投稿

空爆があっても暮らしと研究を続ける:MAUD委員会の教訓(6)

イメージ
アルケーを知りたい(334) MAUD委員会(6) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 経緯  前回と同じ。技術委員会のメンバー紹介の後編。 感想  フリッシュさんの本では、MAUD委員会が動いている時期もドイツ空軍の爆弾攻撃を受けて建物が壊れたり火事になったりする様子が書かれている。そんな中でも淡々と生活を送りながら仕事を進めている。フリッシュさんの本を何度読んでも飽きないのは、頑張るとか強固な精神力とかではなく、淡々、脱力、ユーモア時々音楽だから、かな。 ウィルフリッド・マン (32) Wilfrid Basil Mann , 1908年8月4日ウエストロンドンのイーリング -  2001年3月29日アメリカのメリーランド州 インペリアルカレッジロンドンで博士(指導教員はジョージ・パジェット・トムソン先生)。物理学者。 フィリップ・ムーン (33) Philip Burton Moon , 1907年5月17日ロンドン近郊のルイスハム -  1994年10月9日 キャベンディッシュ研究所(指導教員はラザフォード先生)に所属、オリファントさんの指導で実験を進めた。ラザフォード先生は「オリファントの衛星"Oliphant's satellite"」と呼んだ。フリッシュさんが「フリッシュ=パイエルスの覚書」を提出した後、イギリスの敵国性人収容所internment campに抑留されるリスクがあった。そこでフリッシュさんが警察に戦時研究に従事していることを説明してくれるよう頼んだのがオリファントさんが不在中の代行者のムーンさんだった。結果は「明らかに成功したobviously succeeded」(p.159)。 1907年、ロンドン南東部のルイスハム生まれ。レイトンシックスフォームカレッジで学ぶ。 1925(18)ケンブリッジ大学シドニーサセックスカレッジに入学。キャベンディッシュ研究所のラザフォード先生の下で研究。 1928(21)オリファントさん(27)と原子と固体の衝突実験。ラザフォード先生は「オリファントの衛星Oliphant's satellite」と呼ぶ。 1938(31)バーミンガム大学。 1939(32)WWII。MAUD委員会のメンバー。マンハッタン計画に英国代表団のメンバーとして参加。 1945(38)WWI

30代の専門家たちが知を連鎖反応させると・・・:MAUD委員会の教訓(5)

イメージ
アルケーを知りたい(333) MAUD委員会(5) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 経緯 1940年6月 MAUD委員会での議論がスタート。 9月 フリッシュさんとパイエルスさんをメンバーに入れた 技術小委員会 が結成。 今回は、技術委員会のメンバーを2回に分けて見る(ポリシー委員会のメンバーは前回)。技術小委員会は、イギリスとヨーロッパの物理学者の混合。敵国ドイツから逃れてきた人は、ポリシー委員会には入らず、こちらのメンバーとして原爆製造の技術的な議論を担う。WWIIの前から留学や学会を通してお互いを知っていて、人のつながりがほぼ出来ている。そこに原爆の可能性を追求するために技術的な知見を持ち寄る。 感想  技術委員会のメンバーは、自国民と敵国人の組合せ。敵国人という括り、敵国に居られなくなった、あるいは、居続けることを拒否した人。本来の居場所がなくなった人。しかし専門的な知見を持っているから、収容所に入れるより知見を活かしてもらうほうが自国の利益になる。国と国が戦争状態になると、平時には気づかない人の捉え方が起こる。みな30代だ。この 年齢を見ると、国を左右する新しい技術を開発したのは30代の人たちだったことが分かる。 ハルバンさん(ユダヤ人)とコワルスキーさん(もとロシア)はパリの フレデリック・ジョリオ・キュリー さんの研究室から の脱出組。フリッシュさんの本で、ハルバンさんはリーダーの資質をたちまち発揮した、コワルスキーさんは英語の習得力の早さに周りが目を見張った、というエピソードが紹介されている。 MAUD技術委員会のメンバー(ABC順、似顔絵の年齢と実年齢が合ってない) モーゼス・ブラックマン (32) Moses Blackman , 1908年12月6日ケープタウン– 1983年6月3日ロンドン ゲッチンゲン大学で博士(指導教員はマックス・ボルン先生)。インペリアルカレッジロンドンで博士(指導教員はシドニー・チャップマン先生) インペリアル・カレッジ・ロンドンの理論物理学者。MAUD委員会では中性子拡散の理論計算を担当。 No picture エゴン・ブレッチャー (39) Egon Bretscher , 1901年チューリッヒ–1973年スイス エジンバラ大学で博士。MAUD委員会ではノーマン・フェザーさんと共にケンブリッジ大学キャベンデ

