心技体の生き方を目指しなさい:ニールス・ボーアさんの教訓

アルケーを知りたい(310) ニールス・ボーア / Niels Henrik David Bohr_教訓:

今回の話題は(A)物理学。

▼ニールス・ボーアさんの教訓:心技体の生き方を目指しなさい

教訓の理由:ニールス・ボーアさんは、仲間を助ける精神と実行力(心)、師匠ラザフォード先生の原子モデルの問題を解消したモデルを示す物理学者としての実績(技)、若い時はサッカー選手として鳴らした(体)で実現していたから。

感想:あるいは、身の振り方の困っていたフリッシュさんを引き受けて安心させる人柄(心)、コペンハーゲンに研究拠点を作る力量(技)、研究成果の普及のため英・欧・米を行き来する体力を備えていたから。


ニールス・ボーア
  Niels Bohr,  1885年10月7日 - 1962年11月18日

1885年、デンマークのコペンハーゲン生まれ。父はコペンハーゲン大学の教授(生理学)。母はユダヤ人。

1892(7)ガンメルホルムラテンスクール入学。

1903(18)コペンハーゲン大学入学。物理学を専攻。

1905(20)デンマーク王立科学アカデミーから金メダルを受賞(液体の表面張力の実験的研究)。

1911(26)コペンハーゲン大学で哲学博士。奨学金を得て渡英、キャヴェンディッシュ研究所でJ・J・トムソンさん(Joseph John Thomson, 1856年12月18日-1940年8月30日)の下で研究。マンチェスター大学でラザフォードさんの下でポスドクとして原子模型を研究。ゲオルク・ド・ヘヴェシ


さん(George de Hevesy, 1885年8月1日 - 1966年7月5日)と出会う。実験物理学から理論物理学にシフトチェンジ。

1912(27)コペンハーゲンに戻り結婚。コペンハーゲン大学で私講師(熱力学)。ラザフォードさんの原子模型の弱点をマックス・プランクさん(Max Karl Ernst Ludwig Planck, 1858年4月23日 - 1947年10月4日)の量子仮説で解消。

1913(28)ボーアの原子模型を確立。医学生への講義も受け持つ。

1914(29)WWI。

1918(33)WWI終戦。

1921(36)コペンハーゲンで理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を開設。

1922(37)ノーベル物理学賞受賞(原子構造とその放射に関する研究)。


1924(39)ヴェルナー・ハイゼンベルクさん(Werner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日)の留学を受け入れ。

1927(42)ソルベー会議に参加。

1933(48)ロックフェラー財団が創設した難民学者を支援する基金を用い、ドイツからの脱出と行く先を確保に尽力。例:グイド・ベック、フェリックス・ブロッホ、ジェイムス・フランク、ゲオルク・ド・ヘヴェシー、オットー・フリッシュ、ヒルデ・レヴィ、リーゼ・マイトナー、ジョージ・プラツェック、ユージン・ラビノウィッチ、ステファン・ロゼンタル、エリック・エルンスト・シュナイダー、エドワード・テラー、アーサー・フォン・ヒッペル、ヴィクター・ワイスコフ。

1934(49)ロンドンに脱出していたオットー・フリッシュさん(30)をコペンハーゲンの研究所に招く。

1938(53)リーゼ・マイトナーさん(60)がベルリンを脱出。

1939(54)WWII。原子核分裂の予想を発表。

1940(55)ナチスドイツがデンマークを侵略。


1943(58)デンマークからスウェーデンに脱出。その後、モスキート機でスコットランドに脱出。ジェイムズ・チャドウィックさん(James Chadwick, 1891年10月20日 - 1974年7月24日)の紹介で渡米、マンハッタン計画の責任者グローブス准将(Leslie Richard Groves Jr., 1896年8月17日 - 1970年7月13日)と会う。

1944(59)ピョートル・カピッツァさん(Peter Kapitza, 1894年6月8日 - 1984年4月8日)からソビエト招待を受ける。チャーチル首相(Winston Leonard Spencer Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1


月24日)は反対。チャーチル首相とルーズベルト大統領がハイドパークで会談。ボーアさんがロシア人へ情報漏えいの責任を負わないよう配慮。

1945(60)WWII終戦。

1952(67)CERN創設を支援。

1962(77)心不全のためコペンハーゲンで死去。


〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.21

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.18

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