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アルケーを知りたい(295) リーゼ・マイトナー/Lise Meitner_その6 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

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今回の話題(B)フリッシュさんの叔母で物理学者のリーゼ・マイトナーさん ▼フリッシュさんの記述:(1)and together we slowly worked through things like Beethoven's Septet and other pieces which were melodious and where the slow movements were easy enough to give us real preasure. 私たちは一緒に、ベートーベンの七重奏曲やその他のメロディーの美しい、ゆっくりした拍子が本当の楽しみを与えてくれる、やさしい曲に徐々に取り組んで行った。 (2)The instruction ' Allegro ma non tanto ' she translated as ' Fast, but not auntie ' .( Aunt = Tante in German. ) 彼女は、「アレグロ・マ・ノン・タント」という指示を「速く、だけど叔母さんのようじゃなく」と訳したりした。 〔出所〕 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.40 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember . Cambridge University Press. p.33 ▼感想 :フリッシュさんはピアノとバイオリンが弾ける。ベルリンでリーゼ・マイトナーさんと合奏を楽しんでいた。ベートーベンの曲を弾いて楽しむ。さすがウィーン出身。▼Wikipediaで調べたところ、ベートーベンの七重奏曲に Allegro ma non tanto は見当たらない。これは別の曲の話だ。「速く、しかしあまり速すぎず」という意味。Allegroが120~152なので、150で速すぎるようなら125くらいにしてちょうだい、くらいの塩梅だろう。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン  Ludwig van Beethoven , 1770年12月16日 - 1827年3月26日 ドイツの作曲家。

アルケーを知りたい(294) リーゼ・マイトナー/Lise Meitner_その5 ヴィルヘルム2世

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今回の話題(B)フリッシュさんの叔母で物理学者のリーゼ・マイトナーさん ▼フリッシュさんの記述:(1)She worked (and later lived) at one of the Kaiser Wilhelm Institutes, the one for chemistry, and did radioactive reseach, of which I understood very little at that time. リーゼ・マイトナーはカイザー・ウィルヘルム協会の化学関係の研究所で働いていて、放射能の研究をしていたが、当時、私は彼女の研究について殆ど理解できなかった。 (2)just the time before the idea of the neutrino was first proposed, and at the time when quantum mechanics had just been launched on its conquest of atomic physics. ニュートリノの考えが最初に提案される直前であり、また量子力学が原子物理学の征服へ、ちょうど船出した時であった。 〔出所〕 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.37 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember . Cambridge University Press. p.31 ▼感想:今回、なぜこの文をピックアップしたか。キーワードがあるからだ。カイザー・ヴィルヘルム協会、放射能、ニュートリノ、量子力学、原子物理学。キーワードごとに背景がある。前に少しさらっているのでここでは確認を省く。ただ、ニュートリノが出てきて、それまで原子は原子核と電子からなる、と理解できていたのが崩れて、やっかいな世界が始まってしまう。始まらないと、原子核の中のメンバーはプラスか中性なのに、なぜ反発離散せずに固く結びついているのか、説明がつかない(もっともその説明も理解できないのだけど)。▼放射能の研究に携わった化学者と物理学者の寿命の長短はどこで決まるのだろうか。オットー・ハーンさん、リーゼ・マイトナーさんは89才。マリー・キュリーさんは66才、娘のイレーヌ・

アルケーを知りたい(293) リーゼ・マイトナー/Lise Meitner_その4 オットー・ハーン

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今回の話題(B)フリッシュさんの叔母で物理学者のリーゼ・マイトナーさん ▼フリッシュさんの記述:(1)Through her I met Otto Hahn with whom she had worked for twenty years,リーゼ・マイトナーを通して私は、彼女が20年間ともに働いてきたオットー・ハーンに会った。 (2)a collaboration that later became known to millions, leading as it did to the discovery of uranium fission, with the atomic bomb and atomic energy as the sequel.  マイトナーとハーンの共同研究は、原子爆弾と原子力を帰着点とするウランの核分裂の発見を導いたことで、後に何百万人もの人々に知られるようになる。 〔出所〕 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.36 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember . Cambridge University Press. pp.30-31 ▼感想 :フリッシュさんの記述の(1)は1927年の話、(2)は1938年の話、2つの間には10年余の時間がある。フリッシュさんは、オットー・ハーンさんを好人物と感じさせる表現をしている。この作法はフリッシュさんさんの本に出てくる人物に共通している。エレガントな人物表現だ。見習うべきお作法だ。 オットー・ハーン  Otto Hahn , 1879 - 1938 ドイツの化学者。1944年に「原子核分裂の発見“for his discovery of the fission of heavy nuclei”」によりノーベル化学賞を受賞。 →アルケーを知りたい(233) https://gakuryokuup.blogspot.com/2021/10/233-1944.html

