モデルはチェンジせよ:シュレディンガーさんの教訓

アルケーを知りたい(317) エルヴィン・シュレディンガー / Erwin Schrödinger_教訓:

今回の話題は(A)物理学。

▼シュレディンガーさんの教訓:モデルはチェンジせよ

教訓の理由 「シュレディンガーの方程式は、原子の新しいモデルであり、電子は軌道を回る小惑星というよりも、いまや脈動する雲のようなものにより似ていた(「何と少ししか」のp.31)。シュレディンガーさんは、ラザフォードさんの原子モデル、それをボーアさんが精密化した原子モデルをさらに進化させたから。でも古典物理学アタマの人間には、すっきりした形ではなくなった。電子は核子の周りにある雲? なんだそれは? 

感想 シュレディンガーさんが方程式でモデルを記述した結果、どんなビジュアルの原子モデルになったのか? その先に数学で考える物理学者に分かる世界。ここが境目。数学を使ったシュレディンガーさんによる原子のモデルチェンジについていけない。脈動する雲とは? 電子が確率的にどこかにいることを雲と言ってるようだぞ。 


エルヴィン・シュレディンガー
  Erwin Schrödinger, 1887年8月12日 - 1961年1月4日

1887年、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ。父は企業家、植物学者。

ギムナジウムで自然科学、古典言語、ドイツの詩、ドイツ哲学者を学ぶ。


1906(19)ウィーン大学に入学。物理学を専攻。ボルツマンさんがうつ病で自殺、後任がフリードリヒ・ハーゼノール先生(Friedrich Hasenöhrl , 1874年11月30日 - 1915年10月7日)。

1910(23)ウィーン大学で博士。指導教員はハーゼノール先生。


1911(24)ウィーン大学物理学研究室 フランツ・S・エクスナー先生(Franz S. Exner, 1849年3月24日 – 1926年10月15日)の助手。ショーペンハウエルの哲学に傾倒。

1914(27)WWI。オーストリア軍で砲兵部隊の将校。

1915(28)ハーゼノール先生が戦死

1918(31)WWI終戦。


1920(33)結婚。フリードリヒ・シラー大学イェーナで物理学者マックス・ヴィーン先生(Max Karl Werner Wien, 1866年12月25日 - 1938年2月24日)の助手。シュトゥットガルト大学の准教授。

1921(34)ブレスラウ大学(現在はヴロツワフ大学)で教授。スイスのチューリッヒ大学でマックス・フォン・ラウエさんの後任として教授(数理物理学)(1927年まで)。化学者ピーター・デバイ先生、数学者ヘルマン・ワイルさんと交流。

1925(38)ド・ブロイさんの物質波の考えからシュレーディンガー方程式を導く。

1927(40)フンボルト大学ベルリンでマックス・プランクさんの後任教授。

1933(46)ナチスのユダヤ人学者の弾圧に反対してベルリン大学を辞職。オックスフォード大学でフェロー。ポール・ディラックさんとノーベル物理学賞受賞(新形式の原子理論の発見)。

1934(47)プリンストン大学で講義。

1935(48)「シュレーディンガーの猫」の思考実験を提唱。

1936(49)オーストリアのグラーツ大学で教授。

1937(50)マックス・プランク・メダル授与。

1938(51)ナチスドイツがオーストリアを併合。グラーツ大学の教授職を解任。

1939(52)WWII。夫妻でダブリンに亡命、ダブリン高等研究所で研究。

1943(56)ダブリンのトリニティ・カレッジで講演。

1944(57)『生命とは何か』を発表。

1945(58)WWII終戦。

1948(61)アイルランドで市民権。

1952(65)『科学とヒューマニズム』を発表。

1955(68)ダブリン高等研究所を定年退職。

1956(69)オーストリアに帰国しウィーン大学で教授。

1958(71)『精神と物質』を発表。

1961(74)結核のためウィーンで死去。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Erwin_Schr%C3%B6dinger

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.31

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.21

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