にチャーウェル卿となった) によって救出されていた (p.179)」 フリッシュさんがケンブリッジ大学の教授職に就く前、リンデマンさんのコメントが次のように書かれている。このコメントに対してフリッシュさんは何も言っていない。「オックスフォードの物理学者の チャーウェル卿 は『 このフリッシュというのは何者だったかな。東側に行くところじゃないのか 』と言った(p.251)」 パイエルス 本:オックスフォード大学を物理学の拠点に仕立てたリンデマンさんの目論見と資金調達方法が端的に記述されているのが次。この中に出てくるI.C.I.(インペリアル化学工業)は チャドウィック さんに協力して六フッ化ウランを製造した会社である。さらにチューブアロイズのマネジメントも支えた。「 1933年より前は、オックスフォードの物理学は強力ではなかった。その点を認識していたクラレンドン研究所長のリンデマン(後のチャーウェル卿)教授は、ドイツの第一級の科学者が大勢職を失ったとき、彼らの救出が同時に自分の研究所の強化の機会になると考えた。 空きの教授職はなかったが、 リンデマンは大化学会社のI.C.I.を説得して寄付を出させ 、研究奨学基金を作り、自分で選別した難民を奨学生

迷惑をかけたフリッシュさんに博士指導教員になってもらった(ケン・スミスさん):アルケーを知りたい(382)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画(の後)。 ▼フリッシュさん(42)がハーウェルに到着し独身者用の宿舎に入ったときに スミス さん(22、似顔絵 は80歳を超えたときのもの )との出会いがある。 フリッシュさんの部屋の暖炉から大きな音楽の音がして眠りにつくどころではなくなる。その騒音の主が上の階の住人、スミスさんだった、というのが出会い。 ケン・スミス  Kenneth Frederick Smith, 1924年2月12日、南ロンドン生まれ - 2012年3月30日、英国サセックスで死去。ケンブリッジ大学で博士(指導教員はオットー・フリッシュさん)。 フリッシュさんはケンさんに原子ビーム高周波分光法を紹介。これをもとに博士号を取得。キャベンディッシュ研究所で原子ビームグループの責任者。1962(38)原子ビームグループごとサセックス大学に移転。1988(64)サセックス大学を引退。 フリッシュ 本:騒音を止めるための行動と騒音の原因が分かる記述が次。「寝巻きにガウンを羽織って、階段を駆けあがり、上の部屋のドアをノックした。そこにいたのは ケン・スミス という若い物理学者で、 ラウドスピーカーを暖炉の前に置き、部屋の壁を反響版として漬かっていた 。 私たちの暖炉は同じ煙道を使っていたので、音楽の約半分が私の部屋に出現した のは当然だった(p.247)」 フリッシュさんは、スミスさんの騒音がきっかけでスミスさんの博士号の指導教員になるというご縁に発展する。「 ケン・スミス は 非常に恐縮して、すぐに音を小さくした。まもなく私たちはよい友達になり、実際、彼が物理学の勉強を続けようと決心し、ケンブリッジで博士号をとる際には、私が指導教官になった 。その後まもなく、ケン・スミスはサセックス大学の物理学部長になった(p.247)」 〔参考〕https://www.sussex.ac.uk/broadcast/read/13105 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉

"滑稽五行詩"を書いたりする原子核物理学者(ニコラス・ケマーさん):アルケーを知りたい(381)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画(の後)。 ▼ケマーさんはWWIIの時期、ケンブリッジ大学で チューブアロイズ のメンバーだった原子核物理学者。フリッシュ本からもパイエルス本からも、どんな人柄なのか読み取れない。フリッシュ本にはケマーさんの滑稽五行詩が出てくる。しかしこの詩のどこが滑稽なのかが分からない。 ニコラス・ケマー  Nicholas Kemmer、1911年7月12日、ロシアのサンクトペテルブルク生まれ - 1998年10月21日、イギリスのエジンバラで死去。チューリッヒ大学で原子核物理学の博士(指導教員はパウリさん)。1940(29)ケンブリッジ大学トリニティカレッジ、チューブアロイズのメンバー。 イーゴン ・ブレッチャー さんと ノーマン・フェザー さんが発見した放射性物質の名称に「 ネプツニウム 」を提案。1944-46(33-36)チョークリバーで過ごす。1953-79(42-68)エジンバラ大学で数理物理学のテイト教授。 フリッシュ 本:フリッシュさんはハーウェルに着任する前、カナダのチョークリバーにある原子エネルギー研究所に滞在する。たまたまこの時、「 秘書の机の脇の書類キャビネットの中に、たいへん強いラジウム線源があるのが見つかって、放射線防護班を震え上がらせた (p.241)」。 このときチョークリバーにいたケマーさんが書いたというlimerick(滑稽五行詩)をフリッシュさんが引用している。  A typist, proficient in Morse,  Sat for weeks on a radium source  Until a pink rash  . _ . . _  The rest of the story is coarse. (原本のp.194)  「. _」 ばAで「. . _」はU。どこが滑稽なのだか不明だ。 パイエルス本 でケマーさんが出てくる箇所は次だ。「ハルバンとコワルスキーは重水を使う研究が続けられるようにケンブリッジで実験設備を与えられた。二人の仕事は、チャドウィックの研究を助けたケンブリッジの物理学者たち、N・フェザー、イーゴン・ブレッチャー、そして理論家の N・ケマー らと密接な関係を保って進められた(p.242)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Nichol

Cockburnと書いてコバーンと発音する(ロバート・コックバーンさん):アルケーを知りたい(380)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画(の後)。 ▼ロスアラモスでの仕事を終えたフリッシュさんはカリフォルニアのスタウブさんの家で2週間過ごす。するとイギリスのハーウェルで始まっている新しい原子力研究機構(AERE)の一部門を率いる仕事のオファーが来る。引き受けることにしたフリッシュさんは、翌日、副官になる予定のコバーンさんと会うためにニューヨークのホテルに向かう。しかし、ホテルに着くと「 コバーン 博士という人はおりません We have no Dr Coburn. コックバーン 博士という人ならおります There is a Dr Cockburn. 」と言われる。フリッシュさんは「私が聞いた名前はコバーンだった」と問答を繰り返す。 結局、コックバーンという名前は伝統的にコバーンと発音されることが分かり、無事に会える 。 ロバート・コックバーン  1909 年3月31日、英国のポーツマス生まれ - 1994年3月21日、英国のアルダーショット(ロンドン近郊)で死去。1939(30)ロンドン大学で博士。英国の物理学者。WWIIの間は、レーダー研究に従事。WWIIの後、原子力エネルギー研究機構フリッシュさんの副官を務める。1970-77(61-68)国立コンピューティングセンターの議長。 フリッシュ 本:フリッシュさんの本にはコックバーンさんの顔写真が出ている。そのキャプションのコックバーンさんの紹介が次。わざわざコバーンと発音される、というカッコ書きがついているのは、ニューヨークのホテルでの出来事があったから。「 ロバート・コックバーン(コバーンと発音される) レーダーの重要な応用技術の発明者。その後、ハーウェルの原子力エネルギー研究機構における著者の副官となる。後にファンボローの王立航空機協会の会長。1960年にナイトに叙せられる(p.240)」 フリッシュさんがコックバーンさんと出会ったときの第一印象が次だ。「 ロバート・コックバーンの活気のある外向きな態度は魅力的で、私はたちまち彼を気に入り、その後、ハーウェルで一緒に仕事を始めた時には、良い友達になっていた (p.240)」 フリッシュさんのハーウェルでの過ごし方は次だ。「たいていは事務所で、連鎖反応炉のゆらぎの計算を続け、そのような誤差の原因となるゆらぎが存在しても、測定が正確に行えるような方法を考えて時を

