原爆の原理は秘密にするより公開した方が良い(ニールス・ボーアさん):アルケーを知りたい(363)

今回の話題は(C)マンハッタン計画。

▼ロスアラモス研究所でのニールス・ボーアさんの描写。最後にパイエルスさんの本から核兵器の取り扱いの危険について指摘している箇所をピックアップした。

フリッシュ本:ニールス・ボーアであることが分からないよう偽名を使っていたことが分かるくだりが以下だ。「ニールス・ボーアもロスアラモスにやって来た。ボーアは息子のオーアと一緒に到着し、それぞれニコラス・ベイカーとジム・ベイカーと呼ばれていた。ボーア親子の到着は、そのような大騒ぎとミステリーに包まれていたので、私の友達は『なぜ二人は木箱にパックされて送られて来なかったのだろう』と聞いた。確かに、その方がはるかに簡単だったと思われた(p.209)」

戦時下の政治家とボーアさんの不一致が分かる箇所。ボーアさんはドイツ、ソ連出身の弟子を知っていたので、秘密にしても無駄と分かっていた。だからボーアさんは核戦争を避けるために敵国に情報を公開する考え方を政治家に示した。しかし、同盟国の米英同士でさえ機密の壁がある戦時下にあって、それは無理な話である。「ニールス・ボーアはチャーチルルーズベルトらの政治家と接触して、原子爆弾の原理はいずれにしてもすぐに明らかになってしまうのだから、秘密にするよりも公開した方が良いと、説得しようとした。しかし、ボーアの外国語なまりの発音と、ゆっくりとした粘り強い議論の習慣は、戦争に勝つという直接の目的を最優先し、素早く大胆な決断をする習慣が身についている男たちを、恐らく、いらいらさせただけだったと思われる(p.210)」

パイエルス本:ボーアさんの偽名について書いている箇所が次。「ニールス・ボーアが初めてロスアラモスを訪問した時には十重二十重の機密保護上の対策が取られた。(中略)ボーアのような重要人物は本名を名乗ることが許されず、彼はニコラス・ベーカーと名乗っていた(p.282)」

不思議なことに機密扱いは回を追うごとに消えていった。ロスアラモスでの原爆開発がボーアさんを追い越したからだろう。「ところで二回目にボーアがロスアラモスを訪問したときは、誰も特別の関心を払わず、ラミー駅から通常の車に迎えられてロスアラモスに到着した。そのまた次に訪問したときにはさらに関心が薄れて、皆、ボーアに出迎えの車を出すのを忘れていた(p.283)」

オッペンハイマーさんがムードメーカーになっていたことが分かる箇所。「ニールスとオーア・ボーアは長期間の滞在者となった。オッペンハイマーは、ニコラス・ベーカーという名前を面白がってボーアを『ニック小父さん』と呼び、仲間の多くはその呼び方を真似るようになった(p.288)」

パイエルスさんの次の指摘が今日、現実の危機として現れている。原爆を使う、という直接的な選択ともうひとつは原子力発電所を破壊して放射能汚染を招くという結果である。「もうひとつの非常に憂慮すべき因子は、ヨーロッパにおけるいわゆる戦術核兵器の存在と戦術核兵器は通常の兵器では阻止できない非核攻撃に対処するために用いられるというNATOの教義である。戦術核兵器と戦略核兵器を明確に区別できる定義はなく、ここには全面核戦争に拡大する耐えがたい危険が存在している(p.427)」

〔参考〕https://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr
オットー・フリッシュ著、松田文夫訳(2003)『何と少ししか覚えていないことだろう』吉岡書店。
Otto Robert Frisch (1979),  What little I remember. Cambridge University Press. 
ルドルフ・パイエルス著、松田文夫訳(2004)『渡り鳥ーパイエルスの物理学と家族の遍歴ー』吉岡書店。
Rudolf Peierls (1985), Bird of Passage --- Recollections of a Physicist. Princeton University Press.
ルドルフ・パイエルス Rudolf Ernst Peierls, 1907年6月5日 - 1995年9月19日
オットー・ロベルト・フリッシュ Otto Robert Frisch, 1904年10月1日 - 1979年9月22日
リーゼ・マイトナー Lise Meitner, 1878年11月7日 - 1968年10月27日

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