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1928、ディラック方程式~ディラック(英):アルケーを知りたい(750)

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今回は物理学。 ▼ ディラック方程式 :Dirac equation。電子の相対論的な量子力学を記述する方程式。 ▼ディラックのここが面白い:発言の内容とエピソードは全部面白い。日本語版のWikipediaのディラックの解説が楽しめる。ディラックの口数が少なさを 仲間が からかって、1時間に1語しゃべる単位を1ディラックとした、という話が好き。 ▼ ディラック  Paul Dirac 1902年8月8日 - 1984年10月20日  イギリスの理論物理学者。 【人物】父親はスイス出身のフランス語教師。家庭ではフランス語で会話。 1919(17) 一家全員スイス国籍からイギリス国籍に変更。 【教育】1926(24) ケンブリッジ大学で博士。テーマは量子力学。指導教員は ファウラー 。 【活動/業績】 1928( 26 ) ディラック方程式を考案 。 1932-69(30-67) ケンブリッジ大学でルーカス教授職。 1933( 31 ) ノーベル物理学賞受賞(原子の理論における新しい生産的な理論形式の発見) 。 シュレーディンガー と同時に受賞。 1937(35) ウィグナー の妹と結婚。 1952(50) コプリ・メダル受賞。 1970-84(68-82) フロリダ州立大学で教授。   【ネットワーク】 シュレーディンガー  Erwin Rudolf Josef Alexander Schrödinger 1887年8月12日 - 1961年1月4日 オーストリアの理論物理学者。▼1933(46) ノーベル物理学賞受賞(新形式の原子理論の発見)。ディラックと同時に受賞。 ファウラー  Ralph Howard Fowler 1889年1月17日 - 1944年7月28日 イギリスの物理学者・天文学者。▼ディラックに量子力学を紹介した博士指導教員。 ウィグナー  Eugene Paul Wigner 1902年11月17日 - 1995年1月1日  アメリカの物理学者。1963(61) ノーベル物理学賞受賞(原子核および素粒子に関する理論への貢献、特に対称性の基本原理の発見とその応用)。▼妹のマーギットがディラックの妻。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Dirac

1927、ハッブル-ルメートルの法則~ルメートル(ベルギー)編:アルケーを知りたい(749)

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今回は物理学。 ▼ ハッブル-ルメートルの法則 :2018年に開かれた第30回国際天文学連合総会でハッブルの法則をハッブル-ルメートルの法則への改称が決まった。 ▼ルメートルのここが面白い:司祭で物理学者であること。ブッシュの微分解析機のユーザーだったこと。 計算機やプログラミング言語好きだったこと。 ▼ ルメートル  Georges Henri Joseph Édouard Lemaître 1894年7月17日 - 1966年6月20日  ベルギーの天文学者・宇宙物理学者・カトリック司祭  【人物】父親は織物産業の事業家。 【教育】1913(17) ルーヴェン・カトリック大学の土木工学科に入学。 1914-18(20-24) WWI。勉学を中断してベルギー陸軍に志願入隊。砲兵将校。 1920(26) ルーヴェン・カトリック大学で博士。指導教員は プッサン 。 1923(29) 英ケンブリッジ大学で天文学者の エディントン から恒星物理学や数値解析の手法を学ぶ。 1924-25(30-31) 米ハーバード大学天文台で シャプレー と共同研究。MITで理学専攻博士課程。 【活動/業績】 1923(29) 司祭。 1925(31) ルーヴェン・カトリック大学で非常勤講師。 1927( 33 ) ブリュッセル科学協会年報に ハッブルの法則と同じ趣旨の 宇宙膨張説を発表 。 1931-64(37-70) MITで博士。ルーヴァン・カトリック大学で教授。 エディントン の助けを得て 宇宙膨張説を英語で発表。次第に「ビッグバン理論」として知られる 。 1933(39) アメリカ・カトリック大学で客員教授。 計算機の関心が大。ドイツ製の電卓「メルセデス・ユークリッド」、 ブッシュ の「微分解析機」を使用。 1958(64) 大学にバロウズ E 101を導入。宇宙計算に使用。 【ネットワーク】 プッサン  Charles Jean de la Vallée Poussin 1866年8月14日 - 1962年3月2日 ベルギーの数学者。1891-1914(25-48) ルーヴァン・カトリック大学で教授。1896(30) 素数定理を証明。▼1920(54) ルメートルの博士指導教員。 エディントン  Arthur Stanley Eddington 1882年12月28日 - 19

