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柿本人麻呂の万葉集167-170番歌~アルケーを知りたい(1165)

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▼ 689年に27歳で逝去した 日並皇子 (ひなみしみこ= 草壁皇子 )の挽歌。 草壁皇子の父親は天武天皇、母親は持統天皇。  日並皇子尊の殯宮 (あらきのみや) の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首  幷せて短歌 天地の 初めの時  ひさかたの 天の河原に  八百万 千万神の  神集ひ 集ひいまして  神分ち 分ちし時  天照らす 日女の命 <一には「さしのぼる日女の命」といふ>   天をば 知らしめすと  葦原の 瑞穂の国を  天地の 八重かき別けて <一には「天皇の 八重雲別けて」といふ>   神下し いませまつりし  高照らす 日の御子は  明日香の 清御原の宮に  神ながら 太敷きまして  すめろきの 敷きます国と  天の原 岩戸を開き  神上り 上りいましぬ <一には「神登り いましにしかば」といふ>   我が大君 皇子の命の  天の下 知らしめす世は  春花の 貴くあらむと  望月の 満しけむと  天の下 <一には「食す国といふ」>  四方の人の  大船の 思ひ頼みて  天つ水 仰ぎて待つに  いかさまに 思ほしめせか  つれもなき 真弓の岡に  宮柱 太敷きいまし  みあらかを 高知りまして  朝言に 御言問はさず  日月の 数多くなりぬる  そこ故に 皇子の宮人  ゆくへ知らずも <一には「さす竹の 皇子の宮人 ゆくへ知らにす」といふ>  万167  反歌二首 ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し 皇子の御門の荒れまく惜しも  万168 *天を仰ぎ見るようにしていた皇子の邸宅が荒れているのが残念です。 あかねさす日は照らせれどぬばたまの 夜渡る月の隠らく惜しも <或本には、件の歌をもちて、後皇子等の殯宮の時の歌の反とす>  万169 *昼は日が照っているけれども、夜の月が雲で隠されてしまうのが残念です。  或る本の歌一首 島の宮まがりの池の放ち鳥 人目に恋ひて池に潜かず  万170 *島の宮の池に放たれている鳥は、人目が恋しいのか水に潜ろうとしません。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 孝謙天皇  こうけんてんのう 718 - 770 52歳。第46代天皇。在位:749 - 758  四つの船早帰り来しとしらか付く 我が裳裾に斎ひて待たむ  万4265 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://man

柿本人麻呂の万葉集138-140番歌~アルケーを知りたい(1164)

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▼今回の長歌と短歌のセットは、前にみた131番~133番と姉妹編のようだ。内容は共に妻との別れを惜しむもの。長歌が「靡けこの山」で終わっているのが共通。違うのは、今回の140番の短歌が人麻呂の妻 依羅娘子の作であること。問答になっている。  或る本の歌一首  幷せて短歌 石見の海 津の浦をなみ  浦なしと 人こそ見らめ  潟なしと 人こそ見らめ  よしゑやし 浦はなくとも  よしゑやし 潟はなくとも  鯨魚取り 海辺を指して  和田津の 荒磯の上に  か青く生ふる 玉藻沖つ藻  明けくれば 波こそ来寄れ  夕されば 風こそ来寄れ  波の共 か寄りかく寄る  靡き我が寝し 敷栲の  妹が手本を 露霜の  置きてし来れば この道の  八十隈ごとに 万たび  かへり見すれど いや遠に  里離り来ぬ いや高に  山も越え来ぬ はしきやし  我が妻の子が 夏草の  思ひ萎えて 嘆くらむ  角の里見む  靡けこの山  万138  反歌 石見の海打歌の山の木の間より 我が振る袖を妹見つらむ  万139  右は、歌の躰同じといへども、句々相替れり。これに因りて重ねて載す。 *石見の海、打歌山の木の間から、妻は私が手を振る姿を見ているだろうか。  柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂と相別るる歌一首 な思ひと君は言へども逢はむ時 いつと知りてか我が恋ひずあらむ  万140 *あなた様は私に思い煩うな、と仰いますけれども、次に逢えるのはいつなのかが分からないと恋しい思いが続きますがな。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 聖武天皇  しょうむてんのう 701 - 756 55歳。第45代天皇。父親は文武天皇、母親は藤原不比等の娘。 あおによし奈良の山なる黒木もち 造れる室は座せど飽かぬかも  万1638 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/s

柿本人麻呂の万葉集135-137番歌~アルケーを知りたい(1163)

