師匠と同じ選択をしなくても良い:ポール・エーレンフェストさんの教訓

アルケーを知りたい(325)  ポール・エーレンフェスト/Paul Ehrenfest,_教訓:
今回の話題は(A)物理学。

▼ポール・エーレンフェストさんの教訓:師匠と同じ選択をしなくても良い
教訓の理由 エーレンフェストさんが博士になったのは24才。指導教員は(リーゼ・マイトナーさんも講義ぶりを賞賛した)ボルツマン先生。ボルツマン先生はエーレンフェストさんが26才のとき62才で自殺。エーレンフェストさん自身は53才で自殺。ここは師匠とは違う道を歩んで長生きして欲しい、と思ったから。
感想 エーレンフェストさんは50代から鬱病で苦しんだ。自殺の一か月前、ボーアさんが主催する会議の発表でチョークをキィキィ言わせたフリッシュさんにヤジを飛ばしている。会議ではみんな笑って場が和んだろう。なのにどうして、と残念だ。 


ポール・エーレンフェスト
 Paul Ehrenfest, 1880年1月18日 - 1933年9月25日
1880年、ウィーン生まれ。ユダヤ人。両親は食料品店経営。
最初、ウィーンにある名門のAkademischesギムナジウムに入学。うまく馴染めずFranz Josefギムナジウムに転校、こちらではうまくいき卒業。
1899(19)ウィーン工科大学入学。化学を勉強。
ウィーン大学でボルツマン先生(Ludwig Eduard Boltzmann, 1844年2月20日 - 1906年9月5日)の授業を受け理論物理学に興味を持つ。

1901(21)ゲッティンゲン大学。
1903(23)旅行中、ライデンでヘンドリック・ローレンツさん(Hendrik Antoon Lorentz, 1853年7月18日 - 1928年2月4日)に会う。
1904(24)ウィーン大学で博士。指導教員はボルツマン先生。ゲッチンゲンで出会ったロシアの数学者と結婚。
1905(25)ウィーン大学でポスドク。
1906(26)ゲッティンゲン大学。ボルツマンさんが自殺。
1907(27)サンクトペテルブルクに夫婦で転居。教授職が得られず根を下ろすには難しいと判断。
1912(32)ライデン大学で教授(ローレンツさんの後任)。物理学の夜のコロキウムを開始。
1919(39)オランダ王立芸術科学アカデミー会員。
1914(34)WWI。
1918(38)WWI終戦。
1925(45)ローレンツさんの博士取得50周年の学術会議をニールス・ボーアさんとアインシュタインさんを招いて開催。量子論を議論。
1927(47)ローレンツさんが議長で第5回ソルベー会議で「電子と光子」をテーマに設定。ボーアさんとアインシュタインさんが出席。
1931(51)鬱病に苦しむ。
1933(53)ボーアさんがコペンハーゲンで開く夏の会議に参加。フリッシュさん(29)も参加して発表。黒板のチョークのキィキィ音を止められなかったので「フリッシュ、チョークをキィキィ言わせないで書けるようにならないと、教授には決してなれないぞ」とヤジを飛ばす。9月に自殺。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Ehrenfest
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.66
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.55
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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