1927、ハッブル-ルメートルの法則~ハッブル(米)編:アルケーを知りたい(748)

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今回は物理学。 ▼ ハッブルの法則 :銀河の後退速度が地球からの距離とともに増加するという法則。銀河の赤方偏移と距離の間の経験則を定式化したもの。地球と観測している天体が離れる速さをハッブル定数と地球と天体の距離の掛け算で計算。ハッブルの法則は宇宙の膨張を意味しており後のビッグバン理論につながる。 ▼ハッブルのここが面白い:記録持ちのスポーツマン、ヘビー級のボクサー、父親の希望で留学先では法律を専攻、戦争時には軍に志願、専門の天文学では宇宙の膨張を示すデータを提出。「静と動」の両方で抜きん出た人だったのが面白すごい。 ▼ ハッブル  Edwin Powell Hubble 1889年11月20日 - 1953年9月28日  アメリカの天文学者 【人物】父親は保険会社の役員。 【教育】青年時代は記録を持つスポーツマン、ボクサー。1910(21) シカゴ大学卒業。 1913(24) 英のオックスフォード大学で修士。父親の要求に応え法学を学んだ。 1917(28) シカゴ大学ヤーキス天文台で天文学を研究。博士。 【活動/業績】 1914-18(25-29) WWI。米陸軍に志願、少佐。 1919-53(30-64) ウィルソン山天文台の創設者で所長の ヘール の招きで研究員。100インチ (2.5m) 望遠鏡が完成。 1923-24(34-35) 100インチ望遠鏡で銀河系内の天体と考えられていた星雲 nebula の中に、銀河系外の銀河の存在を発見。 1926(37) ハッブル分類を提唱:楕円銀河、レンズ状銀河、渦巻銀河、棒渦巻銀河、不規則銀河。 1928(39) ヒューメイソン と共に 系外銀河のスペクトルの赤方偏移を測定 。宇宙膨張の証拠。 1929( 40 ) ハッブルの法則を発表 。 1935(46) 小惑星 シンシナティを発見。 1939-45(50-56) WWII。米陸軍弾道研究所( BRL: Ballistic Research Laboratory )で外部弾道部門の責任者。 1946(57) メリット勲章受賞(弾道学の研究での優れた貢献)。 2018年、 ハッブルの法則 →   ハッブル=ルメートルの法則 。 【ネットワーク】 ヘール  George Ellery Hale 1868年6月29日 - 1938年2月21日 アメリカの天文学者。1904

1926、フェルミ統計~フェルミ(伊):アルケーを知りたい(747)