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▼人麻呂が 「妹 (いも) 」 との別れを美しく詠った歌。長歌の最後で「 ますらをと 思へる我も 」 衣の袖が涙で 濡れると締めた。歌には妹 がよく出てくるけど、誰なのだろう。 つのさはふ 石見の海の  言さへく 唐の崎なる  海石にぞ 深海松生ふる  荒磯にぞ 玉藻は生ふる  玉藻なす 靡き寝し子を  深海松の 深めて思へど  さ寝し夜は 幾時もあらず  延ふ蔦の 別れし来れば  肝向ふ 心を痛み  思ひつつ かへり見すれど  大船の 渡の山の  黄葉の 散りの乱ひに  妹が袖 さやにも見えず  妻ごもる 屋上の <一には「室上川」といふ> 山の  雲間より 渡らふ月の  惜しけども 隠らひ来れば  天伝ふ 入日さしぬれ  ますらをと 思へる我も   敷栲の  衣の袖は   通りて  濡れぬ  万135  反歌二首 青駒が足掻きを速み雲居にぞ 妹があたりを過ぎて来にける <一には「あたりは隠り来にける」といふ>  万136 *私の乗っている馬の歩みがとても速いので、妻がいる場所を通り過ぎてしまいました。 秋山に散らふ黄葉しましくは な散り乱ひそ妹があたり見む <一には「散りな乱ひそ」といふ>  万137 *秋の山の黄葉には、しばらくの間、散るのを控えてもらいたいものだ。妻がいる場所を眺めたいので。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 元正天皇  げんしょうてんのう 680 - 748 第44代天皇。独身で即位した初めての女性天皇。母親は元明天皇。 あしひきの山行きしかば山人の 我に得しめし山づとぞこれ  万4293 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集131-134番歌~アルケーを知りたい(1162)

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▼歌の題に出てくる「 石見の国 (いわみのくに) 」とは島根県の西の地域。「 角の浦み」は 島根県江津市 。131番歌の「高角山」は江津市にある山で 人丸神社もあるという。 ▼長歌の最後の「 靡けこの山 」の響きがカッコいい。  柿本朝臣人麻呂、 石見の国 より妻に別れて上り来る時の歌二首  幷せて短歌 石見の海  角の浦み を  浦なしと 人こそ見らめ  潟なしと <一には「磯なしと」といふ>  人こそ見らめ  よしゑやし 浦はなくとも  よしゑやし 潟は <一には「磯は」といふ> なくとも  鯨魚取り 海辺を指して  和田津の 荒磯の上に  か青く生ふる 玉藻沖つ藻  朝羽振る 風こそ寄らめ  夕羽振る 波こそ来寄れ  波の共 か寄りかく寄る  玉藻なす 寄り寝し妹を <一には「はしきよし妹が手本を」といふ>   露霜の 置きてし来れば  この道の 八十隈ごとに  万たび かへり見すれど  いや遠に 里は離りぬ  いや高に 山も越え来ぬ  夏草の 思ひ萎えて  偲ふらむ 妹が門見む  靡けこの山 万131  反歌二首 石見のや高角山の木の間より 我が降る袖を妹見つらむか  万132 *石見の高角山の木の間から、私が手を振る姿を妻は見ているだろうか。 笹の葉はみ山もさやにさやげども 我れは妹思ふ別れ来ぬれば  万133 *笹の葉は山でさやさやとしているけど、私は妻のことを思っている、妻と別れて来たので。  或本の反歌に曰はく 石見にある高角山の木の間ゆも 我が袖振るを妹見けむかも  万134 *石見の高角山の木の間から私が袖を振るのを妻は見ただろうか。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 元明天皇  げんめいてんのう 661 - 721 第43代天皇。 持統天皇の妹。 文武天皇の母親。藤原不比等を重用。 ますらをの鞆の音すなり物部の 大臣 (おほまへつきみ) 楯立つらしも  万76 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%8

柿本人麻呂の万葉集45-49番歌~アルケーを知りたい(1161)

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▼今回の表題に出てくる軽皇子(かるのみこ)は後の天武天皇のこと。若者だった軽皇子が692年の冬に 安騎の野で部下を引き連れて狩りを行ったときの歌。 ▼ 安騎の野は亡き父親も狩りを行うフィールドだったので、参加者全員で古を偲んだ。  軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 やすみしし 我が大君  高照らす 日の御子  神ながら 神さびせすと  太敷かす 都を置きて  こもりくの 泊瀬の山は  真木立つ 荒山道を  岩が根 禁樹押しなべ  坂鳥の 朝越えまして  玉かぎる 夕さり来れば  み雪降る 安騎の大野に  旗すすき 小竹を押しなべ  草枕 旅宿りせす  いにしへ思ひて 万45 *われらが軽皇子は都を後にして、泊瀬の荒々しい山道を越え、雪が降る安騎の野に野宿し昔の亡き父草壁皇子のことを偲んでおられます。  短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに  万46 *安騎の野でキャンプをしている者たちは皆、昔のことを偲んで誰も寝られない。 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し  万47 *ここは荒野だが、黄葉のように過ぎ去った草壁皇子の形見として偲ぶためにやって来ました。 東の野にはかぎろひ立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ  万48 *東の野には陽炎が見え、振り返ると傾いた月が見えます。 日並皇子の命の馬並めて み狩立たしし時は来向ふ  万49 *日に並ぶ皇子すなわち草壁皇子が馬を並べ、狩りに向かう時間になりました。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 石上 麻呂  いそのかみ の まろ 640 - 717 飛鳥時代~奈良時代の公卿。壬申の乱では最後まで大友皇子(弘文天皇)の側。692年、持統天皇の伊勢国への行幸に随行。 我妹子をいざ見の山を高みかも 日本 (大和) の見えぬ国遠みかも  万44 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asa