失敗すると『チーズス・クライスト』と怒鳴る人(ハンス・スタウブさん):アルケーを知りたい(379)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ ハンス・スタウブ さん(35)はブルーノ・ロッシさん(前回紹介)とロスアラモスで検出器グループ(Detector Group)を率いた二人リーダーの一人。ナチスから逃れて渡米したスイス人の物理学者。アメリカに来ても「 私の思うところでは、ヒトラーはロッキー山脈の東側をことごとく手に入れることができる (p.237)」と表明していた。しかし、WWIIが終わって4年経過するとスイスに戻り停年まで教授職についている。 ハンス・スタウブ  Hans H. Staub, 1908-1983 スイスで博士号取得(指導教員は、Paul Scherrer先生)。1937(29)Cal Tech。1938(30)スタンフォード大学でブロッホさんと共に中性子発生用のサイクロトロンを建設。1942(34)マンハッタン計画に参加。1943(35)ロスアラモス研究所。1946(38)スタンフォード大学に戻る。1949-78(41-70)チューリッヒ大学で教授。 フリッシュ 本:WWIIが終わり、ロスアラモスを出るときに前回のスタウブさんが再び登場する。フリッシュさんは、ロスアラモスからパロアルトまでスタウブさんを乗せて車を運転する。フリッシュさんはスタウブさんの家に2週間滞在し、著書の執筆に専念する。「イタリア人のブルーノ・ロッシと共同のグループリーダーだったスイス人の ハンス・スタウブが、パロアルトにある彼の家へ来ないかと誘ってくれた のだ。スタウブはスタンフォード大学の教授で、カリフォルニアにとても愛着を感じており、カリフォルニアがアメリカで人間が住める唯一の場所だと思っていた。誰もが驚いたことに、 給料がだいたい二倍くらいでシカゴの教授の職を提供されたのに、スタウブは拒んでしまった (p.237)」 この時期のスタンフォード大学は、いまのような輝かしい存在ではなかった。工学部長に後に「シリコンバレーの父」と呼ばれるフレデリック・ターマンさんが就任し、教え子のベンチャーが成長し始めて、さあ、これからというタイミングだった。 〔参考〕https://www.wrd.ch/triboni/store/13_Forschung_Entwicklung_Trueb_Taeuber.pdf?mthd=get&name=wrd_store1&

失敗しても『オー・ディア』とつぶやいて終わる人柄(ブルーノ・ロッシさん):アルケーを知りたい(378)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ ブルーノ・ロッシ さん(38)はイタリア生まれの物理学者。ロスアラモスでは、スイスの物理学者 ハンス・H・スタウブ さん (次回紹介) と共に粒子検出器グループのリーダーとして原爆製造に必要な機器の開発を手がけた。 ブルーノ・ロッシ  Bruno Rossi, 1905年4月13日、ヴェネツィア生まれ - 1993年11月21日、マサチューセッツ州で死去。1927(22)ボローニャ大学で物理学の「ラウレア」取得(指導教員は、クイリーノ・マジョラナ先生)。 フリッシュ 本:フリッシュさんが、ロスアラモスで科学者グループの作り方を観察した中で、珍しい例として紹介した箇所。二人が率いたグループは"Detector Group"という(Wikipediaより)。「科学者たちは一ダースほどの仲間でグループを作り、ひとりのグループリーダーに率いられていたが、いくつか例外もあった。(中略) イタリア人のブルーノ・ロッシとスイス人のハンス・スタウブという二人のグループリーダーを持つ珍しい姿のグループもあった 。ロッシもスタウブも二人とも お互いを尊敬し、敬意を抱いていたので、ともに他の者のボスになろうとしなかった。それで二人が共同のグループリーダーになることが合意された (pp.195-196)」 ロッシさんとスタウブさんの性格の違いを描いた箇所が次。「しかし、二人は性格がずいぶん異なっていた。ハンス・スタウブは少しでもうまく行かないことがあると、すぐ強いスイスなまりで『チーズス・クライスト(Cheesus Christ)』と怒鳴ったが、 ロッシは最終的な破局を迎えてから、ようやく『オー・ディア』と、ぼそっと言うことがあるくらいだった (p.196)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Bruno_Rossi オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。 Rudolf Peier

原爆調査のため広島を訪れた物理学者(フィリップ・モリソンさん):アルケーを知りたい(377)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ フィリップ・モリソン さん(29)はアメリカの物理学者。マンハッタン計画には1943年から参加。ロスアラモスには1944-46年に参加、プルトニウム原爆の開発に携わる。 フリッシュ さん(40)はロスアラモス研究所が建設中の時からモリソンさんと出会っている。奇妙な会話が面白いので紹介する。 パイエルス さん(37)がモリソンさんと原稿のやり取りをしたのは1945年のこと。モリソンさんの解説能力の高さが伝わるので紹介する。 フィリップ・モリソン  Philip Morrison, 1915年11月7日、ニュージャージー州生まれ -  2005年4月22日、マサチューセッツ州で死去。1940年、カリフォルニア大学バークレー校で博士(指導教員は オッペンハイマー 先生)。 フリッシュ 本:フリッシュさんがロスアラモスでフィリップ・モリソンさんと交わした会話が出ている。「私は、たいへん大きい研究所の建物ができ上るのを見ていたことを覚えている。ロスアラモスで最初に友達になったフィリップ・モリソン(彼は歩くのにステッキを使っていたが、たいへん機転のきく面白い男だった)と傍らに立って、しばらくその建物を眺めていた。『 あの建物は、どうやって暖房するつもりだろう 』と私は言った。十二月の初めでどんどん寒くなっていたのに、どこにも暖房の設備が見えなかった。『ああ』とモリソンは言った。『 あんなに大きい建物なのだから、多分、どこかの隅にちょっと火をつけるのじゃないかな。それでも建物自体は何も変わらないよ 』フィリップ・モリソンは現在MITの天体物理学の教授である(p186)」 パイエルス 本:「 原子エネルギーの問題は当時たいへんな関心を集めており 、私はペンギン科学ニュースという新シリーズの編集者から、この問題に関する原稿を集めて欲しいと依頼された。手近なところでロスアラモスから著者を選んだ結果、やがて優れた原稿がたくさん集まって来た(p.312)」 このシリーズは、一般の知識人向けだった。集まった原稿のうち、ひとつだけレベルが高すぎたので、パイエルスさんは当初の著者に断りを入れたうえで、別の著者に依頼する。「私が代わりを頼んだのはフィリップ・モリソンだった。 彼の原稿は極めて優れた出来ばえだったが、彼は後に有名な科学の解説者になる男だった

