観測した事実から数学的な相関関係を見つけ出すべき:ウェルナー・ハイゼンベルクさんの教訓
アルケーを知りたい(312) ウェルナー・ハイゼンベルク / Werner Karl Heisenberg_教訓:
今回の話題は(A)物理学。
▼ウェルナー・ハイゼンベルクさんの教訓:観測した事実から数学的な相関関係を見つけ出すべき
教訓の理由:事実を見るだけでなく、事実から数学的な相関関係を見つけ出すべき、と方向性まで示す言葉がすごい。この言葉は、フリッシュさんの著書で紹介されている。「理論家は、原子のなかの観測できない電子の動きを電子の動きを追跡することは諦めるべきであり、その代わり、観測されるさまざま事実の間の数学的な関係を見つけ出さなければならない、と示唆した(松田訳)」。原文は「the theoreticians should give up trying to trace the movement of electrons inside atoms where they could not be observed; instead they should find mathematical correlations between observable facts.」
ウェルナー・ハイゼンベルク Werner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 - 1976年2月1日
1901年、ドイツのバイエルン州生まれ。
1914(13)WWI。
1916(15)10代後半はプラトンの『ティマイオス』をネタに友人や先生と哲学対話をする。ピアノ演奏に長じる。
1918(17)WWI終戦。
1920(19)ミュンヘン大学でゾンマーフェルト先生とヴィルヘルム・ヴィーン先生(Wilhelm Carl Werner Otto Fritz Franz Wien, 1864年1月13日 - 1928年8月30日)に
学ぶ。ゲッティンゲン大学で マックス・ボルン先生(Max Born, 1882年12月11日 - 1970年1月5日)に量子力学を、 ジェイムズ・フランク先生(James Franck, 1882年8月26日 - 1964年5月21日)に物理を、ダフィット・ヒルベルト先生(David Hilbert, 1862年1月23日 - 1943年2月14日)に数学を学ぶ。
1922(21)ハイゼンベルクさんの原子物理学への関心を知っていたゾンマーフェルト先生はゲッティンゲンで開催されたニールス・ボーア
さん(Niels Bohr, 1885年10月7日 - 1962年11月18日)の講演に参加させる。
1923(22)ミュンヘン大学で博士。指導教員はゾンマーフェルト先生。
1924(23)ゲッティンゲン大学で教授資格。指導教員は マックス・ボルン先生。ゲッティンゲン大学でポスドク(27年まで)。ロックフ
ェラー奨学金を得てコペンハーゲン大学理論物理学研究所のボーア先生の元で研究。
1925(24)研究結果を論文にして発表。「Quantum theoretical re-interpretation of kinematic and mechanical relations」
1926(25)コペンハーゲン大学でボーア先生の助手。
1927(26)不確定性原理に取り組む。ヴォルフガング・パウリ(Wolfgang Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)さんに原理を述べた報告を書く。
1928(27)ライプニッツ大学の教授(理論物理学)の就任講義を行う。物理学科の学科長を兼任。イギリスの数学物理学者ポール・ディラックさん(Paul Dirac, 1902年8月8日 - 1984年10月20日)が陽電子 の概念を提唱。
1932(31)ノーベル物理学賞受賞(量子力学の創始ならびにオルト、パラ水素の発見)。チャドウィックさんが中性子を発見。アメリカの物理学者カール・デイヴィッド・アンダーソンさん(Carl David Anderson, 1905年9月3日-1991年1月11日)が霧箱で陽電子による軌跡の写真撮影に成功。
1933(32)ナチスが力を持ち始める。反ユダヤ主義の物理学者やSSが「白いユダヤ人」と批判。ゾンマーフェルト先生と共に圧迫を受ける。ディラックさんの陽電子の論を発展させ量子力学の元になる論文を2本発表。
1938(37)ハーンさん、シュトラスマンさん、マイトナーさん(そしてフェリッシュさん)が核分裂の研究成果を出す。
1939(38)渡米しミシガン大学を訪問、アメリカの物理学者サミュエル・ゴーズミットさん(Samuel Goudsmit, 1902年7月11日 - 1978年12月4日)に移民を進められるも断る。WWII。
1941(40)デンマークでボーアさんと面談。ナチスの原爆開発は困難と伝える。
1942(41)カイザー・ヴィルヘルム協会の研究所所長、教授になる。ドイツ軍備大臣に45年までに原子爆弾を製造するのは資金・人材不足の理由で困難とレポート。
1943(42)ベルリンフンボルト大学の理論物理学部長。ベルリン空爆が激しさを増すので郊外の森やポーランドに避難。
1943(42)ドイツ軍がコペンハーゲンのN・ボーア研究所を接収。
1945(44)WWII終戦。
1946(45)マックス・プランク物理学研究所の所長(70年まで)。
1953(52)欧州原子核研究機構CERNの創設に貢献。
1976(75)腎臓がんのためミュンヘンで死去。
〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Werner_Heisenberg
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.25
Otto Robert Frisch (1979), What little I remember. Cambridge University Press. p.21
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