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藤原 俊成の歌~アルケーを知りたい(994)

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▼和歌の巨匠、 藤原俊成 。独特の歌の世界を持つ歌い手。 ▼息子の定家は父・俊成の歌作りの様子を次のように語る。「深夜、細くあるかないかの灯火に向かい、煤けた直衣をさっと掛けて古い烏帽子を耳まで引き入れ、脇息に寄りかかって桐火桶をいだき声忍びやかに詠吟され、夜が更け人が寝静まるにつれ少し首を傾け夜毎泣かれていたという。誠に思慮深く打ち込まれる姿は伝え聞くだけでもその情緒に心が動かされ涙が出るのをおさえ難い」。 ▼この定家の語りは息子・ 為家 の生活態度を見て「そのように衣服や夜具を取り巻き、火を明るく灯し、酒や食事・果物等を食い散らかしている様では良い歌は生まれない」と叱ったときに引き合いに出したもの。 ▼一族、緊張あり、弛緩ありで、全体的にバランスが取れていると思う。私はどちらも好きです。 ▼ 藤原 俊成  / 皇太后宮大夫俊成 ふじわら の としなり  1114永久2年 - 1204元久元年12月22日 90歳。  平安時代後期~鎌倉時代初期の公家・歌人。藤原俊忠の子。藤原定家の父。 1124(10) 父俊忠が死去。藤原顕頼の後見で国司。 1133(19) 「丹後守為忠朝臣家百首」に出詠。 1138(24) 藤原基俊(78)に和歌の弟子入り。 1140-41(26-27) 「述懐百首」発表。不遇の悲嘆や出家への迷いを歌う。 1150(36) 崇徳天皇から「久安百首」に詠進の声がかかる。 1156(42) 保元の乱。崇徳院歌壇が崩壊。 1167(53) 公卿。 1176(62) 出家。 1178(64) 九条兼実と初会談、九条家歌壇の師となる。 1188(74) 後白河院に第七勅撰集『千載和歌集』を撰進。 1201(87) 和歌所寄人。 1202(88)「千五百番歌合」で判者。 1203(89) 後鳥羽院より九十賀宴を賜る。 1204(90) 「祇園社百首」「春日社歌合」に出詠。 ▼藤原俊成の和歌と*勝手に解釈 世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる *世の中から逃れる道はないようだ。世の中から遠い山の奥まで入っても、鹿の鳴く声が聞こえてくる。 いかにせむ賤が園生の奧の竹 かきこもるとも世の中ぞかし *どうしよう。粗末なわが庵に籠っても世の中から逃れられない。 無常の歌 世の中を思ひつらねてながむれば むなしき空に消ゆる白雲 *世の中を思いながら空を

藤原敦頼の歌~アルケーを知りたい(993)

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▼「前前回」は百人一首84番歌の藤原清輔の和歌を見た。「前回」は、清輔の父親で百人一首79番歌の藤原顕輔の和歌を見た。で、今回は藤原清輔の和歌仲間だった 藤原敦頼 の和歌を見る。 ▼敦頼は百人一首82番歌の詠み手。 道因法師 の名前で登場する。82歳で出家したけれども、良い歌を詠みたい一心で歌の神を祭った大坂の住吉大社に毎月参詣した。出家とは世俗の欲から逃れるものと思っていた。けど、敦頼の出家は良い歌を詠むため以外のことを捨てることだったようだ。 ▼藤原 敦頼 / 道因法師 ふじわら の あつより  1090寛治4年 - 1182寿永元年 92歳。  平安時代後期の貴族・歌人・僧。 ▼プロフィール 1153-(63-) 俊恵 が 歌林苑 で開く歌会のメンバー。 1160(70) 太皇太后宮大進 清輔 歌合に参加。 1170(80) 左衛門督実国歌合に参加。 1172(82) 藤原 清輔 が催した暮春白河尚歯会和歌に参加。  広田社歌合を勧進。出家。道因と称する。 1175(85)と1179(89) 右大臣兼実歌合に参加。 1178(88) 別雷社歌合に参加。 ▼敦頼の和歌と*勝手に解釈 月みればまづ都こそ恋しけれ 待つらむとおもふ人はなけれど *月を見ると反射的に京の都が恋しくなる。自分を待っていそうな人は居ないんだけど。 氷の歌とて読る 月のすむ空には雲もなかりけり うつりし水は氷へだてて *上を見ると月がかかった空には雲ひとつない。下を見ると氷の下で小川の水が流れている。 身につもる我がよの秋のふけぬれば 月みてしもぞ物はかなしき *年齢を重ねて後期高齢者になった。こうなると月を見てももの悲しい気分になる。 山のはに雲のよこぎる宵のまは 出でても月ぞなほ待たれける *山の上に雲が横切るようにかかっている宵。月が見えるまでもうちょっと待たねばならんようだ。 時雨の歌とてよめる 嵐ふく比良の高嶺のねわたしに あはれ時雨るる神な月かな *比良の高嶺で嵐が吹き渡り、時雨も降っている。感興深い神無月だ。 述懐の歌とてよめる いつとても身のうきことはかはらねど 昔は老をなげきやはせし *いつも身の憂きことに変わりはない。けれども、以前は今ほど老いを嘆いたりしなかったような・・・。 思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へぬは涙なりけり  (百人一首82番歌) *いくら思い悩