アルケーを知りたい(292) リーゼ・マイトナー/Lise Meitner_その3 マックス・プランク

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今回の話題(B)フリッシュさんの叔母で物理学者のリーゼ・マイトナーさん ▼今回は、フリッシュさん(23)がウィーン大学で博士号を取得した後、1927年に仕事を得てベルリンに出たところ。ベルリンにはすでにベルリン大学で教授になっているリーゼ・マイトナーさん(49)がいる、という場面。 ▼フリッシュさんの記述:(1)Lise Meitner helped me find lodgings:  リーゼ・マイトナーが住まいを探すのを手伝ってくれた。 (2)she lived in a tiny flat and couldn't put me up, but often asked me to dinner.  リーゼ・マイトナーは小さいフラットに住んでいて、私を泊めるのは無理だったが、しばしば夕食に招いてくれた。 〔出所〕 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.36 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember . Cambridge University Press.  p.30 ▼感想:リーゼ・マイトナーさんから見るとフリッシュさんは、博士号を取ったばかりの駆け出し。その甥っ子が仕事を得てベルリンに出てきたので、面倒を見て上げましょう、という叔母の顔を見せている。リーゼ・マイトナーさん自身がベルリンに出たのが29才、それからフリッシュさんがベルリンに来るまで20年が経過している。その間の粗っぽい年表が下記だ。 リーゼ・マイトナー Lise Meitner , 1878 - 1968 1907(29)ベルリンに出て M・プランク 先生(49)に弟子入り。 オットー・ハーンさん(28)と共同研究を開始。 E・フィッシャー さん(55)の許可を得て実験は地下の木工作業所で行う。女性は研究所には立ち入り禁止だった。 1910(32)第1回国際ラジウム学会で マリ・キュリー さん(43)と対面。 1912(34)カイザー・ヴィルヘルム研究所が開設。無給客員研究員。 1913(35)カイザー・ヴィルヘルム研究所の正規研究員。 1914(36)WWI 1915(37)オーストリア軍のX線技師兼看護婦として従事。 1916(38)カイザー・ヴィルヘルム研究所に

アルケーを知りたい(291) リーゼ・マイトナー/Lise Meitner_その2 フランツ・ヨーゼフ1世

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今回の話題(B)フリッシュさんの叔母で物理学者のリーゼ・マイトナーさん ▼フリッシュさんの記述:she was in fact one of the four girls that passed the examination, out of fourteen. 彼女は14人のうちから、合格した4人の少女の一人になった。 〔出所〕 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.3 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember . Cambridge University Press.  p.3 ▼感想:今回はリーゼ・マイトナーさんが2年間猛勉強した結果、見事にウィーン大学に合格したことがわかる一行。下の年表を見たら分かるように入学して6年で博士号を取得した。オーストリア皇帝、 フランツ・ヨーゼフ1世 さんの治世、世紀末ウィーン(1848~1918)の時代だ。 リーゼ・マイトナーさんの年表(前回の続き) Lise Meitner, 1878 - 1968 1901(23)大学入学資格試験に合格、ウィーン大学に入学。 L・ボルツマン 先生(57)の講義に感銘を受ける。 1904(26) ★フリッシュさんが生まれる。 1906(28)ウィーン大学から博士を取得(指導教員は F・エクスナー 先生)。ウィーン大学で 博士になった女性として4 人目。 ★Otto Robert Frisch , 1904年10月1日 - 1979年9月22日 フランツ・ヨーゼフ1世  Franz Joseph I. , 1830年8月18日 - 1916年11月21日  オーストリアの「国父」と敬愛された皇帝。1914年にWWIが始まり2年後に没する。 ルートヴィッヒ・ボルツマン Ludwig Eduard Boltzmann , 1844年2月20日 - 1906年9月5日 哲学を講じる物理学者。高校物理ではボルツマン定数で登場する。 フランツ・エクスナー  Franz Serafin Exner, 1849年3月24日 – 1926年10月15日 オーストリアの物理学者。