柿本人麻呂の万葉集40-44番歌~アルケーを知りたい(1160)

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▼今回の5首は、天皇の行幸にあわせて人麻呂らが作った歌。 ▼44番歌は 石上麻呂の作で、その 解説文によると、 三輪朝臣高市麻呂 が持統天皇に「いまは農繁期なので行幸を控えて欲しい」と奏したが、持統天皇はその諫言に従わずに伊勢に詣でた、とある。5首の歌よりこちらの解説文のほうが面白い。  伊勢の国に幸す時に、京に留ままれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 嗚呼見 (あみ) の浦に舟乗りすらむをとめらが 玉裳の裾に潮満つらむか  万40 *嗚呼見の浦でボート乗りを楽しむ娘子たち。ほらほら、服の裾まで潮が満ちてきていますよ。 釧着 (くしろつ) く答志 (たふし) の崎に今日もかも 大宮人の玉藻刈るらむ  万41 *答志の崎で今日もまた大宮人たちがやって来て玉藻を刈っています。 潮騒に伊良虞 (いらご) の島辺漕ぐ舟に 妹乗るらむか荒き島みを  万42 *海の波が騒がしいなか伊良虞の島辺を舟が進んでいる。その舟に娘子が乗っているのでしょうか。荒い海の島あたりを。  当麻真人麻呂が妻の作る歌 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の 名張の山を今日か越ゆらむ  万43 *私の夫はいまどの辺を進んでおられるのでしょうか。今日は名張山を越えているのでしょうか。  石上大臣、従駕にして作る歌 我妹子をいざ見の山を高みかも 大和の見えぬ国遠みかも  万44   右は、日本紀には「朱鳥の六年壬辰の春の三月丙寅の朔の戊辰に、浄広肆広瀬王等をもちて留守官となす。 ここに中納言 三輪朝臣高市麻呂 、その冠位を脱きて朝に捧げ (辞任覚悟の行動) 、重ねて諫めまつりて曰さく、『農作の前に車駕いまだもちて動すべからず (農繁期に行幸するべきはありません) 』とまをす。 辛未に、天皇諫めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸す。 五月乙丑の朔の庚午に、阿胡の行宮に御す」といふ。 *私の妻をいざ見ようとしても見えない。これはいざ見の山が高いせいだろう。大和の国も見えない。遠くまでやってきたせいだろう。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 三輪 高市麻呂  みわ の たけちまろ 657斉明天皇3年 - 706慶雲3年3月24日 飛鳥時代の人物。壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)の側。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.

柿本人麻呂の万葉集38-39番歌~アルケーを知りたい(1159)

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▼持統天皇は幾度も吉野に行幸された。柿本人麻呂の38番の長歌は、記念写真のように絵葉書のように風景と季節を描写している。  吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る(第二群) やすみしし 我が大君  神ながら 神さびせすと  吉野川 たぎつ河内に  高殿を 高知りまして  登り立ち 国見をせせば  たたなはる 青垣山  山神の 奉る御調 (みつき) と  春へは 花かざし持ち  秋立てば 黄葉かざせり <一には「黄葉かざし」といふ>   行き沿ふ 川の神も  大御食 (おほみけ) に 仕へ奉ると  上つ瀬に 鵜川を立ち  下つ瀬に 小網さし渡す  山川も 依りて仕ふる  神の御代かも 万38  反歌 山川も依りて仕ふる神ながら たぎつ河内に舟出せすかも  万39  右は、日本紀には「三年己丑の正月に、天皇吉野の宮に幸す。 八月に、吉野の宮に幸す。 四年庚寅の二月に、吉野の宮に幸す。 五月に、吉野の宮に幸す。 五年辛卯の正月に、吉野の宮に幸す。 四月に、吉野の宮に幸す」といふ。 いまだ詳らかにいづれの月の従駕(おほみとも)にして作る歌なるかを知らず。 *天皇は山の神も川の神も依って使える神であられる。波が激しく湧きたつ河内に船を漕ぎ出される。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 文武天皇  もんむてんのう 683 - 707 24歳。第42代天皇。持統天皇は 祖母 。 み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜も我がひとり寝む  万74 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集36-37番歌~アルケーを知りたい(1158)

