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柿本人麻呂の万葉集223-225番歌~アルケーを知りたい(1177)

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▼死に臨む人麻呂が妻を気にかける歌。夫の帰りを待つものの会えないままの妻の歌。  柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首 鴨山の岩根しまける我れをかも 知らにと妹が待ちつつあるらむ  万223 *鴨山の岩の間で行き倒れている私のことを知らずに妻は私を待っているのだろう。  柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子が作る歌二首 今日今日と我が待つ君は石川の狭に <一には「谷に」といふ>  交りてありといはずやも  万224 *お帰りは今日か、今日か、と私がお待ちしているあなた様は、石川の谷に迷い込んでいらっしゃるというではありませんか。 直に逢はば逢ひかつましじ石川に 雲立ち渡れ見つつ偲はむ  万225 *直に逢いたいと思っても逢えるものではありません。石川に雲が立ちましたら、それを見て偲びます。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 蘇我 馬子  そが の うまこ 551 - 626 飛鳥時代の政治家、貴族。蘇我蝦夷の父親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集220-222番歌~アルケーを知りたい(1176)

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▼今回は、讃岐の海岸の岩場に横たわっている死人を見て人麻呂が作った歌。 ▼人麻呂はその人を見て「 家知らば 行きても告げむ  妻知らば来も問はましを (その人の家が分かれば行って知らせるものを、妻が知ったらかけつけて言葉をかけるものを)」と思い、その人に妻がいれば、妻は 「 おほほしく待ちか恋ふらむ  はしき妻らは (消息が分からないまま待ち焦がれているのだろう)」と思う。  讃岐の狭岑の嶋にして、石中の死人を見て、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ 神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ 神の御面と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば 白波騒ぐ 鯨魚取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 佐岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ はしき妻らは  万220  反歌二首 妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山 野の上のうはぎ過ぎにけらずや  万221 *妻がいてくれたら一緒に摘んで食べただろうに。沙弥の山の野草(嫁菜)は盛りが過ぎてしまった。 沖つ波来寄る荒磯を敷栲の 枕とまきて寝せる君かも  万222 *沖から波が寄せる荒磯を枕に寝ている人が見える。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 推古天皇  すいこてんのう 554 - 628推古天皇36年4月15日 第33代天皇。日本初の女帝。父親は欽明天皇。敏達天皇の妻。皇太子は厩戸皇子。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t

柿本人麻呂の万葉集217-219番歌~アルケーを知りたい(1175)

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▼表題に出てくる采女 (うねめ) とは、朝廷で、天皇や皇后の身の回りのサービスを担当した お側付きの 女官。容姿端麗・聡明などの条件をクリアした女性の役職名。 ▼長歌に「 時にあらず過ぎにし子 」という表現がある。 吉備津の死因が 自殺だったことを伝える。  吉備津采女 (きびつのうのめ) が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 秋山の したへる妹 なよ竹の とをよる子らは いかさまに 思ひ居れか 栲繩の 長き命を 露こそば 夕に立ちて 朝は 失すといへ 梓弓 音聞く我れも おほに見し こと悔しきを 敷栲の 手枕まきて 剣太刀 身に添へ寝けむ 若草の その夫の子は 寂しみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ふらむ 時にあらず   過ぎにし子 らが 朝露のごと 夕霧のごと 万217  短歌二首 楽浪の志賀津の子らが <一には「志賀の津の子が」といふ>   罷り道の川瀬の道を見れば寂しも  万218 *楽浪の志賀津の娘子らがこの世を去っていった道、川瀬の道を見ると寂しくて仕方がない。 そら数ふ大津の子が逢ひし日に おほ見しくは今ぞ悔しき  万219 *大津の娘子と逢った日に、私はそのお姿をぼんやりと見るだけだったことが今になってみると残念だ。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 蘇我 蝦夷  そが の えみし 586年 - 645 飛鳥時代の政治家・貴族。蘇我馬子の子。入鹿の父親。乙巳の変で自害。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集213-216番歌~アルケーを知りたい(1174)

