1764、火浣布(石綿布)の製造~平賀源内:アルケーを知りたい(557)
今回の話題は化学。
平賀源内が秩父山中で発見した石綿を火浣布にして江戸幕府に献上した。
▼平賀 源内 ひらが げんない 1728 - 1780
「非常の人」
【教育】讃岐高松藩の藩医の元で本草学と儒学を学ぶ。長崎、大坂、京都で遊学。江戸で田村藍水の弟子として本草学を学ぶ。
【職業】山師。フリーランスのプロデューサー
【業績】1764(36)江戸幕府に火浣布を献上
1765(37)華氏温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作
1776(48)静電気発生装置の「エレキテル」を修理・復元
【同時代人】同じ1728年生まれの「非常の人」2人:(1)イングランドの産業人マシュー・ボールトン。ジェームズ・ワットと共同で会社を作りボールトン・アンド・ワット蒸気機関を何千基も据えた人。ボールトンなしではワット蒸気機関の普及はなかった。
(2)イギリスの解剖学者、外科医ジョン・ハンター。解剖するための死体搬入専用の玄関を自宅に持っていたことから『ジキル博士とハイド氏』の邸宅のモデルになった。
【ネットワーク】
田村 藍水 たむら・らんすい 1718 - 1776 江戸の医師・本草学者。朝鮮人参の国産化を研究したパイオニア ▼源内と中川淳庵の師匠。
杉田 玄白 すぎた・げんぱく 1733年10月20日 - 1817年6月1日 小浜藩医。中川順庵が持ってきた『ターヘル・アナトミア』を見て図版に驚き、小浜藩に購入してもらう。中川淳庵や前野良沢と共に翻訳し『解体新書』(1774)として発表(41歳)。▼杉田は源内の葬儀を行った。墓碑に次の碑文を寄せた:嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常(常人ではなく、常識と異なるものを好み、常識と異なる行動をして、死に方まで常識とは異なっていた)
中川 淳庵 なかがわ・じゅんあん 1739 - 1786 江戸時代の医者・蘭学者。オランダ商館院から『ターヘル・アナトミア』を借り出し杉田玄白に見せる。杉田玄白や前野良沢と共に翻訳し『解体新書』(1774)として発表(35歳)。▼源内が交流していた蘭学者グループのメンバー。
【似顔絵サロン】
〔参考〕
『理科年表2022』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
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