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▼この長歌と反歌は 持統天皇 が吉野の宮に行幸したときに人麻呂が詠んだ歌。吉野の自然を称えている。持統天皇は吉野に 30回以上 行幸し た。長歌の結びにあるように「 見れど飽かぬかも 」だからだろう。 二つの群があり、今回は第一群。  吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る(第一群) やすみしし 我が大君の  きこしめす 天の下に  国はしも さはにあれども  山川の 清き河内と  御心を 吉野の国の  花散らふ 秋津の野辺に  宮柱 太敷きませば  ももしきの 大宮人は  船並めて 朝川渡る  舟競ひ 夕川渡る  この川の 絶ゆることなく  この山の いや高知らす  水激く 滝の宮処は  見れど飽かぬかも  万36  反歌 見れど飽かぬ吉野の川の常滑の 絶ゆることなくまたかへり見む  万37 *いくら見ても見飽きないのが吉野の川です。常滑という苔で滑りやすい川岸にある石のように絶えることなくここを見るため私は参ります。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 持統天皇  じとうてんのう 645 - 703 第41代天皇。中大兄皇子の娘。天武天皇の皇后。 春すぎて夏来るらし白妙の 衣干したり天の香具山  万28 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cls=d_utabito&dataId=201 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%BF%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hitomaro2_t.html

柿本人麻呂の万葉集29-31番歌~アルケーを知りたい(1157)

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▼今回から柿本人麻呂の歌を見て行く。今回の歌は667年、 近江の大津に都を遷した 天智天皇 を偲んだ作。長歌と反歌2つ。 ▼長歌の筋は「 天智天皇は どのようなお考えで、ひなびた大津に宮を造られたのでしょうか。宮殿はここにあったと聞くけれども、いまは草に覆われています。見ていると悲しくなります」というもの。 ▼短歌31番の「 大わだ淀むとも  昔の人にまたも遭はめやも 」は名セリフと思う。  近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 玉たすき 畝傍の山の  橿原の ひじりの御代ゆ <或いは「宮ゆ」といふ> 生まれしし 神のことごと  栂の木の いや継ぎ継ぎに  天の下 知らしめしいを <或いは「めしける」といふ>   そらにみつ 大和を置きて  あをによし 奈良山を越え <或いは「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」といふ>   いかさまに 思ほしめせか <或いは「思ほしけめか」といふ>   天離る  鄙にはあれど   石走る 近江の国の  楽浪の  大津の宮 に  天の下 知らしめしけむ  天皇の 神の命の  大宮は ここと聞けども  大殿は ここと言へども  春草の 茂く生ひたる   霞立つ 春日の霧れる <或いは「霞立つ 春日か霧れる 夏草か 茂くなりぬる」といふ>   ももしきの 大宮ところ  見れば悲しも <或いは「見れば寂しも」といふ>  万29  反歌 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど 大宮人の舟待ちかねつ  万30 *楽浪の志賀の唐崎は、昔のまま存在しているけど、大宮人を乗せた舟は待っていてもやって来ない。 楽浪の志賀の <一には「比良の」といふ> 大わだ淀むとも 昔の人にまたも遭はめやも <一には「遭はむと思へや」といふ>  万31 *楽浪の志賀の岸辺の湾曲した所の水量が淀むほどたっぷりあっても、昔の人に再び会えたりしないのだ。 【似顔絵サロン】柿本人麻呂(660-724)の同時代人。 天智天皇  てんちてんのう 626年 - 672 第38代天皇。645年、大化の改新。667年、近江大津宮へ遷る。 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ  百人一首1 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetailLink?cl

山上憶良の万葉集3860-3869番歌~アルケーを知りたい(1156)

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▼仲間に船頭の代役を頼まれ、男気を出して引き受けた荒雄。船出して嵐で遭難した男の姿を憶良が妻の立場で詠んだ歌。 ▼妻にとっては「 大君の遣はさなくに、さかしらに行きし荒雄 」。だけど、そこは愛する夫のことだから、妻は「 来むか来じかと飯盛りて、門に出で立ち待て 」いた。しかし8年待っても音沙汰なし。もはや帰って来ることはないと悟るまでの心情を10首の歌で語る。  筑前の国の志賀の白水郎の歌十首 大君の遣 (つか) はさなくにさかしらに 行きし荒雄ら沖に袖振る  万3860 *大君が派遣したわけではないのに出しゃばって出かけて行った荒雄。その荒雄が私に向かって袖を振っていました。 荒雄らを来むか来じかと飯盛りて 門に出で立ち待てど来まさず  万3861 *荒雄が今来るかもう来るかと思って、食事の用意をして、門に出て待っているけれどお姿が見えません。 志賀の山いたくな伐りそ荒雄らが よすかの山と観つつ偲はむ  万3862 *志賀の山の木はあまり伐採しないでください。荒雄を思い出すよすがの山として眺めて偲びたいから。 荒雄らが行きにし日より志賀の海人の 大浦田沼はさぶしくもあるか  万3863 *荒雄が出かけてからこのかた、志賀の海人たちが働いているのだけれど大浦田沼は寂しくなった。 官 (つかさ) こそさしても遣らめさかしらに 行きし荒雄ら波に袖振る  万3864 *官が派遣したわけではないのに出しゃばって出かけて行った荒雄。その荒雄が別れを惜しんで波間で私に袖を振っています。 荒雄らは妻子が業 (なり) をば思はずろ 年の八年を待てど来まさず  万3865 *荒雄は妻子の苦労を考えてないのだ。もう出かけて八年になるのにまだ帰ってこない。 沖つ鳥鴨といふ船の帰り来ば 也良 (やら) の崎守早く告げこそ  万3866 *沖の鳥の鴨という名前の船が帰ってきたら、也良の崎の見張りにいち早く告げて欲しい。 沖つ鳥鴨といふ船は也良の崎 廻 (た) みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも  万3867 *沖の鳥の鴨という船が也良の崎を回って漕ぎ来きたという知らせを聞きたいのに聞こえてきません。 沖行くや赤ら小舟をつと遣らば けだし人見て開き見むかも  万3868 *沖を行く赤色の小舟が見えます。荷物を預けたら荒雄に届いて開けて見てくれるでしょうか。 大船に小舟引き添へ潜くとも 志賀の荒雄に潜き