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▼今回の挽歌は、前回210-212番の元歌。同じ言い回しがある 。印象的なのは 「 我妹子が形見に置けるみどり子の 乞ひ泣くごとに取り委する (210番では 与ふる ) 物しなければ 男じもの脇ばさみ持ち 」の句。泣く子を抱えて右往左往している様子が悲しい。  或る本の歌に曰はく うつそみと 思ひし時に  たづさはり  我がふたり見し  出立の 百枝槻の木  こちごちに 枝させるごと  春の葉の 茂きがごとく  思へりし 妹にはあれど  頼めりし 妹にはあれど  世間を 背きしえねば  かぎるひの 燃ゆる荒野に  白栲の 天領巾隠り  鳥じもの 朝立ちい行きて  入日なす 隠りにしかば  我が妹子が 形見に置ける  みどり子の 乞ひ泣くごとに  取り委する 物しなければ  男じもの 脇ばさみ持ち   我妹子と 二人我が寝し  枕付く 妻屋のうちに  昼は  うらさび暮らし  夜は  息づき明かし  嘆けども  為むすべ知らに  恋ふれども  逢ふよしをなみ  大鳥の  羽がひの山に  汝が恋ふる  妹はいますと  人の言へば  岩根さくみて  なづみ来し  よけくもぞなき  うつそみと  思ひし妹が  灰にていませば  万213  短歌三首 去年見てし秋の月夜は渡れども 相見し妹はいや年離る  万214 *昨年見た秋の月夜は今年も同じだが、一緒に見た妻とは年が隔たるばかりだ。 衾道を引手の山に妹を置きて 山道思ふに生けるともなし  万215 *衾道の引手山に妻を置いて帰る山道を思うと生きる気力が失せる。 家に来て我が屋を見れば玉床の 外に向きけり妹が木枕  万216 *家に戻って寝室を見ると妻の床の上の木枕はあらぬ方を向いていた。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の先代人。 舒明天皇  じょめいてんのう 593 - 641 第34代天皇。蘇我蝦夷が立てた天皇。皇后は皇極天皇。息子は中大兄皇子。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%8

柿本人麻呂の万葉集210-212番歌~アルケーを知りたい(1173)

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▼柿本人麻呂が妻を失い、悲しみに暮れて作った歌二首のうちの二首目。 ▼長歌の筋は次だ。 うつせみと思ひし妹が (この世にずっといるものと思っていた妻が) 、 春の菜の茂きがごとく 思へりし (春に葉がよく茂っているように元気な妻が) 、 いなくなった。 ▼ 昼はうらさびしく、 夜はため息をついて明かす。いつも一緒にいた妻の姿が見えないと何をしても「 よけくもぞなき 」。  柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首  幷せて短歌 うつせみと 思ひし 時に <一には「 うつそみと思ひし 」といふ>   取り持ちて 我がふたり見し  走出の 堤に立てる  槻の木の こちごちの枝の  春の菜の 茂きがごとく  思へりし 妹にはあれど  頼めりし 子らにはあれど  世間を 背きしえねば  かぎるひの 燃ゆる荒野に  白栲の 天領巾隠り  鳥じもの 朝立ちいまして  入日なす 隠りにしかば  我が妹が 形見に置ける  みどり子の 乞ひ泣くごとに  取り与ふる 物しなければ  男じもの 脇ばさみ持ち  我妹子と ふたり我が寝し  枕付く 妻屋のうちに  昼はも うらさび暮らし  夜はも 息づき明かし   嘆けども 為むすべ知らに  恋ふれども 逢ふよしをなみ  大鳥の 羽がひの山に  我が恋ふる 妹はいますと  人の言へば 岩根さくみて  なづみ来し  よけくもそなき   うつせみと 思ひし妹が   玉かぎる ほのかにだにも  見えなく思へば 万210  短歌二首 去年見てし秋の月夜は照らせども 相見し妹はいや年離る  万211 *昨年見た秋の月夜は相変わらずだけれど、一緒に見た妻とは年が離れていくばかりです。 衾道を引手の山に妹を置きて 山道を行けば生けりともなし  万212 *衾道の引手山に妻を置いて山道を行くと、生きる気が失せてしまうようです。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 孝徳天皇  こうとくてんのう 596 - 654 第36代天皇。皇極天皇(斉明天皇)の弟。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wik

柿本人麻呂の万葉集207-209番歌~アルケーを知りたい(1172)