20世紀の最も特筆すべき科学者の一人(G・I・テイラーさん):アルケーを知りたい(376)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼マンハッタン計画で流体力学チームの責任者だったパイエルスさん(37)は、この分野の先達の G・I・テイラー さん (58) に会っている。その結果、パイエルスさんは「 流体力学の視野が広がり、偏微分方程式の扱い方を体得した 」という。学び方の例として面白いので紹介する。 ▼ G・I・テイラー さんは、イギリスの物理学者、応用数学者。マンハッタン計画には、流体力学の専門家として1944-45年に参加。 ケンブリッジ大学でテイラーさんと一緒に仕事をしたことがある応用数学者のジョージ・バチェラーさん(1920 - 2000)は、 テイラーさんを「 20世紀の最も特筆すべき科学者の一人 」と呼んだ。 ジェフリー・イングラム・テイラー  Geoffrey Ingram Taylor, 1886年3月7日、ロンドン生まれ - 1975年6月27日、ケンブリッジで死去。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業。指導教員は J・J・トムソン 先生。 パイエルス 本:パイエルスさんはテイラーさんと直接、交流を持った。「テイラーは非凡な科学者で、 理論から実験まで、多くの分野で基本的な成果を挙げていた 。[前回、キスチャコフスキーさんが提出した]問題で 私はテイラーと手紙を交わし、その後ケンブリッジで本人に会った。彼は飾り気のないとても魅力的な男だった (p.266)」 マンハッタン計画を進めるためパイエルスさんが理論の勉強に集中していたことが分かる箇所。「テイラーからの手紙は衝撃波の理論に言及していたが、 私にはその知識が全くなく、彼の手紙を理解するには猛烈な予習が必要だった 。おかげで、私は流体力学の視野が広がった。(中略) この時点で私は偏微分方程式の扱い方を体得した気がした (pp.266-267)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/G._I._Taylor オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉

著名な化学者で爆発物の権威(ジョージ・キスチャコフスキーさん):アルケーを知りたい(375)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼今回の ジョージ・キスチャコフスキー さん(43才)はロシア帝国時代のキエフに1900年に生まれた化学者。ロシア内戦のためドイツに逃れベルリン大学で博士。26才で米国に渡り、ハーバード大学で教員。WWIIの時期は国防研究委員会(NDRC)のメンバー。マンハッタン計画にはコンサルタントとして参加した。 フリッシュ 本: トリニティ実験場 でキスチャコフスキーさんと会話を交わした場面が出ている。「試験場には、百フィート[30m]ぐらいの高さの鉄骨の塔が、試験用の爆弾(実際の爆弾ではなかったので、流線形のケースはついていなかった)を運び上げるために建設されていた。ようやく、その爆弾が到着して、塔の頂上へ吊り上げられたとき、 私は爆発物に関する第一人者のジョージ・キスチャコフスキーと塔の下に立っていた (p.203)」 「『爆発したとき、どれくらい離れていれば大丈夫なのかな』と私はキスチャコフスキーに聞いてみた。『ああ、たぶん十マイル[16km]くらいだ』とキスチャコフスキーは言った(p.203)」 この会話の原文は次。英語の参考書の例文みたいである。 'How far away',  I asked him 'would we have to be for safety in case it went off?' 'Oh', he said, 'Probably about ten miles.'  (p.163) パイエルス 本:「この少し前、著名な化学者で爆発物の権威でもある ジョージ・キスチャコフスキーは、原子爆弾の爆発による損害は比較的小さいものであると予測する報告書を書いた (p.265)」 この報告書を受け取ったケンブリッジ大学の G・I・テイラー さんは、流体力学の理論をもとに「爆風の強度は爆発の本来のエネルギーから期待される通りの大きさであることを示した。つまり、 キスチャコフスキーは間違っていたのだった (p.265)」 「課題は、プルトニウムの殻の周囲を高性能爆薬で取り囲み、内向きの爆発波を発生させ、殻を押し潰し、緻密な塊にするというものだった。この『 内向きの爆発装置 』は原理は簡単だったが、極めて困難な問題を提出していた。(中略)問題の解決のため

一流の専門家かつ国家プロジェクトの推進者(アーサー・コンプトンさん):アルケーを知りたい(374)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼フリッシュさんとパイエルスさんの本に出てくる物理学者にはいろんなタイプの人がいて興味が尽きない。 アーサー・コンプトン さん(49)は、専門に加え国家プロジェクトを進める管理者として長じている(イギリス人ではチャドウィックさん)。まるで特別な秘密の技を持っているようだ。 フリッシュ 本:フリッシュさんの本で、コンプトンさんは、 フェルミ さんのプロジェクトを後押しした有力者として次のように紹介されている。「フェルミは敵側の外国人であったが、有名なアメリカの物理学者アーサー・H・コンプトンがフェルミにあらゆる支援を与えた」 フェルミさんのプロジェクトは「グラファイトを用いる連鎖反応炉の建設の仕事」だった。「最高の緊急度で遂行された。特に、アメリカを参戦に導いた 真珠湾以後は、その傾向が加速された 」とある。 結果、「1942年12月2日に、シカゴのフットボール場であるスタッグ競技場の観客席の下にあるスカッシュのコートで、 最初の原子核連鎖反応が達成された (p.207)」 パイエルス 本:1941年、パイエルスさんはイギリスの調査団の一員として渡米する。このときコンプトンさんと会っている。「調査団は次にシカゴに行き、アーサー・H・コンプトンに面会した。 コンプトンは量子論の発展において決定的に重要な『コンプトン効果』の発見者 であり、原子エネルギー研究の計画立案に関係する長老のひとりだった(p.259)」 パイエルスさんは、調査の感想を次のようにコンプトンさんに伝えた。「今まで見たところでは 誰ひとりとして最終的に作られる実際の兵器について考えていない ように思われる(p.259)」 「ニューヨークへ戻ると、シカゴにちょっと立ち寄ってくれないかというコンプトンからの伝言が待っていた。コンプトンは 高速中性子の研究と兵器の開発計画について議論を深めたい と考えていた。対話の終わりに私たちは、 オッペンハイマー がこの仕事を担当するのが望ましい姿であるという結論に達した(pp.260-261)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Arthur_Compton オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (197

