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大学間競争のなか、自学の発展に力を尽くした長老(ジョージ・B・ペグラムさん):アルケーを知りたい(354)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ジョージ・ぺグラムさんはコロンビア大学でサイクロトロン建設やユーリーさんとは酸素同位体の分離を研究した経験を持つ専門家。ユーリーさんと英国の原爆開発の状況を調査。帰国後、マンハッタン計画の拠点整備に伴い、アーサー・コンプトンさん率いるシカゴ大学への資源集中が進む。ユーリーさんやエンリコ・フェルミさんらがコロンビア大からシカゴ大へ移動。ぺグラムさんはコロンビア大から動かず、マンハッタン計画から離脱、別の方法で戦時研究に貢献した。 ジョージ・B・ペグラム  George Braxton Pegram , 1876年10月24日ノースカロライナ州-1958年8月12日ペンシルベニア州スワースモアで死去(82) 1903(27)コロンビア大学で博士。 1907(31)フンボルト大学でマックス・プランクさんとヴァルターネルンストさんの講義を受ける。 1909(33)コロンビア大学で助教授。 1918(42)コロンビア大学で正教授。潜水艦の位置を特定するた石英圧電音検出器を製作。WWI終戦。 1933(57)中性子の研究(1936年まで)。 1935(59) サイクロトロンを建設。酸素同位体の分離をハロルド・ユーリーさんと共同研究。 1939(63)イタリアから逃れてきた エンリコ・フェルミさんをコロンビア大学の教授として迎える (フェルミさんは1941年に大きな実験装置のあるシカゴ大学に移る) 1940(64)国防研究委員会(NDRC)傘下のS-1ウラン委員会に入る。 1941(65)8月 マーク・オリファントさんが訪米し原子爆弾の実現可能性を警告。 ユーリーさんらと訪英、チューブ・アロイズの会議に参加 。 1942(66)8月 S-1ウラン委員会がS-1実行委員会として再編、 シカゴ大学がマンハッタン計画の拠点になる。この時点でマンハッタン計画から離脱 。コロンビア大学で戦争研究委員会の議長等、大学の発展に尽くす。 パイエルス 本 :ジョージ・B・ペグラムさんは、ハロルド・ユーリーさんと共にチューブ・アロイズの技術委員会の最初の会合に参加した。「 原子核物理学の長老 であ るG・P (ママ) ・ベグラム である。二人ともコロンビア大学から来ていた(p.251)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Ge

米国のノーベル賞学者がチューブ・アロイズの会議に臨んだ!(ハロルド・ユーリーさん):アルケーを知りたい(353)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ハロルド・ユーリーさんはアメリカの国防研究委員会(NDRC)傘下のウラン委員会のメンバー。1941年、米英の連携で原子爆弾開発の可能性を模索するため、コロンビア大学で同僚の化学者ジョージ. B. ペグラムさんと渡英。チューブアロイズ技術委員会に参加し、状況を米国に報告した。重水素を発見し、その功績でノーベル賞を受賞した本人がイギリスの原爆計画を確かめた。何が行われているか、誰よりも良く見通したことだろう 。 ▼米国から見学者が訪れた後、今度はパイエルスさんらが米国を訪問する。「1941年の暮までは、アメリカとの情報交換はかなり自由だった。しかし、もちろん全部の報告書を見たわけではないので、アメリカ人の考えの全貌を明確に把握することはできなかった。そこで、エイカース、ハルバン、サイモンそして私よりなる調査団がアメリカに覇権されることに決まった(p.256)」 「私はコロンビア大学で、 ユーリー と、その同僚で同位体分離工場の設計を研究している理論家のカール・コーエンと長時間の打合せを持った(p.258)」英国でMAUD委員会の初期段階で課題になっていたウラン同位体の分離方法のメドが立ち工場の設計段階に入っていた。この訪問で米国でも工場の設計段階になっていたことが分かる。 ハロルド・ユーリー  Harold Urey, 1893インディアナ州 - 1981カリフォルニア州 1923(30)カリフォルニア大学バークレー校で博士(指導教員は ギルバート・ルイス 先生)。コペンハーゲンの ニールス・ボーア 研究所で原子の構造を研究。 ハイゼンベルク さん、 ヘヴェシー さん、 パウリ さんらと会う。ドイツで アインシュタイン さんや ジェイムス・フランク さんに会う。 1929(36)コロンビア大学で准教授。 1931(38)重水素を発見。 1934(41)ノーベル化学賞受賞(重水素の発見)。コロンビア大学で教授。 1941(48)英国と原子爆弾の開発に関する協力を確立するためジョージ.B.ペグラムさんと渡英。 1942(49)マンハッタン計画に参加。ウランからウラン235同位体を得るガス拡散法を開発。 1945(52)Worn out by the effort(仕事に疲れ果てて)マンハッタン計画から離脱。研究生活に戻る。 パイエルス

