結論を出したら委員会は解散する:MAUD委員会の教訓(8)

アルケーを知りたい(336) MAUD委員会(8)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

経緯 1941年3月、アメリカ国防研究委員会 (National Defense Research Committee, NDRC) の委員長らが訪英しMAUD委員会に出席。アメリカの人たちは軍事科学研究はイギリスに先んじていると思っていたけど、MAUD委員会に出た物理学者は、イギリスの方が進んでいることにびっくりする。その話をすぐアメリカに報告する。

7月 MAUD委員会は原子爆弾が実現可能とする報告書を作成して解散。

感想 MAUD委員会の情報をアメリカの物理学者が知って本国に報告した時点は、まだイギリスのほうが進んでいた。しかし、それもしばらくの間。大型の研究は経済力がないと発展させられない。これは、当時も今も変わらない。

もうひとつの感想は、MAUD委員会が報告書を提出して解散したことに対して。結論を出したら解散する。委員会の存続のために別の仕事を持ってきたりしない。良い。

今回は、MAUD委員会に出席したアメリカの物理学者らを見る。


ジェイムス・ブライアント・コナント
 James Bryant Conant
, 1893年3月26日ボストン - 1978年2月11日ニューハンプシャー州ハノーバー ハーバード大学で博士。化学者、教育者、科学行政官、外交官。1941年-1946年、アメリカ国防研究委員会(NDRC)委員長。マンハッタン計画の政策決定過程に関与。


ケネス・ベインブリッジ
 Kenneth Bainbridge
, 1904年7月27日NY州 - 1996年7月14日マサチューセッツ州レキシントン プリンストン大学で博士。1933年、奨学金でケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所のラザフォードさんの元で質量分析計を開発。ジョン・コッククロフトさんと友達。MAUD 委員会に出席してイギリスの進展ぶりに驚き、ウラン委員会のライマン・ブリッグズ (Lyman J. Briggs) 議長にイギリスに人を送るように要請。


ライマン・ブリッグズ
 Lyman J. Briggs
, 1874年5月7日ミシガン州 - 1963年3月25日ワシントンDC ジョンズホプキンス大学で博士。物理学者、管理者。国家標準局の局長(1917-1945)。WWII前、ルーズベルト大統領の指示でウラン委員会の委員長(1939-1941)。この間、体調不良で活動が低下していた。





〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/MAUD_Committee

オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。

Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 

オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日

リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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