山上憶良の万葉集3860-3869番歌の解説文~アルケーを知りたい(1155)

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▼今回は憶良による「 妻子が傷みに悲感しび、志を述べてこの歌を作る 」の解説文。今回の解説文は、 10個の和歌が続いて物語になった後に来るもの。最初に持ってきた理由は、物語の背景が分かるから。 ▼あらすじはこうだ。船頭の荒雄が仲間の津麻呂から代わりに船頭をやってくれと頼まれた。危険な仕事だけど、荒雄は男気を出して引き受けた。しかし天候不順のため船は沈没。荒雄は帰らぬ人となり妻は悲しむ。そして作った歌が・・・というもの。  右は、神亀の年の中に、大宰府筑前の国宗像の郡の百姓、宗像部津麻呂を差して、対馬送粮の船の柁帥に宛つ。 時に 津麻呂 、滓屋の郡志賀の村の白水郎 荒雄 が許に詣りて語りて曰はく、「① 我れ小事あり。けだし許さじか 」といふ。 荒雄答へて曰はく、「② 我れ郡を異にすといへども、船を同じくすること日久し。 志は兄弟より篤し、殉死することありといへども、あにまた辞びめや 」といふ。 津麻呂曰はく、「府の官、我を差して、対馬送粮の船の柁帥に宛つ。容歯衰老し、海路に甚へず。ことさらに来りて祇候す。願はくは相替ることを垂れよ」といふ。 ここに荒雄許諾し、つひにその事に従ふ。 肥前の国、③ 松浦の県の美禰良久の崎より船を発だし、ただに対馬をさして海を渡る 。 すなはち、④ たちまちに天暗冥く、暴風は雨を交へ、つひに順風なく、海中に沈み没りぬ 。 これによりて、⑤ 妻子ども、犢慕に勝へずして、この歌を裁作る 。 或いは、筑前の国の守山上憶良臣、妻子が傷みに悲感しび、志を述べてこの歌を作るといふ。 *①津麻呂という男が荒雄に、 津島に行く船の船頭を代わって欲しいと 頼みごとをする。 ②荒尾は 津麻呂に 「あなたとは長らく同じ船に乗って働いてきた仲です。殉死するかも知れませんがどうしてお断りできましょうか」と答える。 ③荒尾は言葉通り松浦から対馬に向けて船を出す。 ④しかし天気が急変し暴風雨となり荒尾の船は沈没する。 ⑤残された荒尾の妻子は悲しんでこの歌を作った。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 張 巡  ちょう じゅん 709年 - 757年11月24日 唐代の武将。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%8

山上憶良の万葉集1716番歌~アルケーを知りたい(1154)

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▼今回は、万葉集第九巻、雑歌に収められた歌群にある憶良の歌。この群は海で詠んだ5首の歌からなっており、2番目が憶良の作。  槐本 (つきのもと) が歌一首 楽浪の比良山風の海吹けば 釣りする海人の袖返る見ゆ  万1715 *楽浪(ささなみ)の比良山からの風が海に吹くと釣りをしている海人の袖が翻るのが見える。  山上(憶良)が歌一首 白波の浜松の木の手向けくさ 幾代までにか年は経ぬらむ  万1716  右の一首は、或いは「川島皇子の御作歌」といふ。 *白浪が打ち寄せる浜の松の木に手向けの草が結ばれている。どれくらい年が経つものだろう。  春日が歌一首 三川の淵瀬もおちず小網さすに 衣手濡れぬ干す子はなしに  万1717 *三川の淵と瀬に網を仕掛けていると袖が濡れてしまったよ、乾かしてくれる人がいないのに。  高市が歌一首 率 (あども) ひて漕ぎ去にし舟は高島の 安曇 (あど) の港に泊 (は) てにけむかも  万1718 *漕ぎ手が声を合わせて漕ぎ去った舟は、今頃は高島の安曇の港に着いたかも。  春日蔵が歌一首 照る月を雲な隠しそ島蔭に 我が舟泊てむ泊まり知らずも  万1719  右の一首は、或本には「小弁が作」といふ。或いは姓氏を記せれど名字を記すことなく、或いは名号を稱へれど姓氏を稱はず。しかれども、古記によりてすなはち次をもちて載す。すべてかくのごとき類は、下みなこれに倣へ。 *雲よ、照っている月を隠さないでおくれ。島蔭に我われの舟を泊める先が分からないので。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。王 昌齢 おう しょうれい 698 - 755 57歳。唐の詩人。西宮夜静かにして百花香り  珠簾を捲かんと欲すれば春恨長し 斜めに雲和 (弦楽器) を抱いて深く月を見れば 朦朧たる樹色に昭陽宮を隠す 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://art-tags.net/manyo/poet/okura.html