核兵器の削減と核廃絶に尽力(ジョセフ・ロートブラットさん):アルケーを知りたい(352)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ジョセフ・ロートブラットさんは物理学者としてドイツの原爆開発を阻止するためマンハッタン計画に参加。途中でドイツにその能力がないと分かるとマンハッタン計画から降りる。それ以後も核兵器の問題に関心を持ち、1957(49)から1973(65)までパグウォッシュ会議の事務局長を務めた。 ジョセフ・ロートブラット  Joseph Rotblat , 1908年11月4日ワルシャワ - 2005年8月31日ロンドン ポーランド系ユダヤ人。1938(30)ワルシャワ大学で博士(物理学)。1939(31)渡英しチャドウィックさんの下でサイクロトロンの研究。ナチスドイツがポーランド侵攻、帰国できなくなる。病気のため脱出が遅れた奥さんは強制収容所で死去。チャドウィックさんらと共にドイツの脅威に対抗するためマンハッタン計画に参加。1945(37)ドイツに原爆製造能力がないことを知るとマンハッタン計画から離脱。リバプール大学で原子核物理学の講師。1946(38)イギリス国籍を取得。ポーランドとの二重国籍。1950(42)リバプール大学で博士(指導教員はチャドウィックさん)。1995(87)ノーベル平和賞受賞(国際政治における当面の核兵器の削減と、長期的な核廃絶のための努力に対して)。 フリッシュ 本 :「 ロトブラット は親切で、前向きで、常に他人の面倒を見て、人々を助けようとしていた。ロトブラットは後にパグウォッシュ会議の事務局長になり、今まで私が会った誰よりも、平和のために貢献している(p.173)」 パイエルス 本 :パグウォッシュ会議の話題でロトブラットさんが登場する。「ノーベル賞受賞の物理学者、セシル・パウエルが最初の議長となり、 ジョセフ・ロトブラット が事務局長となった。ロトブラットは1945年にロスアラモスを去って以来、核兵器に大きな関心を抱いていた。(中略)今ではパグウォッシュ会議が彼の第一の関心事になった。彼は1973年に事務局を引退するまでその任に就き、引退後もパグウォッシュに時間と勢力を注いでいる(p.421)」 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Rotblat オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert

プロジェクトの進行を支える優秀なOS役(マイケル・ペリンさん):アルケーを知りたい(351)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ マイケル・ペリン さんは英国の化学会社I.C.I.の化学者。WWIIの時期、MAUD委員会やチューブ・アロイズに協力、後には軍事諜報機関で、さらに原子力発電事業で英国に尽くした人物 。 マイケル・ペリン  Michael Willcox Perrin , 1905年9月13日カナダのビクトリア– 1988年8月18日 トロント大学で化学を学ぶ。インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(I.C.I.)に入社。1935年、 ポリエチレンの製造に必要な特許を取得。 ウォレス・エイカース さん (→アルケーを知りたい_349) を支援するため昇進。1940-1941年、MAUD委員会に参加。チューブ・アロイズの主要委員会を運営。約60人のチューブアロイズの科学者がマンハッタン計画に参加するため渡米。この時の世話役。ペリンさん自身は英国政府のコーディネータとして英国に残る。軍事諜報機関とそのスパイネットワークを通じてドイツの原子爆弾開発状況を調査。 クラウス・フックス さんによるスパイ行為で生じた被害の後処理を担当。 フリッシュ 本 :ペリンさんが登場する状況は次だ。1950年、フリッシュさんはケンブリッジにいた。BBCから水素爆弾について短い話をして欲しいというリクエストが来た。高度な秘密兵器の話なので、許可が必要。そこで、まず パイエルス さんに連絡。忙しくてダメ。次に フックス さんに連絡した。しかし「都合が悪い」とのことでダメ。そこで「所轄担当の マイケル・ペラン も許可を出せると知っていたので、ペランに接触してみた(p.249)」という流れでペリンさんが登場する。Perrinは訳によってペランだったりペリンだったりする。「ペランは、もし私が、録音の直前に事務所に来ることができれば、原稿を読み、何か削除すべきところがあれば指摘すると約束してくれた。(中略)ペランと話ができるまで、しばらく待たされたが、やがて現れたペランは、私の原稿をたいへん素早く読み、一、二か所の小さい変更を指示した後、私をBBCに活かせてくれた(p.249)」 パイエルス 本 :「 エイカース の補佐は同じくI.C.I.から来た マイケル・ペラン でポリエチレンの開発に寄与した化学者だった。ペリンは行政的な仕事を効率良く、落ち度なく実行した(p.250)」

自分の国は自分で守らなければならない(ウィリアム・ペニーさん):アルケーを知りたい(350)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼ウィリアム・ペニーさんは数学と理学のダブルドクター。衝撃波の専門家。マンハッタン計画の英国人協力者の一人。アメリカでの経験から、英国は自力で原爆を持つべきと考え、実現のために行動した科学者(そして実現した)。 ウィリアム・ペニー  William Penney , 1909年6月24日ジブラルタル - 1991年3月3日 ロンドン大学で数学博士。ケンブリッジ大学で理学博士。数学者。マンハッタン計画にイギリスの代表者の一人として参加。衝撃波のエキスパート。WWII終戦後、イギリスに帰国。英国は自前で原爆を持つ必要があるとの信念から原爆局(Atomic Weapons Section)創設へ動く。1954年から1967年まで英国原子力公社の理事、1962年から1967年まで同公社の理事長。1967年、一代貴族に叙せられる。 フリッシュ 本 : 筆者が描いたイラストと写真で紹介 されている。イラストのキャプションは「イギリスの数学者。ロスアラモスで原子爆弾による被害に関して講演したときの、筆者によるスケッチ(p.201、原本p.162)」とある。和本のイラストのサイズは3.5✖5.3。原本のイラストのサイズは5.5✖8.0あってだいぶ大きい。 写真のキャプションは「1946年頃の新聞写真。左から右へ、ウィリアム・ペニー、筆者、ルドルフ・パイエルス、ジョン・コッククロフト(p.246、原本p.198)」である。MAUD委員会でお馴染みの面々。写真のサイズは、和本が7✖4。原本は9.5✖6.9。ビジュアルのサイズが大きいのはありがたい。 ロスアラモスで講演したときペニーさんは30代の前半。フリッシュさんより5才、パイエルスさんより2才年下である。 パイエルス 本 :「W・G・ペニーはイギリスで ドイツの爆弾の被害を研究 しており、ロスアラモスのコロキウムでその内容を発表した(p.302)」ペニーさんは衝撃波の専門家である。発表の姿勢と聴衆の印象が面白い。「発表に際し、ペニーは 常に事実に立脚する科学者の態度 を崩さず、顔にはいつも明るい笑みを絶やさなかった。 多くのアメリカ人は今まで、そのような身近な死者に関する生々しい議論に直面したことがなかった ので、ペニーに『笑う殺し屋』というあだ名を付けた(pp.302-303)」 〔参考〕ht

