行き過ぎた怒りや攻撃は、自分の為にならない:フィリップ・レナルトさんの教訓
アルケーを知りたい(308) フィリップ・レナルト/Philipp Lenard_教訓:
今回の話題は(A)物理学。
▼レナルトさんの教訓:行き過ぎた怒りや攻撃は、自分の為にならない
教訓の理由:二つのエピソードがある。一つ目。レントゲンさんにレーナルト管を貸し出した。しかし、レントゲンさんが論文にレーナルトさんへの謝辞を書かなかった。これに激しく怒った(それにしても、なぜレントゲンさんは謝辞を書かなかったのだろう)。
二つ目。ナチスの時代、アインシュタインさんらユダヤ人学者を激しく圧迫、攻撃した。ドイツが戦争に負けると、こんどは自分が職を追われた。
1862年、オーストリア帝国ハンガリー王国プレスブルク(現在ブラチスラヴァ)生まれ。ドイツ人。父はワイン商。Pozsonyi Királyi Katolikus Főgymnasium (今日は Gamča)で学ぶ。
1880(18)ウィーンとブダペストで物理学と化学を学ぶ。
1882(20)プレスブルグに戻る。
1883(21)ハイデルベルクに転居。ハイデルベルク大学でロベルト・ブンゼン先生(Robert Wilhelm Bunsen、1811年3月31日 - 1899年8月16日)に師事。ヘルムホルツ先生にも1学期間学ぶ。
1887(25)ブダペスト大学で物理学者エトヴェシュ・ロラーンド先生(Eötvös Loránd, 1848年7月27日 - 1919年4月8日)の助手。
1888(26)陰極線の研究を開始。レーナルト管を開発。陰極線が負に帯電したエネルギー粒子の流れと結論。 量子(quanta)と命名。アーヘン大学、ボン大学、ヴロツワフ大学で修行。
1892(30)落下する水滴が微粒化すると帯電する現象をレナード効果として説明。風洞を開発し水滴の形状を発見。
1896(34)ハイデルベルク大学 (1898年まで)。X線を研究するレントゲンさん(Wilhelm Conrad Röntgen, 1845年3月27日 - 1923年2月10日)にレーナルト管を提供するも論文に謝辞がないことに激怒。
1898(36)キール大学 (1907)年まで 。
1905(43)ノーベル物理学賞(陰極線に関する研究)。スウェーデン王立科学アカデミー会員。
1907(45)ハイデルベルク大学フィリップ・レーナルト研究所所長。ハンガリー科学アカデミー会員。
1914(52)WWI。
1918(56)WWI終戦。
1931(69)ハイデルベルク大学の教授(理論物理学)を引退、名誉教授。
1933(71)『科学の偉人たち 科学発展の歴史(Great Men in science, a History of scientific progress)』発行。
1939(77)WWII
1945(83)WWII終戦。連合国によりハイデルベルク大学から追放処分。
1947(85)メッセルハウゼンで死去。
〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Philipp_Lenard
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.21
Otto Robert Frisch (1979), What little I remember. Cambridge University Press. p.18
コメント
コメントを投稿