離婚費用はノーベル賞の賞金で:アインシュタインさんの教訓

アルケーを知りたい(307) アルバート・アインシュタイン/Albert Einstein_教訓:

今回の話題は(A)物理学。

▼アインシュタインさんの教訓:離婚費用はノーベル賞の賞金で

教訓の理由:桁外れの人物ぶりが分かる。桁外れすぎて教訓がないことも分かる。


アルベルト・アインシュタイン
Albert Einstein, 1879年3月14日 - 1955年4月18日

1879年、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市生まれ。ユダヤ人。父は数学愛好家、羽毛寝具店の経営者。

1880(1)一家でミュンヘンに転居。父が弟と電気機器製造会社「Elektrotechnische Fabrik J. Einstein & Cie」を設立。

1884(5)父に方位磁針(コンパス)をプレゼントされ科学への興味が芽生える。バイオリンのレッスンを開始。ミュンヘンのカトリック系の公立学校に入学。卒業後、ミュンヘンのルイトポルト・ギムナジウムに入学。

1894(15)父と弟の会社の経営が行き詰まる。一家でイタリアのミラノに転居。

1895(16)スイスのギムナジウムに入学。

1896(17)チューリッヒ連邦工科大学に入学。ドイツ市民権を放棄。

1900(21)チューリッヒ連邦工科大学を卒業。学部長と不仲のため大学に残れず。

1901(22)スイス国籍を取得。スイスの兵役免除(身体的理由)。

1902(23)スイス特許庁で3級技術専門職(審査官)。父が死去。

1903(24)結婚。

1905(26)チューリッヒ連邦工科大学で博士。「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」3本の重要論文を発する「奇跡の年」。

1906(27)スイス特許庁2級技術専門職(審査官)。

1907(28)E=mc²を発表。

1909(30)特許局を辞め、チューリッヒ大学で助教授。ジュネーヴ大学から名誉博士号。

1910(31)プラハ大学で教授。

1911(32)第1回ソルベー会議に招待参加。

1912(33)チューリッヒ連邦工科大学で教授。

1913(34)プロイセン科学アカデミーの会員。ベルリンに転居。

1914(35)WWI。


1915(36)ロマン・ロランさん(Romain Rolland, 1866年1月29日 - 1944年12月30日)と出会い意気投合。

1916(37)一般相対性理論を発表。

1918(39)WWI終戦。

1921(42)アメリカ訪問。

1922(43)日本訪問。訪問途上、ノーベル物理学賞受賞(光電効果の法則の発見等)。


1930(51)レオ・シラードさん(Leo Szilard, 1898年2月11日 - 1964年5月30日)と家庭用冷蔵庫の特許を共同申請。

1931(52)1727年製のグァルネリ・デルジェス(使用者の一人がニコロ・パガニーニさん)を借り受ける。

1932(53)アメリカに転居。


1935(56)アメリカでの永住権を取得。

1936(57)「アインシュタイン=ローゼン橋」発表(のちのワームホール)。

1939(60)WWII。フランクリン・ルーズベルト大統領(Franklin Delano Roosevelt, 1882年1月30日 - 1945年4月12日)あての原子力に関する手紙の署名者になる。


1940(61)アメリカの国籍を取得。

1943(64)アメリカ海軍省兵器局で顧問。魚雷の起爆装置の改善に尽力

1945(66)WWII終戦。

1946(67)原子科学者緊急委員会議長。

1948(69)イスラエル建国。

1955(76)ラッセル=アインシュタイン宣言。腹部動脈瘤のためプリンストン病院で死去。

〔参考〕https://it.wikipedia.org/wiki/Galileo_Galilei

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.21

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.17

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