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賀茂 真淵~定型詩でアルケーを知りたい(872)

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今回は和歌。 ▼ 神な月 けふも時雨の晴れにけり曇りにけりと 言ひて暮らしつ 感想 ことしの文月 毎日暑い暑いと 言うて暮らした。 ▼ 賀茂 真淵  かもの まぶち 国学者、歌人 【プロフィール】 1697(元禄10)年4月24日、静岡県浜松市生まれ。父は農家。 1707(10) 荷田春満の弟子・ 杉浦国頭 の下で手習い。 1727-36(30-39) 京都に移り 荷田春満 の下で学ぶ。 1736(39) 浜松に戻る。 1737(40) 江戸に移り、国学の先生。 1746(49) 田安徳川家の和学御用掛となり 徳川宗武 に仕える。 1763(66) 本居宣長 (33)と会う。レッスンを行う。  門下生:本居宣長、 加藤千蔭 、村田春海、塙保己一ほか 1769(明和6)年11月27日、江戸で死去。72歳。  甘らにを 喫らふるかねや 一杯二杯  ゑらゑらに 掌うちあぐるかねや 三杯四杯  言直し こころ直しもよ 五杯六杯  天足らし 国足らすもよ 七杯八杯  (美酒の歌) 【キーワードと感想】 ますらをぶり  男性的でおおらかな歌風。賀茂真淵が和歌の理想とした。 たおやめぶり  女性的で、優美・繊細な歌風。万葉集の「ますらおぶり」と対義。 からくにぶり  仏教や儒教の影響を受けた古語。 【ネットワーク】 杉浦 国頭  すぎうら くにあきら 1678(延宝6)年9月27日 - 1740(元文5)年6月27日 国学者、歌人。浜松諏訪神社の神主。師は荷田春満。▼国頭は、賀茂真淵の手習いの師匠。 荷田 春満  かだの あずままろ 1669(寛文9)年2月3日 - 1736(元文元)年8月8日 国学者・歌人。国学の四大人の一人・国学の祖。姪の夫が国頭で、春満の門下生でもある。 はてはいさ始めもしらぬ天の原 ただ大空と見て仰ぐのみ   ▼春満は賀茂真淵の国学の師匠。 徳川 宗武  とくがわ むねたけ 1716正徳5年1月21日 - 1771明和8年7月15日 武士・歌人・国学者。第8代将軍徳川吉宗の次男。田安家初代当主、田安 宗武。第9代将軍徳川家重は異母兄。松平定信の実父。 武蔵野を人は広しとふ 吾はただ尾花分け過ぐる道とし思ひき   ▼宗武は賀茂真淵の主人にして弟子。 本居 宣長  もとおり のりなが 1730(享保15)年6月21日 - 1801(享和元)年11月5日 国

契 沖~定型詩でアルケーを知りたい(871)

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今回は和歌。 ▼ 空の色は水よりすみて天の川 ほたるながるる宵ぞ涼しき 感想 今の季節にぴったりの清涼感あふれる歌。 ▼ 契 沖  けい ちゅう 僧・国学者 【プロフィール】 1640(寛永17)年、摂津国(兵庫県尼崎市)生まれ。父は武士、浪人。 1651(11) 出家。妙法寺で学ぶ。  高野山で 阿闍梨 。 1663(23) 曼陀羅院で住職。 下河辺長流 (36) と交流。  長谷寺で17日間の絶食念誦、室生寺で37日間の煉行。  高野山に戻り菩薩戒を受ける。仏典・漢籍・日本の古典を学ぶ。 梵字 も研究。 1677(37) 延命寺で安流灌頂を受ける。 1679(39) 妙法寺で住職。万葉集・日本書紀・古事記・源氏物語など古典の研究に注力。 1690(50) 円珠庵を建立。 徳川光圀 と 下河辺長流が進めていた 万葉集注釈書プロジェクトで長流が死去。長流の後を引受け『 万葉代匠記 』として完成。以後の万葉集研究に影響を与えた。 1701(元禄14)年1月25日、円珠庵で死去。61歳。  夕けぶり麓の里にたなびきて 月ぞのぼれる山風のうへに  花紅葉その錦にも立よらじ いないな我は世捨人なり  和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉 【キーワードと感想】 阿闍梨  あじゃり。指導者、先生の意味。 梵字  ぼんじ。梵語(サンスクリット)を表記するための文字。 万葉代匠記  「代匠」は、本来これを為すべき者に代わって作るのであるから誤りがあるだろう、という意味。契沖の長流に対する敬意の現れ。 【ネットワーク】 下河辺 長流  しもこうべ ちょうりゅう 1627(寛永4)年 - 1686(貞享3)年7月22日 歌人・和学者。国学の先駆者。 花も根にかへるを見てぞ木のもとに われも家路は思ひいでける  ▼契沖は20代のとき一回り年長の長流と交流。1686年、長流の死去後、光圀からの依頼で長流が取り組んでいた万葉集の注解プロジェクトを引き受け、4年後に完成させた。 徳川 光圀  とくがわ みつくに 1628(寛永5)年7月11日 - 1701(元禄13)年1月14日 大名・常陸水戸藩の第2代藩主。水戸黄門。 もろともに見しその人の形見ぞと思へば思へば月もなつかし  ▼1678年、光圀&長流で始まった『万葉集』の注釈プロジェクト。長流亡き後、契沖が継続