藤原清輔の父、藤原顕輔の歌~アルケーを知りたい(992)

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▼前回は百人一首84番歌の藤原清輔の和歌を見た。今回は、清輔の「親族つながり」から、 清輔の 父親・ 藤原顕輔 の和歌を見る。 ▼百人一首では 顕輔は 左京大夫顕輔の名前で79番歌が入っている。 ▼ 藤原 顕輔  ふじわら の あきすけ 1090寛治4年 - 1155久寿2年6月8日 65歳。  平安時代後期の公家・歌人。 父親は歌道家六条藤家の祖・ 藤原顕季(あきすえ)。 ▼プロフィール 1100(10) 白河上皇付き。 1104(14) 次男・ 顕輔 誕生。 1116(26) 鳥羽殿北面歌合、六条宰相家歌合に参加。 1118(28) 中将雅定家歌合、右兵衛督実行家歌合に参加。父、 顕季の 『 顕季家人麿影供 』に参加。 1121(31) 内蔵頭長実家歌合。 1128(38) 西宮歌合。 1135(45) 播磨守家成家歌合。 1136-41(46-51) 中納言伊通家歌合。 1137(47) 公卿。 1139(49) 左京大夫 。この役職名から百人一首では 左京大夫顕輔 の名前になっている。 1144(54) 崇徳上皇 の命で勅撰集撰進『詞花和歌集』の編集を開始。 顕輔 に手伝わせるも意見は聞き入れず。 1150(60) 崇徳院の『久安百首』に清輔と共に参加。 1151(61) 『詞花和歌集』を完成、崇徳院に奏覧。 1155(65)  顕輔に 歌道師範家六条家を継承。死去。 ▼藤原顕輔の和歌と*勝手に解釈 たのむれど心かはりて帰りこば これぞやがての別れなるべき *今は信頼しているけれど、心変わりして戻ってくるならば、今が永遠の別れになります。※人の心の変わりやすさを歌った。 散る花を惜しむばかりや世の中の 人の心の変はらざるらむ *散る花を見て惜しむ気持ちは世の中の皆が共通するもののようだ。 ※これも人の心を歌ったもの。 たれもみな花の都に散りはてて ひとり時雨るる秋の山里 *知っている人たちは皆、花の都で亡くなってしまった。私は秋の山里で時雨を見ながら独りぼっちだ。 藤原顕輔が月を歌う四首。 難波江の葦間にやどる月みれば わが身ひとつもしづまざりけり *難波江に生えた葦の水面に月が映っている。この私のように。 ※自分を嘆いた歌。 暮の秋月の姿はたらねども 光は空にみちにけるかな * 秋の 暮れに出る月はよく見えないんだけれど、月光は空に満ちているようだ。 秋の

藤原清輔の歌~アルケーを知りたい(991)

