良い人が良い時に揃うと良い結果になる:MAUD委員会の教訓(3)

アルケーを知りたい(331) MAUD委員会(3)
今回の話題は(C)マンハッタン計画。

経緯
1940年6月 「パイエルスと私がオリファントの助言で(サー・)ヘンリー・ティサードに送った報告書が引き金となり、(サー・)ジョージ・トムソンを委員長とする委員会が作られ、MAUD(モード)委員会という暗号名が付けられた(p.163)」。

感想
組織が事を成すとき仕組みが必要だ。同時に、組織を作るのは人なので、人と人のコミュニケーションが大事だ。コミュニケーションの良し悪しで成果が出せるかどうかが決まる。オリファントさん→ティサードさん→ジョージ・トムソンさんのラインで素早くMAUD委員会が出来たのは成功事例だ。失敗事例にはティサードさんが担当していた防空科学調査委員会(The Committee for Science Survey of Air Defense:CSSAD)がある。成果を上げるCSSADに後からフレデリック・リンデマンさん(Frederick Lindemann, 1886年4月5日 - 1957年7月3日)が参加した。リンデマンさんの態度に問題があったため委員会が機能しなくなる。ティサードさんは、リンデマンさんを追い出すために委員会をいったん解散させて、別の委員会を作った。こういう失敗事例のほうが興味をひく。ここでは欲張って両方見る。まずは成功事例から。今回はMAUD委員会のジョージ・トムソン委員長の歩みだ。

ジョージ・トムソン George Paget Thomson, 1892年5月3日 – 1975年9月10日
1892年、ケンブリッジ生まれ。父は、J・J・トムソンさん(Joseph John Thomson, 1856年12月18日-1940年8月30日)。The Perse Schoolで学ぶ。ケンブリッジ大学トリニティスクールで数学と物理を学ぶ。
1914(22)WWI。クイーンズロイヤルウェストサリー連隊に入隊。
1915(23)イギリス王立陸軍航空隊に転属。空力を研究。
1918(26)WWI終戦。ケンブリッジ大学のフェロー。
1920(28)退役。アバディーン大学に所属。
1929(37)ニューヨークのコーネル大学で講師。
1930(38)インペリアル・カレッジ・ロンドンで教授(1952年まで)。王立協会フェロー。
原子核物理の研究。
1937(45)クリントン・デイヴィソンさん(Clinton Joseph Davisson, 1881年10月22日 - 1958年2月1日mアメリカの物理学者)と共にノーベル物理学賞受賞(結晶による電子線回折現象の発見)。
1939(47)WWII。
1940(48)3月、フリッシュさんとオリファントさんの「フリッシュ=パイエルスの覚書  Frisch–Peierls memorandum」をティザード委員会(イギリス防空科学調査委員会CSSAD)が受け取る。6月、同委員会がMAUD委員会を設立、議長になる
1941(49)アメリカ国防研究委員会 (National Defense Research Committee:NDRC)が訪英。MAUD委員会に出席、情報をアメリカに伝える。MAUD 委員会は原子爆弾が実現可能と報告し解散。
1942(50)マンハッタン計画が開始。
1943(51)ナイトに叙せられる。
1945(53)WWII終戦。
1949(57)ロイヤル・メダル受賞。
1952(60)ケンブリッジ大学 Corpus Christi Collegeの部長。
1975(83)ケンブリッジで死去。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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