二番目の事故の犠牲者になった(ルイス・スローティンさん):アルケーを知りたい(373)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ロスアラモスでは、放射性物質を扱う過程で、1945年と46年に立て続けに二人の物理学者が臨界事故で死亡した。二人目の死者は ルイス・スローティン さん。36才だった。スローティンさんはフリッシュさんの後継者、ドーリアンさんはフリッシュさんのチームメンバー。フリッシュさんのチームはたいへん危険な実験を行っていた。 ルイス・スローティン  Louis Slotin, 1910年12月1日、カナダ生まれ – 1946年5月30日、ロスアラモスで死去。両親はソ連からの難民ユダヤ人。1936(26)キングスカレッジロンドンで博士(物理化学)。大学時代、アマチュアバンタム級ボクシング選手権で優勝。1944(34)マンハッタン計画に招聘、ロバート・バッチャーさん(アメリカの原子核物理学者)がリーダーを務める爆弾物理学グループに入る。1945(35)トリニティ実験用の爆弾の組み立てに成功。同年、ハリー・ドーリアンさんが臨界事故で死去。1946(36)事故死。 フリッシュ本 :「原子爆弾の材料を用いる実験は、火災等の恐れは少なかったが、実際には、火災よりもっと危険なものだった。私がロスアラモスにいた間にも、反応が暴走して、男が一人死亡し、その後、 私の後継者 のルイス・スローティン(たいへん好人物で人気者だった)が二番目の事故の犠牲者になった(p.199)」 「ルイス・スローティンの場合は、反射材の下に置いた鉛筆が滑り落ちてから、 わずか九日間の命だった と私は聞いた(p.200) 「私が車の運転を習ったのも、ロスアラモスでのことだった。私は ハリー・ドーリアンから教習を受け始めた 。後にドーリアンが前述の核の事故の犠牲になって倒れた時には、 ルイス・スローティンが引き継いでくれた 。スローティンもまた暴走した集合体からの放射線によって、後に死亡することになるのは奇妙な偶然の一致である (p.214)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Slotin オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press

電離された空気の一瞬の青いオーラを見た(ハリー・ドーリアンさん):アルケーを知りたい(372)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ロスアラモスでは、放射性物質を扱う過程で、二人の物理学者が臨界事故で死亡した。最初に事故で亡くなったハリー・ドーリアンさんは、24才の若さである。 ハリー・ドーリアン  Haroutune Krikor Daghlian Jr. , 1921年5月4日、コネチカット州生まれ - 1945年9月15日、ロスアラモスで死去。1942(21)パデュー大学で理学士。1944(23)大学院生でマンハッタン計画に参加。ロスアラモス研究所でフリッシュさんのグループに加わる。翌年、臨界事故。事故発生の2週間後に死去。 フリッシュ 本:「ドーリアンはたいへん仕事熱心だったので、みんなが帰ったあとで、もうひとつ集合体を作ろうとしていた。そのとき、ウラン重金属の大きな切れ端が指から滑り、殆ど完成していた集合体の上に落ちた。ドーリアンは 咄嗟に、筋骨たくましい腕の一振りで、その塊を横へ払いのけたが、そのとき、集合体の周りに、電離された空気の一瞬の青いオーラを見た (p.199)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Daghlian オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。 Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press. ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日 オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日 リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

パウリさんの助手になったとき「本当はベーテがよかった」と言われた(ビクター・ワイスコップさん):アルケーを知りたい(371)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼今回は、 ビクター・ワイスコップ さん。ワイスコップさんは、フリッシュさんの同級生の弟で、物理学を知りたがる少年だった。パイエルスさんとは大人になってからの付き合い。 パウリ さんの助手になると決まったとき、パウリさんの辛辣さが不安になったワイスコップさんはパウリさんの下で働いた経験のあるパイエルスさんに様子を聞いた。しかし実際にパウリさんに会うと、のっけから「本当はベーテがよかった」と言われた。ワイスコップさんのせっかくの予習もパウリさんには通用しなかった。 フリッシュ 本:ワイスコップさんの写真が出ている。そのキャプションが次。「ビクター・F・ワイスコップ オーストリア生まれの理論物理学者で、今はMITを引退している。彼の偉大な経歴には、ジュネーブの CERN(原子力研究のヨーロッパのセンター)の所長を数年間務めた ことも含まれている(p.193)」 フリッシュさんがウィーンで高校生か大学生だった時の話。「 ビッキー・ワイスコップ は何年も前から知っていた。 ビッキーの兄は私と一緒の学校に通っていた ことがあり、あるとき、弟が、自分には答えられない物理学の質問をたくさんするので、と言って、私をお茶に誘った。ビッキーより二歳年上だったので、私は、 その当時、いくつかのビッキーの質問に答えられた。そのときが、ビッキーより私の方が物理学を知っていると感じられた最後の時だった (p.193)」 パイエルス 本:パイエルスさんとワイスコップさんとの人間関係は、若い時代から引退したあとまで続いた。本にも3回、写真が出ている。ロスアラモスで多くの旧友と会う場面でのワイスコップさんのスケッチが次。「 魅力的なデンマーク人の妻のエレンを連れたビクター・ワイスコップ とは、さまざまな場面で会っていた(p.288)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Victor_Weisskopf オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学

数学者にして水爆理論の父(スタン・ウラムさん):アルケーを知りたい(370)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼数学者の スタン・ウラム さん(35)は1944年2月からロスアラモス研究所に加わった。原爆開発の途上で発生する問題を ノイマン さんと共にENIACを駆使して解決した。フリッシュさん(40)はウラムさんを敬意をもって紹介している。 フリッシュ 本:フリッシュさんの本にはウラムさんの写真が出ている。そのキャプションが次。「 スタニスロー・M・ウラム  アメリカに移住したポーランド人で、 優れた純粋数学の技術を、一時期、原子兵器の問題に適用した (p.192)」 Wikipediaのウラムさんの解説で引用されている一節を含む記述が次だ。「それから、ポーランド生まれの数学者で、魅力的なフランス人の妻を持つ、スタン・ウラムがいた。ウラムは私に対して、 かつて自分は抽象的な記号だけで仕事をする純粋な数学者だったが、今では低いレベルに落ち込んでしまい、最近の自分のレポートは実際の数字、本当に小数点付きの数字を含んでいる 、と説明してくれた。何という不名誉なことだとウラムは言っていたが、実際には、原子爆弾の挙動を予測するために、 最も難解で抽象的な数学の手法を使う神秘的な技術を持っていた (p.192)」 「魅力的なフランス人の妻」とは、 フランソワーズ・アロン・ウラム さん(26、Françoise Aron Ulam、1918パリ -  2011サンタフェ)。夫妻とも家族がホロコーストで犠牲になった。夫の仕事をサポートし適切なアドバイスをする妻である。 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Stanislaw_Ulam オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。 Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press. ルドルフ・パイエルス Rudolf

