無作法も性格の一部:パウリさんの教訓

アルケーを知りたい(324)  ヴォルフガング・エルンスト・パウリ/Wolfgang Ernst Pauli_教訓:

今回の話題は(A)物理学。

▼パウリさんの教訓: 無作法も性格の一部

教訓の理由 パウリさんはフリッシュさんより4つ年上。師匠はゾンマーフェルト先生。師匠に「私がパウリに教えることは何もない」と言わせる力量の持ち主。ゾンマーフェルト先生の依頼で執筆した相対性理論の解説記事は何年にもわたって最良の論説と見なされた。仲間の仕事での間違いには辛辣。ミスると「役立たずの馬鹿」と罵る。この無作法を、仲間はパウリさんの性格の一部と捉えていた。

感想 フリッシュさんによると、オットー・シュテルンさんとパウリさんはきわめて仲の良い友達だった。パウリさんの口が悪いのをシュテルンさんは笑って聞きながら食事を共にした。この話の時期は1930-33年のことで、パウリさんは神経不調のためカール・ユング先生に診察してもらっている。後に共著を出しているので、治療の効果があったのだろう。無作法が治ったかは不明。 


ヴォルフガング・エルンスト・パウリ 
Wolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日

1900年、ウィーン生まれ。父方がユダヤ系。

1914(14)WWI。

1918(18)WWI終戦。ウィーンのドブリンガー・ギムナジウムを卒業。

1921(20)ミュンヘン大学で博士。水素分子イオンの量子論。指導教員はアルノルト・ゾンマーフェルト先生。

1921(21)ゲッティンゲン大学でマックス・ボルン先生の助手。

1922(22)コペンハーゲン大学の理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)で研究。

1923(23)ハンブルク大学の講師(28年まで)。量子力学の理論構築。

1924(24)同じ量子状態には2個以上の電子が存在できないパウリの排他原理を提案。

1926(26)ハイゼンベルクさんが行列力学を発表。パウリさんはこの理論で水素原子のスペクトルを理論的に説明。

1927(27)スピン演算子の基底にパウリ行列を導入。この結果にポール・ディラックさんが影響を受ける。

1928(28)スイス、チューリッヒ連邦工科大学で教授(理論物理学)。

1929(29)ローマ・カトリック教会を脱退。

1930(30)放射性同位元素の原子核崩壊によって中性粒子が発生すると予言する手紙をリーゼ・マイトナーさんらに送る。


1931(31)精神に不調を来たしカール・ユング先生(Carl Gustav Jung, 1875年7月26日 - 1961年6月6日)に診察してもらう。ユング先生の理論を理解・発展。

1931(31)渡米し、ミシガン大学の客員教授。

1932(32)ユング先生と書簡のやりとりが始まる(58年まで)。のちに「原子と原型:1932 - 1958」という本になる。

1934(34)パウリさんが提唱した中性粒子にフェルミさんがニュートリノ(59年に観測)と名付けて論文発表。

1935(35)プリンストン高等研究所。

1938(38)ドイツがオーストリアを併合。

1939(39)WWII。

1940(40)アメリカに移住。プリンストン大学の教授(理論物理学)。スピン統計定理を証明。

1945(45)WWII終戦。パウリの排他原理の功績によりノーベル物理学賞受賞(パウリの原理とも呼ばれる排他原理の発見)。

1946(46)アメリカ市民にならず、チューリッヒに戻る。

1958(58)膵臓癌のためチューリッヒで死去。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_Pauli

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.56

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.47

オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日

リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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