派手さがなく真価が分かりにくいタイプの実力者(レブ・コワルスキーさん):アルケーを知りたい(356)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

▼今回は、レブ・コワルスキーさんのエピソードをフリッシュさんの本から紹介する。一見、真価が分かりにくいのが特徴の人。フリッシュさんとは良い友人だ。

レヴ・コワルスキー
 Lew Kowarski
, 1907年2月10日サンクトペテルブルク – 1979年7月30日ジュネーブ パリ大学で博士(指導教員はフレデリック・ジョリオ・キュリー先生)。WWIIのためパリからイギリスに脱出、ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所に所属。MAUD委員会に参加。

フリッシュ:リバプール時代のフリッシュさんは、チャドウィックさんの下で働いていた。チャドウィックさんはフリッシュさんを信用していて、英国に逃れてくる物理学者との情報交換の機会を提供していた。その流れで、フランスから逃れてきたハルバンさんとコワルスキーさんとケンブリッジで会う。そのときのコワルスキーさんの印象が次だ。「ハルバンの仲間のレブ・コワルスキーはロシア生まれの熊のような男で、初めのうち私は、コワルスキーと話すのにフランス語を使わなければならなかった。しかし、その後、コワルスキーは驚くべきスピードで英語を勉強したので、まもなく、たいへん大勢のイギリス人から羨ましがられるほど、細部まで行き届いた英語力を獲得した(p.178)」
「フランスチームのメンバーで、最初に原子核の連鎖反応の可能性を示したカナダとフランスの両方で最初の原子炉を建設した(p.178、写真のキャプション)」

▼「ケンブリッジへの出張は(中略)、いつも一晩か二晩はコワルスキー家に泊めてもらった。あるとき、私が行くと、レブが自慢げに『昨夜、爆弾が落ちたんだぞ』と言った。私は大いに感動し、レブは落ちた場所を見せてあげようと言った(pp.178-179)」 ・・・こういうフリッシュさんの書き方が好きだ。

▼WWII終戦後、フリッシュさんはカナダのチョークリバーで数週間を過ごす。そのときにコワルスキーさんと再開する。「そこで重水炉の建設に取り組んでいる友人のコワルスキーに再会できたのはたいへん興奮に満ちた出会いだった。その後、コワルスキーは、カナダでの経験を活かしてフランスで最初の(そしてヨーロッパで最初の)原子炉を作り上げている(p.240)」

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Lew_Kowarski
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。
Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press.
ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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