上司の的確な指示の効果:MAUD委員会の教訓(2)
アルケーを知りたい(330) MAUD委員会(2)
今回の話題は(C)マンハッタン計画。
経緯 1940年3月 フリッシュさんとパイエルスさんの報告を受けたオリファント先生は2人に「全て報告書に書き下ろして、戦争に関連する科学的な問題についての政府顧問であるヘンリー・ティサードに送るように(p.158)」と指示。
そうしてできた報告書が「フリッシュ=パイエルスの覚書 Frisch–Peierls memorandum」。
ティザードさんはフリッシュ=パイエルスの覚書を受け取ると1940年4月10日に最初の非公式な会合「トムソン委員会」を開く。
「すでに原子爆弾については、ジョージ・トムソンを中心に議論されていた(p.158)」。
トムソンさんは、インペリアル・カレッジの物理学者で中性子の衝突実験を行っていた。
4月24日、2度目の会議にはチャドウィックさんが出席し、委員会の方向が決まる。
「二、三週間の内に私たちの報告書は、イギリス政府が原爆を本気で取り上げることを決定的にした(p.158)」。
ヘンリー・ティサード Henry Tizard, 1885年8月23日-1959年10月9日
1885年、英国ケント州ジリンガム生まれ。父は海軍士官で技師。
1908(23)オックスフォード大学マグダレンカレッジで数学と化学を学び卒業。奨学金を得てベルリン大学に留学。
フレデリック・リンデマンさん(Frederick Lindemann, 1886年4月5日 - 1957年7月3日)と友達になる(後、二人は因縁の仲になる)。
1909(24)王立研究所デイビーファラデー研究所で研究者。
1911(26)オックスフォード大学のオリオルカレッジでチュートリアルフェロー。電気研究所でデモンストレータ。
1914(29)WWI。王立要塞砲兵隊で少尉。英国陸軍航空隊に異動。テストパイロットになる。
1915(30)結婚。
1918(33)軍需省に異動。WWI終戦。イギリス空軍で中佐(1919年まで)。空軍十字章。
1920(35)科学産業研究部門で次官補。優れた管理能力を発揮。
1927(42)「国家公務員の中で最も影響力のある科学者」として科学産業研究部門で事務次官。
1929(44)インペリアルカレッジロンドンで学長(1942年まで)。
1933(48)航空研究委員会で議長。
1935(50)英国航空省が防空科学調査委員会(The Committee for Science Survey of Air Defense:CSSAD、別名ティザード委員会)を設置。 議長としてレーダーによる防空システムの研究を進める。
1938(53)バーミンガム大学のマーク・オリファントさんに短波放射源開発を促す。結果、レーダーによる空中迎撃機の基礎技術が確立。
1939(54)WWII。
1940(55)3月、フリッシュ=パイエルスの覚書を受け取る。
9月、ティザードミッションで渡米。米国に提供したものは、レーダー(空洞マグネトロン)、近接信管、フランク・ホイットルのジェットエンジン、フリッシュ=パイエルス覚書ほか。共同開発を促す。ヴァネヴァー・ブッシュ国防研究委員会議長と会う。
フランク・ホイットル Frank Whittle, 1907年6月1日 - 1996年8月9日 イギリスの空軍士官、技術者
1942(57)オックスフォード大学のマグダレンカレッジで学長(1946年まで)
1945(60)WWII終戦。
1946(61)防衛研究政策委員会で議長。
1948(63)国防省で主席科学顧問(1952年まで)。UFOプロジェクトがスタート。
1959(74)ハンプシャーのフェアラムで死去。
〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979), What little I remember. Cambridge University Press.
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日
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