山上憶良の万葉集1537-1538番歌~アルケーを知りたい(1153)

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▼今回は、憶良が秋の季節に咲く野の花、七種類の花の名を歌にしたもの。ピカチュウの仲間の名前を歌にしたものがあった。こういうのは日本人得意の技、伝統かも知れない。  山上臣憶良、秋野の花を詠む歌二首 秋の野に咲きたる花を指 (および) 折り かき数ふれば七種の花  その一 万1537 *秋の野に咲いている花を指折り数えてみると、七種類の花がある。 萩の花尾花葛花なでしこの花 をみなへしまた藤袴朝顔の花  その二 万1538 *萩の花、尾花、葛の花、なでしこの花、をみなえしの花、それに藤袴、朝顔の花。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 菩提僊那  ぼだいせんな 704 - 760 奈良時代の渡来僧。東大寺の建立に携わった四聖(聖武天皇、行基、良弁)のひとり。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://art-tags.net/manyo/poet/okura.html

山上憶良の万葉集1521-1529番歌~アルケーを知りたい(1152)

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▼憶良の七夕の歌十二首のうち後半の九首。すべて反歌。反歌とは「長歌の内容を反復したり、新たに展開する歌 」 ( 伊藤博訳注『新版 万葉集一』p.35 ) 。 ▼1522番の後に、憶良が大伴旅人の家で天の川を見上げて詠んだ、という説明書きがついている。天の星を肴に一杯やりながら詠んだものだろうか。    反歌 風雲は二つの岸に通へども 我が遠妻の <一には「愛し妻の」といふ> 言ぞ通はぬ  万1521 *風や雲は川の両岸を簡単に渡るけれど、遠くにいる妻に私の言葉は伝わらない。 たぶてにも投げ越しつべき天の川 隔てればかもあまたすべなき  万1522   右は、天平元年の七月の七日の夜に、憶良、天の川を仰ぎ観る。<一には「帥の家にして作る」といふ。> *石を投げれば向こう岸に届きそうな天の川。それが二人の間を隔てているからなすすべがない。 秋風の吹きにし日よりいつしかと 我が待ち恋ひし君ぞ来ませる  万1523 *秋風が吹いた日からこのかた、いつかいつかと待ち焦がれていたあなた様がおいでくださった。 天の川いと川波は立たねども さもらいひかたし近きこの瀬を  万1524 *天の川はそれほど波が立つわけではないけれど、舟で渡るチャンスがないのです、こんなに近い川瀬なのに。 袖振らば見も交わしつべく近けども 渡るすべなし秋にしあらねば  万1525 *袖を降れば見えるくらい近いのだけれど、七夕ではないので渡る術がありません。 玉かぎるほのかに見えて別れなば もとなや恋ひむ逢ふ時までは  万1526  右は、天平二年の七月の八日の夜に、帥の家に集会ふ。 *ちょっとだけ会ってまたすぐお別れです。次に会う時まで恋焦がれるでしょう。 彦星の妻迎へ舟漕ぎ出らし 天の川原に霧の立てるは  万1527 *彦星が妻を迎えに舟を漕ぎ出したようです。天の川原に霧が立っているところを見ると。 霞立つ天の川原に君待つと い行き帰るに裳の裾濡れぬ  万1528 *霞が立つ天の河原にあなた様が待っているので行ったり来たりしているうちに服の裾が濡れました。 天の川浮津の波音騒ぐなり 我が待つ君し舟出すらしも  万1529 *天の川の港の波の音が騒がしくなりました。私がお待ちするあなた様が舟出するようです。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 清河  ふじわら の きよかわ ? -

山上憶良の万葉集1518-1520番歌~アルケーを知りたい(1151)

