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万葉集巻第1_8番歌(熱田津に船乗りせむと)~アルケーを知りたい(1713)

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▼今回の8番歌は637年に舒明天皇と皇后(皇極天皇)が一緒に温泉に来た地を、661年に斉明天皇( 皇極天皇) が再訪問して静養したときの歌。図の年譜を見ると、たいへんな時期を乗り越えられた天皇だったと分かる。この661年、天皇は百済救済の軍事行動準備のため九州に行って、その地で生涯を終える。白江村の戦いで大敗する二年前のこと。8番歌は、疲れた天皇の心身を奮い立てる歌にも見える。額田王が斉明天皇の気持ちを代弁した歌。  後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代  天豊財重日足姫天皇 、後の後の岡本の宮に即位したまふ  額田王が歌  熱田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな  万8 *熱田津 ( にきたつ ) で舟に乗ろうと思って月を待っていたら、ちょうど潮も良い感じになってきました。さあ、今こそ漕ぎ出しましょう。   右は山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰はく、 「飛鳥の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑の、九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午に、天皇・大后、伊予の湯の宮に幸す。 後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉の春の正月丁酉の朔の壬寅に、御船西つかたに征き、始めて海道に就く。 庚戌に、御船伊予の熱田津の石湯の行宮に泊つ。 天皇、昔日のなほし存れる物を御覧して、その時にたちまちに感愛の情を起したまふ。 この故によりて歌詠を製りて哀傷しびたまふ」といふ。 ただし、額田王の歌は別に四首あり。 【似顔絵サロン】 天豊財重日足姫天皇 = 皇極天皇 / 斉明天皇 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_7番歌(秋の野のみ草刈り葺き)~アルケーを知りたい(1712)

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▼今回は、皇極天皇のそばにいた額田王が作った歌。但し書きを見ると何が何やらになるので、例のごとく大雑把に見て「この宮の草ぶき屋根を見ると、宇治の仮の宮を思い出しますね」という意味と解釈した。葺いた草の匂いがしたのだろうか。   明日香の川原の宮に天の下知らしめす天皇の代 天豊財重日足姫天皇   額田王 が歌 いまだ詳らかにあらず 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし 宇治の宮処の仮廬し思ほゆ  万7 *秋の野で刈り取った草で屋根を葺いた宇治の宮。その仮の廬を思い出します。   右は山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰はく、 「一書には『戊申の年に比良の宮に幸すときの大御歌』」といふ。 ただし、紀には「五年の春の正月己卯の朔の辛巳に、天皇紀伊の温湯より至ります。 三月戊寅の朔に、天皇、吉野の宮に幸して肆宴したまふ。 庚辰の日に、天皇近江の比良の浦に幸す」といふ。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_6番歌(山越しの風を時じみ)~アルケーを知りたい(1711)

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▼今回の6番歌は長歌5番歌の反歌。歌の後に「右は、日本書紀に検すに」から始まる長めの解説文がついている。これによると軍王がいまだ詳らかにあらず、とあるので、5番と6番の作者が軍王なのかはっきりしなくなる。解説では山上憶良の本を参照した、とある。憶良は家持の父親、旅人と九州の筑紫で歌を詠んだ仲間。だから父親世代の人が残した本を参照した5番6番のなりたちを研究した、という話だ。それでもよく分からないまま。家持も首を傾げながら、調べた限りのことをメモした、という感じ。こちらも、はあ、そうですかあ、とか思いながらこの万葉歌を眺める。  反歌 山越しの風を時じみ寝る夜おちず 家にある妹を懸けて偲ひつ  万6 *山を越えた風が吹き続けるから、毎夜絶え間なく、家にいる妻を偲んでいます。   右は、日本書紀に検すに、讃岐の国に幸すことなし。 また、 軍王 もいまだ詳らかにあらず。 ただし、山上憶良大夫が類聚歌林に曰はく、 「紀には『天皇の十一年己亥の冬の十二月己巳の朔の壬午に、伊予の温湯の宮に幸す云々』といふ。 一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。 この二つの樹に斑鳩と比米との二つの鳥いたく集く。 時に勅して多に稲穂を掛けてこれを養はしめたまふ。 すなはち作る歌云々』といふ」と。 けだし、ここよりすなはち幸すか。 【似顔絵サロン】義慈王 ぎじおう 599年 - 660年 百済の第31代王(在位:641年 - 660年)。660年、白村江の戦いで百済が滅びる。最後の王。父は第30代の武王。子のひとりが扶余豊璋= 軍王 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_5番歌(海人娘子らが焼く塩の)~アルケーを知りたい(1710)

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▼今回の長歌を作ったのは百済の皇子・軍王。30年間、日本に滞在。日本史に出てくる有名な白村江の戦い~663年、 日本・百済連合軍vs唐・新羅連合軍の戦~のために帰国した人物。大伴家持は718年生まれなので、50年ほど時代差がある。  讃岐の国の安益の郡に幸す時に、 軍王 が山を見て作る歌 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣き居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に 返らひぬれば ますらをと 思へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の  海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心  万5 *旅の途中で心細い思いを晴らす方法も分からない。海人が塩を焼くように思いで胸が焼けるようだ。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_4番歌(たまきはる宇智の大野に)~アルケーを知りたい(1709)

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▼今回 は前回の万3の反歌。意味は「 宇智の大野に馬を並べ、朝、深い草むらへ踏み出します」。舒明天皇が猟をするために早朝の奈良県五條市宇智の野に臣下と共に馬を並べている姿を描いた歌。「たまきはる」は漢字本文では 玉尅春、霊尅と書いている。意味は、霊魂がきわまる、とか、魂が打ち漲る。この言葉が出るとピーンと張りつめた空気が伝わる。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_3番歌(今立たすらしみ執らしの)~アルケーを知りたい(1708)

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▼今回の3番歌は舒明天皇が奈良五条市の宇智の野で猟をしたとき、娘の中皇命が 間人連老に歌を詠んでもらい天皇に献上した作品。「朝狩に」「夕狩に」のリズムが心地よい。 「音すなり」のフレーズが二度出て 弓の弦の音が聞こえて来そうな臨場感がよい。  天皇、宇智の野に遊猟したまふ時に、中皇命の間人連老をして献らしめたまふ歌 やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に   今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり  万3 *わが天皇が、朝に夕にお手にとっておられる梓弓、狩りにお出になる朝に夕に中弭(なかはず)の音が聞こえてきます。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_2番歌(作者の舒明天皇について)~アルケーを知りたい(1707)

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▼今回は2番歌の作者、舒明天皇について調べてみた。万葉集のエディタである家持(718 - 785)が登場するのは舒明天皇の時代から80年くらいあと。だから舒明天皇の時代の出来事は、家持にとっては一時代前の出来事。 ▼舒明天皇で印象的なのは、①家族の面子がすごいこと、②第一回の遣唐使の送り迎えを行ったこと。そして③「 うまし国ぞ 蜻蛉島  大和の国は」と詠ったこと。 ▼①は、万葉集に収められた歌を詠った人が揃っているので、歌ごと見て行くのが楽しみ。 ②についても、都度、どんな人とどんなご縁があったのか、確認する。 ③は、この歌の滋味が味わえるのが嬉しい、に尽きる。政治の実権は蘇我蝦夷だった、と理解してそれで思考停止していたが、いやいや、そうじゃない。 【似顔絵サロン】 蘇我 蝦夷  そが の えみし 586年 - 645皇極天皇4年7月11日 飛鳥時代の政治家・貴族。父は蘇我馬子。子は入鹿。乙巳の変で自害。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1