スパイ~情報管理の限界を超える存在:MAUD委員会の教訓(12)

アルケーを知りたい(340) MAUD委員会(12)
今回の話題は(C)マンハッタン計画。

感想 チャドウィックさんはリバプール大学外に2つ協力先を持っていた。今回はブリストル大学のメンバーを見る。アラン・ナン・メイさん(29)とセシル・パウエルさん(37)だ。メイさんは情報をソビエトに流していたため、WWII終戦後スパイとして有罪判決を受けた。

リバプール大学MAUD委員会(4)

アラン・ナン・メイ Alan Nunn May, 1911年5月2日 -  2003年1月12日 ケンブリッジ大学で博士(指導教員はチャールズ・エリス先生)。物理学者。チャドウィックさんがMAUD委員会ケンブリッジ大学のメンバーとして採用。セシル・パウエルさんとの共同研究者。後にソビエトのスパイと判明。


セシル・フランク・パウエル Cecil Frank Powell, 1903年12月5日ケント - 1969年8月9日イタリアのレッコ県 1929年、ケンブリッジ大学で博士(指導教員は霧箱で有名なCTRウィルソン先生とラザフォード先生)。物理学者。1940年前後はブリストル大学で素粒子の軌跡を記録する特殊な写真乳剤を使う方法を開発、実験中。1950年、ノーベル物理学賞受賞(写真による原子核崩壊過程の研究方法の開発および諸中間子の発見)。






チャールズ・エリス
さん(Charles Drummond Ellis, 1895年8月11日 - 1980年1月10日)
は、1914年にドイツにいたためWWIの勃発と同時にドイツの収容所に入れられた。この時、同じように収容所に入れられたチャドウィックさんと知り合い、終戦までの4年間、一緒に研究した間柄。この収容所はベルリン郊外にあるルーレーベン収容所といって、収容者たちは本を読めたり実験する自由が利く生活ができた。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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