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▼彦星と織女が七夕の時だけ会うという、なぜ年に一度なのかさっぱり 意味不明の物語の和歌。 七夕の歌 十二 首のうち、今回は最初の三首。後の九首は次回。  山上臣憶良が七夕の歌十二首 天の川相向き立ちて我が恋ひし君 来ますなり紐解き設けな   一には「川に向ひて」といふ  万1518  右は、養老八年の七月の七日に、令に応ふ。 *天の川に向かって立っておられる私が恋しているあなた様。衣の紐を解いてお待ちしましょう。 ひさかたの天の川瀬に舟浮けて 今夜か君が我がり来まさむ  万1519  右は、神亀元年の七月の七日の夜に、左大臣の宅にして。 *天の川に舟を浮かべて、今夜、あなた様が私のもとへおいでになる。 彦星は 織女と  天地の  別れし時ゆ  いなむしろ 川に向き立ち  思ふそら 安けなくに  嘆くそら 安けなくに  青波に 望は絶えぬ  白雲に 涙は尽きぬ  かくのみや 息づき居らむ  かくのみや 恋ひつつあらむ  さ丹塗りの 小舟もがも  玉巻きの 真櫂もがも  <一には「小棹もがも」といふ>  朝なぎに い掻き渡り  夕潮に  <一には「夕にも」といふ>   い漕ぎ渡り  ひさかたの 天の川原に  天飛ぶや 領巾片敷き  真玉手の 玉手さし交へ  あまた夜も 寝ねてしかも  <一には「寝もさ寝てしか」といふ>  秋にあらずとも  <一には「秋待たずとも」といふ>  万1520 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 阿倍 仲麻呂  あべ の なかまろ 698 - 770 72歳。奈良時代の遣唐留学生  天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも  古今406、百人一首7 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://art-tags.net/manyo/poet/okura.html

山上憶良の万葉集978番歌~アルケーを知りたい(1150)

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▼老境かつまた病に苦しむ憶良の元に友人の藤原 八束 ( 真楯 )が病気伺いに人を遣わした。そのときの憶良の歌。  山上臣憶良、沈痾の時の歌一首 士 (をのこ) やも空しくあるべき万代に 語り継ぐべき名は立てずして  万978  右の一首は、山上憶良の臣が沈痾の時に 藤原朝臣八束 、河辺朝臣東人を使はして疾める状を問はしむ。 ここに、憶良臣、報ふるに語已華る。 しまらくありて、涕を拭ひ悲嘆しびて、この歌を口吟ふ。 *男子たるもの空しく世を過ごして良いものか。後々に語り継がれるような名前も残さぬまま。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 藤原 真楯  ふじわら の またて 初名は八束 やつか 715 - 766 奈良時代の公卿。藤原北家の祖・藤原房前の三男。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集二』角川ソフィア文庫。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E6%86%B6%E8%89%AF https://art-tags.net/manyo/poet/okura.html

山上憶良の万葉集904-906番歌~アルケーを知りたい(1149)

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  ▼憶良の知人夫婦の子が突然の病のため幼くして亡くなった。その子の名は古日(ふるひ)という。 憶良がその知人の気持ちを詠った歌。  男子名は古日に恋ふる歌三首 長一首 短二首 世の人の 貴び願ふ 七種の 宝も我れは 何せむに  ① 我 の中の   生まれ出でたる 白玉の 我が子古日は   明星の  明くる朝は 敷栲の 床の辺去らず  ② 立てれども  居れども  ともに戯れ   夕星の  夕になれば  いざ寝よと  手をたづさはり   父母も うへはなさかり  さきくさの 中に寝むと  愛しく しが語らへば  いつしかも  人と成り出でて  悪しけくも 良けくも見むと  大船の 思ひ頼むに  ③ 思はぬに 横しま風 の  にふふかに 覆ひ来たれば   為むすべの  たどきを知らに  白栲の たすきを懸け  まそ鏡 手に取り持ちて  天つ神 仰ぎ祈ひ祷み  国つ神 伏して額つき  かからずも かかりも  神のまにまにと 立ちあざり  我れ祈ひ祷めど  しましくも  ④ 良けくはなしに やくやくに  かたちつくほり  朝な朝な  言ふことやみ   たまきはる  命絶えぬれ  立ち躍り  足する叫び 伏し仰ぎ  ⑤ 胸打ち嘆き  手に持てる 我が子飛ばしつ 世の中の道  万904 *①我われ夫婦に生まれた白玉のような我が子。名前は古日。 ②古日は立っても座っても我われと一緒に遊んでいました。 ③ところが思いもよらない邪な風が急に古日を襲いました。 ④古日は顔つきから元気がなくなり、言葉数も減りました。 ⑤邪な風が白玉の我が子を吹き飛ばしてしまいました、これが世というものでしょうか。  反歌 若ければ道行き知らじ賄はせむ 黄泉の使負けて通らせ  万905 *幼いので道の行き方を知りません。黄泉の使いに贈り物をしますから背負って行ってやってください。 布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず 直に率行きて天道知らしめ  万906  右の一首は、作者未詳。ただし、裁歌の体、山上の操に似たるをもちて、この次に載す。 *お布施を捧げて私はお願い申し上げます、迷わず真っすぐに進み天への道を教えてやってください。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 吉備 真備  きび の まきび 695 - 775 奈良時代の公卿・学者。717(22) 遣唐使に同行して唐の長安に留学。留学

山上憶良の万葉集897-903番歌~アルケーを知りたい(1148)