徳川 光圀~定型詩でアルケーを知りたい(870)

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今回は和歌。 ▼ 荒磯の岩にくだけてちる月を 一つになしてかへる波かな 感想 無秩序と秩序の繰り返しから、秩序が見える場面を選んだ。水戸黄門の性格らしい、と思ってしまう。 ▼ 徳川 光圀  とくがわ みつくに  常陸水戸藩の第2代藩主 水戸黄門 【プロフィール】 1628(寛永5)年7月11日、茨城県水戸市、家臣・三木之次の屋敷生まれ。父親は水戸徳川家当主・徳川頼房。 1632(4) 水戸城に入城。 1633(5) 江戸小石川の藩邸で世子教育。 1634(6) 江戸城で家光に拝謁。 1636(8) 元服、光国と名乗る。 1657(29) 『 大日本史 』の編纂開始。 1662(34) 水道設置。 1665(37) 明の遺臣・ 朱舜水 を招く。 水戸学 の開祖。 1679(51) 光圀に改める。 1690(62) 幕府が隠居を許可。 契沖 が万葉集の注釈書『万葉代匠記』完成。 1696(68) 出家。 1701(元禄13)年1月14日、食欲不振の結果、死去。73歳。  夕立の風にきほひて鳴る神の ふみとどろかす雲のかけ橋  もろともに見しその人の形見ぞと 思へば思へば月もなつかし  時鳥なれも独りはさびしきに 我をいざなへ死出の山路に 【キーワードと感想】 大日本史   日本の歴史書。徳川光圀が開始。光圀の死後は水戸藩の事業として継続。明治時代に完成。 水戸学  水戸藩で『大日本史』の編纂を通じて 作られた学問。特徴は 尊王攘夷思想。明治維新の時期、思想的拠り所となった。 【ネットワーク】 朱 舜水  しゅ しゅんすい 1600(万暦28)年11月17日 - 1682(天和2)年5月24日 明の儒学者。▼1665年、光圀が招聘。 佐々 宗淳  さっさ むねきよ 1640(寛永17)年6月24日 - 1698(元禄11)年7月10日 僧、儒学者。光圀に仕えた。▼物語『水戸黄門』の助さん=佐々木助三郎のモデル。 安積 澹泊  あさか たんぱく 1656(明暦2)年12月28日 - 1738(元文2)年1月29日 儒学者。水戸を代表する学者。朱舜水の弟子。『大日本史』の編纂。▼物語『水戸黄門』の格さん=渥美格之進のモデル。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9

下河辺 長流~定型詩でアルケーを知りたい(869)

