寡黙は美徳:ポール・ディラックさんの教訓

アルケーを知りたい(318)  ポール・ディラック / Paul Dirac_教訓:

今回の話題は(A)物理学。

▼ディラックさんの教訓:寡黙は美徳

教訓の理由 若い時のディラックさんは口の重い人だった。同僚が1時間につき1単語を1ディラックと呼んだエピソードがある。

感想 ウィキペディアのポール・ディラックさんの項目に載っているエピソードはどれも可笑しくて、自然にディラックさんが好きになる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF 


ポール・ディラック
 Paul Dirac, 1902年8月8日 - 1984年10月20日

1902年、イギリスのブリストル生まれ。父はスイス人、フランス語教師。母はイングランド人で図書館員。

父と会話するときはフランス語という決まりになっていた。喋れないので寡黙が身に着いた。

ケンブリッジ大学の同僚が寡黙ぶりを示す単位にディラック「1時間につき1単語」を作った。

1914(12)WWI。マーチャント・ヴェンチャラーズ・スクールに入学。首席。

1918(16)WWI終戦。マーチャント・ヴェンチャーラーズ・カレッジに入学。工学を学ぶ。

1919(17)一家でスイス国籍からイギリス国籍に変更。

1921(19)ブリストル大学に入学。電気工学と数学を学ぶ。

1923(21)ブリストル大学で学士(数学)。


1925(23)ケンブリッジ大学に入学。ラルフ・ファウラー先生(Ralph Howard Fowler, 1889年1月17日-1944年7月28日)の影響で量子力学に興味。

1925(23)ハイゼンベルクさんの行列力学を発展。

1926(24)波動力学と行列力学の等価性をシュレーディンガーさんとは別に証明。

1928(26)ディラック方程式を発表。

1929(27)ケンブリッジ大学でPhD。指導教員はファウラー先生。テーマは「量子力学」。

日本で開催される学会にハイゼンベルクさんと船旅。

1929(27)米ウィスコンシン-マディソン大学で visiting professor。

1932(30)ケンブリッジ大学のルーカス教授(数学)。

1933(31)ノーベル物理学賞をシュレーディンガーさんと一緒に受賞(原子の理論における新しい生産的な理論形式の発見)。有名になるのが嫌で断ろうとするとラザフォードさんから、そのほうがもっと有名になると諭されて受賞。


1937(35)友人の物理学者ユージン・ウィグナーさん(Eugene Paul Wigner, 1902年11月17日 - 1995年1月1日)の妹と結婚。人に奥さんを紹介するとき「ウィグナーの妹で今は私の妻を紹介します。Allow me to present Wigner's sister, who is now my wife」と言っていた。

1939(37)WWII。大戦中、遠心分離機を使ったウラン濃縮に関する理論と実験研究を指揮。

1945(43)WWII終戦。

1952(50)コプリ・メダル受賞。

1969(67)ケンブリッジ大学を退職。

1970(68)フロリダ州立大学でVisiting Professor。

1972(70)フロリダ州立大学で教授。土地と気候が合ったので気持ちよく過ごし、以前より社交的になる。84年まで60本の論文を発表。

1984(82)フロリダで死去。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Dirac

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.33

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.27


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