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▼自分に読解力が足りないので、この挽歌、人麻呂が「 泣血哀慟」というほどには・・・と思ってしまった。その理由は、①「 見まく欲しけど 」会いに行かなかった。②「 後も逢はむ 」と思って会うのを控えた。③逝去を知ったのは「 使の言へば 」によるものだった。  柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟して作る歌二首  幷せて短歌 天飛ぶや 軽の道は  我が妹子が 里にしあれば  ねもころに  見まく欲しけど   やまず行かば 人目を多み  数多く行かば 人知りぬべみ  さね葛  後も逢はむ と  大船の 思ひ頼みて  玉かぎる 岩垣淵の  隠りのみ 恋ひつつあるに  渡る日の 暮れ行くがごと  照る月の 雲隠るごと  沖つ藻の 靡きし妹は  黄葉の 過ぎてい行くと  玉梓の 使の言へば  梓弓 音に聞きて <一には「音のみ聞きて」といふ>   言はむすべ 為むすべ知らに  音のみを 聞きてありえねば  我が恋ふる 千重の一重も  慰もる 心もありやと  我妹子が やまず出で見し  軽の市に 我が立ち聞けば  玉たすき 畝傍の山に  鳴く鳥の 声も聞こえず  玉桙の 道行く人も  ひとりだに 似てし行かねば  すべをなみ 妹が名呼びて  袖ぞ振りつる <或る本には「名のみを聞きてありえねば」といふ句あり>  万207  短歌二首 秋山の黄葉を茂み惑ひぬる 妹を求めむ山道知らずも <一には「道知らずして」といふ>  万208 *秋の山の黄葉の間に迷い込んだ妻を追い求めたい。しかしその山道が分かりません。 黄葉の散りゆくなへに玉梓の 使を見れば逢ひし日思ほゆ  万209 *黄葉が散っているときに手紙の配達人を見かけると妻のことを思い出す。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 皇極天皇  こうぎょくてんのう 594 - 661 第35代天皇と第37代天皇(斉明天皇)。舒明天皇の皇后。天武天皇の母親。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%

柿本人麻呂の万葉集199-202番歌~アルケーを知りたい(1171)

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▼柿本人麻呂が逝去した高市皇子を詠った『万葉集』の中で最長の挽歌の後半。「 白栲の麻衣着て 」という言葉で逝去がはっきり伝わる。以後は悲しみの表現が続く。長歌の後の短歌2首と反歌1首で総括されている。  高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 木綿花の 栄ゆる時に  我が大君 皇子の御門を <一には「刺す竹の 皇子の御門を」といふ>   神宮に 装ひまつりて  使はしし 御門の人も  白栲の 麻衣着て   埴安の 御門の原に  あかねさす 日のことごと  鹿じもの い匍ひ伏しつつ  ぬばたまの 夕になれば  大殿を 振り放け見つつ  鶉なす い匍ひ廻り  侍へど 侍ひえねば  春鳥の さまよひぬれば  嘆きも いまだ過ぎぬに  思ひも いまだ尽きねば  言さへく 百済の原ゆ  神葬り 葬りいませて  あさもよし 城上の宮を  常宮と 高くし奉りて  神ながら 鎮まりましぬ  しかれども 我が大君の  万代と 過ぎむと思へや  天のごと 振り放け見つつ  玉たすき 懸けて偲はむ  畏くあれども  万199  短歌二首 ひさかたの天知らしぬる君故に 日月も知らず恋ひわたるかも  万200 *天をお治めするわれらの君を、我われは時の経つのを忘れて恋しく偲んでおります。 埴安の池の堤の隠り沼の ゆくへを知らに舎人は惑ふ  万201 *埴安の池の堤で囲まれた沼の水の行く先が分からないのと同じく、舎人たちは戸惑っています。  或書の反歌一首 哭沢 (なきさわ) の神社に御瓶 (みわ) 据ゑ祈れども 我が大君は高日知らしぬ  万202  右の一首は、類聚歌林には「檜隈女王、哭沢の神社を怨む歌なり」といふ。 日本紀を案ふるに、曰はく、「十年丙申の秋の七月辛丑の朔の庚戌に、後皇子尊薨ず」といふ。 *哭沢神社にお神酒をお供えして祈りを捧げています。我らが大君は高いところで天をお治めになっておられます。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 光仁天皇  こうにんてんのう 709 - 782 第49代天皇。天智天皇の孫。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 h

柿本人麻呂の万葉集199-202番歌~アルケーを知りたい(1170)