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今回は和歌。 ▼ 月かげに夜わたる雁のつらみても 我が数たらぬ友ぞかなしき 感想 この歌はこう解釈した。月夜に雁の一団が飛行している。それを見ていると自分の友が亡くなって我われの一団からいなくなったのは悲しいことだ、と。 ▼ 下河辺 長流  しもこうべ ちょうりゅう  歌人・和学者 国学の先駆者 【プロフィール】 1627(寛永4)年?月?日、奈良県生まれ。  少年時代は遊猟に熱中。叔父の諫めで歌学に専心。 1647(18) 木下勝俊 に私淑。 1650(21) 俳諧連歌の祖、 西山宗因 に連歌を学ぶ。 1655(26) 三条西家に武士として仕える(青侍)。 1661-1669(32-40) 『 万葉集 』を書写。注釈書『歌仙抄』『万葉集名寄』『万葉集管見』を発表。 1670(41) 三条西家を辞し、平民の歌を主体とする私撰集『林葉累塵集』20巻を刊行。 1678(49)『林葉累塵集』の続編『萍水和歌集』20巻を刊行。   徳川光圀 が『万葉集』の注釈を依頼。途中で病没。 契沖 が継承。 1686(貞享3)年7月22日、病気のため死去。59歳。   花も根にかへるを見てぞ木のもとに われも家路は思ひいでける 【キーワードと感想】 万葉集  日本最古の和歌集 【ネットワーク】 木下 勝俊  きのした かつとし 1569(永禄12)年 - 1649(慶安2)年7月24日 武将、大名、歌人。  あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれかな  ▼勝俊は、1647年、18歳の長流が私淑した歌人。同年、78歳の勝俊は剃髪して京都東山で挙白堂を結び、長嘯子と号していた。 西山 宗因  にしやま そういん 1605(慶長10)年 - 1682(天和2)年5月5日 俳人・連歌師。談林派。芭蕉は宗因について「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と位置づけている。 さればここに談林の木あり梅の花  ▼長流が宗因の弟子になったのは21歳。宗因45歳。 徳川 光圀  とくがわ みつくに 1628(寛永5)年7月11日 - 1701(元禄13)年1月14日 大名・常陸水戸藩の第2代藩主。水戸黄門。 荒磯の岩にくだけてちる月を一つになしてかへる波かな  ▼1678年、光圀は長流に『万葉集』の注釈を依頼。光圀50歳、長流49歳。

戸田 茂睡~定型詩でアルケーを知りたい(868)

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今回は和歌。 ▼ 今は身にうとき人だにゆかしきは 老の心の哀れはかなさ 感想 しっかりとは分からない。けれども何かが伝わってくる。この歌は「 みそら行く光はさらにかはらぬに いつの月日の老となしけん 」に続くもの。戸田茂睡が老いの心情を歌にした、それが300年過ぎても 「 あ、分かります 」という感じで伝わる。 ▼ 戸田 茂睡  とだ もすい 歌学者・歌人 【プロフィール】 1629(寛永6)年7月9日、駿府城内(静岡市葵区)生まれ。  父親は徳川忠長の付人。忠長の改易に 連座 して 配流 。下野国黒羽(栃木県大田原市)で成長。  20代で江戸に出て旗本の伯父の養子。  三河国岡崎藩本多家に仕官。  引退後は浅草や本郷で古典の研究。  秘事口伝の公家の伝統的歌学を批判、革新を主張。 1706(宝永3)年5月25日、江戸で死去。77歳。 太田道灌が別業日暮里にて: 夕霧に谷中の寺は見えずなりて 日暮の里にひびく入相 身にかへて惜しみし家の名をだにも 捨つれば捨つる世にこそありけれ 【キーワードと感想】 連座  上司の不始末の責任を主従関係にある者が負わされること。 配流  はいる。茂睡の父親は他家預かりの処分となった。 【ネットワーク】 下河辺 長流  しもこうべ ちょうりゅう 1627(寛永4)年 - 1686(貞享3)年7月22日 歌人・和学者。国学の先駆者。 秋と聞く 風のつかひはけふたちぬ 今いくかあらば 初雁の声  ▼国学の先駆者。 契 沖  けいちゅう 1640(寛永17)年 - 1701(元禄14)年1月25日 真言宗の僧・国学者  和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉  ▼国学の先駆者。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E8%8C%82%E7%9D%A1

木下 勝俊~定型詩でアルケーを知りたい(867)

