リーダーとメンバーが良ければ、正しい結果が出る:MAUD委員会の教訓(13)

アルケーを知りたい(341) MAUD委員会(13)
今回の話題は(C)マンハッタン計画。

感想 チャドウィックさんが主導するリバプール大学のチームの特徴は、
・正しい結論(原爆は現実に可能)に到着した。
・チャドウィックさん自らが中性子の発見者で、核分裂を利用した爆弾の可能性を予知していた(可能だと確信した時からは眠れなくなった)。
・「フリッシュ-パイエルスの覚書」を作ったフリッシュさんがいた。
・ウラン238と235を分離するため熱拡散法を追求(ドイツもやっていた)。
・リバプール大学だけでなくブリストル大学のチームとアメリカの専門家のネットワークも活用した。
 今回はアメリカの協力先であるアルフレッド・ニールさんとメール・チューヴさんを見る。ニールさんは同位体の分離ができたかどうか分析する質量分析のパイオニア。チューヴさんは原子核の専門家。
 面白いのは、イギリス人の物理学者がレーダーに注力していたのと同様、チューヴさんはアメリカ軍のため近接信管の開発に注力していたこと。1940-41年の時点の原爆は、緊急な開発課題の一つ(に過ぎなかった)ことが分かる。

リバプール大学MAUD委員会(5)アメリカの協力先
アルフレッド・ニール
 Alfred Otto Carl Nier,
1911年5月28日ミネソタ州セントポール - 1994年5月16日ミネソタ州ミネアポリス アメリカの物理学者。質量分析の開拓者。1941年3月、質量分析を使いウラン235の分離に成功。

メール・チューヴ
 Merle Anthony Tuve
, 1901年6月27日 – 1982年5月20日
1901年、アメリカのサウスダコタ州カントン生まれ。祖父母はノルウェーからの移民。父はオーガスタナ大学の学長。母は音楽教師。アーネスト・ローレンスは幼なじみ。
1918(17)父がインフルエンザのため死去。一家でミネアポリスに転居。ミネソタ大学に入学。
1922(21)ミネソタ大学で理学士。
1923(22)ミネソタ大学で修士(物理学)。
1925(24)カーネギー研究所のグレゴリー・ブライトさん(Gregory Breit, 1899年7月14日 – 1981年9月13日)と共同でパルス無線を用いて電離層の高度を測定。レーダー開発の理論的基礎になる。
1927(26)ジョンズホプキンス大学で博士(物理学)。
1933(32)前年にチャドウィックさんが発見した中性子の存在を確認。原子核の結合力を測定。
1939(38)WWII。近接信管を軍に提案。ジョンズホプキンス大学応用物理研究所で近接信管の開発を主導。
1941(40)核反応が起こる確率(核分裂断面積)を計算。チャドウィックさんにデータを提供。
1942(41)ジョンズホプキンス大学で応用物理研究所の創設ディレクター(1946年まで)。
1945(44)WWII終戦。
1946(45)カーネギー研究所で地磁気研究のディレクター(1966年まで)。
1982(81)メリーランド州ベセスダで死去。

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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