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▼柿本人麻呂が逝去した高市皇子を詠った『万葉集』の中で最長の挽歌。今回はその前半。 高市皇子は、 大海人皇子(後の 天武天皇 )の息子。672年の壬申の乱で 大海人皇子側の中心人物。持統天皇の政権でも中心人物。 ▼長歌の前半では高市皇子の戦いぶりを描き「 瑞穂の国を 太敷きまして  我が大君の 天の下 奏したまへば  万代にしかしもあらむ 」と生前の活躍を総括している。  高市皇子尊の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 かけまくも ゆゆしきかも <一には「ゆゆしけれども」といふ>   言はまくも あやに畏き  明日香の 真神の原に  ひさかたの 天つ御門を  畏くも 定めたまひて  神さぶと 磐隠ります  やすみしし 我が大君の  きこしめす 背面の国の  真木立つ 不破山越えて  高麗剣 (こまつるぎ)  和射見が原の  行宮に 天降りまして  天の下 治めたまひ <一には「掃ひたまひて」といふ>   食す国を 定めたまふと  鶏が鳴く 東の国の  御軍士を 召したまひて  ちはやぶる 人を和せと  奉ろはぬ 国を治めと <一には「掃へと」いふ>   皇子ながら 任したまへば  大御身に 太刀取り佩かし  大御手に 弓取り持たし  御軍士を 率ひたまひ  整ふる 鼓の音は  雷の 声と聞くまで  吹き鳴せる 小角の音も <一には「笛の音は」といふ>   敵見たる 虎か吼ゆると  諸人の おびゆるまでに <一には「聞き惑ふまで」といふ>   ささげたる 旗の靡きは  冬こもり 春さり来れば  野ごとに つきてある火の <一には「冬こもり野焼く火の」といふ>   風の共 靡くがごとく  取り持てる 弓弭の騒き  み雪降る 冬の林に <一には「木綿の林」といふ>   つむじかも い巻き渡ると  思ふまで 聞きの畏く <一には「諸人の 見惑ふまでに」といふ>   引き放つ 矢の繁けく  大雪の 乱れて来れ <一には「霞なす そち寄り来れば」といふ>   まつろはず 立ち向ひしも  露霜の 消なば消ぬべく  行く鳥の 争ふはしに <一には「朝霜の 消なば消と言ふに うつせみにと 争ふはしに」といふ>   渡会の 斎きの宮ゆ  神風に い吹き惑わはし  天雲を 日の目も見せず  常闇に 覆ひたまひて  定めてし  瑞穂の国を  神ながら 太敷きまして 

柿本人麻呂の万葉集196-198番歌~アルケーを知りたい(1169)

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▼今回の挽歌は、 明日香皇女 (あすかのひめみこ) に捧げたもの。 明日香皇女は天智天皇の娘。生前の明るい様子と心萎えた夫の様子の対比が悲しく美しい。  明日香皇女の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 飛ぶ鳥 明日香の川の  上つ瀬に 石橋渡す <一には「石並といふ」>   下つ瀬に 打橋渡す  石橋に <一には「石並に」といふ>  生ひ靡ける  玉藻ぞ 絶ゆれば生ふる  打橋に 生ひををれる  川藻もぞ 枯るれば生ゆる  なにしかも 我が大君の  立たせば 玉藻のもころ  臥やせば 川藻のとごく  靡かひし 宜しき君が  朝宮を 忘れたまふや  夕宮を 背きたまるや  うつそみと 思ひし時に  春へは 花折りかざし  秋立てば 黄葉かざし   敷栲の 袖たづさはり  鏡なす 見れども飽かず  望月の いや愛づらしみ  思ほしし 君と時時  出でまして 遊びたまひし  御食向ふ 城上の宮を  常宮と 定めたまひて  あぢさはふ 目言も絶えぬ  しかれかも <一には「そこをしも」といふ>  あやに悲しみ  ぬえ鳥の 片恋づま <一には「しつつ」といふ>   朝鳥の <一には「朝露の」といふ>  通はす君が  夏草の 思ひ萎えて   夕星の か行きかく行き  大宮の たゆたふ見れば  慰もる 心もあらず  そこ故に 為むすべ知れや  音のみも 名のみも絶えず  天地の いや遠長く  偲ひ行かむ 御名に懸かせる  明日香川 万代までに   はしきやし 我が大君の  形見にここを 万196  短歌二首 飛鳥川しがらみ渡し塞かませば 流るる水ものどかにあらまし <一には「水の淀にかあらまし」といふ>  万197 *飛鳥川に柵を渡してせき止めれば、流れる水もおだやかになるでしょう。 明日香川明日だに <一には「さへ」といふ> 見むと思へやも <一には「思へかも」といふ>   我が大君の御名忘れせぬ <一には「御名忘らえぬ」といふ>  万198  *飛鳥川の名前のように明日はお目にかかりたいと思っているせいか、我が大君である明日香皇女のお名前を忘れることができない。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 称徳天皇  しょうとくてんのう 718 - 770 第48代天皇。第46代の孝謙天皇と同一人物。道鏡を法王にした。反抗した者に卑しい名