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今回は和歌。 ▼ よしあしを人の心にまかせつつ そらうそぶきてわたるよの中 感想 この諦観、素晴らしい。 ▼ 木下 勝俊   きのした かつとし 大名、歌人 【プロフィール】 1569(永禄12)年、?生まれ。父親は秀吉一門で筆頭格の大名。  幼少から 豊臣秀吉 に仕える。 1588(19) 豊臣姓を下賜。 1590(21) 小田原征伐に参陣。 1600(31) 会津征伐の五大老筆頭。 徳川家康 の命で 伏見城守備 。  関ケ原の戦いの開始と同時に京都に移動。 1608-40(39-71) 京都東山に挙白堂を建て隠棲。和歌を詠む。 1649(慶安2)年7月24日、京都西京区の庵で死去。80歳。  あらぬ世に身はふりはてて 大空も袖よりくもる初しぐれかな  身のほどを忘れてむかふ山桜 花こそ人を世にあらせけれ  身の上を何と抜かりて今日はまた 火宅を出でぬ仏なるらむ 【キーワードと感想】 伏見城の戦い  1600年8月26日から9月8日まで行われた関ヶ原の戦いの前哨戦。 【ネットワーク】 長岡 幽斎  ながおか ゆうさい / 細川 藤孝 ほそかわ ふじたか 1534(天文3)年6月3日 - 1610(慶長15)年10月6日 武将、戦国大名、歌人。肥後細川家の礎。三条西実枝から一子相伝の秘事・古今伝授を受け近世歌学を大成。実枝の孫の実条に古今伝授を伝えた。弟子に上杉謙信がいる。 いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を 残す言の葉  ▼勝俊の和歌の師匠。 山鹿 素行  やまが そこう 1622(元和8)年9月21日 - 1685(貞享2)年10月23日 儒学者、軍学者。 凡そ君臣の間は他人と他人の出合にして、其の本に愛敬すべきゆゑんあらず  ▼素行は勝俊に私淑。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%8B%9D%E4%BF%8A

都々逸坊 扇歌~定型詩でアルケーを知りたい(866)

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今回は都都逸。 ▼ たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車 感想 こういう冴えておしゃれな言葉を見るとあれこれと語りたくなる。けど語るのは野暮って感じる。・・・そうか、歌えば良いのか。 ▼ 都々逸坊  扇歌  どどいつぼう せんか 寄席芸人・都々逸の祖 【プロフィール】 1804(文化元)年、常陸国(茨城県)生まれ。父親は医師。 1811(7) 病気のため失明。 1821(17) 「よしこの庵山歌」の名で門付の三味線弾きになる。 1824(20) 江戸に出て落語家に弟子入り。  都々逸坊扇歌と改名。江戸牛込の寄席を中心に活動。  都々逸をはじめとした唄・三味線の芸。江戸一番の人気芸人になる。  親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな  白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡  諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた  潮時やいつかと千鳥に聞けば わたしゃ立つ鳥波に聞け 1852(嘉永5)年10月29日、常陸府中で病のため死去。  都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな 【キーワードと感想】 都都逸  江戸末期、都々逸坊扇歌が創り出した7-7-7-5 の口語定型詩。  立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は 百合の花  散切り頭を 叩いて見れば、文明開化の音がする  あの人の どこがいいかと 尋ねる人に どこが悪いと 問い返す 【ネットワーク】 藤田 東湖  ふじた とうこ 1806年5月4日 - 1855年11月11日 水戸藩士。水戸学の大家。尊王攘夷派の思想的な基盤。▼扇歌が20歳で江戸に出る前、扇歌の後援者は、東湖を経済的に支援していた人物だった。同じ人物から扇歌と東湖が支えられた点が共通。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E3%80%85%E9%80%B8%E5%9D%8A%E6%89%87%E6%AD%8C

大田 南畝~定型詩でアルケーを知りたい(865)

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今回は狂歌。 ▼ 月をめづる 夜のつもりてや 茶屋のかかも ついに高田のばばとなるらん 感想 これは南畝が高田馬場の茶屋で行った 観月会での歌。「 高田のばば 」と言って遊ぶのは、伝統なのだった。 ▼ 大田 南畝  おおた なんぼ 狂歌師・御家人 【プロフィール】 1749(寛延2)年4月19日、江戸の牛込生まれ。父親は下級武士。 1764(15) 歌人の内山椿軒に師事、国学・漢学・漢詩・狂詩を学ぶ。 1766(17) 御徒見習。 1767(18) 漢学者の松崎観海に師事。狂詩集『寝惚先生文集』。 1769(20) 四方赤良と号し「四方連」で狂歌会を開催。 1780(31) 蔦屋重三郎 の書店から黄表紙『嘘言八百万八伝』を出版。   山東京伝 (19)と知り合う。 1787(38) 寛政の改革が始まる。   世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず 1792(43) 新設の学問吟味登科済に首席合格。 1796(47) 支配勘定。 1801(52) 大坂銅座に赴任。 1823(文政6)年5月16日、転倒が元で死去。74歳。   今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん 【キーワードと感想】 狂歌  社会風刺、皮肉、滑稽を盛り込んだパロディ形の和歌。 寛政の改革  松平定信が江戸幕府の老中だった1787年~1793年に行われた幕政改革。 【ネットワーク】 田沼 意次  たぬま おきつぐ 1719(享保4)年9月11日 - 1788(天明8)年8月25日 旗本、大名、江戸幕府老中。▼第9代将軍徳川家重と第10代将軍家治のもとで側用人と老中を兼任。1767~86年の間、商人文化が花開く田沼時代。 蔦屋 重三郎  つたや じゅうざぶろう 1750(寛延3)年2月13日 - 1797(寛政9)年5月31日 出版プロデューサ・書店経営者。▼蔦屋は太田南畝の著作を出版して世に送り出した。 松平 定信  まつだいら さだのぶ 1759(宝暦8)年1月25日 - 1829(文政12)年6月14 大名、老中。徳川吉宗の孫。 憂国の心あるべし、憂国の語あるべからず   ▼第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐。1787~93年の間、寛政の改革を行った。 山東 京伝  さんとう きょうでん 1761(宝暦11)年9月13日 - 1816(文化13