アルケーを知りたい(290) リーゼ・マイトナー/Lise Meitner_その1

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今回の話題(B)フリッシュさんの叔母で物理学者のリーゼ・マイトナーさん ▼フリッシュさんの記述:(1)The next child her mother bore (in 1878) was Lise Meitner. 母のすぐ次の妹(1878年生まれ)はリーゼ・マイトナーである。 (2)Early on she became fascinated by physics and determined to study it,  早くから物理学に魅せられて、将来はそれを勉強しようと決心した。 (3)She completed that training - which normally takes eight years in high school - in two years of very intensive work. リーゼは2年間の猛烈な勉強で、普通なら高校8年間かかるそのトレーニング(大学入学資格試験)を済ませてしまった。 〔出所〕 オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.3 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember . Cambridge University Press.  p.3 ▼感想:リーゼ・マイトナーさんは「早くから」物理学を志向していた。女性に閉ざされていた大学の門戸が少し開かれる。時期に恵まれる運の良さがある。男子がギムナジウムで8年かけて学ぶ勉強を2年でやり切る。時期を逃さない集中力がある。成功する要件「運根鈍」を備えていた。 リーゼ・マイトナー  Lise Meitner, 1878 - 1968 1878年、ウィーン生まれ。ユダヤ系の家庭。父は弁護士。8人兄弟。 小学校、高等小学校で学ぶ。この時代、ギムナジウムは女性の入学を認めていなかった。 1892(14)高等小学校を卒業。フランス語教師になり収入を得る。 1897(19)大学入学資格試験に合格すれば女性も大学入学が認められることになる。 1899(21)フランス語教師を辞め、入試勉強を開始。 続きは次回。

アルケーを知りたい(289) モーリス・ウィルクス/Maurice Wilkes

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今回の話題(D)コンピュータのエピソード ▼フリッシュさんの記述:(1)I often wandered across the courtyard to the mathematical laboratory where Maurice Wilkes was directing the construction of one of the first electronic computers in this country, よく私は、自分の部屋からぶらぶらと歩いて中庭を横切り、モーリス・ウィルクスがイギリスで最初の電子計算機の建設を指揮している数学の研究所を見に行った。 (2)I tried to understand how it worked and was thrilled to learn about tricks  that were new to me, such as the use of the same group of valves for storing either a number or an instruction. どうしてこれが動くのか理解しようとしてウィルクスから、いくつかの真空管をグループにして数字や命令の貯蔵庫に使うという、新しいトリックを教わり、ぞくぞくするものを感じた。 ▼この短いエピソード中の「味わいポイント(キーワード)」は・・・ 【イギリスで最初の電子計算機】ここではEDSACのこと。 【数学研究所】1937年5月14日にケンブリッジ大学に設立された研究所。設立当初の目的は、一般的な計算サービスを提供し、大学における計算技術の開発の中心地となること。(Wikipedia) 【真空管】EDSACは3000本使用。 【貯蔵庫】EDSACの主記憶装置は「水銀遅延管」を使用。 【命令】EDSACは18個。 ▼儂の感想: 何をするにもお金がいる 。EDSACの開発資金は英国大手の食品会社J. Lyons & Co. Ltd. 社が出した。資金を出す目的は、EDSACの開発スピードを加速し、自社がいち早く英国のコンピュータ市場に進出するため。目論見通り、同社は1951年にEDSACをコピーした商用コンピュータLEO(Lyons Electronic Office)Iを売り出し市場で成功を収める。その後、リヨンズ社は195