良い人が揃った集団は知を増幅する:MAUD委員会の教訓(4)

イメージ
アルケーを知りたい(332) MAUD委員会(4) 今回の話題は(C)マンハッタン計 画。 経緯 1940年6月 MAUD委員会での議論がスタート。最初はフリッシュさんとパイエルスさんは「敵国人」なので議論に加われなかった。 9月 フリッシュさんとパイエルスさんをメンバーに入れた技術小委員会が結成。 感想  「最初、二人の敵側の外国人(パイエルスと私)は、モード委員会の討議に加わることを許されていなかった」「結局、高度に政治的な決定は(中略)除外するという前提で、技術的な問題のみを議論するために、私たちもメンバーに入れた小委員会が作られた(p.164)」。というわけでMAUD委員会は、 ポリシー委員会 と 技術委員会 の2つが出来た。ポリシー委員会には、イギリスの大学から1人の代表者が参加していた。今回は、ポリシー委員会にはどの大学にどんな人がいたのかを見る(技術委員会のメンバーは次回)。 MAUDポリシー委員会のメンバー(ABC順、カッコ内はMAUD委員会のときの年齢)  パトリック・ブラケット (43) Patrick Blackett, 1897年11月18日_ロンドン– 1974年7月13日_ロンドン 。ケンブリッジ大学卒業(指導教員はラザフォード先生)。物理学者。1933-34年、バーベックカレッジの物理学部長のとき、 フリッシュ さんを受入れた。MAUD委員会には マンチェスター大学 の代表で参加。1948年、ノーベル物理学賞受賞(ウィルソンの霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見)。 ジェームズ・チャドウィック (49) James Chadwick, 1891年10月20日_イングランド北部のチェシャー - 1974年7月24日_ケンブリッジ 。ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで博士(指導教員はラザフォード先生)。物理学者。1935年、ノーベル物理学賞受賞(中性子の発見)。1940年に フリッシュ さんの研究が進むようリバプール大学でサポートし、マンハッタン計画のメンバーに加えた。MAUD委員会には リバプール大学 の代表として参加。 ジョン・コッククロフト (43) John Douglas Cockcroft, 1897年5月27日_イングランド北部のヨークシャー - 1967年9月18日_ケンブリッジ 。ケンブ

良い人が良い時に揃うと良い結果になる:MAUD委員会の教訓(3)