Tube Alloys理事会の議長にしてI.C.I.の研究担当重役(ウォレス・エイカースさん):アルケーを知りたい(349)

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今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼マンハッタン計画とはWWIIの時、アメリカが実行した3年間の原爆プロジェクトのこと。 テンポが非常に早い。 1938年の核分裂の発見から1942年のプロジェクトのスタートまでが4年間。 本格的に原爆の製造に取り掛かってから完成まで期間は3年間。 アルケーを探求する核物理学上の発見から武器として使用されるまで7年間。 この間に、ヨーロッパの核物理学者がアメリカに集まった。どんな人が集まったのか、これから順に見ていく・・・とは言っても、すでにこのブログで見た人がほとんどなので、 フリッシュ さんと パイエルス さんの本に出てくるエピソードから人物像を想像して楽しむ。 ▼最初は ウォレス・エイカース さん。我らがチャドウィックさんが六フッ化フランの製造を委託したインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(I.C.I.)の物理化学者。 ウォレス・エイカース  Wallace Akers , 1888年9月9日ロンドン東部 - 1954年11月1日ハンプシャー。オックスフォード大学クライストチャーチ卒業。物理化学者、実業家。1941-1945、 Tubu Alloysの監督 。マンハッタン計画に英国代表として参加する可能性があったものの、米国の事情で参加できず。代表はチャドウィックさんが務める。WWII後、インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(I.C.I.)の研究ディレクター。 フリッシュ 本 :チャドウィックさんからアメリカ行きを打診され即答したフリッシュさん。1週間でイギリス国民になり、兵役の免除証明を取り、パスポートを取る作業を終える。渡米する人と一緒に客船アンデス号に乗船。この時にエイカースさんが瞬間的に出てくる。「私は乗船のための『チケット』を忘れたが、 グループの責任者のウォレス・エイカースが合図をして、通してくれた (p.183)」 ▼これだけなので人物像は分からない。 パイエルス 本 :Tube Alloysを訳者の松田さん(フリッシュさんの本の訳も同じく松田さんの手による)は「管合金」と訳している。エイカースさんが出てくるくだりはフリッシュ本より長い。「『管合金』理事会の 議長はI.C.I.の研究担当重役のW・A・エイカースであり 、彼は戦争の間、会社の業務を免除されていた。 エイカースは偉大なエネルギーと統率力の持

組成から解散までのあらまし(下):MAUD委員会(19)

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アルケーを知りたい( 348 )  今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼MAUD委員会の組成は1940年6月、解散は1941年7月。13か月の間、英国は迅速に事を進めた。一方、アメリカ側は腰が重かった。MAUD委員会が解散した後はTube Alloysという名称で英国版の原爆プロジェクトが進む。しかし、対ドイツ戦で経済力も十分ではなかった英国は、アメリカが立ち上がるのを期待する。 ▼MAUD委員会の報告書を受けて英国は原爆製造プロジェクト( Tube Alloys )を開始。紆余曲折を経てTube Alloysはアメリカの原爆製造プロジェクトであるマンハッタン計画に合流する。ここではアメリカ政府がマンハッタン計画にGOサインを出したところまでのあらましを見る。 組成から解散までのあらまし(下) 1940年 9月  フリッシュさんとパイエルスさんをメンバーに入れたMAUD委員会技術小委員会が結成。 4つの大学が協力。ケンブリッジ大学では、プルトニウムの調査を担当。 オックスフォード大学は、同位体分離の方法としてガス拡散法を担当。 バーミンガム大学は、爆発に必要な臨界質量のサイズなどの理論的作業を担当。 リバプール大学は、同位体分離の方法として熱拡散法を担当。 政府が資金を出す。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所3,000ポンド、オックスフォード大学クラレンドン研究所1,000ポンド、バーミンガム大学1,500ポンド、リバプール大学2,000ポンド。 MAUD技術委員会はウラン同位体の分離方法を追求。フリッシュさんのクラウジウス管を使う方法は無理と分かり、サイモンさんの多孔膜を使う方法の有効性を確認した。 英国の技術者集団(ティザード使節団)が渡米。米国にレーダー、ジェットエンジン、核研究などの技術情報を提供。 12月  オックスフォード大学MAUD委員会の サイモン さんらが「実際の分離プラントのサイズの推定」という報告書を提出。 チャドウィック さんがインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)に六フッ化ウランの製造を六フッ化ウランを5kg、5,000ポンドで発注。 フィリップ・バクスター  Philip Baxter , 1905年5月7日ウェールズ - 1989年9月5日シドニー バーミンガム大学で博士。化学技術者。ICI中央研究所の責任者。チャ

