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アルケーを知りたい(143) p型半導体 P-type semiconductor

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▼p型半導体。P-type semiconductor、あるいはpositive semiconductor。  ▼ゲルマニウムGeなど4価の元素にホウ素Asなど3価の元素をドープして作る半導体。  ▲クレメンス・ヴィンクラー  Clemens Winklerさん。ゲルマニウムGeを発見・命名したドイツの化学者。1838年、ドイツのフライベルク生まれ。工業専門学校、父のコバルト顔料製造工場で鉱物分析を学ぶ。フライベルク鉱山大学卒業。1873(35才)フライベルク鉱山大学で教授(分析、工業化学)。1875(37才)接触法による発煙硫酸の製造法を発表。1886年(48才) Geを発見。1904年(66才) ドレスデンで死去。 ▲ゲイ=リュサック  Gay-Lussacさん。ホウ素の単離に成功した化学者。1778年、フランス中部の都市リモージュ生まれ。家庭で教育を受ける。1797年(19才) パリのエコール・ポリテクニーク(国立理工科学校)入学。1802年(24才) エコール・ポリテクニークで助手(化学)。ゲイ=リュサックの法則(気体の体積が温度上昇に比例して膨張する法則)を発表。シャルルの発見が先行していたのでシャルルの法則と呼ばれる。1804年(26才) ジャン=バティスト・ビオと熱気球で高度6400mまで上り大気調査を実施。1808年(30才) ソルボンヌ大学で教授(物理学、1832年まで)。ルイ・テナールと共同でホウ素の単離に成功。1809年(31才) エコール・ポリテクニークで教授(化学)。1850年(72才) パリで死去。

アルケーを知りたい(142) n型半導体 N-type semiconductor

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▼n型半導体。N-type semiconductor、あるいはnegative semiconductor。 ▼シリコンSiやゲルマニウムGeなど4価の元素にヒ素AsやリンPなど5価の元素をドープして作る半導体。 ▲アントワーヌ=ローラン・ド・ラボアジェ Antoine-Laurent de Lavoisier さん。化学史上、最初にシリコンに着目し命名した化学者。化学実験は趣味、税金の徴収が仕事、と割り切って生活した人。1743年、パリ生まれ。1754年(11才) マザラン学校に入学。化学、植物学、天文学、数学を学ぶ。1763年(20才) パリ大学法学部で学士号を取得。1764年(21才) 弁護士試験に合格、高等法院法学士になる。1768年(25才) 徴税請負人となる。1771年(28才) 徴税請負人長官ジャック・ポールズの娘マリー・ポールズさんと結婚。マリーさんは英語・ラテン語・イタリア語・化学・絵画の描き方を習得して夫の研究を応援。1774年(31才) 化学反応の前後で質量が変わらない「質量保存の法則」を発見。1777年(34才) 硫黄Sの単離に成功。英語のsulfurはラテン語の硫黄sulpurに由来。1779年(36才) 燃焼を助ける気体に「酸素」と命名。1787年(36才) シリコン(4価の元素)を発見、命名。1789年(46才) フランス革命。バスティーユ襲撃事件が発生。1793年(50才) 革命政府から徴税請負人の娘と結婚していたことなどを理由に投獄。1794年(51才) 科学に敵愾心を持つ革命政府の裁判官によってギロチンで処刑。妻マリーの父ジャック・ポールズも一緒にギロチン処刑。 ▲アルベルトゥス・マグヌス Albertus Magnus さん。ヒ素を発見した神学者。ドイツのキリスト教神学者。普遍博士doctor universalis。『神学大全』の著者トマス・アクィナスの師匠。1200年、ドイツ生まれ。パドヴァ大学で哲学、自然科学、医学を学ぶ。1230年(30才) ドミニコ会会員。1250年(50才) 著作でヒ素(5価の元素)について言及。発見者とされる。1254年(54才) ドミニコ会のドイツ管区長。1280年(80才) 死去。

