廊下では口笛を吹かないように:ヴァルター・ボーテさんの教訓
アルケーを知りたい(320) ヴァルター・ボーテ /Walther Bothe _教訓:
今回の話題は(A)物理学。
▼ボーテさんの教訓:廊下では口笛を吹かないように
教訓の理由 ボーテさんが研究室で技術者にα粒子を教えているとき、廊下から(フリッシュさんの)口笛が聞こえると混乱するのでやめるように、とフリッシュさんが注意を受けたエピソードがある(p.39)。
感想 ボーテさんはピアノを弾く人だから、フリッシュさんがバッハを口笛で吹くと余計気が散ったのだ。しかもボーテさんがやっていたのは後にノーベル賞につながる研究だった。フリッシュさんは口笛がきっかけで室内楽マニアと知り合いになったこともあったという。しかし、ボーテさんと合奏したという話は見当たらない。だからやっぱり人の耳につくところで口笛を吹くのはやめておいた方が良い、という教訓。
ヴァルター・ボーテ Walther Bothe, 1891年1月8日 – 1957年2月8日
1891年、ドイツのオラニエンブルク生まれ。絵とピアノ演奏に長ずる。
1908(17)ベルリン大学に入学。
1912(21)ベルリン大学を卒業。
1913(22)ベルリンの物理工学院(Physikalisch-Technische Reichsanstalt)の放射能研究部門でハンス・ガイガー先生(Hans Geiger, 1882年9月30日– 1945年9月24日)の助手(1927年まで)。複数のガイガー計数管を用いた同時計数回路を開発。
1914(23)ベルリン大学で博士(指導教員はマックス・プランク先生)。WWI、ドイツ軍騎兵隊に入隊。ロシア軍の捕虜になりシベリアの収容所でロシア語を学び理論物理学の研究を継続(5年間)。
1918(27)WWI終戦。
1920(29)ロシアで知り合った女性と結婚。
1924(33)コインシデンス法(同時計数法)を発表。
1925(34)ベルリン大学で私講師。教授資格を取得。
1927(36)ガイガー先生の後任でPTR放射能研究部門の部長(1930年まで)。アルファ線衝突による元素の核変換をコインシデンス法を用いて研究。フリッシュさん(23才)がPTRの光学部門で研究。
1929(38)ベルリン大学で助教授。PTRでヴェルナー・コルヘルスターさん(Werner Kolhörster, 1887年12月28日 - 1946年8月5日)、ブルーノ・ロッシさん(Bruno Benedetto Rossi, 1905年4月13日– 1993年11月21日)らと宇宙線を研究。高エネルギーの粒子(メゾン)が含まれることを発見。
1930(39)ギーセン大学物理学部で教授兼主任。Herbert Becker氏らとベリリウムにアルファ線を衝突させ、高エネルギー放射線(中性子)の発生を観測。フリッシュさん(23才)がPTRからハンブルグのオットー・シュテルンさんの下に移る。
1932(41)ハイデルベルク大学で物理学部長。カイザー・ヴィルヘルム医学研究所で研究開始。
1934(43)マックス・プランク医学研究所で所長。
1937(46)ウォルフガング・ゲントナーさん(Wolfgang Gentner, 1906年7月23日 – 1980年9月4日)とドイツ初のサイクロトロンの建設着手。
1938(47)カリフォルニア大学バークレー校の放射能研究所に留学。
1939(48)WWII。ナチス政権による放射能研究プロジェクト「ウラニウム・クラブ」開始。
1941(50)ペーター・イェンゼンさん(Peter Herbert Jensen, 1913年11月28日 – 1955年8月17日)と共にグラファイトに中性子を減速させる効果があるとの研究結果を政府に報告。
1943(52)ドイツ初のサイクロトロンを完成。
1945(54)WWII終戦。
1946(55)マックス・プランク研究所で研究を継続、ハイデルベルク大学で教授。
1953(62)マックス・プランク・メダル受賞。
1954(63)ノーベル物理学賞受賞(コインシデンス法による原子核反応とガンマ線に関する研究)。マックス・ボルンさんと共同受賞。
1957(66)ハイデルベルクで死去。
〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Walther_Bothe
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.39
Otto Robert Frisch (1979), What little I remember. Cambridge University Press. p.32
コメント
コメントを投稿