組成から解散までのあらまし(上):MAUD委員会(18)

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アルケーを知りたい( 347 )  今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ▼MAUD委員会の組成から解散までのプロセスは、いくつものノーベル賞受賞の発見が原爆製造へと進んでいくプロセス。時間の経緯を追いながら、いつ・誰が・何をしたのかを上と下に分けて整理する。 組成から解散までのあらまし(上) 1932年2月  ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の ジェームズ・チャドウィック さんが中性子を発見。【中性子の発見で1935年、ノーベル物理学賞受賞】 1932年4月  ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所の ジョン・コッククロフト さんと アーネスト・ウォルトン さんが加速した陽子でリチウム原子の核変換に初めて成功。【加速荷電粒子による原子核変換の研究で1951年、ノーベル物理学賞を共同受賞】 1934年  フランスの フレデリック・ジョリオ・キュリー さんと イレーヌ・キュリー さんは、アルミニウムにアルファ線を照射し人工の放射性同位元素の合成に初めて成功。【人工放射性元素の発見で1935年、夫婦でノーベル化学賞受賞】 1938年12月  ドイツのベルリン大学で オットー・ハーン さんと フリッツ・シュトラスマン さんがウランに中性子を照射してバリウムを生成。【原子核分裂の発見で1944年、ハーンさんが単独でノーベル化学賞を受賞】 ハーンさんは実験結果の解釈をベルリンから脱出した リーゼ・マイトナー さんに相談。リーゼ・マイトナーさんは甥の オットー・フリッシュ さんと議論。 1939年1月  リーゼ・マイトナーさんとフリッシュさんは、ハーン=フリッツ・シュトラスマンさんの実験結果を 核分裂 と命名。 2月  パリの フレデリック・ジョリオ・キュリー さん、 ハンス・フォン・ハルバン さん、 ルー・コワルスキ さん、 フランシス・ペラン さんは連鎖反応=原子爆弾の実現可能性を確信。また、製造には重水が必要と判断。 1940年  パリのグループは重水を製造するノルウェーの水力発電所の在庫をドイツに先んじて全量(187リットル)買い取る。 2月  インペリアル・カレッジ・ロンドンの ジョージ・トムソン さん【結晶による電子線回折現象の発見で1937年のノーベル物理学賞を受賞】のチームは、天然ウランでは連鎖反応は起きないから追求する価値なし、と結論。 3月  バー

頼りにした仲間が敵国スパイだった場合・・・:MAUD委員会の教訓(17)

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アルケーを知りたい(346) MAUD委員会(18) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 バーミンガム大学 MAUD委員会 ・リーダーは「 フリッシュ-パイエルスの覚書 」を作成したパイエルスさん。 ・チームの人数は4名。平均年齢は39才。 ・ウラン同位体を分離する方法として、フリッシュさんの熱拡散法とサイモンさんのガス拡散法の2つでアプローチ。結果的にガス拡散法が現実となる。 ・このチームは、原爆の製造に関して化学的アプローチと理論問題を扱った。 ・パイエルスさんが採用した助手フックスさんはソ連のスパイだった。 リーダー: ルドルフ・パイエルス (33)  Rudolf Ernst Peierls , 1907年6月5日 - 1995年9月19日 → アルケーを知りたい(327) ルドルフ・パイエルス メンバー: クラウス・フックス (29)  Klaus Fuchs , 1911年12月29日ドイツ– 1988年1月28日東ベルリン 物理学者。ブリストル大学で博士(指導教員はネヴィル・モット先生)。1941年、パイエルスさんの助手として理論計算を担当。1942年、イギリス市民。1950年、ソ連に原爆情報を流したスパイとして有罪判決。1959年、禁固から釈放、東ドイツに移住。 ノーマン・ハワース (57)  Norman Haworth , 1883年3月19日ランカシャー - 1950年3月19日ウスターシャー イギリスの有機化学者。ゲッチンゲン大学で博士(指導教員はオットー・ヴァラッハ先生)。マンチェスター大学で博士(指導教員はウィリアム・ヘンリー・パーキンJr先生)。WWIIの間、MAUD委員会のメンバー。 クリストファー・ホリス・ジョンソン (36)  Christopher Hollis Johnson , 1904年3月18日-1978年4月9日 イギリスの化学者・物理学者。六フッ化ウランの特性を研究する化学者をリード。 No Photo

プランAがダメならプランBだ、の成功例:MAUD委員会の教訓(16)