アルケーを知りたい(141) 半導体 semiconductor

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▼半導体。価電子帯で満たされた生活をしていた電子が、熱に触発されると励起して伝導帯に場所を変え、そこから電気伝導者とした旅立つ。ドラマだ。 ▼半導体研究の祖の3熱電現象。 ▼2種類の金属ワイヤで結ばれた回路に熱を加えることによって電流が流れる現象を熱電現象という。この現象の発見者がドイツの物理学者トーマス・ゼーベックさん。 ▼ゼーベックさんの現象の反対(金属を2つの点で接合し電流を流すと片方が温まり、片方が冷える)の熱電現象の発見者がフランスの物理学者ジャン=シャルル・ベルチェさん。 ▼一つの金属上で温度の差がある2点間に電流を流すと、熱を吸収したり発生したりする現象の発見者がイギリスの物理学者ケルビン卿(ウィリアム・トムソンさん)。 ▲Thomas Seebeckさん。1770年、エストニア生まれの医師・物理学者。ギムナジウムを卒業。ベルリン大学とゲッティンゲン大学で医学を学ぶ。1802年(32才) ゲッティンゲン大学で博士(医学)1808年(38才) カリウムの合金化に世界で初めて成功。1810年(40才) 光スペクトルの研究。ゲーテと色の理論を共同研究。ニッケルとコバルトの磁気特性を研究。1814年(44才) ベルリン・アカデミー会員。1818年(48才) 砂糖水の光学活性を発見。1821年(51才) ゼーベック効果(熱電効果)を発見。異なる2種類の金属を結ぶ回路で、金属に温度差をつけると電位差(電圧)が生る現象。回路に電流が流れ磁場も発生する。1831年(61才) ベルリンで死去。

アルケーを知りたい(140) 化学結合 chemical bond

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▼化学結合。3タイプの結合を見た。 ▲Linus Paulingさん。アメリカの量子化学者、平和活動家。1901年、オレゴン州ポートランド生まれ。1910年(9才) 父が死去。1917年(16才) オレゴン州立大学に入学。1922年(21才) オレゴン州立大学で学士(化学工学)。カリフォルニア工科大学に進学。1925年(24才) カリフォルニア工科大学で博士(物理化学と数理物理学)。1927年(26才) カリフォルニア工科大学で助教(理論化学)。1930年(29才) カリフォルニア工科大学で教授(理論化学)。1932年(31才) 原子軌道の混成の概念で4価の炭素原子の電子構造を説明する論文を発表。1939年(38才) 『化学結合の本性 The Nature of the Chemical Bond』を発表。WWII1945年(44才) WWII終戦。1954年(53才) ノーベル化学賞受賞(化学結合の本性、ならびに複雑な分子の構造研究)1962年(61才) ノーベル平和賞受賞(核兵器に対する反対運動)1994年(93才) カリフォルニア州ビッグサーで死去。

アルケーを知りたい(139) 基底状態 ground state

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▼基底状態。電子が落ち着いている状態。英語だとground state。地に足のついた状態。 ▼励起状態。電子が外からのエネルギーで活性化した状態。英語だとExcited state。エキサイトした状態。興奮している状態だから、やがて落ち着くんだろうな、という語感。 ▲Enrico Fermiさん イタリア生まれの原子物理学者。1901年、ローマ生まれ。父は公務員、母は教師。 1914年(13才) WWI。1918年(17才) WWI終戦。1922年(21才) ピサ大学で博士(物理学)。1926年(25才) 「フェルミ統計(電子の振る舞いにパウリさんの排他原理を導入した統計力学)」を発表。ローマ・ラ・サピエンツァ大学で新設教授。ラゼッティさんと研究チームを組成。1928年(27才) ユダヤ人女性と結婚。「フェルミのベータ崩壊の理論」を完成。自然の元素に中性子を照射し人工放射性同位元素を生成。1938年(37才) ファシスト政権によるユダヤ人排斥が始まる。ノーベル物理学賞(中性子衝撃による新放射性元素の発見と熱中性子による原子核反応の発見)。受賞式の後アメリカに脱出。1939年(38才) WWII。コロンビア大学で教授(物理学)。1942年(41才) シカゴ大学で世界初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させ、核分裂の連鎖反応の制御に成功。マンハッタン計画に参加。1944年(43才) ロスアラモス国立研究所でアドバイザー。1945年(44才) WWII終戦。水素爆弾には反対の立場。シカゴ大学で教授。1954年(53才) マックス・プランク・メダル受賞。シカゴで死去。