アルケーを知りたい(288) フォン・ノイマン/John von Neumann_その2

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今回の話題(D)コンピュータのエピソード ▼フリッシュさんは、フォン・ノイマンさんと1949年(推定)にロンドン行きの汽車の中で再会する。フリッシュさんは、ケンブリッジ大学のモーリス・ウィルクスさんが製作したコンピュータEDSACにしびれていたので、さっそくノイマンさんにその話を始める。するとノイマンさんは・・・ ▼ノイマンさんの反応:He cut me short: ' Listen, Otto, those tricks are all known. The EDSAC has one advantage: it works! ' (しかし、ノイマンはすぐに私を遮って「いいかい、オットー、そのトリックは誰だって知っているよ。でも、確かに、EDSACはひとつ優れた点がある。あれは本当に動くんだ」と言った) ▼フリッシュさんの感想: I was a bit deflated but also cheered to hear from the master that we were not doing so badly in Cambridge. (私は少し意気消沈したが、一方で、ケンブリッジで私たちのやっていることはそれほど間違っていないと、創造主から直接聞くことができ、元気も出た) ▼この短いエピソード中の「味わいポイント(キーワード)」は・・・ 【1949年】EDSACが初稼働の年。 【EDSAC】 E lectronic D igital S equential(あるいはDelay Storage) A utomatic C alculator。M・ウィルクスさんとケンブリッジ大学数学研究所のメンバーが開発した電子計算機の名前。出資者はJ. Lyons & Co. Ltd. 同社はEDSACのデザインに基づいた初の商用コンピュータ LEO I を開発。(Wikipedia) 【モーリス・ウィルクス】Maurice Wilkes, 1913-2010 ケンブリッジ大学数学研究所の所長。 【ケンブリッジ大学】フリッシュさんは1947年からジャクソニアン教授職に就く。 味わいポイントを見ていくのもこれからの楽しみだ。 ▼儂の感想:2人が汽車で再会した1949年、ノイマンさんはプリンストンでIASマシンを建設中だった。動くコンピュータを作るのが

アルケーを知りたい(287) フォン・ノイマン/John von Neumann

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今回の話題は(D)コンピュータのエピソード ▼フリッシュさんは、フォン・ノイマンさん(a)と1945年にマンハッタン計画の拠点であるロスアラモスで初めて会う。フリッシュさんは1才年上のノイマンさんに「歯車ではなく真空管を使った計算機はできないもんですか?」と聞く。ノイマンさんは、夕方5時から深夜まで、途中ビアホールで喉を潤しながら懇切丁寧に説明する。 ▼フリッシュさんの感想:(1) I felt I really understood the new world of electronic computers. (電子計算機の新しい世界を本当に理解できたように感じられた) (2) I feel that I have been privileged in having been initiated so marvellously by the Master himself.(創造主自身からこのように素晴らしい手ほどきを受けたことは特別の恩恵であったと感じている) ▼フリッシュさんはノイマンさんのことを the spiritual father of electornic computers (電子計算機の精神的な父)と表現している。 〔出所〕オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店、2003。pp.215-216 Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press.  p.173 (a) John von Neumann , 1903年12月28日 - 1957年2月8日  1903年、ハンガリーの首都ブダペスト生まれ。ユダヤ人。 1914(11)WWI。ブダペストのギムナジウムで E・ウィグナーさん (b)と友達。 1926(23)ブダペスト大学はじめ3大学で博士(数学、物理、化学)。 1930(27)ナチスから逃れ一家で渡米。IAS(プリンストン高等研究所)で所員。 1933(30)IASで終身教授(数学)。爆発物の専門家としてアメリカ軍のコンサル。 1937(34)アメリカ市民になる。 1939(36)WWII。 1941(38) V・ブッシュさん (c)が議長を務める国防研究協議会(NDRC)の顧問(後

アルケーを知りたい(286) オットー・フリッシュ/Otto Robert Frisch

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【今日から始める新シリーズの趣旨説明】 ▼オットー・フリッシュさんの著作「何と少ししか覚えていないことだろう」(松田文夫訳、吉岡書店、2003)に出てくる人物のうちの77名は、2020年12月8日から2021年3月11日にかけてブログにした。メチャ面白かった。 ▼その後、オリジナルの " What little I remember " (Cambridge University Press, 1979) を入手。松田さんの訳と照らして読むと、Frischさんが人を描くときの言葉と訳し方が味わい深い。著者の人柄が現れた文章と翻訳が良い具合に調和している。 ▼この本が触れている話題は、 (A)物理学。Frischさんは、古典力学と量子力学が重なる時期の物理学者だ。しかも、話題が高校物理の「原子と原子核」と重なっている。原子の姿が解明される過程を追う楽しみがある。 (B)叔母で物理学者のリーゼ・マイトナーさん。Lise Meitnerさんの人間関係や同時代人を通してWWIとWWIIを知る興奮がある。 (C)マンハッタン計画。アメリカがWWIIとその後の覇権を握る計画。軍、大学、故国を追われた物理学者たちが結集したプロジェクト。アメリカの軍学産体制を知れて興味深い。 (D)コンピュータ。フリッシュさんは計算機に興味がある人なので、フォン・ノイマンさんと直接話をしている。コンピュータは、アルケーを知りたいという方向とは逆に位置するように思う。でも超優秀な人が能力を発揮しているので見逃せない。 ▼というわけでこのシリーズでは、4つの話題をぶらぶら散歩します。 Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日 Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日 大学入試の後なのでやつれた面持ち。