柿本人麻呂の万葉集194-195番歌~アルケーを知りたい(1168)

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▼今回は、柿本人麻呂作の挽歌。天智天皇の息子、川島(河島)皇子が691年に逝去した。川島皇子の妻は天武天皇の娘の泊瀬部皇女 (はつせべのひめみこ) 。歌の前書きに名前がある 忍壁皇子 (おさかべのみこ) は、天武天皇の息子で 泊瀬部皇女の兄。 この挽歌は、人麻呂が夫を亡くした妻とその兄に献上した作品。  柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女と忍壁皇子とに献る歌一首  幷せて短歌 飛ぶ鳥 明日香の川の  上つ瀬に 生ふる玉藻は  下つ瀬に 流れ触らばふ  玉藻なす か寄りかく寄り  靡かひし 夫の命の  たたなづく 柔肌すらを  剣大刀 身に添へ寝なば  ぬばたまの 夜床も荒るらむ <一には「荒れなむ」といふ>   そこ故に 慰めかねて  けだしくも 逢ふやと思ひて <一には「君も逢ふやと」といふ>   玉垂の 越智の大野の  朝露に 玉裳はひづち  夕霧に 衣は濡れて  草枕 旅寝かもする  逢はぬ君故 万194  反歌一首 敷栲の袖交へし君玉垂の 越智野過ぎ行くまたも逢はめやも <一には「越智野に過ぎぬ」といふ>  万195  右は、或本には「河島皇子を越智野に葬りし時に、泊瀬部皇女に献る歌なり」といふ。 日本紀には「朱鳥の五年辛卯の九月己巳の朔の丁丑に、浄大参皇子川島薨ず」といふ。 *仲良く過ごしたあなた様は越智野を通り越した先に逝ってしまいました、再びお逢いできましょうや。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 淳仁天皇  じゅんにんてんのう 733 - 765 第47代天皇。天武天皇の皇子・舎人親王の七男。 天地を照らす日月のきはみなく あるべきものを何をか思はむ  万4486 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集183-193番歌~アルケーを知りたい(1167)

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▼ 689年に 逝去した日並皇子 を悲しんで舎人たちが詠った歌23首。以下は23首のうちの後半の11首。184番と189番からはしみじみと悲しさが伝わる。 我が御門千代永久 (とことば) に栄えむと 思ひてありし我れし悲しも  万183 *我が御殿は末永く栄えるものと思っていた自分が悲しいです。 東のたぎの御門に侍へど 昨日も今日も召す言もなし  万184 *東のたぎの御門で待機してますが、昨日も今日もお召しの言葉がありません。 水伝ふ磯の浦の岩つつじ 茂く咲く道をまたも見むかも  万185 *水が流れる磯の浦の岩つつじがたくさん咲く道。この道を再び見ることがあるのでしょうか。 一日には千たび参りし東の 大き御門を入りかてぬかも  万186 *一日に何度も参っておりました東の大きな御門に入りかねております。 つれもなき佐田の岡辺に帰り居ば 島の御階に誰か住まはむ  万187 *ゆかりもない佐田の岡辺に帰ってしまえば、この島の館に誰が伺候するのでしょうか。 朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの 島に下り居て嘆きつるかも  万188 *朝曇りで日が雲に入っていく。皇子が立っておられた庭に下りて嘆くばかりです。 朝日照る島の御門におほほしく 人音もせねばうら悲しも  万189 *朝日が照る島の御門は重々しい空気が漂い、人の声もしません。悲しいばかりです。 真木柱太き心はありしかど この我が心鎮めかねつも  万190 *真木柱のように太い心を持っているのですが、私の心は鎮まりません。 けころもを時かたまけて出でましし 宇陀の大野は思ほえむかも  万191 *皇子のいつもの服を脱ぎ狩りに出かけられた宇陀の大野を思い出すことでしょう。 朝日照る佐田の岡辺に鳴く鳥の 夜哭きかへらふこの年ころを  万192 *朝日が照る佐田の岡辺で夜を通して鳥く鳥のようにこの一年、嘆き悲しみました。 畑子らが夜昼といはず行く道を 我れはことごと宮道にぞする  万193  右は日本紀には「三年己丑の夏の四月葵未の朔の乙未に薨ず」といふ。 *農民たちが昼夜通っている道を、我らはみな宮に通う道にしたものです。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 藤原 仲麻呂  ふじわら の なかまろ 恵美押勝 706 - 764 奈良時代の公卿。藤原武智麻呂の次男。 いざ子どもたはわざなせそ天地の 

