傍流から偉業を成す:ルドルフ・パイエルスさんの教訓
アルケーを知りたい(327) ルドルフ・パイエルス
今回の話題は(A)物理学。
▼ルドルフ・パイエルスさんの教訓:傍流から偉業を成す
教訓の理由 パイエルスさんはフリッシュさんと共に原爆の実現性を発見、上司に報告した。当時のイギリスの重要課題はドイツ空軍を察知するレーダー開発だった。しかも、パイエルスさんとフリッシュさんはイギリスから見るとナチスから逃れてきたとはいっても敵国人。機密情報には入れてもらえない立場。それでも理論から導き出された実現可能性を無視しなかったのがイギリスの良い所。専門家が集まり原爆の実現可能性を確認。MAUD委員会が組織され、アメリカへの働きかけが始まった。そのきっかけを作ったから。
感想 パイエルスさんはドイツ生まれのユダヤ人。ナチス政権のドイツに居られないからイギリスにいた。夫人はロシア人。込み入った関係と時代変化の中で正気を失わずに88才まで生きたのはすごい。
ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
1907年、ベルリン生まれ。ユダヤ人。父は実業家。
1914(7)WWI。
1918(11)WWI終戦。
1925(18)フンボルトギムナジウムを卒業。ベルリン大学入学。プランクさん、ネルンストさん、ボーテさんらの物理学の講義を聞く。
1926(19)理論物理学を学ぶためミュンヘン大学のゾンマーフェルト先生の下で研究。
1928(21)ライプチヒ大学でハイゼンベルク先生の下で研究。
1929(22)チューリッヒ工科大学でパウリさんの下で研究。ライプチヒ大学で博士(指導教員はハイゼンベルク先生。パウリさん)。パウリさんの助手。
1930(23)コペンハーゲンに行きニールス・ボーアさんに会う。
1931(24)結婚。
1932(25)ロックフェラー奨学金を得てローマ大学フェルミさんの下で研究。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所ラルフ・ファウラーさんの下で研究。
1933(26)ドイツでナチス政権が伸びてきたため奨学金を得てイギリスのマンチェスター大学に留まる。D.Sc. を取得。
1936(29)オリファントさんの紹介でバーミンガム大学で教授(応用数学、1963年まで)。
1939(32)WWII。フリッシュさんがデンマークを離れバーミンガム大学に来る。一緒に原爆製造可能性を検討。マーク・オリファントさんに報告。
1940(33)オリファントさんの指示でフリッシュさんと原爆製造可能性のメモ「フリッシュ=パイエルスの覚書 Frisch–Peierls memorandum」を作成。イギリス防空科学調査委員会 (Committee on the Scientific Survey of Air Defence) 議長で化学者のヘンリー・ティザードさん(Henry Tizard, 1885年8月23日-1959年10月9日)
に送る。ウランの濃縮法としてガス拡散が有望と考え、専門家のフランシス・サイモンさん(Francis Simon, 1893年7月2日-1956年10月31日)を仲間に入れる。
1941(34)二人のレポートでMAUD委員会が発足。アメリカのマンハッタン計画につながる。
1943(36)マンハッタン計画に参加。
1945(38)WWII終戦。
1952(45)ラザフォードメダル賞受賞。
1953(46)国際理論物理学会のため来日。
1963(56)オックスフォード大学で教授(1974年まで)。マックス・プランク・メダル受賞。
1968(61)ナイトに叙される。
1986(79)コプリ・メダル受賞。
1991(84)ポール・ディラック賞受賞。
1995(88)オックスフォードで死去。
〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Rudolf_Peierls
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。p.153
Otto Robert Frisch (1979), What little I remember. Cambridge University Press. p.123
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日
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