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万葉集巻第1_11番歌(我が背子は仮廬作らす)~アルケーを知りたい(1716)

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▼前回に続き、間人皇女が斉明天皇の立場で詠んだ三首セットの2番目の作品。この歌から、当時は仮設の建物の屋根に茅を使っていたことが分かる。さらに茅にも質の違いがあったようだ。 我が背子は仮廬作らす草 (かや) なくは 小松が下の草 (かや) を刈らさね  万11 *我が君の仮廬を作るのに使う上質の茅がないときは、小松の下の 茅 を刈れば良いのです。 【間人皇女の家族】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_10番歌(君が代も我が代も知るや)~アルケーを知りたい(1715)

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▼今回の10番歌から12番歌までの三首は、 伊藤博訳注『新版 万葉集一』によると 中皇子=間人皇女が斉明天皇の立場で詠った作品で、10番歌の冒頭の「君が代」の君は、中大兄皇子を指すという。下の句の「草根を結ぶ」のは、祈りの行動で、ここでは長寿を祈っている。ネットでいう草wとは違う意味。  中皇命、紀伊の温泉に往す時の御歌 君が代も我が代も知るや岩代の 岡の草根をいざ結びてな  万10 *君の代も、私の代も支配する岩代の岡の草根を、さあ、結びましょう。 【似顔絵サロン】中皇命/間人皇女 はしひとのひめみこ ? - 665 父は舒明天皇、母は皇極天皇/斉明天皇。中大兄皇子(天智天皇)の妹、大海人皇子(天武天皇)の姉。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_9番歌(莫囂円隣之大相七兄爪謁気)~アルケーを知りたい(1714)

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▼今回の9番歌は、上の句が漢字のままになっているのが特長。定まった訓がないので有名な 難訓歌という。さらに歌の中にあるわが背子が誰をさすのか、よく分からないらしい。ここでは参考にしている伊藤博訳注『新版 万葉集一』に倣って 有間皇子にした。  紀伊の温泉に幸す時に、額田王が作る歌 莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子が い立たせりけむ厳橿が本  万9 *ここが わが背子 が出発なさった場所、厳橿の根元よ。 【似顔絵サロン】 有間皇子  ありまのみこ 640舒明天皇12年 - 658斉明天皇4年12月11日 飛鳥時代の皇族。孝徳天皇の皇子。斉明天皇と中大兄皇子への謀反を企て藤白坂で絞首刑。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_8番歌(熱田津に船乗りせむと)~アルケーを知りたい(1713)

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▼今回の8番歌は637年に舒明天皇と皇后(皇極天皇)が一緒に温泉に来た地を、661年に斉明天皇( 皇極天皇) が再訪問して静養したときの歌。図の年譜を見ると、たいへんな時期を乗り越えられた天皇だったと分かる。この661年、天皇は百済救済の軍事行動準備のため九州に行って、その地で生涯を終える。白江村の戦いで大敗する二年前のこと。8番歌は、疲れた天皇の心身を奮い立てる歌にも見える。額田王が斉明天皇の気持ちを代弁した歌。  後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の代  天豊財重日足姫天皇 、後の後の岡本の宮に即位したまふ  額田王が歌  熱田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな  万8 *熱田津 ( にきたつ ) で舟に乗ろうと思って月を待っていたら、ちょうど潮も良い感じになってきました。さあ、今こそ漕ぎ出しましょう。   右は山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰はく、 「飛鳥の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の元年己丑の、九年丁酉の十二月己巳の朔の壬午に、天皇・大后、伊予の湯の宮に幸す。 後の岡本の宮に天の下知らしめす天皇の七年辛酉の春の正月丁酉の朔の壬寅に、御船西つかたに征き、始めて海道に就く。 庚戌に、御船伊予の熱田津の石湯の行宮に泊つ。 天皇、昔日のなほし存れる物を御覧して、その時にたちまちに感愛の情を起したまふ。 この故によりて歌詠を製りて哀傷しびたまふ」といふ。 ただし、額田王の歌は別に四首あり。 【似顔絵サロン】 天豊財重日足姫天皇 = 皇極天皇 / 斉明天皇 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_7番歌(秋の野のみ草刈り葺き)~アルケーを知りたい(1712)