柿本人麻呂の万葉集171-182番歌~アルケーを知りたい(1166)

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▼前回に続き今回も689年に 逝去した日並皇子 を悲しんで舎人 (とねり。皇族に仕える人) たちが詠った歌23首。以下は23首のうちの前半の12首。  皇子尊の宮の舎人等、慟傷しびて作る歌二十三首 高光る我が日の御子の万代に 国知らさまし島の宮はも  万171 *我われの皇子が万代に渡って国を治めようとなさる島の宮でしたのに、残念です。 島の宮上の池なる放ち鳥 荒びな行きそ君座さずとも  万172 *島の宮の池にいる放ち鳥よ、ご主人がいなくなっても、池からいなくならないでもらいたい。 高照らす我が日の御子のいましせば 島の御門は荒れずあらましを  万173 *私たちの皇子がいらっしゃいましたら、島の邸宅は荒れずにあったものを。 外に見し真弓の岡も君座せば 常つ御門と侍宿するかも  万174 *関係ないと見ていた真弓の岡も、皇子がいらっしゃるとしたら、我われはお仕えするものを。 夢にだに見ずありしものをおほほしく 宮出もするかさ檜の隈みを  万175 *思ってもみなかった(皇子の逝去)ことで、これからぼんやりとした気持ちで殯宮でお仕えするのでしょう。 天地とともに終へむと思ひつつ 仕へまつりし心違ひぬ  万176 *皇子に末永くお仕えしようと思っておりましたのに、その志が閉ざされました。 朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ 我が泣く涙やむ時もなし  万177 *佐田の岡辺に集った我われは泣いて涙がやむ時もない。 み立たしの島を見る時には たづみ流るる涙とめぞかねつる  万178 *皇子がお立ちになった庭を見ると、池を流れる水のように涙が止まらない。 橘の島の宮には飽かねかも 佐田の岡辺に侍宿しに行く  万179 *橘島の宮は物足らないので、佐田の岡辺にお仕えするために参ります。 み立たしの島をも家と棲む鳥も 荒びな行きそ年かはるまで  万180 *皇子がお立ちになった庭を自分の家として住む鳥よ、ばたばた飛び立たないでおくれ、せめて年が変わるまで。 み立たしの島の荒磯を今見れば 生ひずありし草生ひにけるかも  万181 *皇子がお立ちになった庭の荒磯を今見ると、昔はなかった草が生えています。 鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば 真弓の岡に飛び帰り来ね  万182 *鳥小屋を建てて飼育していた雁の子が巣立ちしたなら、真弓の岡に飛び帰って欲しい。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660

柿本人麻呂の万葉集167-170番歌~アルケーを知りたい(1165)

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▼ 689年に27歳で逝去した 日並皇子 (ひなみしみこ= 草壁皇子 )の挽歌。 草壁皇子の父親は天武天皇、母親は持統天皇。  日並皇子尊の殯宮 (あらきのみや) の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 天地の 初めの時  ひさかたの 天の河原に  八百万 千万神の  神集ひ 集ひいまして  神分ち 分ちし時  天照らす 日女の命 <一には「さしのぼる日女の命」といふ>   天をば 知らしめすと  葦原の 瑞穂の国を  天地の 八重かき別けて <一には「天皇の 八重雲別けて」といふ>   神下し いませまつりし  高照らす 日の御子は  明日香の 清御原の宮に  神ながら 太敷きまして  すめろきの 敷きます国と  天の原 岩戸を開き  神上り 上りいましぬ <一には「神登り いましにしかば」といふ>   我が大君 皇子の命の  天の下 知らしめす世は  春花の 貴くあらむと  望月の 満しけむと  天の下 <一には「食す国といふ」>  四方の人の  大船の 思ひ頼みて  天つ水 仰ぎて待つに  いかさまに 思ほしめせか  つれもなき 真弓の岡に  宮柱 太敷きいまし  みあらかを 高知りまして  朝言に 御言問はさず  日月の 数多くなりぬる  そこ故に 皇子の宮人  ゆくへ知らずも <一には「さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす」といふ>  万167  反歌二首 ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し 皇子の御門の荒れまく惜しも  万168 *天を仰ぎ見るようにしていた皇子の邸宅が荒れているのが残念です。 あかねさす日は照らせれどぬばたまの 夜渡る月の隠らく惜しも <或本には、件の歌をもちて、後皇子等の殯宮の時の歌の反とす>  万169 *昼は日が照っているけれども、夜の月が雲で隠されてしまうのが残念です。  或る本の歌一首 島の宮まがりの池の放ち鳥 人目に恋ひて池に潜かず  万170 *島の宮の池に放たれている鳥は、人目が恋しいのか水に潜ろうとしません。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 孝謙天皇  こうけんてんのう 718 - 770 52歳。第46代天皇。在位:749 - 758  四つの船早帰り来しとしらか付く 我が裳裾に斎ひて待たむ  万4265 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://man

