組成から解散までのあらまし(下):MAUD委員会(19)
1940年9月 フリッシュさんとパイエルスさんをメンバーに入れたMAUD委員会技術小委員会が結成。
4つの大学が協力。ケンブリッジ大学では、プルトニウムの調査を担当。
オックスフォード大学は、同位体分離の方法としてガス拡散法を担当。
バーミンガム大学は、爆発に必要な臨界質量のサイズなどの理論的作業を担当。
リバプール大学は、同位体分離の方法として熱拡散法を担当。
政府が資金を出す。ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所3,000ポンド、オックスフォード大学クラレンドン研究所1,000ポンド、バーミンガム大学1,500ポンド、リバプール大学2,000ポンド。
MAUD技術委員会はウラン同位体の分離方法を追求。フリッシュさんのクラウジウス管を使う方法は無理と分かり、サイモンさんの多孔膜を使う方法の有効性を確認した。
英国の技術者集団(ティザード使節団)が渡米。米国にレーダー、ジェットエンジン、核研究などの技術情報を提供。
12月 オックスフォード大学MAUD委員会のサイモンさんらが「実際の分離プラントのサイズの推定」という報告書を提出。
チャドウィックさんがインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)に六フッ化ウランの製造を六フッ化ウランを5kg、5,000ポンドで発注。
フィリップ・バクスター Philip Baxter, 1905年5月7日ウェールズ - 1989年9月5日シドニー
バーミンガム大学で博士。化学技術者。ICI中央研究所の責任者。チャドウィックさんの注文を受けて六フッ化ウランを製造、提供した。
1941年3月 アメリカで連鎖反応研究に携わっていたカーネギー研究所地磁気研究部のメール・チューヴさんらがウラン235の高速中性子による分裂断面積の実測値をイギリスに伝える。
フリッシュさんとパイエルスさんが爆弾に必要なウラン235の量が8キロと推定。
アメリカ国防研究委員会(National Defense Research Committee, NDRC)のジェイムス・コナント委員長らが訪英しMAUD委員会に出席。MAUD委員会に出たアメリカの物理学者は、イギリスの研究が進んでいることに驚きアメリカに報告する。しかし反応なし。
アメリカの動きが鈍いのに業を煮やしたオリファントさんが渡米しアメリカ国防研究委員会(National Defense Research Committee, NDRC)に原爆製造を働きかけ。
オリファントさんはアーネスト・ローレンスさん、コナントさん、エンリコ・フェルミさん、アーサー・コンプトンさんらに会い緊急性を伝える。
7月 MAUD委員会は原子爆弾が実現可能とする報告書(MAUDレポート)を作成して解散。
科学諮問委員会の防衛サービスパネルがMAUDレポートをレビュー。英国の原爆製造プロジェクトTube Alloysの決定につながる。
8月 オリファントさんが渡米、停滞理由を調査。ライマン・ブリッグズさんが報告書を金庫に入れたままだった。
9月 オリファントさんがローレンスさんに会う。ヴァネヴァー・ブッシュさんとの面談を段取りしてもらう。
10月 MAUDレポートがアメリカに届く。
英国の科学産業研究局 (Department of Scientific and Industrial Research, DSIR) が原爆開発計画Tube Alloysを始動。
12月 ルーズベルト大統領は、NDRC 議長のブッシュさんとのミーティングで核兵器開発プロジェクト(マンハッタン計画)を承認。
1942年6月 アメリカ陸軍は原爆製造の開発、設計、物資調達、試験工場の場所の選定に関する全ての権限を得る。プロジェクトは「陸軍マンハッタン工兵管区」が行う、と決定。
9月 責任者:レズリー・グローヴス准将。
科学者のリーダー:ロバート・オッペンハイマーさん
11月 研究所をニューメキシコ州ロスアラモスに設置。
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