アルケーを知りたい(285) ノーベル物理学賞 2021年 真鍋淑郎さん

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▼2021年のノーベル物理学賞の受賞者は日本生まれの物理学者、真鍋淑郎さん(90)。 受賞理由は、「地球気候の物理的モデリング、気候変動の定量化、地球温暖化の確実な予測」。

アルケーを知りたい(284) ノーベル化学賞 2019年 吉野彰さん

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▼2019年のノーベル化学賞の受賞者は日本の化学者、吉野彰さん(71)。 受賞理由は、「リチウムイオン二次電池の開発」。

アルケーを知りたい(283) ノーベル化学賞 2010年 鈴木章さん

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▼2010年のノーベル化学賞の受賞者は日本の化学者、鈴木章さん(80)。 受賞理由は、「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」。

アルケーを知りたい(282) ノーベル化学賞 2010年 根岸英一さん

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▼2010年のノーベル化学賞の受賞者は日本生まれの化学者、根岸英一さん(75)。 受賞理由は、「有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング」。

アルケーを知りたい(281) ノーベル化学賞 2008年 下村脩さん

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▼2008年のノーベル化学賞の受賞者は日本の化学者、下村脩さん(80)。 受賞理由は、「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と開発」。

アルケーを知りたい(280) ノーベル化学賞 2002年 田中耕一さん

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▼2002年のノーベル化学賞の受賞者は日本の化学者、田中耕一さん(43)。 受賞理由は、「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」。

アルケーを知りたい(279) ノーベル化学賞 2001年 野依良治さん

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▼2001年のノーベル化学賞の受賞者は日本の化学者、野依良治さん(63)。 受賞理由は、「キラル触媒による不斉反応の研究」。

アルケーを知りたい(278) ノーベル化学賞 2000年 白川英樹さん

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▼2000年のノーベル化学賞の受賞者は日本の化学者、白川英樹さん(64)。受賞理由は、「導電性高分子の発見と発展」。

アルケーを知りたい(277) ノーベル化学賞 1981年 福井謙一さん

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▼1981年のノーベル化学賞の受賞者は日本の化学者、福井謙一さん(63)。受賞理由は、「化学反応過程の理論的研究」。

アルケーを知りたい(276) ノーベル物理学賞 2015年 梶田隆章さん

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▼2015年のノーベル物理学賞の受賞者は日本生の物理者、梶田隆章さん(56)。受賞理由は、「ニュートリノに質量があることを示すニュートリノ振動の発見」。

アルケーを知りたい(275) ノーベル物理学賞 2014年 中村修二さん

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▼2014年のノーベル物理学賞の受賞者は日本生まれの物理者、中村修二さん(60)。受賞理由は、「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」。

アルケーを知りたい(274) ノーベル物理学賞 2014年 天野浩さん

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▼2014年のノーベル物理学賞の受賞者は日本の物理者、天野浩さん(54)。受賞理由は、「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」。

アルケーを知りたい(273) ノーベル物理学賞 2014年 赤崎勇さん

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▼2014年のノーベル物理学賞の受賞者は日本の物理者、赤崎勇さん(85)。受賞理由は、「高輝度で省電力の白色光源を可能にした青色発光ダイオードの発明」。

アルケーを知りたい(272) ノーベル物理学賞 2008年 益川敏英さん

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▼2008年のノーベル物理学賞の受賞者は日本の物理者、益川敏英さん(68)。受賞理由は、「クォークが自然界に少なくとも三世代以上ある事を予言する、CP対称性の破れの起源の発見」。

アルケーを知りたい(271) ノーベル物理学賞 2008年 小林誠さん

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▼2008年のノーベル物理学賞の受賞者は日本の物理者、小林誠さん(64)。受賞理由は、「クォークが自然界に少なくとも三世代以上ある事を予言する、CP対称性の破れの起源の発見」。