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▼百人一首の100番から戻って85番まで「 承久の乱つながり 」の視点で見てきた。 ▼詠み手のつながり方には、親族・師弟・仲間があって、星型ネットワークのようになる。 ▼84番歌の藤原清輔から順に、人物のキャラを見ながら、月・老い・死をテーマにした歌を探して行く。 ▼ 藤原 清輔  ふじわら の きよすけ  1104年 - 1177年7月17日(73歳)  平安時代末期の公家・歌人。 ▼清輔は人麻呂レスペクトの 歌道師範家の三代目 、そしてプロの歌詠み。 ▼キャリアとネットワーク 1144(40) 崇徳院 (77番)の命で『詞花集』を撰じる父・ 藤原顕輔 (79番)を手伝う。 1150(46) 崇徳院主催の『久安百首』に参加。歌学書『奥義抄』を崇徳院に献上。 1153(49) 『 人丸 (3番)勘文』を著す。 1155(51) 父から歌道師範家の六条藤家 を引き継ぐ。 1160(56) 太皇太后宮大進清輔歌合を開催。 藤原敦頼 (82番)を招く。 1165(61)  九条 良経 (91番)の父親・ 九条兼実 (16歳) が和歌の弟子入り。 1172(68) 暮春白河尚歯会和歌会を開催。 藤原敦頼 を招く。 ▼藤原清輔の和歌と*勝手に解釈 はるばると曇りなき世をうたふなり 月出が崎のあまの釣舟 * 月出が崎で釣り船を見たら、 はるばると曇りのない世を歌ってみたい気分だ。 冬枯の森のくち葉の霜のうへに おちたる月の影のさむけさ *冬枯れた森に敷き積もった朽ちた葉に霜が降りている、月影が寒さを際立たせている。 雲ゐよりちりくる雪はひさかたの 月のかつらの花にやあるらむ *天から雪が降ってくる、まるで月の桂から落ちてくる花のようではないか。 白 妙の雪吹きおろす風越の 峯より出づる冬の夜の月 *風越の峯から 雪が 吹き下ろされてくる。峯を見ると冬の夜の月が出ている。 月影はさえにけらしな神垣の よるべの水もつららゐるまで *寒さで一段と月影が冴えている。神垣の付近の水も凍っている。 更けにける我が世の秋ぞあはれなる かたぶく月はまたも出でなむ *私の人生の秋も深まってきた、趣も増すってことよ。また傾いて月が出てきた。 夜とともに山の端いづる月影の こよひ見そむる心地こそすれ *夜になると山から月が出てくる。今夜初めて見る気がするのが不思議。 ゆく駒のつめの隠れぬ白雪や 千里

百人一首の12名と承久の乱~アルケーを知りたい(990)

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▼これまで承久の乱と関係する百人一首の詠み手を見た。12名いたので、リストにしてみた。 ▼「その人らしい和歌」を選ぶのは楽しい。亡くなった時の年齢が二十代、三十代なのは悲しい。七十代になると悲しい印象が薄らぐ。今回の12名中、6名が七十代だ。 ▼和歌を見る時、自分は、月・老い・死をテーマにした歌に興味を惹かれることが分かった。雑・冬・秋のジャンルで良いなと思うものに出会う。 ▼庵の名前も気になる。家隆の夕陽庵とか 俊恵の歌林苑とか 、良いなあと思う。自分の机が置いてあるゾーンを何とか庵と名付けてみたい。 ▼百人一首100番から85番までのリスト: 並べ方は、百人一首の番号順。名前、1221年承久の乱の時の年齢、生年-没年、その人らしい和歌を1つ選んだ。 100 順徳天皇 24歳 1197年10月22日 - 1242年10月7日(45歳)   同じ世の別れはなほぞしのばるる 空行く月のよそのかたみに 99 後鳥羽上皇 41歳 1180年8月6日 - 1239年3月28日(59歳)   さびしさをいつより馴れてながむらん まだ見ぬ山の秋の夕暮 98  藤原 家隆  63歳 1158年 - 1237年5月5日( 79 歳)   契りあれば難波の里にやどりきて 波の入日を拝みけるかな  夕陽庵にて 97  藤原 定家  59歳 1162年 - 1241年9月26日( 79 歳)   しるや月やどしめそむる老いらくの わが山のはの影やいく夜と 96  西園寺 公経  50歳 1171年 - 1244年10月2日( 73 歳)   花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり 95 慈円 66歳 1155年5月17日 - 1225年10月28日( 70 歳)   思ふことなどとふ人のなかるらむ 仰げば空に月ぞさやけき 94 飛鳥井 雅経 51歳 1170年 - 1221年年4月5日(51歳)   まだしらずそのかみかけてふりぬれど 月と雪との夜半の白木綿 93  源 実朝 没後2年 1192年9月17日 - 1219年2月13日(27歳)   天の原ふりさけみれば月きよみ 秋の夜いたく更けにけるかな   91 九条 良経 没後15年 1169年3月 - 1206年4月16日(37歳)   もろともにいでし空こそわすられね 都の山のありあけの月 87 寂蓮法師

