米国のノーベル賞学者がチューブ・アロイズの会議に臨んだ!(ハロルド・ユーリーさん):アルケーを知りたい(353)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

▼ハロルド・ユーリーさんはアメリカの国防研究委員会(NDRC)傘下のウラン委員会のメンバー。1941年、米英の連携で原子爆弾開発の可能性を模索するため、コロンビア大学で同僚の化学者ジョージ. B. ペグラムさんと渡英。チューブアロイズ技術委員会に参加し、状況を米国に報告した。重水素を発見し、その功績でノーベル賞を受賞した本人がイギリスの原爆計画を確かめた。何が行われているか、誰よりも良く見通したことだろう

▼米国から見学者が訪れた後、今度はパイエルスさんらが米国を訪問する。「1941年の暮までは、アメリカとの情報交換はかなり自由だった。しかし、もちろん全部の報告書を見たわけではないので、アメリカ人の考えの全貌を明確に把握することはできなかった。そこで、エイカース、ハルバン、サイモンそして私よりなる調査団がアメリカに覇権されることに決まった(p.256)」
「私はコロンビア大学で、ユーリーと、その同僚で同位体分離工場の設計を研究している理論家のカール・コーエンと長時間の打合せを持った(p.258)」英国でMAUD委員会の初期段階で課題になっていたウラン同位体の分離方法のメドが立ち工場の設計段階に入っていた。この訪問で米国でも工場の設計段階になっていたことが分かる。

ハロルド・ユーリー
 Harold Urey, 1893インディアナ州 - 1981カリフォルニア州
1923(30)カリフォルニア大学バークレー校で博士(指導教員はギルバート・ルイス先生)。コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所で原子の構造を研究。ハイゼンベルクさん、ヘヴェシーさん、パウリさんらと会う。ドイツでアインシュタインさんやジェイムス・フランクさんに会う。
1929(36)コロンビア大学で准教授。
1931(38)重水素を発見。
1934(41)ノーベル化学賞受賞(重水素の発見)。コロンビア大学で教授。
1941(48)英国と原子爆弾の開発に関する協力を確立するためジョージ.B.ペグラムさんと渡英。
1942(49)マンハッタン計画に参加。ウランからウラン235同位体を得るガス拡散法を開発。
1945(52)Worn out by the effort(仕事に疲れ果てて)マンハッタン計画から離脱。研究生活に戻る。

パイエルス:チューブ・アロイズの技術委員会(メンバーはチャドウィックさん、ハルバンさん、サイモンさん、そしてパイエルスさん)の「最初の会合にアメリカの科学者が二人出席した。ひとりは重水素の発見者のハロルド・ユーリーである(p.251)」で登場する。もう一人はジョージ・B・ペグラムさん(次回紹介)。「ユーリーの研究室では重水の抽出とウランの同位体分離の両方の研究が行われていた。(中略)二人ともコロンビア大学から来ていた。二人はイギリス政府がこの計画に真剣に取り組んでいることに非常に感銘を受け、その印象をアメリカに伝えた。その伝言は当時のアメリカで行われていた研究を促進させる決定において、ある役割を果たしたと信じられている(p.251)」

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Harold_Urey
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。
Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press.

ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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