柿本人麻呂の万葉集138-140番歌~アルケーを知りたい(1164)

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▼今回の長歌と短歌のセットは、前にみた131番~133番と姉妹編のようだ。内容は共に妻との別れを惜しむもの。長歌が「靡けこの山」で終わっているのが共通。違うのは、今回の140番の短歌が人麻呂の妻 依羅娘子の作であること。問答になっている。  或る本の歌一首  幷せて短歌 石見の海 津の浦をなみ  浦なしと 人こそ見らめ  潟なしと 人こそ見らめ  よしゑやし 浦はなくとも  よしゑやし 潟はなくとも  鯨魚取り 海辺を指して  和田津の 荒磯の上に  か青く生ふる 玉藻沖つ藻  明けくれば 波こそ来寄れ  夕されば 風こそ来寄れ  波の共 か寄りかく寄る  靡き我が寝し 敷栲の  妹が手本を 露霜の  置きてし来れば この道の  八十隈ごとに 万たび  かへり見すれど いや遠に  里離り来ぬ いや高に  山も越え来ぬ はしきやし  我が妻の子が 夏草の  思ひ萎えて 嘆くらむ  角の里見む  靡けこの山  万138  反歌 石見の海打歌の山の木の間より 我が振る袖を妹見つらむ  万139  右は、歌の躰同じといへども、句々相替れり。これに因りて重ねて載す。 *石見の海、打歌山の木の間から、妻は私が手を振る姿を見ているだろうか。  柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂と相別るる歌一首 な思ひと君は言へども逢はむ時 いつと知りてか我が恋ひずあらむ  万140 *あなた様は私に思い煩うな、と仰いますけれども、次に逢えるのはいつなのかが分からないと恋しい思いが続きますがな。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 聖武天皇  しょうむてんのう 701 - 756 55歳。第45代天皇。父親は文武天皇、母親は藤原不比等の娘。 あおによし奈良の山なる黒木もち 造れる室は座せど飽かぬかも  万1638 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/s

柿本人麻呂の万葉集135-137番歌~アルケーを知りたい(1163)

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▼人麻呂が 「妹 (いも) 」 との別れを美しく詠った歌。長歌の最後で「 ますらをと 思へる我も 」 衣の袖が涙で 濡れると締めた。歌には妹 がよく出てくるけど、誰なのだろう。 つのさはふ 石見の海の  言さへく 唐の崎なる  海石にぞ 深海松生ふる  荒磯にぞ 玉藻は生ふる  玉藻なす 靡き寝し子を  深海松の 深めて思へど  さ寝し夜は 幾時もあらず  延ふ蔦の 別れし来れば  肝向ふ 心を痛み  思ひつつ かへり見すれど  大船の 渡の山の  黄葉の 散りの乱ひに  妹が袖 さやにも見えず  妻ごもる 屋上の <一には「室上川」といふ> 山の  雲間より 渡らふ月の  惜しけども 隠らひ来れば  天伝ふ 入日さしぬれ  ますらをと 思へる我も   敷栲の  衣の袖は   通りて  濡れぬ  万135  反歌二首 青駒が足掻きを速み雲居にぞ 妹があたりを過ぎて来にける <一には「あたりは隠り来にける」といふ>  万136 *私の乗っている馬の歩みがとても速いので、妻がいる場所を通り過ぎてしまいました。 秋山に散らふ黄葉しましくは な散り乱ひそ妹があたり見む <一には「散りな乱ひそ」といふ>  万137 *秋の山の黄葉には、しばらくの間、散るのを控えてもらいたいものだ。妻がいる場所を眺めたいので。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 元正天皇  げんしょうてんのう 680 - 748 第44代天皇。独身で即位した初めての女性天皇。母親は元明天皇。 あしひきの山行きしかば山人の 我に得しめし山づとぞこれ  万4293 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集131-134番歌~アルケーを知りたい(1162)

