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万葉集巻第1_51番歌(采女の袖吹きかへす)~アルケーを知りたい(1755)

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▼694年、持統天皇は都を明日香の宮から 距離にして3kmくらい離れた 藤原宮に遷した。志貴皇子が 飛鳥宮が寂しくなった気持ちを風に託して詠んだ歌。藤原宮は最新のコンセプトで作られた都だったので、暮らし馴れた明日香の宮にいると、そこはかとない置いてきぼり感があったのだろうと思ふ。  明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、 志貴皇子 の作らす歌 采女 (うねめ) の袖吹きかへす明日香風 都を遠みいたづらに吹く  万51 *女官の袖を揺らす明日香の風。都が遠のいたいま、空しく吹いています。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_50番歌(いそはく見れば)~アルケーを知りたい(1754)

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▼前書きにある「藤原の宮」とは、天武天皇が計画し、持統天皇が実現した藤原京(奈良県橿原市)のこと。縦横が5.3Kmの規模。でかい。条坊制を採用した日本で初めての本格的な都。694年に飛鳥浄御原宮から藤原の宮に遷都した。50番はその記念となる長歌。参考書の伊藤博先生によると、 作者は役民とあるが、実 は高級官人らしいとのこと。役人が労役に汗を流す民の立場に立って詠った歌だ。いそはく見ればの「いそはく」は頑張っている状態のこと。では今日も、いそはくやるとしますか。  藤原の宮の役民の作る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 荒栲の 藤原が上に 食 (を) す国を 見したまはむと みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地 (あめつち) も 寄りてあれこそ 石走る 近江の国の 衣手の 田上山 (たなかみやま) の 真木 (まき) さく 檜 (ひ) のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると 騒ぐ御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道 (こせぢ) より 我が国は 常世にならむ 図負 (あやお) へる くすしき亀も 新代 (あらたよ) と 泉の川に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝 (のぼ) すらむ  いそはく見れば 神からにあらし  万50 *藤原の宮の造営に民が力を尽くしているのを見ると、これは神意であるかららしい。  右は、日本紀には「朱鳥の七年癸巳の秋の八日に、藤原の宮地に幸す。 八年甲午の春の正月に、藤原の宮に幸す。 冬の十二月庚戌の朔の乙卯に、藤原の宮に遷る」といふ。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_46-49番歌(安騎の野に宿る旅人)~アルケーを知りたい(1753)

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▼46番から49番の四首は起承転結になっているというので、並べてみた。 「転」に相当する48番が良き。東にはかげろう、反対を向くと月が傾いているという視線の動かし方の良き。「結」に出て来る「馬並めて」、これも良き良き。  短歌 安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに  万46 ま草刈る荒野にはあれど黄葉の 過ぎにし君が形見とぞ来し  万47 東の野にはかぎろひ立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ  万48 日並皇子 (ひなみし みこ) の馬並めて み狩立たしし時は來向ふ  万49 *安騎の野で野宿する旅人は、ゆっくり寝てなどいられません。昔のことを思うにつけて。 *ここは荒野だけれども、昔の君を思い出すために参りました。 *東の野に陽炎が見えます。反対を見ると月が傾いています。 *日並皇子が 馬 を並べて狩りに向かう時がやって来ました。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_45番歌(小竹を押しなべ草枕)~アルケーを知りたい(1752)

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▼万葉集の歌は、誰が誰を詠っているのか分からなくなることが時々ある。今回の45番の前書きから、軽皇子がキャンプしたとき、人麻呂が作った歌、ということは分かる。でも長歌の冒頭の 「わが大君」とは誰のことを言っているのだろう。軽皇子だろう。ということは「いにしへ思ひて」は軽皇子が、亡き父・草壁皇子を思って、ということになりそう。だから45番歌は、人麻呂が軽皇子の行動と思いを歌にした作品、ということか。▼フィールドでどんな野宿をしていたのか気になる。「小竹(しの)を押しなべ草枕」という句の小竹を平らかにするのはいかにもリアルで、草を枕にするのはいかにも喩え。リアルと喩えが入り混じっている。昔読んだヘミングウェイの小説に出て来る若者ニックがキャンプするときの描写を思い出す。ニックも小竹を押しなべてその上に毛布を敷いて寝る準備をしていた。   軽皇子 、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌 やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき  小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて  万45 *雪が降る安騎の大野のススキや小竹を押し広げて一夜を過ごします。昔のことを思いながら。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_44番歌(我妹子をいざ見の山を)~アルケーを知りたい(1751)

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▼今回の44番歌は夫の立場から妻を詠った作品。前回の43番と対になる格好だ。歌に直接関係がなさそうに見える後書きにたいへん興味深いことが書いてある。吉野に行こうとする持統天皇に、今のタイミングではありませんぬ、と中止を求める高市皇子。そんなことを聞かないで吉野に行く持統天皇。高市皇子の忠誠と持統天皇の強さを感じる。   石上大臣 、従駕にして作る歌 我妹子をいざ見の山を高みかも 大和の見えぬ国遠みかも  万44 *わが妻をさあ見よう、といういざ見の山は高いです。でも大和の国は見えません。遠いからでしょう。  右は、日本紀には「朱鳥の六年壬辰の春の三月丙寅の朔の戊辰に、浄広肆 広瀬王 等をもちて留守官となす。 ここに中納言三輪朝臣 高市麻呂 、その冠位を脱きて朝に捧げ、重ねて諫めまつりて曰さく、「農作の前に車駕いまだもちて動すべからず」とまをす。 辛未に、 天皇 諫めに従ひたまはず、つひに伊勢に幸す。 五月乙丑の朔の庚午に、阿胡の行宮に御す」といふ。 ▼ 44番の後書きをビジュアルにした。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_43番歌(我が背子はいづく行くらむ)~アルケーを知りたい(1750)

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▼今回は出張に出た夫を偲ぶ歌。「沖つ藻」は「名張の山」の枕詞。舟旅ではなく徒歩の旅。この43番歌は、511番でももう一度出て来る。同じ歌が二度出て来るのは珍しい。   当麻真人麻呂が妻 の作る歌 我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の 名張の山を今日か越ゆらむ  万43 *私の夫はどこを行っているのでしょう。今日あたり名張の山を越えるとか。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_42番歌(潮騒に伊良虞の島辺)~アルケーを知りたい(1749)

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▼40番からの人麻呂の三首セットを並べてみると、40番では乙女らが海辺に出て裾を濡らし、41番では藻を刈り取る。ここまでは陸地。今回の42番では舟に乗って島めぐりをしているので、海上。若々しくイキイキした絵のような歌。 潮騒 (しほさゐ) に伊良虞の島辺漕ぐ舟に 妹乗るらむか荒き島みを  万42 *波立つ伊良虞の島のあたりを漕ぎ進める舟に彼女が乗っているのでしょうか。荒々しい島廻りで。 ▼三首セットを並べてみました。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1