組成から解散までのあらまし(上):MAUD委員会(18)
今回の話題は(C)マンハッタン計画。
組成から解散までのあらまし(上)
1932年2月 ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のジェームズ・チャドウィックさんが中性子を発見。【中性子の発見で1935年、ノーベル物理学賞受賞】
1932年4月 ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のジョン・コッククロフトさんとアーネスト・ウォルトンさんが加速した陽子でリチウム原子の核変換に初めて成功。【加速荷電粒子による原子核変換の研究で1951年、ノーベル物理学賞を共同受賞】
1934年 フランスのフレデリック・ジョリオ・キュリーさんとイレーヌ・キュリーさんは、アルミニウムにアルファ線を照射し人工の放射性同位元素の合成に初めて成功。【人工放射性元素の発見で1935年、夫婦でノーベル化学賞受賞】
1938年12月 ドイツのベルリン大学でオットー・ハーンさんとフリッツ・シュトラスマンさんがウランに中性子を照射してバリウムを生成。【原子核分裂の発見で1944年、ハーンさんが単独でノーベル化学賞を受賞】
ハーンさんは実験結果の解釈をベルリンから脱出したリーゼ・マイトナーさんに相談。リーゼ・マイトナーさんは甥のオットー・フリッシュさんと議論。
1939年1月 リーゼ・マイトナーさんとフリッシュさんは、ハーン=フリッツ・シュトラスマンさんの実験結果を核分裂と命名。
2月 パリのフレデリック・ジョリオ・キュリーさん、ハンス・フォン・ハルバンさん、ルー・コワルスキさん、フランシス・ペランさんは連鎖反応=原子爆弾の実現可能性を確信。また、製造には重水が必要と判断。
1940年 パリのグループは重水を製造するノルウェーの水力発電所の在庫をドイツに先んじて全量(187リットル)買い取る。
2月 インペリアル・カレッジ・ロンドンのジョージ・トムソンさん【結晶による電子線回折現象の発見で1937年のノーベル物理学賞を受賞】のチームは、天然ウランでは連鎖反応は起きないから追求する価値なし、と結論。
3月 バーミンガム大学でフリッシュさんとルドルフ・パイエルスさんが原爆の可能性を確認。上司のマーク・オリファントさんに報告。オリファントさんは報告書を作成するよう二人に指示。
報告書(フリッシュ-パイエルスの覚書)が航空戦科学調査委員会(CSSAW)の委員長ヘンリー・ティサードさんに渡る。
4月 ドイツがノルウェーに侵攻。
ジョージ・トムソンさんとローレンス・ブラッグさん(X線による結晶構造解析に関する研究で1915年の
ノーベル物理学賞を受賞)は、イギリス政府がウラン鉱石を押さえるべきと考え、チャーチ
ル首相の軍事首席補佐官ヘイスティングス・イスメイ少佐に伝える。この話を聞いたイスメイさんはヘンリー・ティザードさんに意見を求める。ティザードさんは原子爆弾の開発可能性はきわめて低いと考えていた。
防衛調整大臣の
チャットフィールドさんは、ウランの採掘会社はイギリス系なので急ぐ必要はないと判断。しかし、ティザードさんに防空科学調査(ティサード委員会)で原爆の実現可能性の研究を続けるよう指示。実行部隊は、トムソンさんとバーミンガム大学のマーク・オリファントさん。
6月 ティサードさんがトムソンさんの委員会に「フリッシュ-パイエルスの覚書」を渡す。トムソンさんの委員会がMAUD委員会になり議論がスタート。
6月19日 ドイツがフランスに侵攻。重水がドイツに押さえられる前にチャールズ・ハワードさんがハルバンさん、コワルスキさん、重水と研究設備をフランスからイギリスに輸送。
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