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今回は物理学。 ▼ フェルミ統計 :電子の振る舞いにパウリの排他原理を導入した新しい統計力学。 ▼フェルミのここが面白い:フェルミは活動拠点を37才までイタリア、以降はアメリカだった。アメリカに移住した理由はイタリアのファシスト党がとったユダヤ人弾圧政策。アメリカに渡ったフェルミはマンハッタン計画に加わり、世界初の原子炉を作った。片方の政策がユダヤ人を追い出し、片方の政策が原子炉を完成させた。政策で結果の違いを際立たせるフェルミの力がすごい。 ▼ フェルミ  Enrico Fermi 1901年9月29日 - 1954年11月28日  アメリカの物理学者。 【人物】父親は公務員。 【教育】1922(21) ピサ大学で博士。ドイツのゲッティンゲン大学に留学。 【活動/業績】 1923(22) ローマ・ラ・サピエンツァ大学で講師。 1926( 25 ) 「フェルミ統計」に関する理論を発表 して世界的な名声を得る。電子や陽子など、フェルミ統計に従う素粒子をフェルミ粒子という。ローマ・ラ・サピエンツァ大学で理論物理学の教授。 1938( 37 ) ノーベル物理学賞(中性子衝撃による新放射性元素の発見と熱中性子による原子核反応の発見) 。ファシスト党がユダヤ人弾圧を開始。妻がユダヤ人だったため渡米。 1939-45(38-77) WWII。コロンビア大学で物理学教授。 1942(41) マンハッタン計画に参加。シカゴ大学で世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させる。核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功。 【ネットワーク】 ラゼッティ  Franco Dino Rasetti 1901年8月10日 - 2001年12月5日 イタリア生まれ、アメリカの物理学者。▼フェルミとラゼッティはピサ大学の同級生で親友。二人で研究チーム「 Ragazzi di via Panisperna=パニスペルナ通りの少年団」 を作り、仲間を増やした。ラゼッティもファシズムを嫌い渡米。マンハッタン計画には参加しなかった。 アマルディ  Edoardo Amaldi 1908年9月5日 - 1989年12月5日 イタリアの物理学者。ニュートリノ(neutrino)の命名者。▼ Ragazzi di via Panispernaの初期メンバー 。WWIIの前後もイタリアを離れなかった。 セグレ

1926、波動力学~シュレーディンガー(墺):アルケーを知りたい(746)

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今回は物理学。 ▼ 波動力学 :wave mechanics。シュレーディンガーによる量子力学の定式化。 ▼シュレーディンガーのここが面白い:1933年、ヒトラー政権がユダヤ人弾圧を始めたとき反対の姿勢を明確にして大学を辞職、自国を出る。国に戻るのはそれから23年間後。どこの場所にいようが何が起ころうが仕事を進めるマイペースを維持する力が爽快だ。 ▼ シュレーディンガー  Erwin Schrödinger 1887年8月12日 - 1961年1月4日  オーストリアの理論物理学者。 【人物】父親は革製品製造会社の経営者、植物学者。 【教育】1910(23) ウィーン大学で博士。指導教員は ハーゼノール 。 【活動/業績】 1911(24) ウィーン大学の エクスナー の助手。 1914-18(27-31) WWI。オーストリア軍で砲兵士官。 1920(33) シュトゥットガルト大学で准教授。 1921-27(34-40) チューリッヒ大学でラウエの後任数理物理学教授。 1925-26( 38-39 ) 波動力学、シュレーディンガー方程式を提唱 。 1927-33(40-46) ベルリン大学でプランクの後任教授。 1933( 46 ) ヒトラー政権に反対してベルリン大学を辞職。オックスフォード大学でフェロー。 ノーベル物理学賞受賞(新形式の原子理論の発見) 。 1935(48) シュレーディンガーの猫を提唱。 1936(49) オーストリアのグラーツ大学で教授。 1939-45(52-58) WWII。アイルランドに亡命。ダブリン高等研究所で研究。 1948(61) アイルランド市民。 1955(68) ダブリン高等研究所を定年退職。 1956(69) ウィーン大学で教授。 【ネットワーク】 ボルツマン  Ludwig Eduard Boltzmann 1844年2月20日 - 1906年9月5日 オーストリアの物理学者。師匠がヨーゼフ・シュテファン。弟子がポール・エーレンフェスト。▼シュレーディンガーが弟子入りしたかった人物。 エクスナー  Franz Serafin Exner 1849年3月24日 - 1926年11月15日 オーストリアの物理学者。▼シュレーディンガー(24) が助手についた。 ハーゼノール Friedrich Hasenöhrl 1874年

1925、レニウム~ノダック夫妻(独)、ベルク(独):アルケーを知りたい(745)