イメージ
アルケーを知りたい(331) MAUD委員会(3) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 経緯 1940年6月 「パイエルスと私がオリファントの助言で(サー・) ヘンリー・ティサード に送った報告書が引き金となり、(サー・) ジョージ・トムソン を委員長とする委員会が作られ、 MAUD(モード)委員会 という暗号名が付けられた(p.163)」。 感想 組織が事を成すとき仕組みが必要だ。同時に、組織を作るのは人なので、人と人のコミュニケーションが大事だ。コミュニケーションの良し悪しで成果が出せるかどうかが決まる。 オリファント さん→ ティサード さん→ ジョージ・トムソン さんのラインで素早くMAUD委員会が出来たのは成功事例だ。失敗事例にはティサードさんが担当していた防空科学調査委員会(The Committee for Science Survey of Air Defense:CSSAD)がある。成果を上げるCSSADに後から フレデリック・リンデマン さん(Frederick Lindemann, 1886年4月5日 - 1957年7月3日)が参加した。リンデマンさんの態度に問題があったため委員会が機能しなくなる。ティサードさんは、リンデマンさんを追い出すために委員会をいったん解散させて、別の委員会を作った。こういう失敗事例のほうが興味をひく。ここでは欲張って両方見る。まずは成功事例から。今回はMAUD委員会の ジョージ・トムソン 委員長の歩みだ。 ジョージ・トムソン  George Paget Thomson, 1892年5月3日 – 1975年9月10日 1892年、ケンブリッジ生まれ。父は、 J・J・トムソン さん(Joseph John Thomson, 1856年12月18日-1940年8月30日)。The Perse Schoolで学ぶ。ケンブリッジ大学トリニティスクールで数学と物理を学ぶ。 1914(22)WWI。クイーンズロイヤルウェストサリー連隊に入隊。 1915(23)イギリス王立陸軍航空隊に転属。空力を研究。 1918(26)WWI終戦。ケンブリッジ大学のフェロー。 1920(28)退役。アバディーン大学に所属。 1929(37)ニューヨークのコーネル大学で講師。 1930(38)インペリアル・カレッジ・ロンドンで教授(1952年まで)

上司の的確な指示の効果:MAUD委員会の教訓(2)

イメージ
 アルケーを知りたい(330) MAUD委員会(2) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 経緯  1940年3月  フリッシュ さんと パイエルス さんの報告を受けた オリファント 先生は2人に「全て報告書に書き下ろして、戦争に関連する科学的な問題についての政府顧問である ヘンリー・ティサード に送るように(p.158)」と指示。 そうしてできた報告書が「 フリッシュ=パイエルスの覚書   Frisch–Peierls memorandum」。 ティザードさんはフリッシュ=パイエルスの覚書を受け取ると1940年4月10日に最初の非公式な会合「トムソン委員会」を開く。 「すでに原子爆弾については、 ジョージ・トムソン を中心に議論されていた(p.158)」。 トムソンさんは、インペリアル・カレッジの物理学者で中性子の衝突実験を行っていた。 4月24日、2度目の会議には チャドウィック さんが出席し、委員会の方向が決まる。 「二、三週間の内に私たちの報告書は、イギリス政府が原爆を本気で取り上げることを決定的にした(p.158)」。 ヘンリー・ティサード  Henry Tizard, 1885年8月23日-1959年10月9日 1885年、英国ケント州ジリンガム生まれ。父は海軍士官で技師。 1908(23)オックスフォード大学マグダレンカレッジで数学と化学を学び卒業。奨学金を得てベルリン大学に留学。 フレデリック・リンデマン さん(Frederick Lindemann, 1886年4月5日 - 1957年7月3日)と友達になる(後、二人は因縁の仲になる)。 1909(24)王立研究所デイビーファラデー研究所で研究者。 1911(26)オックスフォード大学のオリオルカレッジでチュートリアルフェロー。電気研究所でデモンストレータ。 1914(29)WWI。王立要塞砲兵隊で少尉。英国陸軍航空隊に異動。テストパイロットになる。 1915(30)結婚。 1918(33)軍需省に異動。WWI終戦。イギリス空軍で中佐(1919年まで)。空軍十字章。 1920(35)科学産業研究部門で次官補。優れた管理能力を発揮。 1927(42)「国家公務員の中で最も影響力のある科学者」として科学産業研究部門で事務次官。 1929(44)インペリアルカレッジロンドンで学長(1942年まで)。 19

計算力があれば原爆の実現可能性だって発見できる:MAUD委員会の教訓(1)