アルケーを知りたい(138)電子の軌道 electron orbital

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 ▼電子軌道。原子核の周りを電子が円運動する、という古典力学視点のモデルが、研究が進むにつれて、量子力学視点のモデルに移り変わる。 ▼英語では、古典力学時代は軌道をorbitと言う。量子力学時代になると「軌道のような」orbitalに変化する。日本語はどちらも軌道。用語から来るイメージが更新されていないのも量子力学の分かりにくさの一つ。 ▲アルノルト・ゾンマーフェルト Arnold Sommerfeld さん。ドイツの物理学者。学者としても教育者としても超一流の人物。1868年、ケーニヒスベルク(現、ロシア西部のカリーニングラード)生まれ。1891年(23才)ケーニヒスベルクにあるアルベルティーナ大学でPh.D. 1895年(27才)ゴッチンゲン大学で教授資格を取得。1906年(38才)ミュンヘン大学で教授(物理学)。1914年(46才)WWI。量子力学の開祖の一人になる。1916年(48才)ボーア=ゾンマーフェルトの量子化条件を提唱。1918年(50才)WWI終戦。1921年(53才)パウリさんの博士号取得の指導教員。1923年(55才)ハイゼンベルクさんの博士号取得の指導教員。1928年(60才)世界旅行に出て日本にも立ち寄る。1939年(71才)WWII。1945年(77才)WWII終戦。1951年(83才)ミュンヘンで死去。

アルケーを知りたい(137) ボーアの原子モデル Bohr's model

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▼ボーアの原子モデル。ラザフォードさんの原子モデルの改良版。アメリカ原子力委員会のロゴマークがラザフォードさんのモデルを使い続けるのはなぜだろう。正確ではないにしろ間違ってはいないから、じゃないか。 ▼アメリカ原子力委員会のロゴマークは原子の姿をイメージしやすい。古典力学の到達点。ボーアさんのモデルから量子力学が始まり、直感的な分かりやすさがなくなってしまった。 ▲ハラルト・ボーア Harald Bohr さん。数学者。ニールス・ボーアさんの2才違いの弟。1887年、デンマークのコペンハーゲン生まれ。1903年(16才) サッカー選手としてデビュー。1904年(17才) コペンハーゲン大学入学、数学を学ぶ。1909年(22才) コペンハーゲン大学で修士。1908年(21才) ロンドンオリンピックにデンマークのサッカーチームのメンバーとして出場、銀メダルを獲得。このとき兄のニールスさんもサッカー選手として控えの要員で参加。1910年(23才) コペンハーゲン大学で博士。聴衆にサッカーファンが多数。1915年(28才) デンマーク工科大学で教授。1930年(43才) コペンハーゲン大学で教授(1951年まで)。スタンフォード大学で客員教授。1948年(61才) プリンストン高等研究所で客員研究員。1951年(64才) コペンハーゲンで死去。

アルケーを知りたい(136) 量子条件 quantum condition

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▼量子条件。ラザフォードさんの原子モデルでは説明できない問題を解決するためにニールス・ボーアさんが考えたもの。 ▲Niels Bohrさん。デンマークの理論物理学者。量子物理学の育ての親。