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▼今回は、皇極天皇のそばにいた額田王が作った歌。但し書きを見ると何が何やらになるので、例のごとく大雑把に見て「この宮の草ぶき屋根を見ると、宇治の仮の宮を思い出しますね」という意味と解釈した。葺いた草の匂いがしたのだろうか。   明日香の川原の宮に天の下知らしめす天皇の代 天豊財重日足姫天皇   額田王 が歌 いまだ詳らかにあらず 秋の野のみ草刈り葺き宿れりし 宇治の宮処の仮廬し思ほゆ  万7 *秋の野で刈り取った草で屋根を葺いた宇治の宮。その仮の廬を思い出します。   右は山上憶良大夫が類聚歌林に検すに、曰はく、 「一書には『戊申の年に比良の宮に幸すときの大御歌』」といふ。 ただし、紀には「五年の春の正月己卯の朔の辛巳に、天皇紀伊の温湯より至ります。 三月戊寅の朔に、天皇、吉野の宮に幸して肆宴したまふ。 庚辰の日に、天皇近江の比良の浦に幸す」といふ。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_6番歌(山越しの風を時じみ)~アルケーを知りたい(1711)

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▼今回の6番歌は長歌5番歌の反歌。歌の後に「右は、日本書紀に検すに」から始まる長めの解説文がついている。これによると軍王がいまだ詳らかにあらず、とあるので、5番と6番の作者が軍王なのかはっきりしなくなる。解説では山上憶良の本を参照した、とある。憶良は家持の父親、旅人と九州の筑紫で歌を詠んだ仲間。だから父親世代の人が残した本を参照した5番6番のなりたちを研究した、という話だ。それでもよく分からないまま。家持も首を傾げながら、調べた限りのことをメモした、という感じ。こちらも、はあ、そうですかあ、とか思いながらこの万葉歌を眺める。  反歌 山越しの風を時じみ寝る夜おちず 家にある妹を懸けて偲ひつ  万6 *山を越えた風が吹き続けるから、毎夜絶え間なく、家にいる妻を偲んでいます。   右は、日本書紀に検すに、讃岐の国に幸すことなし。 また、 軍王 もいまだ詳らかにあらず。 ただし、山上憶良大夫が類聚歌林に曰はく、 「紀には『天皇の十一年己亥の冬の十二月己巳の朔の壬午に、伊予の温湯の宮に幸す云々』といふ。 一書には『この時に宮の前に二つの樹木あり。 この二つの樹に斑鳩と比米との二つの鳥いたく集く。 時に勅して多に稲穂を掛けてこれを養はしめたまふ。 すなはち作る歌云々』といふ」と。 けだし、ここよりすなはち幸すか。 【似顔絵サロン】義慈王 ぎじおう 599年 - 660年 百済の第31代王(在位:641年 - 660年)。660年、白村江の戦いで百済が滅びる。最後の王。父は第30代の武王。子のひとりが扶余豊璋= 軍王 。 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1

万葉集巻第1_5番歌(海人娘子らが焼く塩の)~アルケーを知りたい(1710)

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▼今回の長歌を作ったのは百済の皇子・軍王。30年間、日本に滞在。日本史に出てくる有名な白村江の戦い~663年、 日本・百済連合軍vs唐・新羅連合軍の戦~のために帰国した人物。大伴家持は718年生まれなので、50年ほど時代差がある。  讃岐の国の安益の郡に幸す時に、 軍王 が山を見て作る歌 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣き居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に 返らひぬれば ますらをと 思へる我れも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の  海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心  万5 *旅の途中で心細い思いを晴らす方法も分からない。海人が塩を焼くように思いで胸が焼けるようだ。 【似顔絵サロン】 〔参考〕 伊藤博訳注『新版 万葉集一』角川ソフィア文庫。 https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/dicDetail?cls=d_kanno&dataId=1