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アルケーを知りたい(345) MAUD委員会(17) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 オックスフォード大学 MAUD委員会 ・リーダーはフランシス・サイモンさん。チームが全員、非イギリス人。多くが サイモンさんの門下生。 ・チャーチル首相の科学顧問 フレデリック・リンデマン さんがリクルートした人たち。 ・サイモンさんの主導でガス拡散法でウラン235の分離に成功した。 ・1940年12月、「実際の分離プラントのサイズの推定」という報告書を提出した。 ・メンバーは6名 。うち4名のプロフィールはMAUD委員会の教訓(7)で紹介済み。ここでは残りの2名を紹介する。()内は1940年時点の年齢。 ・平均年齢は35才。 クルト・メンデルスゾーン (32)  Kurt Alfred Georg Mendelssohn , 1906年1月7日ベルリン - 1980年9月18日オックスフォード ベルリン大学で博士(指導教員はフランツ・サイモン先生=いとこ)。物理学者。フレデリック・リンデマンさんの勧誘で1933年からオックスフォード大学クラレンドン研究所。サイモンさんが開発する機器を取り扱う技術を持つ。 ハインツ・ロンドン (33)  Heinz London , 1907年11月7日ドイツのボン - 1970年8月3日 ミュンヘン大学で博士(指導教員はフリッツ・サイモン先生)。実験物理学者。フレデリック・リンデマンさんの勧誘で1933年からオックスフォード大学クラレンドン研究所。サイモンさんの助手。 フランシス・サイモン (47)  Francis Simon , 1893 - 1956 リーダー。リンデマンさんの招待。→ アルケーを知りたい(335)  ハインリッヒ・クーン (36)  Heinrich Gerhard Kuhn , 1904 - 1994 リンデマンさんの招待。→ アルケーを知りたい(335)  ニコラス・クルティ (32)  Nicholas Kurti , 1908 - 1998 師匠のサイモンさんと一緒にオックスフォード大学へ。→ アルケーを知りたい(335)  ヘンリー・シュール・アームズ (28)  Henry Shull Arms , 1912 - 1972  アメリカ人。アイダホ大学で物理学を学ぶ。ローズ奨学金を得て1936年からオックス

外の知恵を受け入れ、尖った研究成果をあげる:MAUD委員会の教訓(15)

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アルケーを知りたい(344) MAUD委員会(16) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 ケンブリッジ大学MAUD委員会 ・リーダーはブラッグさんとコックロフトさんの2人体制。 ・メンバーは6名。コンサルタント1名。合計9名。 ・9名の平均年齢は40才。 ・パリから逃れてきたハルバン-コワルスキー組と重水など研究資材を受け入れた。 ・成果  プルトニウム を使った爆弾の可能性を発見。 リーダー: ウィリアム・ローレンス・ブラッグ (50)  William Lawrence Bragg , 1890年3月31日 - 1971年7月1日 オーストラリアのアデレード生まれ。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ卒業。物理学者。 1915(25)ノーベル物理学賞受賞(X線による結晶構造解析に関する研究) WWII終戦後、キャヴェンディッシュ研究所の所長 → アルケーを知りたい(198) ノーベル物理学賞 1915年 ローレンス・ブラッグさん ジョン・コッククロフト (43)  John Douglas Cockcroft , 1897年5月27日 - 1967年9月18日  イギリスのヨークシャー生まれ。物理学者。 1932(35)リチウムに陽子を衝突させて原子核の変換に成功。 WWIIの間はレーダー研究に注力。 1951(54)ノーベル物理学賞受賞(加速荷電粒子による原子核変換の研究) → アルケーを知りたい(239) ノーベル物理学賞 1951年 ジョン・コッククロフトさん 次の4名は、アルケーを知りたい(333) MAUD委員会(5)で紹介済み。 エゴン・ブレッチャー (39) Egon Bretscher, 1901 - 1973 ノーマン・フェザー (36) Norman Feather, 1904 - 1978 ハンス・フォン・ハルバン (32) Hans von Halban, 1908 - 1964 レヴ・コワルスキー (33) Lew Kowarski, 1907 - 1979 ヘルベルト・フロイントリッヒ (60)  Herbert Freundlich , 1880年1月28日ベルリンのシャルロッテンブルク– 1941年3月30日ミネソタ州ミネアポリス 父はドイツ系ユダヤ人、母はスコットランド人。 1919 - 1933 カイザーヴィルヘルム物理化学

リバプール大学のMAUD委員会のメンバーの平均年齢は32才

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アルケーを知りたい(343) MAUD委員会(15) 今回の話題は(C)マンハッタン計画 MAUD委員会の構成は、政治的な判断をするポリシー委員会と技術を扱う技術委員会の二つがある。技術委員会で行う実務は4つの大学が分担して行う。4つの大学は、リバプール大学・オックスフォード大学・ケンブリッジ大学・マンチェスター大学である。この数回、リバプール大学を見てきたので、ここでメンバーの12名の名前と1940年当時の年齢を一覧する。最年長のチャドウィックさんが49才、最年少のホルトさんが22才。平均年齢32.4才。 リバプール大学 MAUD委員会(7)メンバーと関係者のリスト、1940年時点の年齢   ジェームズ・チャドウィック (49)  James Chadwick, 1891 - 1974   オットー・フリッシュ (36)  Otto Frisch, 1904 - 1979   ジョセフ・ロートブラット (32)  Joseph Rotblat, 1908 - 2005   ジェリー・ピカヴァンス (25)  Gerald Pickavance, 1915 - 1991   モーリス・プライス (27)  Maurice Pryce, 1913 - 2003    ジョン・ホルト (22)  John Holt, 1918- 2009 ブリストル大学   アラン・ナン・メイ (29)  Alan Nunn May, 1911 -  2003    セシル・パウエル (37)  Cecil Powell,1903 - 1969 アメリカ   アルフレッド・ニール (29)  Alfred Nier, 1911 - 1994   メール・チューヴ (39)  Merle Tuve, 1901 - 1982 ドイツのライバル   クラウス・クラジウス (37)  Klaus Clusius, 1903 - 1963   ゲルハルト・ディッケル (27)  Gerhard Dickel, 1913 - 2017