アルケーを知りたい(135) リュードベリの式 Rydberg formula

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▼リュードベリの式。水素原子から出る光の波長に規則性があることを示す式。リュードベリさんはオングストロームさんが残したスペクトル線の波長データに基づいて式を見出した。 ▲Johannes Rydbergさん。1854年、スウェーデンのハルムスタード生まれ。ルンド大学で数学を学んだ後、ルンド大学で講師(数学)。1882年(28才)ルンド大学で講師(物理学)。1890年(36才)励起された原子のスペクトルの波長が整数の組み合わせの式で表されることを示す。1901年(47才)ルンド大学で教授(1919年まで)。1919年(65才)ルンドで死去。 ▲Anders Ångströmさん。 1814年、スウェーデンのメーデルパッド地方生まれ。1839年(25才)ウプサラ大学で docent 学位(物理学)。ストックホルム天文台で研究。1842年(28才)ウプサラ天文台で職員。1853年(39才)放電管の光をスペクトル分析し、電極の金属と放電管内のガスによると発表。1858年(44才)ウプサラ大学で教授(物理学)。1861年(47才)太陽スペクトルを分光器と写真で分析。1862年(48才)太陽の大気に水素が含まれると発表。1867年(53才)オーロラの光を分析、太陽の光と異なるスペクトルをもつと発表。1868年(54才)太陽スペクトル地図を公開。1874年(60才)ウプサラで死去。

アルケーを知りたい(134) ラザフォードの原子モデル Rutherford model

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▼ラザフォードの原子モデル。原子の形をイメージするとき思い浮かぶモデルだ。 ▼ラザフォードさんは、師匠のJJトムソンさんのモデルの正確性を確認するために助手のガイガーさんと学生のマースデンに実験させたと思っていた。しかし、調べて見ると、違っていた。α粒子の挙動を正確に把握するための実験だった。その過程で原子モデルの更新になった。 ▼理論を作る。理論を確認するための装置を自前で作る。ここがすごい。 ▲Ernest Rutherfordさん。

アルケーを知りたい(133) ブドウパンモデル plum pudding model

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▼ブドウパンモデルは、J.J.トムソンさんが提唱した原子モデルの日本語名。英語名はプラムプディングモデル。この名称に相応しいのはトムソンさんがモデルにしたケルビン卿が提唱した原子モデルのほう。トムソンさんはプリン状になった陽電子の中を電子がランダム存在するとは考えていなかった。電子は同心円状の軌道の上を回るとしていた。平尾物理のp.646の図はそのとおりのもの。 ▲Joseph John Thomsonさん。

アルケーを知りたい(132) ラザフォード散乱 Rutherford scattering

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▼ラザフォード散乱。ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所とマンチェスター大学で行われた師弟の研究が鍵。 ▲Hans Geigerさん。ドイツの物理学者。1882年、ドイツ生まれ。父はエアランゲン大学の教授(インド学)。1902年(20才) エアランゲン大学で物理学と数学を学ぶ。1906年(24才) エアランゲン大学で博士。ラザフォード先生と出会う。1907年(25才) マンチェスター大学でラザフォード先生の助手。1908年(26才) ラザフォード先生と電極を封入したガラス管でアルファ粒子のカウンターを制作。論文『物体によるアルファ粒子の散乱について』発表。1909年(27才) ガイガー・マースデン実験(1913年まで)。論文 『アルファ粒子の拡散反射について』を発表。1910年(28才) 論文『物質によるアルファ粒子の散乱』を発表。1911年(29才) ガイガー・ヌッタルの法則を発表。ラザフォード先生が論文『α および β 粒子の物質による散乱と原子の構造』を発表。1912年(30才) ベルリンの連邦物理工学研究所でリーダー。1913年(31才) マースデンと論文『大きな角度でのアルファ粒子の偏向の法則』を発表。1925年(43才) クリスティアン・アルブレヒト大学キールで教授。1928年(46才) ヴァルター・ミュラーとガイガー=ミュラー計数管を開発。1929年(47才) ヒューズ・メダルを受賞。1945年(63才) ポツダムで死去。 ▲Ernest Marsdenさん。イギリス出身、ニュージーランドの物理学者。1889年、マンチェスター生まれ。1908年(19才) マンチェスター大学でラザフォード先生と出会う。助手のハンス・ガイガーと実験を手伝う。1909年(20才) ガイガーマースデン実験(1913年まで)。1915年(26才) ラザフォード先の推薦でニュージーランドのウェリントン大学で教授(物理学)。1918年(29才) WWI中、フランスで従軍、武功十字章を授与。WWI終戦。1922年(33才) ニュージーランド教育省で教育局次長。1926年(37才) 科学産業研究省を新設。1939年(50才) WWII。レーダーの開発に従事。1947年(58才) ニュージーランド王立協会会長。ニュージーランドの科学連絡担当官としてロンドン赴任。1954年(65才)