柄井 川柳~定型詩でアルケーを知りたい(864)

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今回は川柳。 ▼ 鶏の 何か言いたい 足づかい 感想 これは川柳。鶏ってこういう歩き方するよね、と笑える。川柳は 季語のない5-7-5。たしかに鶏肉は年中美味しい。季節なし。今回、川柳が人物の名前に由来すると初めて知った。 ▼ 柄井 川柳  からい せんりゅう 前句付け点者 【プロフィール】 1718(享保3)年、父親は浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主。  談林派俳諧の点者。 1755(37) 家を継いで名主。 1757(39) 最初の 万句合 (まんくあわせ)を興行。無名庵川柳として前付の点者 = 前句付(まえくづけ 7-7の下句を題として前句5-7-5をつける俳諧)の選者。以降、月3回5のつく日に句合を興行。  『川柳評万句合 ひょうまんくあわせ 』を発刊。選句が人気。 1765(47) 前句付集『誹風柳多留』を呉陵軒可有と共同で発表。  あたらしい趣向むすべば手柄多し  5-7-5の定型詩が川柳と呼ばれる。 1790(寛政2)年10月30日、死去。72歳。  木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳 【キーワードと感想】 川柳  季語や切字は不要。人事人情を端的に、軽妙洒脱に表現。 万句合  江戸時代の参加型エンターテインメント。 【ネットワーク】 呉陵軒 可有 ごりょうけん あるべし ?(?)年 - 1788(天明8)年5月29日 川柳評前句付作者。俳号は木綿。▼川柳と共に1765(?) 前句付集『誹風柳多留』諸編を編集。以降、23年間、編集に携わる。1788(?) 『柳多留』二十二編を編集。 【似顔絵サロン】 ここは 呉陵軒 可有の 似顔絵を入れたいところ。でも元になる肖像が見つからない。見つかれば描く。 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%84%E4%BA%95%E5%B7%9D%E6%9F%B3

川端 茅舎~定型詩でアルケーを知りたい(863)

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今回は俳句。 ▼ 約束の 寒の土筆を 煮て下さい 感想 約束の 子羊の肉を 焼いてください ▼ 川端 茅舎  かわばた ぼうしゃ 俳人・虚子の門下生 【プロフィール】 1897(明治30)年8月17日、日本橋蛎殻町生まれ。父親は武士・俳人・日本画家。   藤島武二 絵画研究所で絵画を学ぶ。 1914(17) 父親と共に句作開始。茅舎を名乗る。   武者小路実篤 の「新しき村」の会員になる。   岸田劉生 に絵画を師事。 1929(32) 岸田劉生が死去(38)。結核を患う。以降、俳句に専念。 1931(34) 松本 たかし と知り合う。 1934(37) 『 ホトトギス 』の同人。 1941(昭和16)年7月17日、大田区の自宅で死去。44歳。   咳き込めば 我火の玉の ごとくなり 【キーワードと感想】 白樺  1910(明治43)年に創刊、1923(大正12)年の関東大震災で廃刊した文芸・美術雑誌。メンバーは、 武者小路実篤 、志賀直哉、木下利玄、正親町公和、細川護立、有島武郎、 岸田劉生 、有島生馬、里見弴、長與善郎、柳宗悦、園池公致、児島喜久雄、郡虎彦ら。 【ネットワーク】 藤島 武二  ふじしま たけじ 1867(慶応3)年10月15日 - 1943(昭和18)年3月19日 洋画家。東京美術学校教授。本郷駒込曙町で画塾を開く。▼茅舎が最初に絵を学んだ師匠が藤島武二。 武者小路 実篤  むしゃのこうじ さねあつ 1885(明治18)年5月12日 - 1976(昭和51)年4月9日 小説家・詩人。村落共同体「新しき村」は、1918年に宮崎で(その後ダム建設で水没)、1939年に埼玉県で行った。▼茅舎は、武者小路の『白樺』人脈に降れ、岸田に西洋画を学んだ。 岸田 劉生  きしだ りゅうせい 1891(明治24)年6月23日 - 1929(昭和4)年12月20日 洋画家。柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』の仲間。画家の劉生は表紙を担当。▼茅舎が慕った画家。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E8%8C%85%E8%88%8D

