大学間競争のなか、自学の発展に力を尽くした長老(ジョージ・B・ペグラムさん):アルケーを知りたい(354)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

▼ジョージ・ぺグラムさんはコロンビア大学でサイクロトロン建設やユーリーさんとは酸素同位体の分離を研究した経験を持つ専門家。ユーリーさんと英国の原爆開発の状況を調査。帰国後、マンハッタン計画の拠点整備に伴い、アーサー・コンプトンさん率いるシカゴ大学への資源集中が進む。ユーリーさんやエンリコ・フェルミさんらがコロンビア大からシカゴ大へ移動。ぺグラムさんはコロンビア大から動かず、マンハッタン計画から離脱、別の方法で戦時研究に貢献した。

ジョージ・B・ペグラム
 George Braxton Pegram
, 1876年10月24日ノースカロライナ州-1958年8月12日ペンシルベニア州スワースモアで死去(82)
1903(27)コロンビア大学で博士。
1907(31)フンボルト大学でマックス・プランクさんとヴァルターネルンストさんの講義を受ける。
1909(33)コロンビア大学で助教授。
1918(42)コロンビア大学で正教授。潜水艦の位置を特定するた石英圧電音検出器を製作。WWI終戦。
1933(57)中性子の研究(1936年まで)。
1935(59)サイクロトロンを建設。酸素同位体の分離をハロルド・ユーリーさんと共同研究。
1939(63)イタリアから逃れてきたエンリコ・フェルミさんをコロンビア大学の教授として迎える(フェルミさんは1941年に大きな実験装置のあるシカゴ大学に移る)
1940(64)国防研究委員会(NDRC)傘下のS-1ウラン委員会に入る。
1941(65)8月 マーク・オリファントさんが訪米し原子爆弾の実現可能性を警告。ユーリーさんらと訪英、チューブ・アロイズの会議に参加
1942(66)8月 S-1ウラン委員会がS-1実行委員会として再編、シカゴ大学がマンハッタン計画の拠点になる。この時点でマンハッタン計画から離脱。コロンビア大学で戦争研究委員会の議長等、大学の発展に尽くす。

パイエルス:ジョージ・B・ペグラムさんは、ハロルド・ユーリーさんと共にチューブ・アロイズの技術委員会の最初の会合に参加した。「原子核物理学の長老であるG・P(ママ)・ベグラムである。二人ともコロンビア大学から来ていた(p.251)」

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/George_B._Pegram
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。
Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press.

ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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