アルケーを知りたい(131) 原子モデル atomic model #2

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▼原子モデルの歩みの続き。原子ってこんな形じゃないか?という提案が出ては、説明できない点が浮上しては次の新しいモデルが登場する、という繰り返しが続く。 ▲1913年のボーアさんの原子モデルで決着がつけば世界は分かりやすかったのに・・・。古典力学で説明がつかず量子力学が出てくる。フロンティアが開拓されたのは良いんだけど、分かりにくい世界が始まる。 ▲Jean Perrinさん。 1870年、フランスのノール県リール生まれ。パリの高等師範学校で学んだ後、パリ大学で講師(物理学)。1890年(20才) 陰極線の研究。1901年(31才) 核-惑星モデルをソルボンヌ大学の講義で発表。1908年(38才) ブラウン運動の精密な実験で分子理論を実証。1910年(40才) 高等師範学校で教授(1940年まで)。1913年(43才) 著書『原子』を出版。1926年(56才) ノーベル物理学賞受賞(物質の不連続的構造に関する研究、特に沈殿平衡についての発見)。1936年(66才) 科学研究担当国務次官。1939年(69才) WWII。アメリカに逃れる。1942年(72才) ニューヨークで死去。 ▲長岡 半太郎さん。1865年、長崎県大村市生まれ。父は大村藩藩士長岡治三郎。大村藩藩校五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学ぶ。1874年(9才) 本郷区湯島小学校入学。東京英語学校(東京大学予備門)進学。大阪英語学校(大阪専門学校)に転校、東京大学予備門に再入学。1882年(17才) 東京大学理学部に進学。1887年(22才) 東京大学大学院に進学。1890年(25才) 東京大学助教授。1893年(28才) ドイツ留学、ルートヴィッヒ・ボルツマン先生のもとで学ぶ(1896年まで)。1896年(31才) 東京大学教授。1904年(39才) 土星型の原子モデルを発表。1926年(61才) 東京大学を定年退職。1931年(66才) 初代大阪帝国大学総長(1934年まで)。1939年(74才) ノーベル委員会に湯川秀樹さんを推薦(1949年に受賞)。1950年(85才) 文京区西片町の自宅で死去。

アルケーを知りたい(130) 原子モデル atomic model

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▼原子モデルの話。アルケーを追求する活動の大きな道しるべ。 ▲John Daltonさん。原子説を提唱したイギリスの化学者、物理学者、気象学者。 ▲Johann Hittorfさん。プリュカーさん、ガイスラーと真空放電管を作り陰極線を研究したドイツの物理学者、化学者。 ▼Svante Arrheniusさん。電解質溶液理論の研究で1903年にノーベル化学賞を受賞したスウェーデンの科学者。

アルケーを知りたい(129) 熱放射 thermal radiation

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▼熱放射。熱放射で物質から電磁波が出てくる、という不思議。 ▲Michael Faradayさん。 ▲Hans Ørstedさん。

アルケーを知りたい(128) 電磁波の性質 Characteristics

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▼電磁波の性質を少々。ヘルツさん発見した電磁波の実用を20代のマルコーニさんが行った。 ▲Guglielmo Marconi  1874-1937  1874年、ボローニャ生まれ。父は裕福な地主。教育は家庭教師。1888年(14才)ヘルツさんが電磁波を発見。1891年(17才)母親の手配でヘルツさんの研究家、家庭教師ヴィンツェンツォ・ローザの指導で物理学と電気工学を学び実験を行う。1892年(18才)マルコーニ家の隣人でヘルツさんの研究家ボローニャ大学教授アウグスト・リーギさんの支援を受け無線電信の実用化に取り組む。1895年(21才)1.5kmの無線電信に成功。1896年(22才)ロンドンで無線電信開発のスポンサーを探し。パラボラ反射鏡アンテナでデモ。波長30cm(周波数1GHz)。知名度が高まる。1897年(23才)陸上と海上で6kmの無線電信に成功。続いて16kmでも成功。1899年(25才)国際ヨットレース・アメリカスカップの状況を無線で伝えアメリカでも知名度を上げる。1900年(26才)有線の電信網が普及していたので、無線通信のサービス対象を船舶無線に絞る。マルコーニ国際海洋通信会社設立。波長120m(2.5MHz)1901年(27才)3500kmの無線電信に成功。1909年(35才)ノーベル物理学賞を受賞(無線通信の研究)1912年(38才)タイタニック号沈没。1937年(63才)ローマで死去。

