若者は育つと頼りになる仲間になる: アーネスト・ラザフォードさんの教訓
アルケーを知りたい(309) アーネスト・ラザフォード / Ernest Rutherford_教訓:
今回の話題は(A)物理学。
▼ラザフォードさんの教訓:若者は育つと頼りになる仲間になる
教訓の理由:高校の物理、化学の両方で、金箔にα線を照射して反射を調べる「ラザフォードの散乱実験」が出てくる。この歴史的な実験はラザフォードさん(40)の指導のもと、ガイガーさん(29)とマースデンさん(20)が実験を行った。この実験をもとにラザフォードの原子モデルが生まれる。これを改良したのがニールス・ボーアさん。予言していた中性子を見つけたのがチャドウィックさん。一方、悲しい結果もある。才能を見込んでいたヘンリー・モーズリーさんは従軍中に狙撃され死去(28)、13年間研究を共にしたピョートル・カピッツァさんはソ連に一時帰国した後、戻れなくなる。
▼感想:モーズリーさんの死去によって、英軍は若手科学者を前線に出さないことになった。カピッツアさんの事例で、科学者の人的なつながりが、国と国の付き合い方と相容れない場合があることが分かる。若者は育つと頼りになる仲間になる。それが誰にとって頼りになる存在か、が問題になる。
アーネスト・ラザフォード Ernest Rutherford, 1871年8月30日 - 1937年10月19日
1871年、ニュージーランド生まれ。父はイングランド出身の農夫、母は教師。
1882(11)Havelock School 中学校。
1887(16)Nelson College(高校)入学。
1890(19)奨学金を得てニュージーランド大学カンタベリー校に入学。
1892(21)ニュージーランド大学カンタベリー校で鉄の磁化を研究しBA(教養)。
1893(22)ニュージーランド大学カンタベリー校で数学と数理物理学を専攻しMA(教養)。高校講師の試験に落ち諦める。
1894(23)ニュージーランド大学カンタベリー校で地質学と物理学を専攻しBA(理学)。
1895(24)研究奨学金を得てケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所研究員。指導教員はJ・J・トムソン先生(Joseph John Thomson, 1856年12月18日 - 1940年8月30日)。
1897(26)ケンブリッジ大学で学士。
1898(27)ウランからα線とβ線が放射されていることを発見。モントリオールのマギル大学で教授(物理学)。
1899(28)α線とβ線を分離。
1900(29)化学者のフレデリック・ソディさん(Frederick Soddy, 1877年9月2日 - 1956年9月22日)とラドン(と後で命名される物質)、ラジウム、トリウム、アクチニウムの研究を始め、半減期の概念を創出。ニュージーランド大学でPh.D.(理学)。
1902(31)放射性元素変換説を提唱。
1903(32)ロンドン王立協会会員。
1907(36)マンチェスター大学で教授(物理学)。ドイツからの博士留学生ハンス・ガイガーさん(Hans Wilhelm Geiger, 1882年9月30日 - 1945年9月24日)とα粒子の計数に成功。
1908(37)ノーベル化学賞を受賞(元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究)。
1910(39)ヘンリー・モーズリーさん(Henry Gwyn Jeffreys Moseley, 1887年11月23日 - 1915年8月10日)が助手になる。
1911(40)ガイガーさん、アーネスト・マースデンさん(Ernest Marsden、1889年2月19日 - 1970年12月15日)とα線の散乱実験(高校物理と高校化学で登場)。原子核を発見。惑星が太陽の周りを回るイメージで原子をとらえたラザフォードの原子模型を発表。ニールス・ボーアさん(Niels Henrik David Bohr, 1885年10月7日 - 1962年11月18日)の留学を受け入れ。ボーアさんは原子模型の研究に着手。ジェームズ・チャドウィックさん(James Chadwick, 1891年10月20日 - 1974年7月24日)が弟子入り。
1914(43)WWI。ナイトになる。
1915(44)モーズリーさん(27)が狙撃を受けて戦死。イギリスの原子物理学の打撃となる。以後イギリスは科学者の戦闘参加を禁じた。
1918(47)WWI終戦。
1919(48)ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ教授、キャヴェンディッシュ研究所長。α線を窒素原子に衝突させ(原子核を壊した)、原子核の人工変換に成功。
1920(49)中性子と重水素の存在を予言。
1921(50)ピョートル・カピッツァさん(Peter Kapitza, 1894年6月8日 - 1984年4月8日)が弟子入り(1934年まで)
1922(51)コプリ・メダルを受賞。
1926(55)ロンドン王立協会長。
1928(57)ガイガーさんがワルター・ミュラーさん(Walther Müller, 1905年9月6日 - 1979年12月4日)とガイガー=ミュラー計数管を商品化。
1931(60)英国物理学会長。
1932(61)チャドウィックさんが中性子を発見。
1934(63)ソ連に帰国したカピッツアさんが出国できなくなる。カピッツァさん用に準備していた実験設備一式をケンブリッジからモスクワに送る。
1937(66)絞扼性ヘルニアのためケンブリッジで死去。原子番号104の元素がラザホージウム(Rutherfordium)と命名。
〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Ernest_Rutherford
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.22
Otto Robert Frisch (1979), What little I remember. Cambridge University Press. p.18
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