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今回は化学。 ▼ レニウム : rhenium。原子番号 75。元素記号 Re。名前の由来は、 ワルター・ノダック の妻で共同発見者 イーダ・ノダック の出身地ライン川のラテン名 Rhenus。レニウム187は半減期412億年の放射性同位体。 ▼ノダックのここが面白い:ノダックのチームはX線分光装置を使ってレニウムを発見した。その前のX線分光装置がなかった時代、小川正孝は同じ元素を発見しニッポニウムとしていた。しかし、追試で確認できず公に認められずに終わった。化学者の場合は、弘法筆を選ばず、とはいかない例。 ▼ ワルター・ノダック  Walter Noddack 1893年8月17日 - 1960年12月7日  ドイツの化学者 【人物】? 【教育】ベルリン工科大学卒業。 【活動/業績】 1923(30) 新元素発見の挑戦開始。 1925( 32 )  イーダ・ノダック ( 旧姓 タッケ ) 、 ベルク と共に X線分析でレニウムを発見 。 1926(33)  イーダ と結婚。 1939-45(46-52) WWII。 1935-41(42-48) フライブルク大学で物理化学の教授。 1941-(48-) ストラスブール州立大学で教授。 1957-(64) バンベルク大学名誉教授、附属研究所の所長。 【ネットワーク】 小川 正孝  おがわ まさたか 1865年2月21日 - 1930年7月11日 日本の化学者。▼1908(43) 新元素を発見、 ニッポニウム (Nipponium: Np) と命名したものの追試で確認できず。後にレニウムと判明。 オットー・ベルク  Otto Berg 1873年11月23日 - 1939年 ドイツの化学者。▼1925( 52 ) レニウム発見 。 イーダ・ノダック  Ida Noddack 1896年2月25日 - 1978年9月24日 ドイツの化学者・物理学者。1918(22) ベルリン工科大学で博士。▼1925( 29 ) レニウム発見 。1926(33) ワルター と結婚。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 『理科年表2022』 https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Noddack

1925、行列力学~ハイゼンベルク(独):アルケーを知りたい(744)

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今回は物理学。 ▼ 行列力学 : matrix mechanics。量子力学における理論形式の一つ。運動量や位置などの物理量を行列を用いて表現した。古典物理から量子力学への転換点。 ▼ハイゼンベルクのここが面白い:「博士審査の口頭試問に全く答えられず平均的な評定。ボルンの助手になることが決まっていたので、すぐボルンに会い『私をまだ採用するおつもりがあるかどうか知りたいです』と尋ねた。というエピソードが面白い。口頭試問をカッコよくクリアできず心配になってボルン先生に確認するという慌てぶり。量子力学の創始者のひとりでも、こういう場面があったことに親しみが湧く。 ▼ ハイゼンベルク  Werner Karl Heisenberg 1901年12月5日 - 1976年2月1日  ドイツの理論物理学者 【人物】父親は現代ギリシャ語の教授。 【教育】1923(22) ミュンヘン大学で博士。師匠はゾンマーフェルト。 【活動/業績】 1923(22) ゲッティンゲン大学でマックス・ボルンの助手。 1924(23) 教員資格を取得。ニールス・ボーアの下に留学。 1925( 24 ) ボルンと ヨルダン の協力を得て 行列力学を導出 。 1926(25) コペンハーゲン大学で講師、ボーアの助手。 1927(26) 不確定性原理を導出。ライプツィヒ大学で理論物理学の教授。 1932( 31 ) ノーベル物理受賞(量子力学の創始ならびにオルト、パラ水素の発見) 。 1939-45(38-44) WWII。プランクの「今は生き残るために妥協を強いられるにしても、破局の後の新しい時代のドイツのために残るべきだ」という意見に従う。シュタルク、レーナルトらナチス党員の物理学者から「白いユダヤ人」と呼ばれて攻撃を受ける。 1941(39) ベルリン大学で物理学教授、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所で所長。 コペンハーゲンでボーアと会い原子炉のメモを渡す。メモを見たアインシュタインは原子爆弾の開発競争を予想。ドイツの原爆開発チーム「ウラン・クラブ」の一員として重水炉を開発。アメリカはハイゼンベルクの暗殺を試みるも失敗。終戦後、イギリス情報局秘密情報部によりイギリスで軟禁。1946年に帰国。 1946-70(45-69) マックス・プランク物理学研究所で所長。 1957(56) ミュンヘンの研究用原子