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▼タイトルの「 老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及(いた)る歌」に内容が集約されている。1000年以上前の憶良の嘆きがしっくり来るのに驚く。  老身に病を重ね、経年辛苦し、児等を思ふに及る歌七首 長一首 短六首 たまきはる うちの限りは  <瞻浮州の人の寿は一百二十年なりといふ>   平らけく  安くもあらむを  事もなく  喪なくもあらなむを  世の中の  厭けく辛けく  いとのきて  痛き瘡には  辛塩を 注くちふがごとく  ますますも  重き馬荷に  表荷打つと いふことのごと  老いにてある 我が身の上に  夜はも 息づき明かし  年長く 病みしわたれば  月重ね 憂へさまよひ  ことことは  死ななと思へど  五月蠅なす 騒く子どもを  打棄てては  死には知らず  見つつあれば 心は燃えぬ   かにかくに 思ひ煩ひ  音のみし泣かゆ 万897  反歌 慰むる心はなしに雲隠り 鳴き行く鳥の音のみし泣かゆ  万898 *心が晴れるようなこともなく、遠い空を鳴きながら飛んでいく鳥のように情けなくて泣けてくる。 すべもなく苦しくあれば出で走り 去ななと思へどこらに障りぬ  万899 *どうすることもできず苦しくてたまらないのでどこかに走り逃げたくなるが、子どもらに邪魔される。 富人の家の子どもの着る身なみ 腐し捨つらむ絹綿らはも  万900 *裕福な家庭の子どもは上等な服が余るほどある。捨てられた絹や綿の服のことを思うと・・・。 荒栲の布衣をだに着せかてに かくや嘆かむ為むすべをなみ  万901 *ウチでは粗末な服を子どもに着せては、このように嘆いていることだ、情けない。 水沫なす微き命も栲繩の 千尋にもがと願ひ暮しつ  万902 *水の泡のようにはかない命が、繊維が長くて丈夫なコウゾの繩のように長く長く千尋にも延びて欲しいと願いながら暮らすのだ。 しつたまき数にもあらぬ身にはあれど 千年にもがと思ほゆるかも (去にし神亀二年に作る。ただし類をもちての故に、さらにここに載す)  万903 *ものの数にもならない我が身であるけれど、千年も生きたいと思う気持ちです。  天平五年の六月丙申の朔にして三日戊戌に作る。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 玄昉  げんぼう ? - 746 奈良時代の僧。717年、阿倍仲麻呂、吉備真備らと遣唐使に同行

山上憶良の万葉集901番歌~アルケーを知りたい(1147)

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▼世の中や人の生き方についての憶良の見解を述べた詩と序文。 ▼憶良の見解は「世の中は撃目のごとし( とても変化しやすいもの)で、人の一生は 伸臂のごとし(あっという間)だから、寄るところなし(これならヨシというものはない)」。 ▼今回の歌は、辛口で苦い薬のごとし。  俗道の仮合即離し、去りやすく留みかたきことを悲歎しぶる詩一首 幷せて序 ひそかにおもひみるに、釈・慈の示教は、 <釈氏・慈氏をいふ> すでにして三帰 <仏・法・僧に帰依することをいふ> 五戒を開きて、法界を化(おもぶ)く、 <一に不殺生、二に不偸盗、三に不邪婬、四に不妄語、五に不飲酒をいふ> 周・孔の垂訓は、すでにして三綱 <君臣・父子・夫婦をいふ> 五経を張りて、邦国を済ふ。 <父は義に、母は慈に、兄は友に、弟子は孝にあることをいふ> 故に知りぬ、引導は二つなれども、得悟はただ一つのみなりといふことを。 ただし、世に定期なし、このゆゑに寿夭も同しからず。 撃目の間に、百齢すでに尽く、申臂の頃に、千代も空し、旦には席上の主となり、夕には泉下の客となる。 白馬走り来るとも、黄泉には何には及かむ。 隴上の青松は、空しく信剣を懸く、野中の白楊は、ただに悲風に吹かゆるのみ。 ここに知りぬ、世俗にはもとより隠遁の室なく、原野にはただ長夜の台のみありといふことを。 先聖すでに去り、後賢も留まらず。 もし贖ひて免るべきことあらば、古人誰か価の金なけむ。 独り存へて、つひに世の終を見る者ありといふことを聞かず。 このゆゑに、維摩大士は玉体を方丈に疾ましめ、釈迦能仁は金容を双樹に掩したまへり。 内教には「黒闇の後より来むことを欲はずは、徳天の先に至るを入るることなかれ」といふ。 <徳天は生なり、黒闇は死なり> 故に知りぬ。 生るればかならず死ありといふことを。 死をもし欲はずは、生れぬにしかず。 いはむや、たとひ始終の恒数を覚るとも、何ぞ存亡の大期を慮らむ。 俗道の変化は撃目のごとし。 人事の経記は伸臂のごとし。 空しく浮雲と大虚を行き、 心力ともに尽きて寄るところなし 。 万901 *現実の変化はまたたく間のような早さだ。 人の一生は肘を伸ばすほどの短さだ。 空しく浮雲と大空を漂ったあげく、心の力が尽き果てて寄るすべもない。 【似顔絵サロン】憶良(660-733)の同時代人。 文室 浄三  ふんや の きよみ 693