目的を果たすため人脈を生かして行動する:マーク・オリファントさんの教訓

アルケーを知りたい(326) マーク・オリファント
今回の話題は(A)物理学。

▼マーク・オリファントさんの教訓:目的を果たすため人脈を生かして行動する
教訓の理由 3つある。まず、フリッシュさんを助けた話:1939年、デンマークにいたフリッシュさん(35)は、ドイツがデンマーク侵攻に踏み切る前の渡英を考えていた。それに応えたのがバーミンガム大学で物理学の教授、オリファントさん(38)だった。オリファントさんは補助講師(auxiliary lecturer)の仕事を提供してフリッシュさんが一息つけるようにした。
2番目は、フリッシュさんと(次回取り上げる)パイエルスさんから上がってきた報告を、すぐ上司のヘンリー・ティサードさんに伝えさせたこと。重要な案件を遅滞なく伝える適切な相手を持っていたこと。
3番目は、イギリスが原爆の実現性を認め素早く行動を起こし、アメリカにも情報を提供した。しかしなぜかアメリカの動きが鈍い。そこでオリファントさんは渡米して旧知のキーパーソンを訪ねて説得する。その結果、アメリカが動き始めた。
オリファントさんは人脈をどこで作ったか見ると、イギリスではキャヴェンディッシュ研究所のラザフォード先生の下で、アメリカでは留学先のバークレー研究所だ(ローレンスさんと)。

感想 ナレッジを増幅させる知的創造プロセスとしてこの例を見ると、オリファントさんの動きで分かるのは、目的達成が滞ったとき、その滞りを修正するのは、人であり、人と人が会って話をすることの力だ。この場合はイギリスからアメリカに文書が渡っていたにも関わらず、受け取った責任者が金庫に入れたままだった。重要なことも、文書にし、人が動かなければ成されない、という話。

マーク・オリファント
 Mark Oliphant, 1901年10月8日 - 2000年7月14日
1901年、オーストラリアのアデレード生まれ。父は公務員。
1914(13)WWI。
1918(17)WWI終戦。アデレード高校を卒業。
1919(18)アデレード大学入学。
1921(20)アデレード大学で学士。
1925(24)ラザフォードさんの講演を聞く。結婚。
1927(26)奨学金を得てケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所に入る。知り合った人は:
ジェームズ・チャドウィック James Chadwick, 1891年10月20日 - 1974年7月24日 イギリスの物理学者)
ピョートル・カピッツァ Pyotr Kapitsa, 1894年7月8日 - 1984年4月8日 ロシアの物理学者
チャールズ・エリス Charles Ellis, 1895年8月11日 - 1980年1月10日 イギリスの物理学者
ジョン・コッククロフト John Cockcroft, 1897年5月27日 - 1967年9月18日 イギリスの物理学者
パトリック・ブラケット Patrick Blacket, 1897年11月18日 – 1974年7月13日 イギリスの実験物理学者
フィリップ・ムーン Philip Burton Moon, 1907年5月17日– 1994年10月9日 イギリスの物理学者
エドワード・ブラード Edward Bullard, 1907年9月21日 - 1980年4月3日 イギリスの地球物理学者
アーネスト・ウォルトン Ernest Walton, 1903年10月6日 - 1995年6月25日 アイルランドの物理学者

1929(28)ケンブリッジ大学で博士(指導教員はラザフォード先生)。
1932(31)キャヴェンディッシュ研究所で原子核関係の発見が続く。
1934(33)ケンブリッジ大学セントジョンズカレッジでフェロー。パウル・ハルテックさんと共同で水素の核融合を発見。
1935(34)ラザフォードさんの研究助手につく。
1937(36)バーミンガム大学で教授(物理学)。サイクロトロンの建設に着手(1939年完成)。王立協会フェロー。

1938(37)バーミンガム大学のレーダー開発に着手。渡米しバークレー研究所でアーネスト・ローレンスさんとレーダー研究に従事。
1939(38)WWII。オットー・フリッシュさん(35)をバーミンガム大学に招く。

1940(39)オットー・フリッシュさんと数理物理学者のルドルフ・パイエルスさんが原爆の製造可能性を発見。レポート「フリッシュ=パイエルスの覚書 Frisch–Peierls memorandum」にして航空戦科学調査委員会(CSSAW)のヘンリー・ティザード委員長に提出するよう指

示。MAUD委員会設立マンハッタン計画のきっかけ)。フリッシュさんがウランの研究を進められるようサイクロトロンがあるリバプール大学で研究できるよう手配。同大学にはチャドウィックさんがいた。
1941(40)開発に成功したマグネトロンが軍で運用開始。アメリカに原爆の開発を推奨。
1942(41)マンハッタン計画が始動。
1943(42)ローレンスさんと原爆開発用ウラン235の精製を研究。王立協会からヒューズ・メダルを受賞。
1945(44)WWII終戦。イギリスに戻りバーミンガム大学で教授。
1950(49)オーストラリア国立大学物理学研究センターで所長。
1954(53)オーストラリア科学アカデミを創設、初代会長。
1959(58)ナイトに叙せられる。
1964(63)教授職を退職。
1967(66)名誉教授。
1971(70)南オーストラリア州総督(1976年まで)。
2000(99)キャンベラで死去。
〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Oliphant
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.150
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. p.120
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

ジェームズ・チャドウィック James Chadwick, 1891年10月20日 - 1974年7月24日 イギリスの物理学者











ピョートル・カピッツァ Pyotr Kapitsa, 1894年7月8日 - 1984年4月8日 ロシアの物理学者











ジョン・コッククロフト John Cockcroft, 1897年5月27日 - 1967年9月18日 イギリスの物理学者



パトリック・ブラケット Patrick Blacket, 1897年11月18日 – 1974年7月13日 イギリスの実験物理学者











フィリップ・ムーン Philip Burton Moon, 1907年5月17日– 1994年10月9日 イギリスの物理学者











エドワード・ブラード Edward Bullard, 1907年9月21日 - 1980年4月3日 イギリスの地球物理学者











アーネスト・ウォルトン Ernest Walton, 1903年10月6日 - 1995年6月25日 アイルランドの物理学者


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