水素爆弾の父(エドワード・テラーさん):アルケーを知りたい(369)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼今回は、水素爆弾の父 father of H-bomb とされる エドワード・テラー さん(35)の話。フリッシュさん(39)、パイエルスさん (36) の本でテラーさんの能力・個性・ピアノ演奏に触れた部分をピックアップした。 フリッシュ 本:フリッシュ本にはテラーさんの顔写真と次のキャプションが載っている。「エドワード・テラー ハンガリー生まれの水素爆弾の父。 広範な能力と想像力を持つ理論物理学者 でもあった。(2003.9.9死去 95歳)(p.217)」 フリッシュさんはテラーさんと一緒に旅行したことがある。列車の中でフリッシュさんが疲れ果てるまで議論したという。「もう一人の注目すべきハンガリー人は、デンマークでもちょっと会ったことのあるエドワード・テラーである。 テラーはいつも、難しい問題、議論、目隠しチェスゲームなど、何か挑戦するものを探すタイプの頭脳を持っていた (p.217)」 テラーさんはピアノが上手だった。フリッシュさんもピアノを演奏するので、ピアニストとしてのフリッシュさんから見たテラーさんの演奏評が次だ。「私は、 技術の欠けているところを天性の音楽性と、純粋な意思の力で置き代えた テラーのピアノ演奏も好きで、称賛していた(pp.217-218)」 テラーさんの行動を決める原体験を解説した箇所が次だ。「テラーは 故郷のハンガリーが共産主義者に占領されるのを見て以来、狂信的な反共主義者 となり、共産主義者との闘争を不可避のものと思いこんで、アメリカはそのために武装すべきだと強く信じていた。ウランまたはプルトニウムの核分裂の力を利用する原子爆弾は、テラーにとっては、ほんの始まりだった(p.218)」 パイエルス 本:ロスアラモスの研究所でテラーさんは流体力学グループのリーダーを務めるはずだった。しかしテラーさんは、ウランやプルトニウムを使った原爆では威力がまだ物足りなかった。もっと強力な水素爆弾の開発を主張。「 爆発波と衝撃波の安定性に関する理論面の考察 については、理論家のグループである『流体力学グループ』が対応した。このグループはエドワード・テラーが指導者のはずだったが、 テラーは長期的な課題である後の水素爆弾、当時の『スーパー』の研究に専念したいと主張 した(p.300)」 結局、流体力学グループのリーダ

マンハッタン計画にコンサルタントとして協力した(I・I・ラビさん):アルケーを知りたい(368)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼今回は、 イジドール・イザーク・ラビ さん(45)。パイエルスさんの本では「そのときはレーダーの仕事をしていた」とあるように戦時研究のメインはそちらで、マンハッタン計画ではロスアラモスに常駐するほどの比重はかけてなかった。WWIIの真っ只中、1944年に核磁気共鳴の発見の功績でノーベル物理学賞を受賞した。後年、ラビさんがMRIで自分の体を見たとき「自分の仕事がこれに行きつくとは思わなかった」と言ったという。 パイエルス 本:パイエルスさんは博士学生だった1929年の夏の一学期間、チューリッヒのパウリさんの下で修行する。このときパウリさんを説得して湖へボート乗りに出かけたりした。このとき、オッペンハイマーさん、ラビさんも同行。著書に3人が写った写真が出ている。そのキャプションは「チューリッヒ湖で。 オッペンハイマー 、 ラビ 、 パウリ ら。1929年(p.66)」 ロスアラモスの施設の計画段階からラビさんはグローブスさんと意見交換していた。施設が完成してからも現地に足を運んでいた。「ライプチヒ以来の知己であるI・I・ラビもときどきこの場所に来て、 慈父のような目を注いでいた 。ラビは物理学の老賢人であり、後にノーベル賞を受賞することになる原子ビーム研究を完成し、そのときはレーダーの仕事をしていた。ラビは 重大事に対しては非常に寛容だったが、小額の金にこだわるという愛すべき癖 があった(p.289)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Isidor_Isaac_Rabi オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。 Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press. ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907

プルトニウム239原爆の開発を進めた(エンリコ・フェルミさん):アルケーを知りたい(367)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼今回は エンリコ・フェルミ さん(43)。イタリアの物理学者。ノーベル賞受賞のために国外に出たタイミングで奥さんとアメリカに脱出、マンハッタン計画に参加。フリッシュさん(40)の記述からは、フェルミさんの親しみやすい人柄が伝わってくる。パイエルスさん (37) は、フェルミさんの「その場で対象を見積る能力」を印象的に記述している。 フリッシュ 本:フェルミさんは1938年にストックホルムでノーベル賞を授賞した後、イタリアに帰らず 夫妻で 渡米、1939年にコロンビア大学で物理学教授になる。大きな実験装置があるシカゴ大に移り、1942年に世界初の原子炉シカゴ・パイル1を完成させる。「エンリコ・フェルミがロスアラモスにやって来たのはかなり遅く、1944年のことだったが、そのときの私たちの喜びは大きかった(p.205)」 マンハッタン計画の中軸コンプトンさんのバックアップを得ていたことが分かる箇所が次。「フェルミは敵側の外国人であったが、有名なアメリカの物理学者 のアーサー・H・コンプトン がフェルミにあらゆる支援を与えた(p.207)」 フェルミさんの言葉が紹介されている箇所。フリッシュさんは人物の言葉を取り上げるセンスが抜群だ。「機密保護上の理由からフェルミは『ミスター・ファーマー』と呼ばれており、ボディガードが付けられた。フェルミは気晴らしのための長い散歩の途中で、ボディガードに好んで物理学を語った。『 私のボディガルデは、いまや物理学にたいへん詳しくなったので、まもなくボディガルデのためのボディガルデが必要になると思われる 』(p.208)」 同じくフェルミさんの研究スタイルを描いた箇所。「フェルミは決して、 せかせかしているようには見えなかったが、たいへん系統的に仕事をしたので、実に多くのことを成し遂げた 。(中略)日曜日には、いつも若い人々のグループと一緒に散歩にでかけた。若者たちは完全にフェルミに打ち解けていた。 このようにリラックスした飾らないやり方が完璧に身についた人物に、私はいままで会ったことがなかった (pp.208-209)」 パイエルス 本:パイエルスさんとフェルミさんは古い知り合い。「古い友達のなかにはローマで知り合ったエンリコとローラ・フェルミ夫妻、そして エミリオ・セグレ がいた。フェルミは旅行すると