アルケーを知りたい(127) 電磁波の基本特性 Basic characteristics

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▼電磁波の基本特性、ということで不思議な性質をいくつか確認した。 ▲James Maxwellさん。

アルケーを知りたい(126) 電磁波 electromagnetic wave

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▼電場と磁場の基本法則。 ▲Heinrich Hertzさん。

アルケーを知りたい(125) ベータトロン betatron

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▼ベータトロン。サイクロトロン、シンクロトロンに続く加速器の三つ目。 ▲Rolf Widerøe(ロルフ・ヴィデロ)さん。1902–1996 ノルウェーの物理学者。1902年、ノルウェーのオスロ生まれ。1920年(18才) ドイツのカールスルーエに留学。電子を加速する電磁誘導の概念を得る。1925年(23才) ドイツに戻る。アーヘン工科大学で学ぶ。1927年(25才) ベータトロン加速器の論文を提出。1928年(26才) 先駆的な高エネルギー粒子加速器のアイデアを発表。1932年(30才) ヒトラーが政権を把握したためノルウェーに戻る。1939年(37才) WWII。1941年(39才) レジスタンスの弟がナチスに逮捕。身柄の安全確保のためナチスのベータトロン製造に協力。1945年(43才) WWII終戦。1946年(44才) スイスに移住。加速器の特許の申請を開始。1996年(94才) スイスで死去。 ▲Donald Kerstさん。

アルケーを知りたい(124) シンクロトロン synchrotron

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▼シンクロトロン。サイクロトロンとは荷電粒子の加速の方法が違う。 ▲Edwin McMillanさん。

アルケーを知りたい(123) サイクロトロン Cyclotron

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▼サイクロトロン。荷電粒子を加速する円形加速器。Dの形をした電極を少し離して向かい合わせ荷電粒子をスパイラルに回転させて勢いをつける方法。 ▲Ernest Lawrenceさん。ローレンスさんのサイクロトロンが登場した後、物理学の研究スタイルが変わる。資金、人的・設備的規模がビッグになった。 ▲ミルトン・リビングストン Milton Livingstonさん。もう一人のサイクロトロン建設のパイオニア。◆オットー・フリッシュさんの自伝「何と少ししか覚えていないことだろう」で「全ては1930年代初めに、カリフォルニアのバークレーで、アーネスト・O・ローレンスとM・スタンレー・リビングストンが発明したサイクロトロンの建設から始まった」(p.228)と紹介されている。◆「ローレンスとリビングストンの基本的な考えは、粒子を超高電圧により一回で強く加速するのではなく、小さい加速を数多く繰り返すことであった」(p.228)とリビングストンさんの貢献を紹介している。◆1905年、ウィスコンシン州生まれ。父は高校の教師。1931年(26才) カリフォルニア大学バークレー校でPhD(指導教員はローレンス先生)。1932年(27才) 27インチ(69cm)のサイクロトロン建設に着手。WWIで使用して廃棄物になっていた80トンの磁石を使用。1934年(29才) 10本以上の論文を提出。ローレンスさんから独立するためコーネル大学で助教授。1938年(33才) MITで42インチのサイクロトロン建設に協力。1939年(34才) WWII。ローレンス先生がノーベル物理学賞を受賞。1940年(35才) MITで准教授。MITのサイクロトロンが完成。1945年(40才) WWII終戦。1967年(62才) フェルミ国立加速器研究所で副所長。大型粒子加速器テバトロン建造を計画。1986年(81才) サンタフェで死去。