俊恵と承久の乱~アルケーを知りたい(989)

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▼ 俊恵 は、百人一首85番歌「 夜もすがら もの思ふころは 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり 」の作者。本シリーズの954回に登場した人物。 ▼俊恵は 鴨長明 の和歌の師匠。鴨長明は三代目鎌倉殿と面会したことがある。・・・だいぶ承久の乱から離れてきた。 承久の乱で括るのは今回の俊恵で終わり。 【 承久の乱 】じょうきゅうのらん。1221承久3年に起きた朝廷・後鳥羽上皇VS鎌倉幕府・北条義時の戦い。結果は、鎌倉幕府の勝ち。後鳥羽上皇は隠岐島配流。武家政権が始まる。 ▼ 俊恵 法師 しゅんえ 1113永久元年 - 1191建久2年 78歳。  平安時代末期の僧・歌人。父は 源俊頼 。鴨長明の師。藤原俊成と交流。 1129(16) 父が死去。東大寺で僧になる。 1153-(40-) 自坊「歌林苑」に 藤原清輔 ・ 源頼政 ・道因( 藤原敦頼 )らが集まり歌会を行った。 参加した歌合せ:1160(47) 清輔朝臣家歌合、1167(54) 経盛朝臣家歌合、1170(57) 住吉社歌合、1172(59) 広田社歌合、1179(66) 右大臣家歌合。 ▼俊恵の和歌と*勝手に解釈 み吉野の山かきくもり雪ふれば 麓の里はうちしぐれつつ *吉野の山が雪ならば、麓の里は時雨だろう。 雨後月明といへる心をよめる 夕立のまだ晴れやらぬ雲間より おなじ空とも見えぬ月かな *夕立ちの後、まだ晴れていない雲の間から、月が見える。同じ空のこととは思えない。 今ぞ知る一むらさめの夕立は 月ゆゑ雲のちりあらひけり *今わかった!さっと降る夕立は、月が雲の塵を洗っているのだ。 かへり見し都の山もへだてきぬ ただ白雲に向かふばかりぞ *振り返れば見えていた都の山々がとうとう見えなくなった。これからは白雲に向かって歩くばかりだ。 この世にて六十はなれぬ秋の月 死出の山路も面変りすな *この世で六十年連れ添った秋の月よ、私が死んで山路を歩くときも、同じように照ってくれ。 別の心をよめる かりそめの別れと今日を思へども いさやまことの旅にもあるらむ *これはほんの一時の別れと思っても、二度と会えない別れになることだってある。 月の歌 宿さむと岩間の水草はらふ手に やがてむつるる夜半の月かな 久方の天の川辺に雲消えて なぎたる夜半の月を見るかな 筏おろす清滝川にすむ月は 棹にさはらぬ氷なりけり 古郷の板

寂蓮と承久の乱~アルケーを知りたい(988)