物理学者のフリッシュさんにも精緻に過ぎ、技術的に過ぎる数学的業績を挙げた(フォン・ノイマンさん):アルケーを知りたい(366)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼今回はフリッシュさんとパイエルスさんが描いたロスアラモスでの フォン・ノイマン さん(40)。 フリッシュ 本:フリッシュさんが描いたノイマンさんのイラストについているキャプションが次。ノイマンさんをコンピュータの精神的な推進力(driving mind)と呼んでいる。「ジョン・フォン・ノイマン ハンガリー生まれの数学者で、ゲームの理論(経済と政治を含む)を考案し、また 最初の電子計算機の精神的な推進力 となった(p.216)」「 the driving mind behind the first electronic computers (p.173)」 ロスアラモスで、フリッシュさんが1つ年上のノイマンさんとコンピュータの話をする場面。この中に出てくるビッグハウスというのは、ロスアラモスに建っていた私立男子校の建物のこと。「大きな丸太から伝統的工法で建てられた壮大な丸木小屋(p.186)」で、独身の科学者の宿舎として利用された。パイエルスさんは既婚者なので、戸建てに住んでいた。話を戻して、ロスアラモスでフリッシュさんがノイマンさんにコンピュータの話を持ちかける箇所がこちら。もちろんこの後、ノイマンさんはフリッシュさんを自室に招いてコンピュータ講義をすることになる。 「ハンガリー生まれの数学者、ジョン・フォン・ノイマンもロスアラモスを訪れた。ノイマンもビッグハウスに宿泊したので、私たちはときどき一緒に歩いて帰った。そんなある時、 ノイマンが複雑な計算を機械で行う問題(コンピューティングという言葉はまだ一般的に通用していなかった)に関心があることに気づいた ので、歯車の代わりに、真空管を使う計算機械の製造を誰か考えついていないのかどうか尋ねてみた(p.215)」 ノイマンさんの数学と酒に強い話が取り上げられている。数学と酒の話はパイエルスさんの本にも出てくる。「 ノイマンの数学的業績は精密に過ぎ、技術的に過ぎて、私には理解したり記述したりできない が、彼の頭脳の強靭さについては証言することができる。というのは、私はあるとき、ノイマンが確かにマルティーニを続けて 16杯 飲んだのに、自分の足でしっかり立ち、いくらか話し方が悲観的になっていたが、 全く明晰だった のを見ていたから(p.216)」 パイエルス 本:ノイマンさんは、

ドラゴン実験の名付け親(リチャード・ファインマンさん):アルケーを知りたい(365)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ロスアラモス研究所で ファインマン さん(25)は、若いながら上級物理学者からなる評議会のメンバーだった。研究所内で上がってくる提案を審査する立場だったので、フリッシュさん(36)の提案書も審査した。そのとき「眠っている竜の尻尾をくすぐるようなものだね ' like tickling the tail of a sleeping dragon '」と言って受理したことからフリッシュさんの実験は「 ドラゴン実験 ' Dragon Experiment ' 」と呼ばれるようになった。ここではフリッシュさんとパイエルスさん(32)がファインマンさんを描いた箇所を見る。 フリッシュ 本:フリッシュさんが青年ファインマンさんに一目も二目も置いているのが分かる。「メサの上には大勢の理論物理学者がいて、何人か非常に著名な人物もいた。なかでも最高に面白かったのは、まだたいへん若い男で、実際、大学の学生に過ぎなかったが、誰もが芽を出しつつある天才と認めるリチャード・ファインマンだった。 ファインマンはきわめて理解が早く聡明で、いたずらのアイデアに溢れていた 。(ここで紹介されるエピソードは略) 今日ファインマンは理論物理学者の間で誰でも知っている名前となり、その才気溢れる講義録は、大西洋の両側で一世代の物理の学生によって読み続けらている(p.191)」 パイエルス 本:パイエルスさんはフリッシュさんと同じくファインマンさんを高く評価している。ファインマンさんの親しみやすい人物であったことが分かるエピソードが次。「リチャード・ファインマンは研究所で目立った人物のひとりだった。彼はプリンストンで博士論文を書き終えてすぐロスアラモスにやってきた。彼が偉大な能力の持ち主であることは直ちに町中に知れ渡った。確かに印象的だった理論物理学の能力のほか、他の面でもさまざまな力を発揮した。 タイプライターや卓上計算機の修理も上手だったが、余りにも修理の依頼が多くなったので、 ベーテ はついにファインマンの理論物理学の方が重要だといって修理を禁ずる指令を出した (p.296)」 ファインマンさんのコミュニケーション能力の高さを紹介した部分が次。人物の描き方がパイエルスさんもフリッシュさんもとても上手い。訳者の松田さんはこの二人の物理

20世紀の最高の問題解決者(ハンス・ベーテさん):アルケーを知りたい(364)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ベーテさんを「20世紀の最高の問題解決者」と呼んだのは弟子のフリーマン・ダイソンさん(1923-2020、15才で微分方程式が科学で重要な事を知り独学した物理学者)。フリッシュさん、パイエルスさん、共にベーテさんを敬意をもって記述している。 フリッシュ 本:フリッシュさんによるベーテさんのイラストがある。そのキャプションが次。「ハンス・ベーテ  理論物理学のあらゆる面に通じ、特に原子核への応用に優れたドイツ生まれの大家 。1967年、ノーベル賞受賞(p.138)」 ベーテさんのキャラと頭脳明晰さを紹介したエピソードがこちら。「もうひとりの印象的な男はハンス・ベーテである。機敏なファインマンと比較すると、ベーテはもう少しドイツの教授のように学者ぶって見え、またそのように話した。実際、ベーテはドイツの教授の息子だった。しかし、この ゆっくりとした話し方と、親しみやすい笑顔と、鳴り響く笑い声の背後には、恐るべき速度と底知れぬ力を持つ精神があった 。あるパーティで、私は数学のパズルを出すことになり、自分のシャツをファインマンに賭ける用意をしたが、ベーテの方が最初に答えを出した(p.192)」 パイエルス 本:ロスアラモスにやってきたパイエルスさんは旧知の仲間に出会う。そのときの感想とベーテさんの奥さんの話が次。「ロスアラモスのような異境の地で、私の今までの人生で出会った大勢の古い友達に再会したことは奇妙な感動だった。なかでも一番古い友人はハンス・ベーテだった。ベーテは結晶学で有名な物理学者 ポール・エバルト の娘の ローズ・エバルト と結婚していた。(中略)ローズはエネルギーに溢れ、人をまとめるのが上手な魅力的な女性で、子供が生まれる前まではロスアラモスの住宅係の責任者をしていた(p.288)」 パイエルスさんはベーテさんと学生時代に知り合った間柄である。「学生仲間のうちで最も重要な人物は何といってもハンス・ベーテだった。 ベーテは私より一年上級 であり、演習のクラスで成績をつける仕事をしていた。従って、最初のうち、彼は仲間というよりも先生だった。ベーテは 背が高く、がっしりした体格で、よく響く深みのある声でゆっくり話した。そのせいか、発言には偉大な権威が感じられた 。(中略)しかし、しばらくすると年齢の差や学年の差は問題でなくなり、