1925、排他原理~パウリ(墺):アルケーを知りたい(743)

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今回は物理学。 ▼ 排他原理 :Pauli exclusion principle。2つ以上のフェルミ粒子(電子)は、同一の量子状態を占めることはできない、という原理。 ▼パウリのここが面白い: いかに優秀かが分かるエピソード ~師匠のゾンマーフェルト(53)は、弟子のパウリ(21)に相対性理論のまとめ記事の執筆を依頼。パウリは2か月で237ページの記事を完成。アインシュタイン(42)は記事を賞賛。ゾンマーフェルトは私がパウリに教えることは何もない、と語った。 毒舌家のエピソード ~誤りのある論文に対して「完全に間違っている」と情け容赦ないコメントを出すので有名だった。ある論文に対しては「間違ってすらいない」と言った。パウリに認められたものは「パウリのご裁可を得た」論文となった。 ▼ パウリ  Wolfgang Ernst Pauli 1900年4月25日 - 1958年12月15日  スイスの物理学者  【人物】父親はジャーナリスト。 【教育】1921( 21 ) ミュンヘン大学で博士 。師匠はゾンマーフェルト。相対性理論の要約記事を執筆、アインシュタインから称賛される。 【活動/業績】1922(22) ゲッティンゲン大学でマックス・ボルン(40)の助手。 1923(23) ニールス・ボーア研究所で研究。 1923-28(23-28) ハンブルク大学で講師。 1924( 24 ) パウリの排他原理を発表 。 1928-35(28-35) チューリッヒ連邦工科大学で理論物理学の教授。 1930(30) 放射性同位元素の原子核崩壊で 中性粒子が存在すると予言 。 1931(31) 精神的不調のためユングの診察を受ける。渡米してミシガン大学の客員教授。 1934(34) フェルミが1930年にパウリが提唱した中性粒子を発見しニュートリノと命名 。 1935-36(35-36) プリンストンの高等研究所IASで教授。 1939-45(39-45) WWII。 1940(40) ナチスから逃れ渡米しIASで理論物理学の教授。 半整数のスピンを持つ粒子は フェルミ粒子 であり、整数スピンを持つ粒子はボソンであると裁定 。 1945( 45 ) ノーベル物理学賞受賞(パウリの原理とも呼ばれる排他原理の発見) 。 1946(46) 米国市民になる。チューリッヒに戻る。 1949(

1925、電子スピン~ウーレンベック(蘭):アルケーを知りたい(742)

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今回は物理学。 ▼ 電子スピン :平尾物理の電子の説明を引用する。「2個以上の電子は同じ状態を共有できない。この性質を持つ粒子をフェルミ粒子という。電子には自転のようなスピンという量が定義される。電子は2つの異なるスピンの状態をとることができる」(p.668)。同じ軌道を2つの電子が回るときはスピンの状態が違うとき、という話のようだ。 電子スピンは、電子が原子核のまわりを自転しながら回っている歴史的なモデル。 ▼ウーレンベックのここが面白い:エーレンフェストの伝統を継承した研究姿勢。独創的より明確・正確さを志向し、そのため現在の状況の把握と要約を重視したこと。先行研究のサーベイを重視し、指導もそのようにしていた点に共感できて面白い。 ▼ ウーレンベック  George Eugene Uhlenbeck 1900年12月6日 - 1988年10月31日  アメリカの物理学者 【人物】オランダの植民地だったジャワ島生まれ、6才までジャワ島育ち。 【教育】1920(20) ライデン大学で学士。 1923(23) ライデン大学で修士。 エーレンフェスト (43) の下で量子力学を研究。 1925( 25 ) エーレンフェストの助手になり院生の ゴーズミット (23)と 共同で電子の自転運動の仮説を立て電子スピンと命名 。後に パウリ(次回)がこの仮説を否定。スピンという名称が残った。 1927(27) ライデン大学で博士。指導教員はエーレンフェスト。 【活動/業績】 1927-35(27-35) 米ミシガン大学で物理学の講師。 1935-38(35-38) ユトレヒト大学で クラマース の後任教授。クラマースはライデン大学でエーレンフェストの後任教授。 1938(38) コロンビア大学で客員教授。 1939(39) ナチスの台頭によりユトレヒト大学を退任、ミシガン大学で物理学の教授。 1939-45(39-45) WWII。 1943-45(43-45) MITの放射線研究所でレーダー研究。 1945-60(45-60) 戦後、ミシガン大学で理論物理学の教授。 1960-71(60-71) ロックフェラー研究所で教授。 【ネットワーク】 エーレンフェスト  Paul Ehrenfest 1880年1月18日 - 1933年9月25日 オーストリアの理論物理学者。▼エーレンフ