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▼ 寂蓮 は、百人一首87番歌「 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ 」の作者。本シリーズの956回に登場した人物。 ▼寂蓮は、 後鳥羽上皇 の歌壇サロンの中心的な歌人。後鳥羽上皇の寂蓮評は「寂連は、なをざりならず歌詠みし物なり。折につけて、きと歌詠み、連歌し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、 真実の堪能と見えき 」。 ▼寂蓮は1202年に亡くなっている。承久の乱は19年も後の出来事。 ▼寂蓮の和歌、繰り返し噛むほど、味がでる。 ▼ 寂蓮法師  じゃくれん  1139保延5年 - 1202建仁2年8月9日 63歳。  平安時代末~鎌倉時代初期の歌人・僧侶・書家。 1150(11) 叔父・ 藤原俊成 の養子。 1167(28) 太皇太后宮亮経盛歌合、1170(31) 左衛門督実国歌合、住吉社歌合に出詠。 1172(33) 出家。諸国行脚の旅。歌道に精進。 1178(39) 別雷社歌合、1179(40) 右大臣 兼実 歌合に参加。 1185(46) 無題百首、1186(47) 西行 勧進の二見浦百首、1187(48) 殷富門院大輔百首、句題百首に参加。1190(51) 花月百首に参加。出雲大社に参詣。東国旅行。 1193(54) 九条良経 主催の六百番歌合に参加。 1199(60) 源頼朝が死去。 1201(62) 和歌所寄人。『新古今和歌集』の撰者。 1202(63) 仙洞影供歌合に参加。死去。 ▼ 寂蓮 の和歌と*勝手に解釈 八月十五夜、和歌所歌合に、月多秋友といふことをよみ侍し 高砂の松も昔になりぬべし なほ行末は秋の夜の月 *高砂で松を見たのはもう昔のことになった。これからは秋の夜の月を見よう。 牛の子に踏まるな庭のかたつぶり 角のあるとて身をば頼みそ *子牛に踏まれないようにしろよ、庭のかたつむり君。角があるからといって無鉄砲はダメだよ。 述懐歌とてよめる 世の中の憂きは今こそうれしけれ 思ひ知らずは厭はましやは *今になってみると世の中の憂きことは面白かったとも思える。それが分かっていたら出家しただろうか。 さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮 *寂しさを感じるのはこれといって決まった景色があるわけではないけど、槙の山の秋の夕暮れは格別だ。 むら雨の露もまだひぬ槙の葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮 *に

九条良経と承久の乱~アルケーを知りたい(987)

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▼ 九条良経 は、百人一首91番歌「 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに ころもかたしき ひとりかも寝む 」の作者。本シリーズの957回に登場した人物。 ▼1221年の承久の乱は、良経が死去して15年も後の話。勤務先の朝廷は、後鳥羽天皇、土御門天皇の時期。一方、鎌倉幕府は初代鎌倉殿から三代の時期。 ▼残念なのは37歳という年齢で急死したこと。 ▼「 くにかはるさかひいくたびこえすぎて おほくの民に面なれぬらむ 」や「 はるの田に心をつくる民もみな おりたちてのみ世をぞいとなむ 」を見ると現場に足を運んだ行政マンであったことが伝わる。 ▼ 九条 良経  / 後京極摂政前太政大臣 くじょう よしつね  1169仁安4年3月 - 1206元久3年4月16日 37歳。  平安時代末期~鎌倉時代初期の公卿・歌人。   九条兼実 の次男。叔父が 慈円 。 藤原俊成 が和歌の師匠。  和歌・書道・漢詩に優れた教養人。   後鳥羽院 の評価:秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし 1179(10) 元服。従五位上。1185(16) 従三位。 1190(21) 『花月百首』を主催。1191(22) 『十題百首』を主催。1193(24) 『六百番歌合』を主催。 1195(26) 内大臣。 1196(27) 父・兼実が源通親から朝廷を追放される。良経は蟄居。 1198(28) 後鳥羽天皇が上皇になり、 土御門天皇 が第83代天皇に即位。 1199(30) 朝廷に復帰、左大臣。源頼朝死去。頼家が第二代鎌倉殿。 1200(31) 『院初度百首』で91番を詠む。 1201(32) 後鳥羽上皇が和歌所設置、寄人筆頭。  『新古今和歌集』の編集メンバー。仮名序を担当。  上皇主催『老若五十首』に参加。  上皇主催『千五百番歌合』で判者。 1202(33) 父・兼実が出家、通親が急死。後鳥羽上皇が治天の君となる。  上皇主催『水無瀬殿恋十五首歌合』、1204(34)『春日社歌合』『北野宮歌合』に参加。 1203(34) 土御門天皇の摂政。 1204(35) 従一位・太政大臣。源頼家が死去。実朝が第三代鎌倉殿。 1206(37) 自邸で『曲水の宴』を開催する準備中、急死。 ▼ 九条良経 の和歌と*勝手に解釈 もろともにいでし空こそわすられね 都の山のありあけの月 *皆で外に出て眺めた空が忘れ