イメージ
アルケーを知りたい(329) MAUD委員会(1) 今回の話題は(C)マンハッタン計画。 これまでの4回、MAUD(モード)委員会というキーワードが出てきた。MAUD委員会とは、WWII初期のイギリスで行われた原爆の調査プロジェクトである。 イギリスの歴史家の マーガレット・ガウイング さん(Margaret Gowing, 1921年4月26日 - 1998年11月7日)は、MAUD委員会を「 史上最も効率的な委員会のひとつ 」と評価した。 ここでは、原爆の実現可能性をフリッシュさんとパイエルスさんが発見した1940年3月を起点、MAUD委員会が解散した1941年7月を終点として、フリッシュさんの本に沿って数回にわたって見ていく。 経緯  フリッシュさんは、1934年から1939年の間、デンマークのコペンハーゲンにあるニールス・ボーア研究所にいた。しかし、1939年にナチスがデンマークに侵攻。ナチスから逃れるために渡英し、バーミンガム大学のマーク・オリファント先生の下に移る。このとき、同じようにナチスから逃れていたドイツ生まれのユダヤ人理論物理学者ルドルフ・パイエルスさん(32)と一緒になる。  2人はウランの核分裂を利用した原子爆弾が可能かどうか検討する。 クラウジウス さんの式とフリッシュさんが考案したウラン分離システムの効率を使って計算する。結果は、可能。「 原子爆弾はやはり可能だったのだ。このとき私たちはお互いを凝視して、初めて、本当にそう思った。 At that point we stared at each other and realized that an atomic bomb might after all be possible.」(p.157、英p.126) 感想  今回は、フリッシュさんとパイエルスさんが計算で気づいたときの話だった。イギリス、ドイツ、アメリカの物理学者は核分裂の発見のあと、これを利用した強力な新型爆弾の製造ができるのではないか、と考えていた。時期も時期、WWIIが開戦するタイミングだ。ドイツがイギリスより強力な武器を手にするのはまずい。2人は自分たちで出した計算結果を見て、お互いを凝視する場面が印象的。 ルドルフ・クラウジウス  Rudolf Clausius, 1822年1月2日 - 1888年8月24日 1822年、

不都合な真実を知ると眠れなくなる:ジェームズ・チャドウィックさんの教訓

イメージ
アルケーを知りたい(328) ジェームズ・チャドウィック 今回の話題は(A)物理学。 ▼ジェームズ・チャドウィックさんの教訓: 不都合な真実を知ると眠れなくなる 教訓の理由 原爆の製造が現実的なものと悟った後、不眠に陥る。それでも敵に後れを取らないように自国とアメリカの間で調整を図る。フリッシュさんの本に出てくるチャドウィックさんからは、配慮のある良い上司の姿が伝わってくる。イギリスの歴史家ローナ・マーガレット・アーノルドさん(Lorna Arnold, 1915年12月7日– 2014年3月25日)は、チャドウィックさんを「物理学者、科学者外交官、そして善良で賢明で人道的な男」と表現した。 日本語wikipediaのチャドウィックさんの説明は心に響く。 感想 MAUD委員会から始まった原爆プロジェクトでイギリスを代表してアメリカで働いた。国力の差を痛感したことだろう。国も人も強みを持たないとダメだ。 ジェームズ・チャドウィック   James Chadwick, 1891年10月20日 - 1974年7月24日 1891年、イングランド北部のチェシャー州生まれ。父は紡績職人。 1895(4)両親がマンチェスターに転居。Central Grammar School for Boysに通う。 1908(17)奨学金を得てマンチェスター・ビクトリア大学に入学。 ラザフォード 先生(37)の指導を受ける。 1911(20)マンチェスター・ビクトリア大学を優等成績で卒業。 1912(21)マンチェスター・ビクトリア大学で修士(理学)(指導教員はラザフォード先生)。Beyer Fellowになる。最初の論文を発表(ラザフォード先生との共著)。 1913(22)奨学金を得てベルリンに行きPhysikalisch-Technische Reichsanstaltの ハンス・ガイガー さん(31)のもとでベータ線の研究。 1914(23)WWI。ドイツのルーレーベン収容所に抑留。実験室を作り研究を続行。リンのイオン化実験、一酸化炭素と塩素の光化学反応を研究。 1918(27)WWI終戦。釈放されマンチェスターに戻る。 ラザフォード 先生(47)の推薦でマンチェスター大学で非常勤講師。 1919(28)ラザフォード先生がキャベンディッシュ研究所の所長に就任、スタッフとして加わる。 1