ライバルの存在が研究を加速する:MAUD委員会の教訓(14)

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アルケーを知りたい(342) MAUD委員会(14) 今回の話題は(C)マンハッタン計画 リバプール大学MAUD委員会(6): ライバル 感想  リバプール大学のチームはウラン238と235を分離する熱拡散法を追求していた。フリッシュさんによれば「ドイツの科学者(中略)は、同位体分離をすでに行っていた。 同位体分離の可能性は物理学者の共同体の中ではよく知られた事実 だったのだ(p.158)」とある。フリッシュさんは分離手法としてクルジウスさんの分離管と式の応用を試みる。結果は「六フッ化フランはクルジウスの方法が効かない気体のひとつ(p.172)」となった。 今回は、熱拡散法の本家であり、実際に同位体の分離を進めていたライバル、ドイツの物理学者 クルティス さんとその弟子の ディッケル さんを見る。 フリッシュさんの本ではクルジウス、ウィキペディアではクルティスと表記されているので、別人かと思っていたら、同一人物だった! クラウス・ポール・アルフレッド・クルティス   Klaus Paul Alfred Clusius , 1903年3月19日ポーランドのブロツワフ - 1963年5月28日チューリヒ ドイツの物理化学者 1926(23)ヴロツワフ工科大学で博士(指導教員はアーノルト・オイケン先生) 1936(33)ミュンヘン大学物理化学研究所の所長。重水の実験 1938(35)弟子のゲルハルトディッケルと 熱拡散同位体分離管 を開発。 ネオンの同位体分離に成功 1939(36)塩素同位体の分離に成功。 六フッ化ウラン を使い分離実験を開始 1942(40) 重水 の生産実験 1947(45)チューリッヒ大学で物理化学の教授(1963年まで) 1963(60)チューリヒで死去。 ゲルハルト・ディッケル  Gerhard Dickel , 1913年10月28日ドイツのバイエルン - 2017年11月3日  No photo 1938(25)クルティスさんと共同でネオンの同位体分離に成功 1939(26)ミュンヘン大学で博士(指導教員はクルティスさん)。クルティスさんと共同で塩素同位体の分離に成功。 1957(44)ミュンヘン大学物理学研究所の所長 1978(65)引退。 2017(104)死去。 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MA

リーダーとメンバーが良ければ、正しい結果が出る:MAUD委員会の教訓(13)

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アルケーを知りたい(341) MAUD委員会(13) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 感想  チャドウィックさんが主導するリバプール大学のチームの特徴は、 ・正しい結論(原爆は現実に可能)に到着した。 ・チャドウィックさん自らが中性子の発見者で、核分裂を利用した爆弾の可能性を予知していた(可能だと確信した時からは眠れなくなった)。 ・「フリッシュ-パイエルスの覚書」を作ったフリッシュさんがいた。 ・ウラン238と235を分離するため 熱拡散法 を追求(ドイツもやっていた)。 ・リバプール大学だけでなくブリストル大学のチームとアメリカの専門家のネットワークも活用した。  今回はアメリカの協力先である アルフレッド・ニール さんと メール・チューヴ さんを見る。ニールさんは同位体の分離ができたかどうか分析する質量分析のパイオニア。チューヴさんは原子核の専門家。  面白いのは、イギリス人の物理学者がレーダーに注力していたのと同様、チューヴさんはアメリカ軍のため近接信管の開発に注力していたこと。1940-41年の時点の原爆は、緊急な開発課題の一つ(に過ぎなかった)ことが分かる。 リバプール大学MAUD委員会(5)アメリカの協力先 アルフレッド・ニール  Alfred Otto Carl Nier, 1911年5月28日ミネソタ州セントポール - 1994年5月16日ミネソタ州ミネアポリス アメリカの物理学者。質量分析の開拓者。1941年3月、質量分析を使いウラン235の分離に成功。 メール・チューヴ  Merle Anthony Tuve , 1901年6月27日 – 1982年5月20日 1901年、アメリカのサウスダコタ州カントン生まれ。祖父母はノルウェーからの移民。父はオーガスタナ大学の学長。母は音楽教師。アーネスト・ローレンスは幼なじみ。 1918(17)父がインフルエンザのため死去。一家でミネアポリスに転居。ミネソタ大学に入学。 1922(21)ミネソタ大学で理学士。 1923(22)ミネソタ大学で修士(物理学)。 1925(24)カーネギー研究所のグレゴリー・ブライトさん(Gregory Breit, 1899年7月14日 – 1981年9月13日)と共同でパルス無線を用いて電離層の高度を測定。レーダー開発の理論的基礎になる。 1927(26)ジョンズホ

スパイ~情報管理の限界を超える存在:MAUD委員会の教訓(12)