原爆の原理は秘密にするより公開した方が良い(ニールス・ボーアさん):アルケーを知りたい(363)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ロスアラモス研究所での ニールス・ボーア さんの描写。最後にパイエルスさんの本から核兵器の取り扱いの危険について指摘している箇所をピックアップした。 フリッシュ 本:ニールス・ボーアであることが分からないよう偽名を使っていたことが分かるくだりが以下だ。「 ニールス・ボーア もロスアラモスにやって来た。ボーアは息子のオーアと一緒に到着し、それぞれ ニコラス・ベイカー とジム・ベイカーと呼ばれていた。ボーア親子の到着は、そのような大騒ぎとミステリーに包まれていたので、私の友達は『 なぜ二人は木箱にパックされて送られて来なかったのだろう 』と聞いた。確かに、その方がはるかに簡単だったと思われた(p.209)」 戦時下の政治家とボーアさんの不一致が分かる箇所。ボーアさんはドイツ、ソ連出身の弟子を知っていたので、秘密にしても無駄と分かっていた。だからボーアさんは核戦争を避けるために敵国に情報を公開する考え方を政治家に示した。しかし、同盟国の米英同士でさえ機密の壁がある戦時下にあって、それは無理な話である。「ニールス・ボーアは チャーチル や ルーズベルト らの政治家と接触して、 原子爆弾の原理はいずれにしてもすぐに明らかになってしまうのだから、秘密にするよりも公開した方が良いと、説得しようとした 。しかし、ボーアの外国語なまりの発音と、ゆっくりとした粘り強い議論の習慣は、戦争に勝つという直接の目的を最優先し、素早く大胆な決断をする習慣が身についている男たちを、恐らく、いらいらさせただけだったと思われる(p.210)」 パイエルス 本:ボーアさんの偽名について書いている箇所が次。「ニールス・ボーアが初めてロスアラモスを訪問した時には 十重二十重の機密保護上の対策が取られた 。(中略)ボーアのような重要人物は本名を名乗ることが許されず、彼は ニコラス・ベーカー と名乗っていた(p.282)」 不思議なことに機密扱いは回を追うごとに消えていった。ロスアラモスでの原爆開発がボーアさんを追い越したからだろう。「ところで二回目にボーアがロスアラモスを訪問したときは、 誰も特別の関心を払わず 、ラミー駅から通常の車に迎えられてロスアラモスに到着した。そのまた次に訪問したときにはさらに関心が薄れて、皆、 ボーアに出迎えの車を出すのを忘れていた (p.2

何でも話してかまわないが、何も見せてはいけない(レズリー・グローブスさん):アルケーを知りたい(362)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ レズリー・グローブス さんはアメリカ陸軍の准将であり、マンハッタン計画の統括者であった人物。タイトルにした言葉は、グローブスさんがマンハッタン計画に携わる研究所の科学者に向けた指示。パイエルスさんが科学者たちと情報交換するとき「誰もこの指示の意味がよくわからず、結果として支障にはならなかった(パイエルス本のp.269)」という。 フリッシュ 本:フリッシュさんがイギリスからアメリカに渡りグローブスさんの指示を受ける場面。文化が異なる軍人と科学者が出会う。「 グローブス がようやく到着し、私たちの行く先を告げた。全員が同じ場所へ行くのではなかった。私はロスアラモスへ行くことになった。グローブスは、私たちの仕事に関する何事も、決して敵に知られることがあってはならないので、私たちには 機密保護上の予防措置が課せられることを長々と話した (p.185)」 パイエルス 本:以下は、パイエルスさんがグローブスさんの印象を述べた箇所。グローブスさんが備えているもの、備えていないものを描き出している。「レズリー・グローブス准将が責任者だった。私たちの最初の面会者は彼だった。グローブスは この任務に必要なもの全て、すなわち、偉大なエネルギーと統率力と自信を兼ね備えていた 。グローブスは現代の科学や研究の本質をあまり知らず、その知識のなさを示す意見や指示を何度も発して科学者たちを怒らせた。しかし、科学的な議論によってのみ成功の機会が評価できる今までに例を見ない性質の仕事に対して、進んで責任を取る彼の勇気は大きな尊敬を集めていたことも確かである(p.268)」 ロスアラモス研究所の所長にオッペンハイマーさんを選んだのはグローブスさんであることが分かる箇所が次だ。「 グローブス は オッペンハイマー を研究所の所長に選んだ。一見して、これは驚くべき指名に思われた。オッペンハイマーは実験家のチームを率いた経験もなければ、重要な行政責任を担った経験もない理論家であり、非常に学者的なタイプで、政策より詩作が似合っていた。しかし、 この指名は偉大な成功を収めた (p.286)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Leslie_Groves オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』

つかみどころのない人物(ロバート・オッペンハイマーさん):アルケーを知りたい(361)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼マンハッタン計画で科学者を統括した オッペンハイマー さんのエピソードを フリッシュ 本と パイエルス 本から拾った。つかみどころがない人だ。 フリッシュ 本:「私は早くからロバート・オッペンハイマーにも会った。オッペンハイマーは著名な物理学者で、この施設の科学の統括者であり、新入りを『ロスアラモスへようこそ。ところで、あなたは一体どなたでしたっけ』という言葉で迎えるのが常だった(p.187)」 「 オッピー はプロジェクトが必要とする化学者や物理学者やエンジニアだけでなく、画家や哲学者やその他の、あまり 本来の仕事に似つかわしくない人物まで集めていた。文化的な共同社会は、そのような人々がいないと不完全になるとオッピーは感じていた のだ(p.187)」 パイエルス 本:「オッペンハイマーとはチューリッヒ時代から顔馴染みであり、私は彼をずっと尊敬をしていた。今また、原子エネルギーの問題に関する彼の明晰な理解力に触れて、私は強い印象を受けた。彼はフリッシュと私が提起した殆どの点や、その後の展開における多くの問題をすでに考察していた(p.260)」 「ロバートは食べ物や飲み物について固い信念を持っていた。(中略)ステーキは必ずレア(生焼)だった。ある会合の後でオッペンハイマーは会議の参加者をステーキハウスに連れて行った。みなステーキを注文し、給仕が焼き方を聞いて回った。オッペンハイマーは『レア』と言い、誰もが順番にその言葉を繰り返したが、最後にオッペンハイマーの隣まで戻ってきたとき、そこの男は『ウエルダン』と言った。するとロバートは彼を見て『魚にしたらどうだ』と言った(p.285)」・・・これはパイエルスさんの書き方の妙が勝っている。 「オッペンハイマーは 何が重要な問題であるかを的確に理解し、それをまとめ上げるのが極めて上手だった 。議論での彼の理解の速さは印象的だった。彼と話すと、こちらが言いたいことを半分も言わないうちに論点を掴み回答を返してきた。オッペンハイマーは 人の扱いにおいて非常に感覚が鋭く、すぐに人々の信頼を勝ち取った 。これが多士済々な顔ぶれをうまく引きつけられたことのひとつの理由でもある(p.286)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/J._Robert_Oppenheimer