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▼歌の題に出てくる「 石見の国 (いわみのくに) 」とは島根県の西の地域。「 角の浦み」は 島根県江津市 。131番歌の「高角山」は江津市にある山で 人丸神社もあるという。 ▼長歌の最後の「 靡けこの山 」の響きがカッコいい。  柿本朝臣人麻呂、 石見の国 より妻に別れて上り来る時の歌二首  幷せて短歌 石見の海  角の浦み を  浦なしと 人こそ見らめ  潟なしと <一には「磯なしと」といふ>  人こそ見らめ  よしゑやし 浦はなくとも  よしゑやし 潟は <一には「磯は」といふ> なくとも  鯨魚取り 海辺を指して  和田津の 荒磯の上に  か青く生ふる 玉藻沖つ藻  朝羽振る 風こそ寄らめ  夕羽振る 波こそ来寄れ  波の共 か寄りかく寄る  玉藻なす 寄り寝し妹を <一には「はしきよし妹が手本を」といふ>   露霜の 置きてし来れば  この道の 八十隈ごとに  万たび かへり見すれど  いや遠に 里は離りぬ  いや高に 山も越え来ぬ  夏草の 思ひ萎えて  偲ふらむ 妹が門見む  靡けこの山 万131  反歌二首 石見のや高角山の木の間より 我が降る袖を妹見つらむか  万132 *石見の高角山の木の間から、私が手を振る姿を妻は見ているだろうか。 笹の葉はみ山もさやにさやげども 我れは妹思ふ別れ来ぬれば  万133 *笹の葉は山でさやさやとしているけど、私は妻のことを思っている、妻と別れて来たので。  或本の反歌に曰はく 石見にある高角山の木の間ゆも 我が袖振るを妹見けむかも  万134 *石見の高角山の木の間から私が袖を振るのを妻は見ただろうか。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 元明天皇  げんめいてんのう 661 - 721 第43代天皇。 持統天皇の妹。 文武天皇の母親。藤原不比等を重用。 ますらをの鞆の音すなり物部の 大臣 (おほまへつきみ) 楯立つらしも  万76 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%8

柿本人麻呂の万葉集45-49番歌~アルケーを知りたい(1161)

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▼今回の表題に出てくる軽皇子(かるのみこ)は後の天武天皇のこと。若者だった軽皇子が692年の冬に 安騎の野で部下を引き連れて狩りを行ったときの歌。 ▼ 安騎の野は亡き父親も狩りを行うフィールドだったので、参加者全員で古を偲んだ。  軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 やすみしし 我が大君  高照らす 日の御子  神ながら 神さびせすと  太敷かす 都を置きて  こもりくの 泊瀬の山は  真木立つ 荒山道を  岩が根 禁樹押しなべ  坂鳥の 朝越えまして  玉かぎる 夕さり来れば  み雪降る 安騎の大野に  旗すすき 小竹を押しなべ  草枕 旅宿りせす  いにしへ思ひて 万45 *われらが軽皇子は都を後にして、泊瀬の荒々しい山道を越え、雪が降る安騎の野に野宿し昔の亡き父草壁皇子のことを偲んでおられます。  短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに  万46 *安騎の野でキャンプをしている者たちは皆、昔のことを偲んで誰も寝られない。 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し  万47 *ここは荒野だが、黄葉のように過ぎ去った草壁皇子の形見として偲ぶためにやって来ました。 東の野にはかぎろひ立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ  万48 *東の野には陽炎が見え、振り返ると傾いた月が見えます。 日並皇子の命の馬並めて み狩立たしし時は来向ふ  万49 *日に並ぶ皇子すなわち草壁皇子が馬を並べ、狩りに向かう時間になりました。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 石上 麻呂  いそのかみ の まろ 640 - 717 飛鳥時代~奈良時代の公卿。壬申の乱では最後まで大友皇子(弘文天皇)の側。692年、持統天皇の伊勢国への行幸に随行。 我妹子をいざ見の山を高みかも 日本 (大和) の見えぬ国遠みかも  万44 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asa