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アルケーを知りたい(340) MAUD委員会(12) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 感想   チャドウィックさんはリバプール大学外に2つ協力先を持っていた。今回はブリストル大学のメンバーを見る。 アラン・ナン・メイ さん(29)と セシル・パウエル さん(37)だ。メイさんは情報をソビエトに流していたため、WWII終戦後スパイとして有罪判決を受けた。 リバプール大学MAUD委員会(4) アラン・ナン・メイ  Alan Nunn May , 1911年5月2日 -  2003年1月12日 ケンブリッジ大学で博士(指導教員は チャールズ・エリス 先生)。物理学者。チャドウィックさんがMAUD委員会ケンブリッジ大学のメンバーとして採用。セシル・パウエルさんとの共同研究者。後にソビエトのスパイと判明。 セシル・フランク・パウエル  Cecil Frank Powell , 1903年12月5日ケント - 1969年8月9日イタリアのレッコ県 1929年、ケンブリッジ大学で博士(指導教員は霧箱で有名なCTRウィルソン先生とラザフォード先生)。物理学者。1940年前後はブリストル大学で素粒子の軌跡を記録する特殊な写真乳剤を使う方法を開発、実験中。1950年、ノーベル物理学賞受賞(写真による原子核崩壊過程の研究方法の開発および諸中間子の発見)。 チャールズ・エリス さん(Charles Drummond Ellis, 1895年8月11日 - 1980年1月10日) は、1914年にドイツにいたためWWIの勃発と同時にドイツの収容所に入れられた。この時、同じように収容所に入れられた チャドウィック さんと知り合い、終戦までの4年間、一緒に研究した間柄。この収容所はベルリン郊外にあるルーレーベン収容所といって、収容者たちは本を読めたり実験する自由が利く生活ができた。 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert F

人が活動しやすいよう心配りするチャドウィックさん:MAUD委員会の教訓(11)

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アルケーを知りたい(339) MAUD委員会(11)  今回の話題は(C)マンハッタン計画。  感想  バーミンガムから移ってきたばかりのフリッシュさん(36)は、チャドウィックさん(49)の研究室を利用。どこに何があるか分かるか分かるまで困らないよう、チャドウィックさんは教え子のホルトさん(22)をフリッシュさんの助手につける。こういうエピソードから チャドウィックさんの人柄 が伝わってくる。 リバプール大学MAUD委員会(3) ジョン・ライリー・ホルト  John Riley Holt , 1918年2月15日チェシャー州ランコーン - 2009年1月6日 1941年、リバプール大学で博士(指導教員はチャドウィックさん ※要確認 )。実験物理学者。フリッシュさんがチャドウィックさんの研究室で仕事をしている時期、助手を務める。「その当時、私はエネルギッシュで動作が速く、ジョンはいつも私の後を追い回していたので、まもなく フリッシュ・アンド・チップスというあだ名が私たちにつけられた 」(p.171)。 「二人で小さい クルジウスの分離管を組み立て 、 結局、 測定にかかるようなウラン235の分離は得られないことを見出した 」(pp171-172)    〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee  オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。  Otto Robert Frisch (1979), What little I remember. Cambridge University Press.  オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日  リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

住まいを貸すという仲間の助け方:MAUD委員会の教訓(10)

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アルケーを知りたい(338) MAUD委員会(10) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 感想  フリッシュさん(36)にとっては爆撃をかわしながらのイギリス生活。リバプールの下宿が爆撃のため住めなくなった(下宿屋を経営するおかみが廃業したから)。スーツケースを引きずりながら2時間かけて10km先にある友人の家に行く。それがモーリス・プライスさん(27)。 リバプール大学MAUD委員会のメンバー(2) モーリス・プライス  Maurice Pryce, 1913年1月24日ロンドン– 2003年7月24日 プリンストン大学で博士。リバプール大学の理論物理学のリーダー。数理物理学者。奥さんはマックス・ボルンさんの娘。フリッシュさんは下宿が爆撃されたため、プライスさんを頼る。「 私の滞在に同意してくれた が、一家はもうすぐ引っ越すところだと言った。新しい赤ん坊が生まれたので、もっと静かな場所へ行こうとしていたのだ」(p.169)「何日かたってプライス一家が引っ越した時、プライス夫妻は 私が家に留まることを認めてくれ、しかも掃除婦まで残しておいてくれた 」 (p.169) 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日 リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

親切、前向きで人々を助けようとするロトブラットさん:MAUD委員会の教訓(9)

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アルケーを知りたい(337)  MAUD委員会(9) 今回の話題は(C)マンハッタン計画 経緯  MAUD委員会の研究は4つの大学= リバプール大学、バーミンガム大学、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学 =が分割して担当した。研究資金は当初は大学が出し、後に政府が出した。リバプール大学が受け持つテーマは、 熱拡散による同位体の分離 だった。結果は、六フッ化フランはクルジウス管を使う方法は効かないと判明。また、爆弾に必要なウラン235の質量を8kgと算定した。 チャドウィック さん(49)がリーダー。フリッシュさんもメンバー。 感想  今回は、リバプール大学MAUD委員会のメンバーからロトブラットさんとピカヴァンスさんをフューチャーした。共にフリッシュさんの本に出てくるので、描写を引用した。1940年のとき、フリッシュさんは36才。ロトブラットさんはフリッシュさんの32才年、ピカヴァンスさんは25才だ。このとき技術のパイオニアたちは20代、30代だ。 リバプール大学MAUD委員会のメンバー ジョセフ・ロートブラット  Joseph Rotblat , 1908年11月4日ワルシャワ - 2005年8月31日ロンドン ワルシャワ大学で博士。物理学者。チャドウィックさんの下でサイクロトロン研究。ナチスドイツがポーランド侵攻、帰国できなくなる。フリッシュさんのリバプール滞在中、世話をする。「 ロトブラットは親切で、前向きで、常に他人の面倒を見て、人々を助けようとしていた (p.173)」1995年、ノーベル平和賞受賞(国際政治における当面の核兵器の削減と、長期的な核廃絶のための努力に対して)。 トーマス・ジェラルド・ピカヴァンス  Thomas Gerald Pickavance , 1915年10月19日ランカシャー - 1991年11月12日 リバプール大学卒業。原子核物理学者。リバプール大学でサイクロトロンの開発に取組む。粒子加速器の設計と使用の第一人者。フリッシュさんのリバプール滞在中、質量分析器の製作に携わった。「 ゲーリー・ピッカバンスはたいへん愉快な性格の若者で、私たちはすぐに親友になった (p.172)」 No Photo 〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee オットー・フリッシュ著、松田文夫訳