1924、分析用超遠心分離~スウェドベリ(スウェーデン):アルケーを知りたい(741)

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今回は化学。 ▼ 分析用超遠心分離 :コロイドの沈降の研究のためにスウェドベリが製作。超遠心分離機と光学モニタリングシステムを組み合わせた分析手法。高分子の形状、高分子の構造変化、高分子のサイズ分布が分かる。 ▼スヴェドベリのここが面白い:研究に必要な分析用超遠心分離機を開発したこと。オリジナルの研究をオリジナルの機器を作って進めたスタイルが素晴らしい。それも「超」がつくところが面白い。 ▼ スヴェドベリ  Theodor Svedberg 1884年8月30日 - 1971年2月26日  スウェーデンの化学者 【人物】父親は工場の管理者。 【教育】1904(20) ウプサラ大学に入学。 1905(21) ウプサラ大学で学士。化学研究所で助手。 1907(23) ウプサラ大学で修士、講師。 1908( 24 ) 「 コロイドと高分子化合物に関する研究 」でウプサラ大学で博士。 1909(25) ウプサラ大学で物理化学の講師およびデモンストレーター。 1912-49(28-65) ウプサラ大学で物理化学の教授。 【活動/業績】 1924(40)  超遠心分離機を開発しタンパク質の分子量の測定を行う 。 1925(41) ティセリウス を助手にする。 1926( 42 ) ノーベル化学賞受賞(分散系に関する研究) 。 1930(46) ティセリウスがタンパク質の電気泳動法に関する研究で博士。 1939-45(55-61) WWII。合成ゴムの製造方法を考案。 1949-67(65-83) グスタフ・ヴェルナー研究所で所長。 【ネットワーク】 スモルコウスキ  Marian Smoluchowski 1872年5月28日 - 1917年9月5日 ポーランドの物理学者。統計物理学のパイオニア。1906(34) ブラウン運動を確率の理論を使って説明。▼スヴェドベリはコロイドに関する研究でスモルコウスキが提唱したブラウン運動の理論を支持。 アインシュタイン  Albert Einstein 1879年3月14日 - 1955年4月18日 ドイツの理論物理学者。1921(42) ノーベル物理学賞受賞(光電効果の法則の発見等)。▼1905(26) 「光量子仮説」「ブラウン運動」「特殊相対性理論」に関する5つの論文を発表した。 ティセリウス  Arne Wilhelm Kaurin

1923、ハフニウム~ヘヴェシー(ハンガリー)編:アルケーを知りたい(740)