松本 たかし~定型詩でアルケーを知りたい(862)

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今回は俳句。 ▼ チヽポヽと 鼓打たうよ 花月夜 感想 鼓の打ち方の表現にチヽポヽがあると初めて知った。 ▼ 松本 たかし  まつもと たかし 俳人 【プロフィール】 1906(明治39)年1月5日、猿楽町生まれ。父親は能楽師。 1911(5) 能の修業を開始。  1920(14) 肺尖カタルと診断、静岡県で転地療養。父親が持参した『 ホトトギス 』で俳句に興味。 1922(16) 父の能仲間の句会「七宝会」に参加。 1923(17) 虚子 に師事。 1924(18) 神経衰弱。 1926(20) 能役者を諦め鎌倉市浄明寺で転地療養。 1929(23) ホトトギス同人。 1931(25) 川端茅舎 、 高野素十 と知り合う。 1935(29) 父親が死去。虚子から仕事を貰う。 1946(40) 俳誌「笛」を創刊・主宰。 1956(昭和31)年5月11日、久我山の自宅で死去。50歳。   避けがたき 寒さに坐り つづけをり 【キーワードと感想】 鼓  胴と両側の皮、皮の枠を結ぶ紐から成り立っている打楽器。持ってみたい、だけど、持ち方が分からない。 チヽポヽと 打ってみたい、だけど、恐れ多い。そんな存在。 【ネットワーク】 高野 素十  たかの すじゅう 1893(明治26)年3月3日 - 1976(昭和51)年10月4日 医学博士・俳人。東大俳句会。 円涼し 長方形も 亦涼し  ▼松本たかしと知り合った1931年の素十は38歳で、 医学研究に集中していて句作から離れていた時期 。 川端 茅舎  かわばた ぼうしゃ 1897(明治30)年8月17日 - 1941(昭和16)年7月17日 俳人・虚子の門下生。 一枚の 餅のごとくに 雪残る  ▼松本たかしのよき友。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%97

広瀬 惟然~定型詩でアルケーを知りたい(861)

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今回は俳句。 ▼ 水鳥や むかふの岸へ つういつうい 感想 地下鉄や 次の駅へ ごういごうい ▼ 広瀬 惟然  ひろせ いぜん 俳人・蕉門十哲の一人 【プロフィール】 1648(慶安元)年、岐阜県関市生まれ。父親は酒造業。 1662(14) 名古屋の商家に養子入り。 1686(38) 妻子を捨て関で出家。美濃で弁慶庵を結ぶ。 1688(40) 芭蕉 が『 笈の小文 』の旅を終え、岐阜に逗留した時に弟子入り。 1689(41) 『奥の細道』の旅を終えた芭蕉を大垣でおもてなし。 芭蕉没後、『奥の細道』を逆順路で歩く。 1711(宝永8)年3月27日、美濃の弁慶庵で死去。63歳。 【キーワードと感想】 『 笈の小文  おいのこぶみ』の旅 1687年10月-1688年、江戸から明石・京都までの芭蕉の俳諧紀行文。京都から江戸への帰路は復路は『更科紀行』。 【ネットワーク】 松尾 芭蕉  まつお ばしょう 1644(寛永21)年 - 1694(元禄7)年11月28日 俳諧師。 旅人と 我名呼ばれん 初しぐれ  /  旅寝して 見しやうき世の 煤払ひ  /  蛸壺や はかなき夢を 夏の月  ▼ 惟然が芭蕉に弟子入りしたのは40歳のとき。そのとき芭蕉は44歳。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%83%9F%E7%84%B6