結論を出したら委員会は解散する:MAUD委員会の教訓(8)

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アルケーを知りたい(336) MAUD委員会(8) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 経緯  1941年3月、アメリカ国防研究委員会 (National Defense Research Committee, NDRC) の委員長らが訪英しMAUD委員会に出席。アメリカの人たちは軍事科学研究はイギリスに先んじていると思っていたけど、MAUD委員会に出た物理学者は、イギリスの方が進んでいることにびっくりする。その話をすぐアメリカに報告する。 7月 MAUD委員会は原子爆弾が実現可能とする報告書を作成して解散。 感想  MAUD委員会の情報をアメリカの物理学者が知って本国に報告した時点は、まだイギリスのほうが進んでいた。しかし、それもしばらくの間。大型の研究は経済力がないと発展させられない。これは、当時も今も変わらない。 もうひとつの感想は、MAUD委員会が報告書を提出して解散したことに対して。結論を出したら解散する。委員会の存続のために別の仕事を持ってきたりしない。良い。 今回は、MAUD委員会に出席したアメリカの物理学者らを見る。 ジェイムス・ブライアント・コナント  James Bryant Conant , 1893年3月26日ボストン - 1978年2月11日ニューハンプシャー州ハノーバー ハーバード大学で博士。化学者、教育者、科学行政官、外交官。1941年-1946年、アメリカ国防研究委員会(NDRC)委員長。マンハッタン計画の政策決定過程に関与。 ケネス・ベインブリッジ  Kenneth Bainbridge , 1904年7月27日NY州 - 1996年7月14日マサチューセッツ州レキシントン プリンストン大学で博士。1933年、奨学金でケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のラザフォードさんの元で質量分析計を開発。ジョン・コッククロフトさんと友達。MAUD 委員会に出席してイギリスの進展ぶりに驚き、ウラン委員会の ライマン・ブリッグズ (Lyman J. Briggs) 議長にイギリスに人を送るように要請。 ライマン・ブリッグズ  Lyman J. Briggs , 1874年5月7日ミシガン州 - 1963年3月25日ワシントンDC ジョンズホプキンス大学で博士。物理学者、管理者。国家標準局の局長(1917-1945)。WWII前、ルーズベ

問題解決には複数の案を試すとどれか当たる:MAUD委員会の教訓(7)

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アルケーを知りたい(335) MAUD委員会(7) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 経緯  1940年、MAUD技術委員会ではウラン同位体の分離方法を追求していた。フリッシュさんが考えたクラジウス管を使う方法は無理と分かり、オックスフォード大学のサイモンさんによる多孔膜を使う方法の有効性を確認した。 感想  問題解決法はA案1つではなく、B案を持っておくと良いという話。それと共に、フリッシュさんの人との出会いの描き方が面白い。オックスフォードのくだりでは、サイモンさん、リンデマンさん、クルティさん、アームスさんが登場する。フリッシュさんがオックスフォードに行った目的は、ウランのサンプルの分析と、濃縮の程度の測定方法の開発だった。フリッシュさんはオックスフォードに滞在して彼らと知り合ったからだ。ケンブリッジやリバプールは爆撃の被害を受けていたのに対しオックスフォード滞在は「平和な幕間と新たな人々との友情を与えてくれた」(p.181) フランツ・サイモン / フランシス・サイモン  Franz Simon / Francis Simon , 1893年7月2日ベルリン-1956年10月31日オックスフォード  1893年、ベルリン生まれ。ユダヤ人。 ベルリン大学で博士(指導教員はヴァルター・ネルンスト先生)。低温物理学の研究グループで働く。低温物理学の物理学者。 1931(38)ブレスラウ大学で教授(物理化学)。 1933(40)反ユダヤ主義が勢いを増す。 1937年(44)ネルンスト研究室の卒業生 フレデリック・リンデマン さん(51)が ネルンスト さん(67)と相談し、オックスフォード大学のクラレンドン研究所に招待。インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)から助成金研究を受ける(1938年まで)。ドイツから自分の低温物理学の研究機器の持ち出しに成功。 1939(46)WWII。 1940(47)戦時研究としてレーダー開発に従事。MAUD技術委員会にオックスフォード大学の代表として参加。フリッシュさん によると「著名な物理学者で、ヒトラーの反セム主義の体制から、古い仲間のリンデマン教授によって救出されていた(p.179)」。フリッシュさん(36)は、サイモンさんの指導の下で数カ月間クラレンドン研究所で働く。フリッシュさんが考えていたクルジウスの分離