アインシュタインさんが「神はサイコロ遊びをしない」と言ってきたよ:マックス・ボルンさんの教訓

アルケーを知りたい(313)  マックス・ボルン /Max Born _教訓:

今回の話題は(A)物理学。

▼マックス・ボルンさんの教訓:アインシュタインさんが「神はサイコロ遊びをしない」と言ってきたよ

教訓の理由:原子は、原子核の周りを電子が回っている、というお馴染みのイメージがある。ラザフォード先生の原子モデルだ。これと違い、電子は原子核の回りのどこかに確率的にいるという原子核を取り囲む雲のようなイメージをボルンさんやハイゼンベルクさんらが唱えた。これに対してアインシュタインさんが、そんな当てにならない話はないだろう、と反発した。それがこの手紙の言葉。結局、ニールス・ボーアさんが雲のモデルを示し、電子のいる場所は確率的な話になった。ボーアさんの師匠のラザフォード先生のモデルは問題もあるけど、分かりやすい。今でも教科書には、原子核の周りを電子が回っている図が出ている。

感想:マックス・ボルンさんはこのように語った的な情報が少ない。「静か」な人だ。オリビア・ニュートン・ジョンさんはマックス・ボルンさんの孫だったと知って驚いた。


マックス・ボルン 
Max Born, 1882年12月11日 - 1970年1月5日

1882年、ドイツ帝国(現在ポーランド)ブレスラウ生まれ。ユダヤ人。父親はブレスラウ大学の教授(発生学)。

1886(4)母を亡くす。ケーニヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムで学ぶ。

1901(19)ブレスラウ大学入学。ドイツは学生が国内の様々な大学を経験できる仕組み。

1902(20)ハイデルベルク大学。

1903(21)チューリッヒ大学。


1904(22)ゲッティンゲン大学。フェリックス・クライン先生(Felix Klein, 1849年4月25日– 1925年6月22日)、ダフィット・ヒルベルト先生(David Hilbert, 1862年1月23日 - 1943年2月14日)、ヘルマン・ミンコフスキー先生(Hermann Minkowski, 1864年6月22日- 1909年1月12日)に師事。

1905(23)ミンコフスキー先生と特殊相対性理論の研究を開始。


1906(24)ゲッティンゲン大学で博士(数学)。指導教員はカール・ルンゲ先生(Carl Runge, 1856年8月30日 - 1927年1月3日)。

1907(25)学業のために延期していた兵役に就く。無線通信士。喘息発作のため短期間で終了。英国に渡り、ケンブリッジ大学とキャベンディッシュ研究所でJ.J.トムソン先生らの下で研究。

1908(26)帰国後、軍務に就くも再び体調不良。ブレスラウに戻る。

1909(27)ゲッティンゲン大学のミンコフスキー先生から誘いを受け共同研究を開始。しかし先生が急死。

1910(28)ゲッティンゲン大学で教授資格取得。指導教員はヒルベルト先生。

1913(31)27本の論文の発表実績を積む。

1914(32)WWI。マックス・プランクさんの招きでベルリン大学の新設教授に就くためベルリンに移動。

1915(33)ベルリン大学の教授に着任する前、ベルリン駐在の軍でソナーの研究に従事。アインシュタインさんと親交を結ぶ。

1918(36)WWI終戦。ハーバーさんと共にボルン=ハーバー・サイクルを発見。

1919(37)ベルリン大学には行けなくなり、フランクフルト・アム・マイン大学で教授(理論物理学)。


1921(39)ゲッティンゲン大学で教授(理論物理学)。友人のジェイムズ・フランクさんも教授(実験物理学)に着任。

1922(40)ミュンヘン大学のゾンマーフェルト先生と共同研究。同先生の弟子のハイゼンベルクさんが学位を取れたら助手につける話がまとまる。

1924(42)ハイゼンベルクさんが学位を取得して助手になる。

1925(43)ハイゼンベルクさんと量子力学の論文を発表。

1933(51)ナチスの台頭によりイギリスに脱出しケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジで一時的に教授になる。

1935(53)ボルンさん一家の国籍がナチスによって抹消される。ゲッチンゲン大学で取得した博士号も取り消される。ピョートル・カピッツァさん(Peter Kapitza, 1894年6月8日 - 1984年4月8日)からの誘いを検討。


1936(54)チャールズ・ダーウィンの孫で物理学者のチャールズ・ガルトン・ダーウィンさん(Charles Galton Darwin, 1887年12月18日– 1962年12月31日)からエジンバラ大学の教授(自然哲学)を打診され受諾。

1939(57)イギリス国籍を得る。WWII。

1945(63)WWII終戦。

1952(70)エジンバラ大学を退任。

1954(72)西ドイツの温泉地バート・ピルモントに転居。ノーベル物理学賞受賞(量子力学、特に波動関数の確率解釈の提唱)。

1970(88)ゲッティンゲンで死去。


〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Max_Born

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.25

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.21

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