師匠と母国の期待にいつも応えた物理学者(アーネスト・チタートンさん):アルケーを知りたい(360)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼フリッシュさんがバーミンガム大学で放射線の実験をしていた時期の話。オリファントさんがフリッシュさんの実験助手に優秀な若者を付けてくれる。それが チタートン さん。 フリッシュ 本:1940年、フリッシュさんはバーミンガム大学で電離箱を使って放射線の実験を重ねていた。その時の話。「電離箱の電気回路は、オリファントが私の仕事の助手として付けてくれた アーネスト・チタートン により作られていた。チタートンは、後にオーストラリアのキャンベラで教授となり物理学部長となってナイトに叙せられるが、当時はたいへん聡明で活動的な若い学生だった(p.161)」 二人はこの実験を通して「ウランがときどき自発的に核分裂を生じる」現象を発見。しかし、時期がWWIIであり、やっていることが軍事機密のため「チタートンはこの重要な発見を公表できかなった(pp.161-162)」 しかし「この現象は同じ頃にロシアの二人の物理学者G・N・フリョーロフとK・A・ペトチャクにより発見され、ウランの自発核分裂の発見者としては彼らが一般に引用されている(p.162)」 ここから、核分裂の研究は、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツだけでなくロシアでも進められており、時間の競争だったことがわかる。だから次のパイエルスさんの緊張感になる。 パイエルス 本:「私たちは、 いま従事している仕事がこの国の死命を制する重要なもの であることを絶え間なく意識していた。 ドイツが先に目標を達成したときの恐怖 は、私たちを絶望的にさせた(p.253)」 ロスアラモスに集まった仲間の名前を挙げてた箇所でチタートンさんが入っている。「イギリスの仲間には、私と一緒に来たクラウス・フックスのほか、ケンブリッジから来たイーゴンとハンニ・ブレッチャー夫妻、リバプールから来たイギリスチームの代表のチャドウィックと フリッシュ 、リバプール滞在中に戦争が始まって帰国できなくなったポーランド人のジョセフ・ロトブラット、オックスフォードから来たジェームス・クック、そして、バーミンガムから来たフィリップ・ムーンとオリファントの生徒だった アーネスト・チタートン らがいた(p.288)」 アーネスト・チタートン  Ernest William Titterton , 1916 年3月4日 - 1990年2月8日

愛されキャラのヒポコンドリア=気病み=(エゴン・ブレッチャーさん):アルケーを知りたい(359)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ハルバン=コワルスキー組がケンブリッジで重水を使う研究を行っていた時、関連研究を進めていたのがN・フェザーさん、 イーゴン・ブレッチャー さん、N・ケマーさんだった。 ブレッチャーさんは、 フリッシュさんとパイエルスさんが同じ話題(ヒポコンドリア)で描いている。松田さんの訳と原本の原文の両方を引用した。 フリッシュ 本:ロスアラモスでフリッシュさんは研究の傍ら卓上台地(メサ)に登っていた。そのときの話にブレッチャーさんが登場する。「メサに登る冒険に行くときには、いつも、ケンブリッジで最初に出会ったスイス人の友人、 イーゴン・ブレッチャー と一緒だった(p.189)」 フリッシュさんはブレッチャーさんを次のように紹介している。「ブレッチャーは物理学と化学を結びつけてラザフォードと仕事をしており、恐らく、 プルトニウムの使用を最初に予測した男 だった(p.189)」 ブレッチャーさんの人物スケッチが次だ。「ブレッチャーはケンブリッジでは ヒポコンドリア *だと思われていたが(ブレッチャーはかつて『 今日は、私のどこが悪いのかわからない。だからきっと、今日は、私の気分がいいんだ 』**と言ったことがあると伝えられている)、たいへん熱心な登山家で、よじ登れない崖を見ると、挑戦しないではいられない性格だった(p.189)」 *ヒポコンドリア hypochondriac 気病み。 ** ' I don't know what is wrong with me today; I feel fine! ' (p.153) パイエルス 本:「ケンブリッジの研究者仲間全員で作り上げたお互いの『有名な最後の言葉』もある。いつも体の具合が悪いとこぼしていたブレッチャーの言葉は覚えている。最初、彼については誰も適当なものを思いつかなかったのだが、ある朝ブレッチャーがやって来て自分でそれを提供した。『 今日はいったい私のどこが悪いんだろう。こんなに気分がいいなんて 』*** (p.242)」 *** ' I don' know what's the matter with me today; I'm feeling so well! '  (p.160) 〔参考〕https:/

不均衡の人間関係はいつか破綻する(ハルバンさんとコワルスキーさん):アルケーを知りたい(358)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼前の2回で紹介した ハルバン さんと コワルスキー さんのコンビネーションと決裂についての話。パイエルス本が詳しいのでそちらを先にした。フリッシュ本では30年後にコワルスキーさんと再開する話が出てきて人のご縁の面白さが伝わってくる。今回の似顔絵は二人の研究に協力したメンバーから N・フェザー さんにした。 ▼ パイエルス 本:ハルバンさんとコワルスキーさんが重水の研究をしていたこと、それと、二人のチームにチャドウィックさんの共同研究者たちが協力していることが分かる部分:「ハルバンとコワルスキーは 重水を使う研究 が続けられるようにケンブリッジで実験設備を与えられた。二人の仕事は、チャドウィックの研究を助けたケンブリッジの物理学者たち、 N・フェザー 、イーゴン・ブレッチャー、そして理論家のN・ケマーらと密接な関係を保って進められた(p.242)」 コワルスキーさんの不満が分かる部分:「コワルスキーは議論の速さではハルバンにかなわず、当局との交渉は全てハルバンが行ったので、二人のグループは 『ハルバンら』のグループと思われていた 。しかし、共同研究におけるコワルスキーの役割は重要で本質的なものだったので、 彼はこの点に腹を立てていた (p.243)」 二人がついに決裂する原因が分かる部分:「ハルバンはモントリオールで新しい研究所の組織作りに着手したが、コワルスキーはケンブリッジの仕事に留まったままだった。その研究所が竣工したとき、ハルバンはコワルスキーを招聘したが、大きな研究所での コワルスキーの地位は満足できるものではなく、コワルスキーは着任を拒否 した。いつも水面近くにあったコワルスキーの怒りはここで水面上に出て、コワルスキーとハルバンの仲はこれ以降完全に決裂した(p.263)」 ▼WikipediaのTube Alloys を見ると Montreal Laboratoryの項にモントリオール研究所でのハルバンさんについての説明がある。それが次:Von Halban was the director of the laboratory, but he proved to be an unfortunate choice as he was a poor administrator , and did not work wel