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今回は化学。 ▼ ハフニウム については前回を参照。 ▼ヘヴェシーのここが面白い:ナチスから奪われないようにと、ラウエとフランクから預かっていたノーベル賞の金メダルのエピソードが面白い。 ヘヴェシーはコペンハーゲンのニールス・ボーア研究所に保管していたけど、ナチスが攻めてくることが分かったので、二人の金メダルを王水で溶かして研究所の棚に置いた。WWIIの後、戻ったヘヴェシーは棚に置いてあった溶液が奪われていないことを確認、無事に金を回収。ノーベル財団が金メダルに打ち直して二人に渡した。ヘヴェシーが危険物を安全に取り扱う技に長じていたからこそできること。 ▼ ヘヴェシー  George de Hevesy 1885年8月1日 - 1966年7月5日  ハンガリーの化学者。 【人物】父親は、ハンガリー系ユダヤ人貴族。 【教育/活動/業績】 1908(23) ドイツのフライブルク大学で物理学博士。 1909(24) カールスルーエ大学でハーバーの下で研究。 1910(25) マンチェスター大学でラザフォードに師事。ニールス・ボーアと出会う。 1913(28) 動植物の代謝プロセスの研究で 放射性トレーサー実験を行う 。 1915-18(30-33) WWIの間、オーストリア・ハンガリー軍に入隊。 1920-26(35-41) コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所で研究。 1923( 38 ) コスターと共同でハフニウムを発見 。 1924-34(39-48) フライブルク大学で物理化学教授。 1934-43(48-58)  ナチスから逃れ、ニールス・ボーア研究所で研究。 1936(50) 中性子放射化分析を発明。 1939-45(53-59) WWII。 1943(58) ラウエとフランクから預かっていたノーベル賞の金メダルをナチスに奪われないよう王水に溶かし、ニールス・ボーア研究所の研究室の棚に隠した後、 コペンハーゲンを脱出。 戦後、無事に溶液から金を回収。ノーベル財団がメダルを鋳造し直し二人に渡す。 1943-61(58-76) ノーベル化学賞受賞(化学反応研究におけるトレーサーとしての同位体の応用研究) 。スウェーデンのストックホルム大学で教授。 1949(63) コプリ・メダルを受賞。 【ネットワーク】 マックス・フォン・ラウエ  Max Theodor Fe

1923、ハフニウム~コスター(蘭)編:アルケーを知りたい(739)

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今回は化学。 ▼ ハフニウム :hafnium 。原子番号 72。元素記号 Hf。灰色の金属。比重 13.31。用途は原子炉の制御棒の材料。鮮やかな発色を活かして宝飾品にする。名前の由来は、ニールス・ボーア研究所があるコペンハーゲンのラテン語名 hafnia 。  ▼コスターのここが面白い: リーゼ・マイトナー ・ファンクラブの私としては、コスターの行動力にいくら敬意を表しても表しきれない。ナチス支配下のベルリンで絶体絶命の窮地に追い込まれたリーゼ・マイトナーを助け出したからだ。 リーゼ・マイトナー は自分のいる研究所は聖地だから大丈夫と思い込んでいた節があり、脱出が遅れに遅れていた。そこでコスターは単身ベルリンに乗り込みリーゼ・マイトナーが危機的な状況にいることを分からせ、着の身着のままで脱出させた。危機の時のコスターの 行動力がすごい。 ▼今回のテーマはハフニウム。ハフニウムを ヘヴェシー と共に発見した場所はニールス・ボーア研究所。同研究所はナチス・ドイツから逃れる科学者の避難所として機能していた。ナチスの支配が広がる時期でも研究を続けていた物理学者・化学者たちの精神のタフさがすごい。 ▼ ディルク・コスター  Dirk Coster 1889年10月5日 - 1950年2月12日  オランダの物理学者。 【人物】父親は鍛冶屋。 【教育】1916(27) 修士。 1916-20(27-31) デルフト工科大学で助手。 1919(30) 電気工学エンジニアの学位。 1920-21(31-32) ルンド大学の ジークバーン の下で元素のX線分光法の研究。ジークバーンにX線分光法を学びに来たリーゼ・マイトナー(42)と顔見知りになる。 1922(33) ライデン大学で博士。指導教員は エーレンフェスト 。 【活動/業績】 1922-23(33-34) コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所で研究。 1923( 34 ) ヘヴェシー (次回) と共同でハフニウムを発見 。 1924-(35-) フローニンゲン大学で教授。 1938( 49 ) ナチス・ドイツのベルリンに行きユダヤ人物理学者リーゼ・マイトナー(60)を脱出させる 。 1939-45(50-56) WWII。 【ネットワーク】 エーレンフェスト  Paul Ehrenfest 1880年1月18日 - 1