不都合な真実を知ると眠れなくなる:ジェームズ・チャドウィックさんの教訓

アルケーを知りたい(328) ジェームズ・チャドウィック

今回の話題は(A)物理学。

▼ジェームズ・チャドウィックさんの教訓:不都合な真実を知ると眠れなくなる

教訓の理由 原爆の製造が現実的なものと悟った後、不眠に陥る。それでも敵に後れを取らないように自国とアメリカの間で調整を図る。フリッシュさんの本に出てくるチャドウィックさんからは、配慮のある良い上司の姿が伝わってくる。イギリスの歴史家ローナ・マーガレット・アーノルドさん(Lorna Arnold, 1915年12月7日– 2014年3月25日)は、チャドウィックさんを「物理学者、科学者外交官、そして善良で賢明で人道的な男」と表現した。日本語wikipediaのチャドウィックさんの説明は心に響く。

感想 MAUD委員会から始まった原爆プロジェクトでイギリスを代表してアメリカで働いた。国力の差を痛感したことだろう。国も人も強みを持たないとダメだ。


ジェームズ・チャドウィック
  James Chadwick, 1891年10月20日 - 1974年7月24日

1891年、イングランド北部のチェシャー州生まれ。父は紡績職人。

1895(4)両親がマンチェスターに転居。Central Grammar School for Boysに通う。

1908(17)奨学金を得てマンチェスター・ビクトリア大学に入学。ラザフォード先生(37)の指導を受ける。

1911(20)マンチェスター・ビクトリア大学を優等成績で卒業。

1912(21)マンチェスター・ビクトリア大学で修士(理学)(指導教員はラザフォード先生)。Beyer Fellowになる。最初の論文を発表(ラザフォード先生との共著)。


1913(22)奨学金を得てベルリンに行きPhysikalisch-Technische Reichsanstaltのハンス・ガイガーさん(31)のもとでベータ線の研究。

1914(23)WWI。ドイツのルーレーベン収容所に抑留。実験室を作り研究を続行。リンのイオン化実験、一酸化炭素と塩素の光化学反応を研究。

1918(27)WWI終戦。釈放されマンチェスターに戻る。ラザフォード先生(47)の推薦でマンチェスター大学で非常勤講師。

1919(28)ラザフォード先生がキャベンディッシュ研究所の所長に就任、スタッフとして加わる。

1920(29)奨学金を得てケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの博士課程に入学。

1921(30)ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで博士(指導教員はキャベンディッシュ研究所のラザフォード先生)。フェローになる。

1921(30)キャベンディッシュ研究所でラザフォード先生(50)の助手。

1925(34)結婚。


1928(37)ケンブリッジで開かれたベータ粒子とガンマ線会議でガイガー先生と再会。ガイガーミュラーカウンターを見せてもらう。リーゼ・マイトナーさん(50)がドイツから約2ミリキュリー(約0.5 µg)のポロニウムを実験のために送ってくれる。

1932(41)中性子を発見。ネイチャー誌に"Possible Existence of a Neutron"(中性子の存在可能性)を送付、"The Existence of a Neutron"(中性子の存在)を王立協会紀要に送る。

1933(42)ソルベー会議に参加。

1935(44)リヴァプール大学で教授(物理学)。サイクロトロン建造計画に着手。ノーベル物理学賞を受賞(中性子の発見による)。


1939(48)WWII。リヴァプール大学サイクロトロン完成。リーゼ・マイトナーさん(61)とオットー・フリッシュさん(35)が核分裂の概念を発表。スウェーデンの田舎で家族と休暇中にWWIIが起こったのでWWIの時のように収容所に入ることになっては大変とすぐリヴァプールに戻る。科学技術研究庁のエドワード・アップルトン大臣(47)から原子爆弾の実現可能性を尋ねられ調査開始。

1940(49)フリッシュさんとルドルフ・パイエルスさんがウラン235を使用する原爆の実現可能性を報告書にする。



1941(50)空中戦科学調査委員会(CSSAW)の小委員会としてMAUD委員会が設置される。MAUD報告を執筆。アメリカのヴァネバー・ブッシュさん(51)が受け取りルーズベルト大統領と相談しマンハッタン計画へ進む。マンハッタン計画にイギリスチームの長として参加。




1943(52)英米カナダが連携を組むケベック協定が発効、マンハッタン計画の実現体制ができる。マンハッタン計画の指導者レズリー・グローヴス少将(47)と緊密に計画を実行。オーク・リッジの施設を見てイギリスでは原爆製造は実現不可能だったと悟る。

1944(53)ロスアラモスに一家で転居、マンハッタン計画の実現に尽力。

1945(54)トリニティ実験に出席。WWII終戦。ナイトになる。ワシントンDCに一家で転居。

1946(55)イギリスに戻る。原子力諮問委員会(ACAE)の委員、国連原子力委員会のイギリス科学顧問になる。

1948(57)ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長になる。

1950(59)コプリ・メダルを受賞。

1956(65)ニュートリノが観測。

1959(68)ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長を退職。

1974(83)睡眠中にケンブリッジで死去。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/James_Chadwick

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.164

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.132

オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日

リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日



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